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赤眼ゾンビ  作者: 海月
第三章
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変わったもの 2

 流れ落ちる綺麗な水を目で追う。排水口に吸い込まれていくそれに、思わず呟いた。

「もったいない……」

「必要な分よ」

 はるさんが横から苦笑する。隊舎に案内されて荷物を置いたあと、彼女に促されて左手を流水で冷やしていたのだ。

 基地には浄水設備があるらしく、色んな制限はあるものの、こうして綺麗な水が使えるらしい。

「けどもう冷やしても遅いでしょうし」

 オレンジ色の水膨れを見て顔をしかめる。幾つかは既に潰れてしまっているようだし、何より火傷から結構時間が経っている。

「でも痛みは和らぐでしょ」

 続けて後で医官に見てもらいましょうと言われて、私は小さく頷いた。


 私が寝泊まりする隊舎の部屋は、どこか無機質で生活感が無かった。部屋には無骨なベッドが二つずつ向かい合うように並べられていたけれど、どれもマットだけが乗っている状態だった。

 ここで一週間ほど過ごさなければいけないらしいが、三日目辺りで心細くなるのが目に見えていた。一階ではあるものの、角部屋だから用のある人以外は滅多に来ないと聞いて気が滅入る。そもそも一階は全て怪我をした人の隔離場所になっているらしいので、普段から誰かいるという事はないのだ。

 


「まぁ食事は私が運んでくるから、一日三回は人と会えるよ。安心して?」

 彼女が大げさにウィンクしてみせる。どこかぎこちないそれに、思わず笑みが漏れた。

 海麗ちゃんとも窓越しなら会えるそうだし、優しい彼女のおかげで、知らない場所への不安は少しずつ薄れていた。


 私は自分の手を見つめながら口を開いた。何故かたずねるほどの勇気は出ずに、独り言のように願望が落ちる。

「ジェイドさん……もし一緒に居た仲間が同じように救出されたら、会いたいです」

 思っていたよりも細い声になってしまって、弱気な自分を自覚する。ベッドで眠っているジェイドさんを見た時からだ。あの人がいないと、時折強い不安がよぎる。


「どうだろう。私からは、何とも言えないかな。すぐに会いたいの?」

 気遣うような声音に、私ははっと顔をあげた。ここで頷いたら、もっと弱くなる。直感的にそれがわかった私は、ゆるゆると首を振った。

「皆が無事だって分かれば十分です。それだけ教えてくれますか」

 私が隔離されるのは二週間、それが過ぎれば絶対に会える。

 言い直せば、はるさんはふっと微笑んだ。

「うん、じゃあ安否はすぐに伝えるから」

 請け負ってくれる彼女に幾らかほっとする。直接会えなくても、無事と聞けるだけで良い。

「そろそろ良いかな」

 彼女がきゅっと蛇口を閉めた。じわりと手の痛みが僅かに戻る。あらかじめ貰っていたハンドタオルで指先の水滴だけ拭うが、それでも響いて少し痛い。

 医務室までの道を歩きながら、はるさんが質問を投げかけてくる。

「海音ちゃんは、暴動が起きてからずっとあの人達と一緒に?」

「……いえ、最初は学校に避難してました。後から自衛隊の人に拾ってもらって、今の皆と一緒に」

 雑談の雰囲気にあまり深く事情を話す事もできず、ある程度濁して答える。暴動が起こってからはまだ半年程度しか経っていないことにふと気づいて、僅かに目を伏せた。たったの半年でこんなにも世界は変わってしまった。


 でも、と私ははるさんを見上げる。目の下に若干のクマはあるものの、顔色も良いし極端に痩せてもいない彼女。きっと今までよりもきちんと食事の摂れる暮らしが手に入る保証で、言葉を重ねるよりも雄弁な証拠。

 その彼女が驚いたように私に視線を向ける。

「そうなの? かなり仲が良さそうに見えたからてっきりもうずっと一緒なのかと」

「今いる人達とは長くても二ヶ月くらいで……色々あって、その」

 口ごもると、はるさんは慌てたように顔の前で手を振った。

「無理に話さないで良いよ。ごめんね」

 ただ、と彼女は顔を曇らせる。

「ある程度は事情を聞かなくちゃいけないから、その心積もりはしておいてくれないかな」

「分かりました」

 彼女に気兼ねさせたくなくて、私は微笑んでしっかりと頷く。それを受けたはるさんは、どこか曖昧に笑った。


 一旦隊舎を出た私たちは、大きな建物に入った。途中で幾人かの自衛官とすれ違うけれど、軽く挨拶を交わすだけで、私の事にはあまり触れない。そう珍しい事でもないのだろう。

 建物内は白く、普通の病院とそう変わらない様相だった。明かりが無いせいで薄暗いが、はるさんは気にせずずんずんと進んでいく。

 やがて一つのドアの前で立ち止まるとコンコンとノックする。中からの返事に、彼女はスライドドアを引き、私に入るよう促した。


 室内は明るく、蛍光灯の光がともっていた。その光に僅かに目を細める。何処かに発電機があるのかもしれないけれど、久しぶりに見た照明の光だった。


「火傷の子だね? 座って」

 髪に白いものが混じり始めた男性が手招きする。彼が医官なのだろう。

 椅子に座り、流れのまま左手を持ち上げると、彼はそっと手を添えて丹念に見る。

「火傷は左手……あ〜。うん、うん……可哀想だなこりゃ……」

 呟きがどこか不穏で私はそわりと身じろいだ。もしかして結構痛い処置をされるのだろうか。

「なんでこうなったの?」

「感染者を怯ませるために火を使ったんです」

「どういうふうに?」

 質問攻めに落ち着かない気分になりつつ、必要な事なのだろうと口を開く。

「タオルに火をつけて、下にいる感染者に向かって叩いてました」

「結構大きな火だったの?」

 訝しげに首を傾げる彼に、私はあっと声をあげた。


「ガソリンを染み込ませてから火を、」

「はぁっ!?」

「ガソリンでねぇ……」

 はるさんの声にひゃっと首を竦めた。医官の男性も難しい顔をして呟く。

「君ね、ガソリンはすぐ揮発するんだよ。それは下手したら顔にまで火傷を負う可能性もあったからね?」

 ライターで火をつける時は腕を伸ばして距離をとっていたが、確かに燃える時はボッと音のなる勢いの良い燃え方だった。改めて指摘されて私は項垂れる。

 それにもし燃えかすが下に落ちていたら、坂本さんや蛍さんに火が燃え移っていたかもしれない。その時はそれが一番手っ取り早いと思っていたのに、よくよく考えれば考え無しな穴だらけの行動だった。

 もし周りの人を巻き込んでいたらと思うとぞっとする。

「まぁ、幸運だったね」

 肩を落とした私に、医官の男性は呆れたように呟いた。それからすぐ横にあった注射器を取り上げる。

「もう破裂しそうだし、水だけ抜いておこうね」

 つまり水膨れに針を刺すのだと。水膨れだからきっと痛くはないはずだ。だって肉に刺す訳ではないし、

「……痛いかもね」

「えっ」

 はるさんを振り仰ぐと、真顔で見下ろされた。

「水膨れの下の皮膚はそれなりダメージを受けてるし、水があるから痛くないだけだし、もし針が当たったらすごく――」

 

「はいお終い。他のは潰さないように気をつけるんだよ。潰れても皮は剥がさないこと」

 左手に目をやると、一番大きかった水膨れが萎んでいる。私はほっと肩の力を抜いた。

 医官の男性が苦笑しながら注射器を置いた。

「喜田くんは小さな子の扱いは上手いんだけどねぇ。脅すのは良くないね」

「緊張しているようだったので、つい」

 ぽかんとしてはるさんを見上げると、彼女はおかしそうに吹き出す。どうやら彼女にからかわれただけらしい。


 その後は塗り薬を渡され、一週間後にまた来るように言われる。男性にお礼をして、私達は医務室を後にした。

 廊下を出てすぐに人の気配がして、私は首を巡らせる。複数人が玄関口から入ってきたようだ。

「ん、怪我人かな」

 はるさんが廊下の端に寄りつつ歩を進める。私もそれにならって彼女に身を寄せた。急患のような雰囲気は無いけれど、邪魔になるのは避けたい。

 入ってくる人に視線を向けて、はっと私は目を見開く。

 体が弾かれたように動いた。きゅっと心臓が縮むようだった。

 男性が数人、その中で頭一つ抜けた長身の彼。

「――ジェイドさん! 不知火さんも!」

 傍にいた自衛官の肩を借り、ゆっくりと歩いていた彼に駆け寄る。随分と疲れた様子で、顔色も蒼白だ。けれど大きな怪我は無さそうな彼に、全身の力が抜ける。――良かった。

 不知火さんも顔色は悪いけれど、支え無しに歩けている所を見れば、新しく怪我もしてないようだ。

「大丈夫でしたか。他の人達は」

「海音」

 彩瑛さん達の事を聞こうとして、おもむろに手を伸ばした彼に遮られる。頭を撫でられた時の感触を思い出して俯くけれど、大きな手は肩に添えられた。そのまま彼は覗き込むようにして私の背中や腕を確認し始める。

「あの、ジェイドさん?」

「いったいどこを」

 眉間に深く皺を寄せた彼の意図が漸く分かって、私は閉口する。今の彼に進んで言いたくはない。

 口ごもっていると、不知火さんがジェイドさんへ苦笑混じりに声をかけてくれる。

「ジェイドくん、海音ちゃんの心配より自分が先じゃないかな」

「彼女はもう医官に診てもらいましたし、正直あなた方のほうが疲弊しているように見えますよ」

 重ねるようにはるさんも口を開く。私はほっと胸を撫で下ろして、ジェイドさんに頷いてみせた。

「軽い怪我です。大丈夫ですから、早く診てもらってください」

 そこまで言って漸く、彼の表情から焦燥が抜ける。傍にいた自衛官に促され、彼は大きく息を吐いた。

「また、後で」

「はい」

 不知火さんが軽く手を挙げるのにも会釈して、彼らを見送る。ゆっくりと歩くジェイドさんの背中に、血が滲んでいるのが見えて、私はぎゅっと眉を寄せた。

 きっとマンションに居た彼らにも何かあったのだ。それなのにジェイドさんは、人の心配ばっかりして。


「彼がさっき言っていた人だね」

 はるさんが軽く苦笑する。私がぽろっと零した名前を覚えていたらしい。

「そうです。でもあんな感じで……いつも怪我を」


 せっかく傷が開いてしまわないように気をつけていたのに、それすら出来ない状況に追い込まれたのか、それとも彼が無理をしたのか。

 それにさっきのジェイドさんは、私の手の火傷に気付けなかった。背の高い彼からは見えにくかったとはいえ、きっと相当疲れている。


「そうだ、ついでに他の人とも会っておく? まだ誤魔化せるわよ」

 願ってもない事に、私はぱっと顔を上げた。はるさんは口元に人差し指をあてて微笑む。

「大賀さんには、内緒ね」



 先程の食堂に戻れば、マンションに居た待機組が、ジェイドさんと不知火さんを除いて全員が着席していた。今は食事を用意しているのだろう

 ぐったりと机に伏せている人もいるが、ジェイドさんや不知火さんほどに疲弊している人はいないようだ。

「彩瑛さん」

 端の方に座っていた彼女に呼びかけると、彼女ぱっと振り返った。次いでその顔に笑みが広がる。

「海音ちゃん……! 良かった。他の人達は?」

「皆無事です。今は皆宿舎の方に」

 同じような話を既に聞いただろう彼女は、納得したように頷いた。

「あの、彩瑛さん達は何があったんですか。皆疲れているみたいですけど……」

 彩瑛さんも顔色がくすんで、目の奥が暗い。待つだけじゃない何かがあったはずだ。

「それが、救助を待つ間に風向きが変わっちゃって」

 屋上にはいられないほど、火災の煙が吹いてきたのだと。それで安全に救助を待てる場所へ移動したらしい。

「しかも後から火だるまになったゾンビに追いかけられたのよ」

 気だるげに頬杖をつき、こちらに顔だけ向けていた瑠璃さんが口を挟む。彼女も青白い顔で、クマがかなり濃く見えた。

 それにしても。

「感染者が、火だるまで」

 薄暗闇にぼうと浮かぶそれを想像して、思わず顔が強ばる。一体や二体じゃなかったのだろう。それが感染者の速度でもって迫ってくる。

 良く、全員無事だったなと、改めて安堵の息を吐く。それも怪我人の二人を抱えて。

 

「見て、こいつちょっと焦げた」

 笑みを含んだ声に顔を向けると、突っ伏している人の服を男性がつまんでいた。その部分は確かに黒く焦げている。

 焦げる程の至近距離まで接近したのかと、うわぁと声が漏れた。

 それからふと首を傾げる。焦げているのは背中部分だ。

「……そっか、彩瑛さん達も感染者も、火から逃げる行動だったから」

 瑠璃さんも追いかけられたと言っていた。火だるまの感染者は恐らく、火災の近くにいたのだろう。

 男性があぁ、と納得したような声をあげた。

「アイツらは逃げてたんだな。車が爆発する音にも反応しなくなってたし、火は危険だって分かってるのかも」

「そうなんですか」

 何気なく相槌を打って――ふと寒気がした。あれだけ過敏に反応していた車の爆発音にも反応しなくなったということは。

 けれど思考を遮るように料理が配膳され、会話は完全に途切れてしまう。皆嬉しそうな様子に、私は一歩引いた。

「お邪魔しました」

「ううん、またね」

 彩瑛さんが嬉しそうな顔で手を振る。瑠璃さんは伺うような顔でこちらを見ていたけれど、私は軽く頭を下げて、はるさんと食堂を後にした。

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