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赤眼ゾンビ  作者: 海月
第二章
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作戦開始

 ようやく海音と連絡がつき、そっと息を吐く。連絡の相手は誰でも良かったが、トランシーバーから聞こえる声に安堵した。

 安堵した途端に強い眠気を感じて、俺は頭を振る。仮眠はした筈だが、一度眠れば数時間は寝こけてしまいそうだ。その間何が起きるか分からないから、気を張っているしかない。

 時計を見上げ時間を確認する。救助まであと二時間。状況から考えて彼女は見張りでもしていたのだろうか。トランシーバーのノイズ越しだからか、声が硬く張り詰めているように聞こえた事に落ち着かない気分になる。身を締めつけるような焦燥は、もう何度目か。


 やはり、あの子は外に出すべきじゃないのかもしれない。


 そんな思いがふっと湧いて、俺は小さくため息をつく。





 膝立ちになり、感染者の動きや頭の位置をシュミレーションする。構えた銃の先が震えている事に気が付いて舌打ちした。

 これから至近距離で感染者と対峙する事になるのだから、それも当たり前かもしれない。それに俺が撃ち損ねれば、この綱渡りのような作戦はお終いだ。


 今もドアは揺れている。ビニール紐で結んでいたけど、それでも限界はあるのかさっきちぎれてしまった。当然それだけの力を抑え込む体力は、長くは続かない。

 そして厄介な事に、恐らく俺達がドアを開けさせまいとするせいで、例の感染者はずっと開扉を試み続けるのだろう。


 俺はウィンブレのフードを深く被り直す。他の感染者の唸り声は落ち着いてきているようだから、開けた瞬間に襲いかかってくる可能性は低い。それでも扉が開いた瞬間一秒とかからず飛び込んでくるはずだ。

 

 手はずとしては、まず最初に武仁が扉を開ける。その後俺が扉の開けられる感染者を撃ち、武仁がまた扉を閉める。簡単に言えばそれだけだった。

 それだけのたった数行で収まる事でも、実際は不可能に近い無茶だ。


 ちらりと上に視線を上げると、戸倉さんが武仁に何やら手袋を押し付けていた。会話を拾ってみれば、のほほんとした様子の武仁に、戸倉さんが呆れ返っているようだ。


 俺達は感染者に対して分からない事が多い。でも感染者は特に声に反応する事、共食いをしない事を考えれば、見た目は襲う判断にはあまり入らないのかもしれないとは、戸倉さんと話した事があった。だから武仁はあそこまでガチガチに装備を固められているし、俺は黒いウィンブレを、腕を通さず頭から被った状態でしゃがんで待機する事になっている。下から撃つことになるけど、この距離ならまず外さない。後は俺が例の感染者を見逃さないか。


 他の感染者への対策として、上には戸倉さんと御陵、それに金井さんが待機して上から狙う。感染者への陽動もこの三人がする。

 さらに扉にはまたビニール紐を括りつけた。さっきと同じ長さの物に加えて、人一人なら通り抜けられそうな余分を持たせた上で、扉とはしごを繋いだ一本を増やしてある。少しでも感染者が出てくるのを防ぐためと、武仁が奥まで行かなくても良いようにする為だった。


 作戦をなぞり、シュミレーションもやった俺はいったん立ち上がった。足が痺れてしまうのは避けたい。


 準備を終えた武仁が降りてきたので、俺はすぐに声をかけた。

「武仁!」

 頭と首元にタオルを巻き付けて、その上からレインコートを被った武仁は、まるでてるてる坊主みたいだった。 

 呼ばわれた武仁は俺を見てニッと笑う。

「秋がやるんだって?」

「そう。武仁は……平気?」

 どう声をかけたら良いものかと悩んだが、口から出たのはちんけな言葉だった。

「平気だって。ゾンビなんて大根みたいなもん」

 そんな俺に、武仁は異様に光る目で答える。

「大根て」

 平気に返しつつ、く、と唾を飲み込む。武仁は何だか妙に、興奮していた。俺はプレッシャーと恐怖にこんなにも喉が渇くのに。

 どこか薄ら寒いものを感じる武仁をまじまじと見るけど、武仁は自信ありげな笑みを浮かべるだけだ。


「……平気なら良いんだけどさ」

「なんだよー。ていうか秋こそ大丈夫? 顔色悪くない?」

「俺は」

 武仁の顔を見て、言いかけた言葉を飲み込む。

「ちょっと寒いんだよね」

 手を擦り合わせ温める。少し寒いのは本当だった。

「まぁ撃つのには問題無いよ」

 ぱっと手を開いてみせると、武仁は眉間をほっと開く。同時に目にも落ち着きが見えるようになって、俺は内心息を吐いた。

 

「どうだ? もうやれるか」

 八木さんの声に武仁が振り返った。全員が疲れきらないように細かく扉の抑え役を交代していたから、八木さんは少し前に交代したばかりなんだろう。ぷらぷらと手を振っている。

「はい」

「俺もいけるよ」

 ぐっと親指を立てると、八木さんが軽く頷いた。


「熊谷さん、代わります」

 全員が予め決めていた位置に移動する。三ノ輪さんが俺と武仁の視界に入る場所に立った。合図は三ノ輪さんがしてくれる。


 武仁が扉を抑えつつしゃがんだ。

 微かな空気が頬を撫でる。張り詰めた空気と尖った神経のせいでそれさえ鬱陶しい。神経を邪魔する音は扉からも聞こえるはずなのにどういう訳だか聞こえなかった。


 集中に視界が狭まりそうなのを意識して広げた瞬間、三ノ輪さんが手を上げ、振り下ろした。


 合図だ。


 パチン、と扉を繋いでいた一本の紐が切られる。同時に武仁が腕を緩めた。


 勢い良く開きかけた扉が、紐と武仁のおかげで開き切らない。ピンと張った紐の向こうから、肩をねじ込むように現れた感染者が腕を伸ばした。


 ――――あいつだ。


 照準を合わせ、引き金を絞る。一度目、外した。二度目、肩口で血が弾ける。焦りに頭が熱くなるが、焦りを感じる余裕さえ無い。

 

 三度目で漸く当たった。


 くずおれた感染者に、俺は素早く手を上げる。倒せた時のサイン。


 でも俺は――あぁ、失敗した!

 急いでもう一発。構えも甘いうえにろくに照準も合わせていないそれは当然外れる。


 例の感染者は確かに倒せた。出方から見ても、直前の感染者の興奮具合からしても一番に出てきたあいつが扉を開ける感染者だ。

 けどその死骸がちょうど、ビニール紐に引っかかった。布団のように垂れ下がるそれはビニール紐をギリギリと鳴らす。いつちぎれるとも知れない。


 それにそこに引っかかってしまったら、扉が閉められない。

「くそ……っ」

 思わず悪態が口をついて出る。扉には次々と手が掛けられ、武仁が全体重を後ろに預けるようにして堪えていた。


 今まで置物のように沈んでいた皆が一斉に動き始める。

  

「こっちだ!」

 金井さんが声を上げ、御陵がシャベルで足元を軽く叩く。

 蛍さんが扉に走り寄り、武仁の手の上から丸ごとドアノブを掴んで引き寄せた。ビニール紐と大人二人が力いっぱい引っ張って漸く扉の押し引きは止まる。


 三ノ輪さんが紐にぶら下がった感染者の腕を掴んだ。上に居る三人が声を出して陽動してくれているお陰で、感染者たちは死角から伸びた腕には気づかない。


 八木さんと俺は動けば感染者を刺激する位置に居る。だから八木さんも動けず、ただ銃を構えているしかなかった。

 ぐい、と三ノ輪さんが感染者の体を引き寄せた。斜めから引っ張るのでは力が入れにくいんだろう、何度か揺らして漸くずるりと感染者の亡骸が地に落ちる。

 俺はその瞬間に上へと手を伸ばす感染者を撃った。万が一にも気づかれたら三ノ輪さんが餌食になる。

 頭を撃ち抜かれた感染者が奥に居る他の感染者のせいでこちら側に倒れ込みそうになるが、振り下ろされたシャベルが押し込んだ。

 御陵が上から咄嗟の判断で動いてくれたらしい。勢いづき過ぎて落ちかけた彼女の首根っこを金井さんが慌てて掴む。

 俺は小さく息をついたが、体勢を立て直す御陵に睨まれてすぐに目を逸らした。何同じ事しようとしてるの、と刺々しい幻聴が脳裏を掠める。


 それでも今ので少し手が外れた。その一瞬で二人は扉を閉めかけたらしい。ビニール紐が下にたわんでいる。

 再度感染者の手が掛けられるのに、俺は銃を構えた。隙間から頭を当てられはしないだろう。でも手さえ外れたら、扉を閉められたら。

 扉には間違っても当ててはいけない。その衝撃が扉を抑え込む二人の負担になったら嫌だし、跳弾のリスクは冒せない。


 もどかしい気持ちを押さえ込んで揺れ動く扉の隙間を狙おうとした時、瞼の上で光がチラついた。

 え、と見上げたその先では、炎とも言えない、小さな火が踊っていた。

 



 目に明るい炎が舐めるように手元へ向かう。その熱さに離せ、離せと頭が警鐘を鳴らすのに、私は奥歯を噛み締めて耐える。

 扉を抑える感染者の忌々しい手に、それを叩きつけた。ぱっと舞った火の粉が落ちる。


 タオルにガソリンを染み込ませ火を付けたそれは、もちろん感染者を燃やすには至らない。


 けれど。


 火に触れた感染者の手が幾つかぱっと引っ込むのを見て確信する。彼らは反射神経が生きている。

 急に熱いものに触れれば人は反射的に手を引っ込める。いつだったか、白樺さんが塩が目に入った感染者は涙を流していたと言った。

  つまり感染者は体の機能を完全に失ってはいない。"扉を開ける行為"が体の機能とは言えないけれど、感染者の行為を思い返していたら、ふと考えついた事だった。


 でも火が当たっても手を引っ込めず扉に齧り付く感染者は居るようで、私は唇を噛む。

 まだ扉を閉めるには至っていない。

「っ……」

 けれど限界だった。火に直接触れてはいないものの、手の甲が焼けるように熱いし痛い。

  

「もうちょっとよ!」

 蛍さんの声に少しだけほっとする。やった事は無駄じゃなかった。急いでタオルを引き上げ、踏みつけて火をもみ消す。手がぶるぶると震えていた。

「三ノ輪、バール!」

 金井さんが下にバールを放り投げた。下にいる三ノ輪さんがそれを危なげなくキャッチして、残る手に向かって振り下ろす。もう扉の前に出ても大丈夫なくらいなのだ。


 湿った音が感染者の咆哮に混じって聞こえてくる。私はその場にへたりこんだ。

 誰も死んでいない。誰も怪我していない。


 やがて、バタン! と大きな音を立てて扉が閉まった。続いて蛍さんと坂本さんが地面に仰向けに倒れる。二人とも肩で呼吸をしていた。どちらにも血の色はついていない。


 私は長く、長く息を吐いた。それを掻き消すような感染者のくぐもった咆哮と扉を叩く音。けれどその中にドアノブを回す音は無い。

 これでひとまず、脅威は去ったのだ。

 安心すると、左手が猛烈に痛くなってきた。ヒリヒリと言うよりは、ずっとビリビリと響くような痛みだった。見れば指の第一関節は赤くテラテラとしていて、周りには既に水膨れができている。

 見なければ良かった、と私は呻く。指はもうまんじりとも動かせない。

「海音ちゃん手が」

「おいっ、大丈夫か、バカ!」

「こんなん大丈夫じゃないでしょ!」

 海麗ちゃんがうろたえたのと同時、三ノ輪さんが何故か罵倒と一緒にこちらへ登ってきた。金井さんが焦った様子で返しながらリュックを引き寄せる。

 私は左手首を強く押しながら、もし手が動かなくなったらどうしようかと、今更怖くなっていた。さっきは必死で、そんな事微塵も考えなかった。

 痛い、怖い。こんな火傷をするのは初めてで、段々と気が動転してくる。人間は少しずつ混乱する事もあるらしい。

「あ、どうしよう、私……」

「お前な! 金井、水出せ水」

「はい!」

 手渡されたペットボトルの中身を、三ノ輪さんは何の躊躇いもなく私の手にぶちまける。噛み殺す間もなく自分の口から悲鳴が洩れた。

 こんな時に大声を出すだなんて、と自責も束の間、口元が柔らかい手で覆われた。海麗ちゃんだ。彼女はそのまま私にくっついてぎゅっと右手を握ってくれた。申し訳なさそうな彼女に、もう声を出すまいと唇を結ぶ。

 それでも息が荒くなるのはどうしようもなかった。


 ペットボトル一本を使って三ノ輪さんが火傷を冷やしてくれたけれど、正直あまり意味は無いようだった。

 私は痛みの余韻に耐えながら少しずつ息を整えた。

「痛がってて安心したよ。神経まではいってなさそうだな」

「……はい。多分、動かせそうです」

 三ノ輪さんが空を見上げてはーと息を吐く。

 空は少し白み始めていた。夜明けの、少し前の色だ。

 しばらくぼんやりしていると、痛みに紛れるように眠気がやってきた。痛みと眠気の綱引きに気持ちが萎える。少しでも傷に何か触れれば起きてしまうから、足首の傷がある時は眠るのも憂鬱だった。

 私はのろのろと体を動かし、下を覗き込んだ。

 蛍さんは仰向けに倒れて、手を額に当てていた。眠っているようで、胸がゆっくりと上下しているのが見てとれた。そのすぐ側では坂本さんがレインコートを脱いで、タオルを雑に外している。

 私はちょっと苦笑した。やっぱりやり過ぎただろうか。


「戸倉さん」

 白樺さんの声に顔を向ける。誤たず例の感染者を撃った彼も、怪我は無さそうだ。彼の顔を見た途端、少し力が抜けた。

「白樺さん。ありがとうございます」

 お礼を言うと、彼は束の間ぽかんとした後、目を細めた。

「武仁にも言ったげて。……それに戸倉さんも、ありがと。火傷、しちゃったよね」

 眉を下げる白樺さんに首を振る。夢中でやった事だし、いつかは治る。

「……ジェイドさんに叱られる時、一緒に居てくれませんか」

 ふざけて言うと、白樺さんが吹き出した。

「だいぶ怒られそうだもんね、良いよ」

 彼の目が薄暮にも明るくて随分と気持ちが楽になった。左手はまだ痛いけれど、不安は僅かに和らぐ。

「海音ちゃん、降りれそう?」

 海麗ちゃんに肩を叩かれる。白樺さんと話している間に荷物を下ろしてくれていたらしい。私は頷いて、彼女の後に続いてはしごを降りる。片手で降りるのは難しいけれど、はしごは短いし、地面も近いから何とか降りられた。


 三ノ輪さんが降りると、蛍さんがのそりと起き上がった。完全に眠っていた訳ではないらしい。首を傾けコキコキと鳴らす。

「やーっと終わったわねぇ」

 三ノ輪さんがそれに頷いた。

「あとは救助が来てくれれば」

 私は先程よりも明るくなった空に目をやる。救助が来ると言われた時間まで、あともう少しだ。

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