研究所へ
襲いかかってくるゾンビは少なく、道中は楽なものだった。スムーズに進んだお陰で昼過ぎには研究所へ到着できそうだ。
さらに進めば、襲いかかってくるゾンビだけでなく、数自体が少なくなっていた。その代わり、道路のあちらこちらに腐った死体や乾いた血溜まりが広がっている。食い散らかされた死体もあるにはあるが、どちらかと言うとゾンビになってから倒されたようだ。額に穴が開き、あるいはナイフが刺さり、明らかに人によって倒されている。
「自衛隊、みたいね」
雪さんが道端に落ちていた布の端切れを拾い上げる。色んな物でぐちゃぐちゃではあるが、迷彩柄が見て取れた。
自衛隊と聞いて一人の男の顔が浮かぶが、すぐに振り払う。自警団は近くには居ないだろうし、この量を相手取る事もしない筈だ。
「ここだけ明らかにゾンビの数が少ないけれど……」
雪さんが言いかけた時、彼女の右斜め前の角から真っ赤な塊が唸りを上げて飛び出してきた。私は咄嗟に彼女の腕を引っ張る。
下げていた銃を構え直すよりも早く、あさひさんが私の横をすり抜け、ゾンビの顔面に拳を振るった。見事に鼻面を叩いたそれは、湿った音を立てる。
倒れ込むゾンビの目玉が飛び出ていたように見えて、私は思わず一歩退く。
彼は地面に伏したゾンビの頭目掛けて踵を落とした。めりめり言う音は、へこんだ顔面がさらに陥没する音か、頭蓋骨が割れる音か。
素早い一連の行動に唖然としていると、彼は何事も無かったかのように振り返った。
「ふー……流石にもう動かないよな。俺良く分からないけど」
やりきった顔をする彼の手は粘度の高い血液で汚れている。私は手を振って血を飛ばす彼を睨みつけた。
「あ、あんまり急に飛び出さないでください」
ばくばく鳴る胸を抑えつつ言うと、彼は悪びれず笑う。
「ごめん。間に合いそうになかったからさ。研究所まではあとどれくらい?」
「えっと、もう五分くらいかしら。敷地も広かったし、多分あれよ」
雪さんが指さした方を見ると、確かに背の高い、横幅もありそうな建物がちらりと見えた。思っていたよりも大きい。見えているのは裏側だろうか。
大通りに抜けると、途端に目の前が開けた。広い駐車場で、ぽつぽつと車が白線通り収まっている。けれどそこにも死体は散らばっていた。よく見れば、弾丸が地面を抉ったらしい、黒い痕が残っていた。
表に回ると、損傷の激しい死体が折り重なっていた。中には自衛隊員の死体も混じっている。被弾したのか、自動ドアのガラス部分は粉々だ。
雪さんが向こう側を覗き込む。
「中には何も居ないわね」
入口すぐの場所に駅の改札のような機械がいくつか置かれ、その後ろには白い廊下が続いている。正確には白かっただろう廊下だ。壁や床に血液がべちゃりと付着している。
けれど雪さんは躊躇うことなく既に人一人分開いた自動ドアを押し開けた。
「変だな」
「ええ」
周囲にさっと目を配ったあさひさんが囁くように呟く。頷いた雪さんに、私は首を傾げた。二人とも何か違和感を覚えているらしいが、私には良く分からない。
「全員ゾンビになったのかしらね」
続けた雪さんに、私ははっと辺りを見渡した。
「……死体が無い」
見る限り一つも。仮にゾンビになったとして、その姿さえ見当たらない。安全に思えていた筈の静けさが途端に気味の悪いものになって、私は眉根をぐっと寄せた。
雪さんが手近な扉に耳を当てる。しばらくして体を離すと、彼女は私達に視線を向けた。
「物音はしない。しらみ潰しに探すしかないわね。真美ちゃん、銃はすぐ使えるようにしておいて」
彼女の指示にこくりと頷く。建物内に入った時にかけたセーフティを再度外せば、雪さんは静かにドアノブを回した。
部屋の中は薄暗く、しんと静まりかえっていた。建物内と同じように壁面は白いが、名前も知らない機械が壁際にはずらりと並び、並んだ長机には顕微鏡やシャーレが置かれている。きっちりと場所は決められているのだろうが、細々したものが多いせいで雑然とした印象を受ける。テレビで見る研究所のイメージそのものだった。
「誰も居ないみたいね」
雪さんが足を踏み入れるのに続く。意味も無く並べられた試験管を眺めると、幾つかは赤い液体が入っていた。良く見れば上に黄色味がかった液体が分離している。
「あ……」
後ろにいるあさひさんが小さく声を上げたのに、私は勢い良く振り返った。またゾンビのように理性を失うのかと、銃を構える。
けれど顔を青くさせてしゃがみ込む彼は、正気のように見えた。心配が勝って彼の前にしゃがむ。
「あさひさん?」
呼びかけると、彼は首を振って体ごと横を向く。返事もできない彼に戸惑っていると、彼は口元を抑え背を震わせる。
あっと思った時には、彼は嘔吐していた。酸っぱい臭いが広がり、あさひさんが苦しげに咳をする。
「ちょっと、どうしたの」
「分かりません。急に吐いちゃって」
ティッシュと水を鞄から取り出す。彼に手渡そうとして、また第二陣が来たのか喉を詰まらせえずく。びちゃりと今度は胃液らしい物を吐き出した。
暫く荒い息を繰り返すから、吐き気は落ち着いたらしい。息を整えるのを待って、ティッシュを差し出す。
「ティッシュです。あと水も」
受け取ったあさひさんがよだれと吐瀉物でぐちゃぐちゃの口元を拭う。水を口に含んだ彼はそれを飲み込まず、そのまま吐き捨てた。
「……気持ちわりぃ」
気分の事かと思ったけれど、どうにもその声には恨むような、憎むような響きがこもっていた。
ふっと一つ息をつくと、彼は頭を振った。どこか憑き物の落ちたような顔で小さく笑う。
「ごめん、嫌なもの見せた」
謝る彼に私は首を振る。雪さんも気遣わしげに声をかけた。
「体調不良? 少し休みましょうか」
「いや、いい。吐いたらすっきりした。それより」
彼が顔を上げる。苦しげに歪んだ顔は、けれどさっきよりは血色が戻ってきていた。
「行きたい所がある。着いてきてくれないか」
瞳は真剣そのもので、声も硬く張り詰めていた。真摯に訴える瞳の中に仄かな焦りが見える。
「行きたい所? どこなの?」
その雰囲気を汲み取ってか、目線を合わせるように膝を折った雪さんは眉を寄せた。
「地下だ」
短く答えた彼にますます困惑する。まだ階段もエレベーターも見かけていないのに、どうして地下があるとわかるのか。
「歩きながら話すから、頼む」
その懇願に、なんと答えたらいいのか分からず私は閉口する。雪さんは逡巡した後、軽く頷いた。
「良いけれど、危ないと思ったら引き返すわよ?」
「それでいい」
彼は机に手をついてゆっくりと立ち上がった。それに続いて私も立ち上がる。部屋を出て歩き出す彼の足取りはしっかりしていて、まるでこの施設を良く知っているようだった。
しばらく歩いてから、彼は絞り出すように言う。
「……俺は、ここの研究員だった」
私は僅かに目を見開く。先程嘔吐した時に思い出したのだろうか。それにしてもすごい偶然だ。雪さんも驚いた様子で瞠目している。
「そうだったの。じゃあこの病気について良く知って?」
「あぁ。それどころか」
彼は自嘲気味に笑った。態度が豹変したわけではない。ただ雰囲気が冷たく尖った彼に私は腰が引けていた。
不意に地下へ続く階段が現れて、彼は薄暗いそこで立ち止まる。
「この災害を引き起こしたのは――桜木研究所だ」
強く光る、赤い眼。そこに映る私もまた、同じ色の眼をしているのだ。――――この人のせいで。
この人のせいで、母や友人は。世界は。この人のせいで、私の体は。
どうして、としがみつきたくなる衝動をぐっと堪える。声が大きな塊になって喉を塞ぐ。
「嘘じゃないっていう、証拠は」
雪さんの声は何かを抑え込むように震えていた。少し触れれば弾けてしまいそうな激情を孕んでいる。
「これから見せる」
「あなたを信用していいの」
「安全は保証する」
ふっと隣に居る彼女の熱が下がった。いつの間にか構えていた猟銃を下ろし、深く息をはく。
一連のやり取りから、彼女も同じ気持ちなのだと気づいて、私もほんの少し体の力を緩めた。そもそもこの災害が故意に引き起こされたのか、偶然が重なった結果なのかも分からないのだ。彼だけが原因という訳でもない。
今はただ、彼に着いていくしかないのだろう。
ゆっくりと階段を降りる彼が、とつとつと話し始める。
「桜木研究所は最初、生物の免疫系を研究する機関だったらしい。今でも表向きはそう変わらないな。それが、内部では遺伝子の解析、組み換えに手を出し始めた。……真美ちゃんいくつだっけ」
免疫系、遺伝子の解析や組み換えと聞いて、薄い理解しかできていなかった理科の授業を思い出していると、急にあさひさんが振り返る。
「十五です」
急に水を向けられ、若干戸惑いつつ答える。すると彼は大きく頷いた。
「じゃ、いちおう遺伝子の説明もしとこう。まぁ簡単に言えば体の説明書だ」
教科書で見た、絡まる二本の線。いやに色鮮やかだった記憶がある。それが説明書だと言われても、あまりぴんと来なかった。
「白紙を想像してみればいい。そこには塩基っていう文字が配列されてる。その文字通りに体は作られ、機能する。けどもし、その塩基の順番が違ったり、欠けたりすると」
「病気になる?」
ふっと思いついた事を口にすると、あさひさんは何故だか嬉しそうに頷いた。
「そ! 例えばガン。これは間違った塩基の配列が次々コピーされて、正常な配列、正常な機能の細胞が無くなる病気だ。
後は先天性の病気も体が機能するための塩基の欠陥によるものが多い」
その"塩基"の配列が重要である事は何となく分かったので、私は後ろから相づちを打つ。
「じゃあ次。遺伝子にはジャンクDNAっていう、文字化け部分がある。これは俺達が知らない言語ってとこ。その部分が体にどう現れているかが分からないし、本当は機能しない、無駄な部分かもしれない。けどそれを解析すれば病気の原因、根本的な治療に役立つだろうと言われている」
「それは良いことではないの?」
雪さんの疑問に私はうんと頷く。免疫の研究から、恐らくあまり良くない研究へ転向したように言っていたけど、聞いている限りは真っ当な内容だ。
「あぁ、それ自体は結構メジャーな研究課題。法にも触れない。問題は組み換えなんだけど」
すっと彼のトーンが落ちた。階段を降りてすぐ目の前には、鉄の扉。それ以外に道も無い不気味な場所。
ここが、彼の目的地らしい。説明を半ばで切り上げた彼は黙り込んでいる。
「どうしたの?」
訝しげに声を上げた雪さんに、彼はしっと人差し指を立て唇に当てた。それから手振りだけで私達を壁に寄らせる。
良くよく見れば、スライド式の鉄扉はほんの少し開いていた。向こう側も暗く、最初は気づけなかったのだ。扉の横にはパスワードを打ち込むらしい機器が付いているけど、画面は真っ暗で起動している様子はない。
この説明を受けて、さらに地下と来たら、嫌な予感しかしない。鼓動が早くなるのに、ゆっくりと深呼吸をして意識的に落ち着かせる。
――不意に、扉の隙間から白い光が差し込んだ。明らかに懐中電灯の光だった。その光が下へと滑り落ちた瞬間、あさひさんは鉄扉の片側を押し開けて飛び込んだ。
「なっ――!」
あさひさんではない、男の人の驚く声。続いてどさりと倒れ込む音がした。
「感染したくなきゃ暴れんなよ!」
あさひさんのドスの効いた声がこちらまで響く。言い方からして相手を組み敷いたのだろう。
慌てて私達は鉄扉に駆け寄る。中は殆ど真っ暗だ。階段からの僅かな光があさひさんの背中をかろうじて見せている。
雪さんが転がっている懐中電灯を取り上げ、二人を照らした。あさひさんの脅しが効いたのか、押さえつけられている人は暴れる様子はない。
「誰だ? 研究員か? ここで何してた」
「っ……う」
「あさひくん、首。それじゃ答えられないわ」
あさひさんは飛び込んですぐ、彼の首を捉えたらしい。この人、研究員とは言うけれど、いやに荒事に慣れている気がする。
「ぐ、っげほ」
あさひさんは手を緩めたのか、男性が咳き込む。
「危害は加えない、から、離してくれない」
荒い息の下で男性が言うと、あさひさんがちらりと私達に視線をよこす。それを受けた雪さんが私に懐中電灯を持たせた。そして躊躇いなく猟銃を男性へと構える。
私はやりすぎではないかと目を見開くけれど、雪さんはいたって冷静だった。
「銃を構えてる。良いわよ」
彼女が言うと、あさひさんも渋々といった様子で男性から離れ、上体を起こしてやる。ただし彼の腕は握り締めたまま、離す気はなさそうだった。
「それで? ここで何してた?」
「君達は、研究所の人?」
男性は喉をさすりつつ、目をすがめる。絞められていた感覚が抜けないのか、どこか喋りにくそうだった。
あさひさんはつかの間沈黙する。ただ頑なに答えない態度に苛立ったらしい。けれど抑えるためにか、小さくため息をついて口を開いた。
「そこの二人は違う。俺だけだよ。……名前は」
埒が開かないと思ったのか、今度は幾らか柔らかい口調だった。それに彼も僅かに警戒を解いたらしく、ゆっくりと答える。
「……岡部はじめ。それから、僕は研究員じゃなくて桜木製薬でMRをしてた社員だよ」




