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赤眼ゾンビ  作者: 海月
第三章
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記憶喪失 2

 ぐらぐらと揺れる男性の口元からは、よだれが垂れている。ぜえぜえと荒い息は私のものだ。

 彼も、自警団と同じか。

 覆い被さる影と、下腹部の痛み。肺が潰れて息が出来ない。生々しい手つきまで思い出しかけて。

「う……ぁ……」

 小さな呻き声に、嫌なフラッシュバックは止まった。止まったというよりは、上回る恐怖に覆された。彼はもしや、理性が無くなり、人を襲うゾンビと同じ行動をとっているのではないか。

 抵抗しようにも腕を押さえつけられて動けない。足も布団に覆われて動かせない。

「雪さ……っ」

 声はか細く、喉が震えるほど出なかった。ガッと男性の頭が動く。反射的に目を閉じて痛みに備えるが、その衝撃はやってこなかった。掴んでいた腕が離れたので、そろりと目を開く。

 頭に白い布を被せられ、もがく彼が目の前に居た。どうやら雪さんが昼間に使ったタオルで彼の顔を覆い、私から引き離したらしい。


「真美ちゃん、平気!?」

「は、い……」

 心臓がどくどくと早鐘を打っている。身を捩って布団から抜け出し、枕元の懐中電灯で彼を照らす。

 雪さんは彼を押し倒し、体重をかけて動きを封じた。

「真美ちゃん、銃を」

 彼女の声は苦しげだ。理性を失ったらしい彼を抑え込むのは相当な力が必要なのだろう。

「早く」

 急かされるまま手探りで銃を取り出す。こうなってしまっては、もう。

「私がやります」

 雪さんの手の中でタオルがぎちぎちと悲鳴をあげている。片手を離すのは危険だ。

 スライドを引き、彼の頭に押し当てる。けれど引き金を引く前に雪さんが制止した。

「待って。頚椎を、首を狙って」

 彼女が微かに腕を持ち上げる。私は慎重に彼の首へと銃口を向けた。

 何故、と問う暇はなかった。雪さんの腕が震え、もがく彼の動きが大きくなっていたからだった。

 首を狙ってもゾンビの動きは止まるのか、訝しがりつつも、私は彼の皮膚に銃を押し当て引き金を引いた。

 暗闇にフラッシュする黄色い光。耳朶を打つ重い音。

 彼は一度手の下で跳ねて、動かなくなった。同時に私は銃を取り落とす。

「真美ちゃん、もう大丈夫だよ……真美ちゃん?」

 雪さんの声が、わんわんと頭に響く。

 手のひらがじっとりと濡れている。いったい、何で。――血液で。誰の、足元で倒れている人の。どうして、なんで。懐中電灯の光が照らしているのは、血に塗れた苦悶に歪む顔。

 ずき、と足首が痛んだ。銃声が、銃弾が頬を掠める。扉の軋む音。即座に視界が切り替わる。銃弾のせいで歪む鉄扉。


 分かっている。これは最悪な悪夢だ。現実じゃない。手が冷たくて、動かせない。あぁ、ごめんね、海音。私のせいで。


「――真美」

 暖かい手に、触れられた。私よりも少し大きい、友人の手。



 は、と視界が戻る。目の前には焦りに顔を歪めた雪さんがいた。

「真美ちゃん! 大丈夫よ、もう彼動いてないから。ごめん、こんな事やらせて」

 そうではないのだと、口を開こうとするけれど、掠れた声が漏れただけだった。悪夢の名残りが未だに私を混乱させている。

 すっと雪さんが私の頬に手を滑らせた。手のひらから熱が抜け落ちて、漸く彼女が手を握ってくれていた事を知る。

「もう大丈夫……」

「そんな訳ないでしょ」

 雪さんの指が私の目元を拭う。滑り落ちる水滴が涙だと気づいて、私は内心苦笑する。色んな感覚が体からすっかり消えてしまっていた。

「立てる?」

 まるで子どものように手を引いて私を立ち上がらせると、彼女は私を寝室まで連れていく。

「あの」

「はい、横になって。大丈夫だから」

 私は男性が本当に動かなくなったのか確認していない。だからそんな事を言われても、気にかかって素直にベッドには入れない。

 躊躇する私に、雪さんは何かに気づいたように声を上げる。

「あ、やっぱり他人が寝てたベッドは気になる? あっちからシーツ持ってこようか」

「いや全然平気なんですけど」

 彼には体も拭いてもらって新しい服を着てもらっていたし、目に見えて汚れていなければ平気だ。避難所では多少は衛生観念を緩くしないとやっていけなかった。……ではなくて。

 やけに優しく扱う彼女に恥ずかしくなる。

「ごめんなさい。取り乱しました。今はもう落ち着いたので、ちょっ……力強いっ……」

 肩に手を添え寝かせようとする彼女にベッドの端で抵抗するが、あまりにも力が強い。

「無理しないで。弟の事も良くこうして寝かしつけてたから、ね?」

 それは本当に寝かしつけだろうか。圧力に耐えかねて、ぼすんとベッドに腰を下ろす。

「はい」

 掛布団を持ち上げる彼女は、暗闇にぼんやりした輪郭でも分かる程にっこり笑っている。私は小さくため息をついて、足をそこに滑り込ませた。頭をおろすと、彼女は満足したように掛布団を被せてきた。

「一人で寝れる?」

「寝れますよ!」

 噛み付くように答えて、私ははたと気付いた。部屋を出ていこうとする背中に慌てて声をかける。

「待って」

「え、寂しくなっちゃった? 添い寝し、」

「女子校の王子様出さなくていいですから。雪さんはどうするんですか? まさかあっちで寝るつもりですか」

 何故か調子の良い返事をする雪さんに、むっと眉をひそめつつ聞くと、彼女は小さく苦笑したようだった。

「いや、眠りはしないわよ。彼の事見てる」

 徹夜するつもりかと目を剥くが、多分彼女にはあまり伝わらないだろう。それに私も見張ると申し出ても彼女は拒否しそうだ。

 色々言いたいことはあったが、ぐっと我慢して私は口を開いた。

「…………ごめんなさい。お願いして良いですか」

「えぇ。真美ちゃんはしっかり休んで」

 優しく言われ、渋々ながら頷く。バタンと扉の閉まる音に、私はごろりと寝返りをうつ。

 緊張はまだ抜けないが、頭はどこか回っていないから、眠らなければならない。目を閉じる前に私はベッドサイドをまさぐって、時計を探し出す。

 時計がまだ動いている事を確認した私は、アラームをセットして時計を頭の近くに置いた。


 彼女には今何を言っても無駄だろう。避難所での事を思い出して取り乱していた私を見ていたのだから。

 だからある程度で起き出して、彼女と見張りを交代するつもりだ。交代してくれなくとも、目が冴えたと言って傍にいないと、万が一何かあった時に疲れているであろう彼女だけでは危険だろう。

 そう思って、瞳を閉じる。けれど睡魔はなかなかやってこない。繰り返し現れる悪夢にびくりと体が震えた。


 それを何度か繰り返し、ふとまぶたを持ち上げる。時計を確認すれば、眠れていなかったというのに時間は経っていた。セットした時間よりはそこそこ早いが、もう良いだろう。


 重い体を動かして扉を開けば、くぐもった話し声が微かに聞こえた。ぞっとして狭く短い廊下を駆ける。


「雪さん!」

 大慌てで駆け込めば、びっくりしたように振り向いた赤い瞳は、二対四つ。懐中電灯の明かりを受けてきらめいている。

「えっ?」

「ほらぁ、起きちゃったじゃない」

「あ、わりぃ……」

 決まり悪そうに謝る男性は、ピンピンしている。懐中電灯の明かりでは顔色を見るには不十分だが、体調が悪そうには見えない。


 私はそっと男性が倒れていた場所へ目を凝らす。枕元に広がる赤。確かに私は、彼を撃った。

「な、なんで?」

 動揺に後ずさる。と、男性はちょっと笑った。

「追い詰められた犯人みたいな反応だね」

 いや、実際そうだ。私は彼からしたら自分を殺した人間だ。否応なく顔が引き攣る。

 その反応を目敏く認めたらしい彼は、あーと声をあげた。そして首を横に振る。

「責めてなんかない。むしろごめん」

 謝る彼に、私はそろりと近づいた。理性を失う前とは少し様子が違う事が気になった。どこかからりとした印象を受ける。


 雪さんは私に座るように促し、困ったように眉を下げた。

「それについて言えば、私も同罪よ」

「けど俺、それについては覚えてないから。食ってから正気戻してたら地獄だったし」

 それは、そうかもしれない。曖昧に頷く。もう気にするなと、そういう事なのだろう。

「それで彼、さっき目覚めたんだけど」

「多少は、思い出したよ」


 きらりと暗がりの中で彼の瞳が光る。昼間の不安に揺れる瞳とは対照的な、芯のある目。薄々感じてはいたけれど、記憶を思い出すとこんなにも人が変わるらしい。


「まずは名前ね。漢字が曖昧だけど、かげあさひ。電車に乗ってた理由は分からない。けどかなり焦ってたのは思い出した」

 もう雪さんには話していたのだろう。話に淀みが無い。言葉を切った彼に私は身を乗り出す。

「電車で死ぬ直前の事は思い出した感じですか?」

「そう。それ以外の事はあんまり」

 それでも名前を思い出せただけ安心したのだろう。

「あさひ、さん」

「うん?」

 私は自身の首元を差して、躊躇いがちに聞く。

「私が撃ったところは、もう治ったんですか」

「あぁ、多分ね。もともと食いちぎられてたから良く分かんないけどほら、首は動く」

 首を左右に振ってみせる彼に、そういえば痛覚が無かった事を思い出して青ざめる。

「雪さんほんとですか」

「あれ、信用されてない?」

「骨の方はね、繋がってるみたいよぉ」

 以前だったら絶対に聞くことのない言葉をのんびり答える雪さんに、私はちょっと息を吐く。安堵したい所だけれど、噛まれた方の傷がまだ治ってないのだろうから何とも言えない。

「あっ」

 微妙な沈黙が落ちたあと、あさひさんが何か思い出したように声を上げる。

「俺、まだ君達に着いてくつもりだけど良い……よね?」

 何か新しく記憶を思い出したわけではなかったらしい。上目遣いで言われて、私は閉口する。正直また理性を失われたら怖い。雪さんも同じようで、口は閉ざしたままだ。

 答えられない私達に、彼は更に言い募った。

「寝る時は縛っといてくれていいからさ? それか外で寝るし」

 早口の彼に、雪さんが静かに言った。

「理性を失うのが今回だけとは限らないものね。真美ちゃん、どうすれば安心?」

 瞳を覗き込まれて、私は若干顎を引く。彼女の考えも聞きたいけど、私は仕方なく口を開いた。

「別の部屋で……鍵をかけて、」

 完璧と言える考えはすぐには出せないので、ゆっくりと喋る。そこで何か引っかかって、私は額を抑えた。黙り込んだ私に雪さんが首を傾げる。

「……待って。あさひさん、自分でドアを開けられたんですか?」

 あさひさんが寝室に入ってドアを閉めるまで、しっかり見ていなかったのがもどかしい。彼も彼でそこは分からないのだろう、眉を顰める。

「分からない。理性を失った時の事はほぼ覚えてないから」

 首を振る彼に、私は目を伏せる。単にゾンビと同じような状態になったらドアは開けられないのではないだろうか。


 彼と一緒に居るのは危険かもしれない。

 私は最終的な判断に迷いつつ、頭の中で考えていた事をまとめた。

「あの、とりあえず私、あさひさんを放り出そうとまでは思えないです。それは雪さんも同じようなですよね?」

 最初の問いかけからして、彼女はあさひさんを置いていくつもりはなさそうだった。確認のために彼女に視線を巡らせると、彼女は静かに頷く。


「ただ一緒に居るのは多分それなりに危険だろうから、眠る時は鍵のかけられる部屋に居てもらうのはどうですか。無理だったらあさひさんの言う通り縛ってみましょう」

「それから昼間や移動中も、武器は持たないようにお願いしたいわね。それが呑めないなら、」

 付け加える雪さんに、あさひさんは僅かに目を見開き、こくこくと頷いた。

「全部君たちの言う通りにしよう」

 やけに力強く言う彼に、私は小さく苦笑する。そんなふうに言ってしまって、もし私達が道徳から外れるような扱いをしたらどうなるのかなんて考えないのだろうか。もちろんそんな事はしないけど、気軽に言ってしまう彼の向こう見ずな感じが心配だ。


 それから彼の様子を見つつ三日。三日の間に彼は再度正気を失ったけれど、今度は拘束をして暫く経てば、彼はまた理性を取り戻した。驚いたのは、二日程度で彼の噛み傷と骨折が完治してしまった事だった。もはや傷跡すら見えない肌を見て、私は顔を顰める。

 怪我の程度に違いはあるのだろうけど、噛み傷を負い更に銃で撃ったのにこの治りの速さは、明らかに私や雪さんとは違う。度々理性を失う事とも関係があるのだろうか。

「見た所もう大丈夫そうねぇ」

「全回復ですね」


 短いとはいえ、彼の回復を待つ間、私達は研究所までのルートを探索していた。襲ってくるゾンビの数を減らしていたのだ。彼に丸腰を強制するのだから、と雪さんが一人で出て行こうとするのを無理やり着いて行き、銃の練習も兼ねてゾンビを倒した。


「二人とも準備はできた?」

 雪さんの問いかけに私は頷いた。リュックの紐に括りつけた赤いスカーフは二枚。私の分と、海音の分だ。もはやお守りのようなものだけれど、もし、万が一、彼女がすぐに私を認識出来なかった時のために持ってきていた。

 私達が頷いた事を確認した彼女は、玄関ドアを押し開ける。外から眩しい陽光が差し込んだ。


 研究所へは、一日と掛からずに着くはずだ。

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