重なる危機 2
蛍さんと三ノ輪さんに助けてもらいながら小さなハシゴを登る。冷えた体を持ち上げるのには苦労したけれど、さっきよりかは動きやすくなっていた。
海麗ちゃんはするすると登って蛍さんから荷物を受け取っている。
「少しは食っとけよ。良いな?」
先に登って手を貸してくれた三ノ輪さんに釘を刺された私は渋々頷いた。今はそんな状況じゃないのに、と駄々をこねても、動けない私は一番のお荷物なのだ。動けるくらいには回復しないといけない。
「三ノ輪さん! ドアを開けれる奴が居る!」
白樺さんの言葉に、私はハッと下を見やる。八木さんが必死で抑え込んでいるのはドアノブだ。
「降りるぞ!」
三ノ輪さんがもどかしいように飛び降りた。
私は俯いて思考を巡らせる。
扉を開けられる感染者が居る。扉を理解しているのか、生前の記憶に拠るのか。
前者は犬や猫のように扉の開け方を理解したと言うのなら、知恵をつけたと言うのなら、それはこれから先、感染者を倒しにくくなるだろう。
生前の行動を惰性のように繰り返しているのなら、他にも行動を繰り返す感染者を見つければ良い話で、対処も前者よりはやりやすい筈だ。
けれどどちらにせよ、私達にとって脅威なのは変わらない。
「海音ちゃん、食べて?」
私ははっと我にかえって、海麗ちゃんを見た。そういえば栄養バーを握りしめたままだ。
「う、うん……」
考えている間はましだったけれど、体はまだ冷えてだるい。お腹は空いていないけど、栄養バーをかじり、何とか飲み込んだ。
咀嚼しながら私は白樺さん達の会話に耳を澄ませた。置いていかれてはいけない。
どうやら扉を開けられる感染者をどうにか倒せないか、という話らしい。ずっと扉を抑えておくのも限界があるだろうと。
ドアノブが揺らされる音はここまで届いている。この真下には感染者が蠢いているのだ。ぞわぞわと腹の底が縮まる感覚。
吐き出しそうになるのを堪え、栄養バーを食べ終えた私は、手を握ったり開いたりを繰り返す。
扉はいつまた開くか分からず、私は十分には動けない。
「海麗ちゃん、銃を使えるようにしておこう」
自分には何が出来るか考えても、多くは思いつかない。だから確実に彼らのフォローに回りたい。
「そうだね」
海麗ちゃんが頷く。彼女は迷う様子もなく八木さんのリュックを取った。荷物を受け取っていた彼女はどこに銃があるか把握しているらしい。
私は八木さんのリュックを見てちょっと目を伏せた。彼のリュックは防水加工がしてあって、私は白樺さんから傘を受け取ったのだ。
わざわざ銃を防水加工のリュックに入れて、私が雨に濡れないように。
でも今は泣きそうになっている場合じゃない。深く考えれば涙が出そうな胸の塞ぎを、大きく息を吸って取り払う。
海麗ちゃんとリュックを覗き込むと、タオルでしっかりとくるまれたトランシーバーが見えた。外に出ている人からしか連絡をとらないようにと言い含められているものの、何が起こるか分からないから音が出るトランシーバーは大抵タオルに包んであるのだ。
「あれ、トランシーバー鳴ってる?」
「え?」
海麗ちゃんが首を傾げたので、慌ててタオルを広げる。
『――に、来る。定員七名だが無理にでも乗れ』
どっと心臓の音が速まった。ジェイドさんの声だ。少し聞き取れた部分から悪い報せでは無いのだろう。
プツリと連絡が途絶えたのを見計らい、私は通信ボタンを押した。
「戸倉です。もう一度、内容を教えてください」
簡潔に、簡潔にと心の中で唱える。下ではいつ感染者に押し負けるかも知れない。
海麗ちゃんがそうっと銃を取り出すのに頷く。
『五時から六時、日の出に自衛隊のヘリが飛ぶ。定員七名だがごねて全員乗れ』
私は微かに口を開く。電話でもないのにその場で相槌を打ちそうになったからだ。海麗ちゃんの方からも気にしているような、期待するような雰囲気。予想外の助けに縋る他ない。
『こちらは無事、――大丈夫か』
案じる声は、無線越しでも優しかった。その声に何故か涙腺が緩みそうになる。ぐっと目に力を込めて私は答えた。
「……誰も怪我してません」
大丈夫、とは言えない状況。でも大変ですとも彼には言えない。
「ジェイドさん達は先に乗るんですか?」
カチャリと銃を扱う音。海麗ちゃんが銃の調子を見てくれているのだ。
『後先は分からない。海音達が先なら俺達がいる事を伝えてくれ。無事で会おう』
「はい、必ず」
通信を終えた私はトランシーバーを再度タオルでくるむ。
体の中にあっただるさは、随分とましになった。
「……海音ちゃん」
「うん、助けが来るって」
海麗ちゃんが笑っていいのか分からない様子で口の端を持ち上げた。
「耐えないとだね」
手放しで喜べない彼女に、私は軽く頷いてみせる。リュックにつけた腕時計は三時過ぎを指している。五時から六時、最低二時間は持ち堪えなくてはならない。
私は身を乗り出し、三ノ輪さんに呼びかけた。
「三ノ輪さん、ジェイドさんから通信がありました」
「内容は?」
見上げる彼にジェイドさんから聞いた事を繰り返した。言い終えると彼は顎に手をあてる。
「五時から六時か」
「三ノ輪さん、全員上で待つ事はできませんか」
感染者がなだれ込んできても二時間後には救助が来ると考えれば精神的にも耐えられる。上からなら頭も狙いやすいはずだ。そう思い口にしたけれど、彼は難しい表情を崩さなかった。
「それで救助が断念される可能性は無いか」
そうか、と私はぐっと眉を寄せる。感染者で溢れかえる屋上に、狭いスペースに居る生存者。ヘリからなら余計に救助しにくいだろう。ハシゴか何かを垂らすなら、私ならそこから感染者が伝って来ないかも警戒する。
ドアノブはまだ、大きな音を立てて動いていて、抑える役目は八木さんから金井さんに変わっていた。白樺さんと蛍さんはその後方で武器を構えている。
二時間以上集中と緊張を切らさずに居続けるのは、辛いだろう。
「やっぱり……扉の開けられる感染者を倒した方が良いんでしょうか」
確実な救助を期待するため。それが望めなくとも安全を確保するために。
けれどどうすればその感染者を倒せるかが分からない。
思考を巡らせようとした時、坂本さんがハシゴを登って顔を出した。
「そっち、行っていい?」
顔色の悪い彼に眉を曇らせた。扉を開けられ、間近に感染者の恐怖に晒された彼の気持ちは良く分かる。
「はい。……大丈夫ですか」
地面に手をつく彼の体は震えていた。なのに登りきった彼はそれでも笑う。
「大丈夫にする」
気にかかってじっと見つめていると、不意に下から名前を呼ばれた。
「俺のリュックからビニール紐取ってくれ。気休め程度だろうが扉を固定する」
私は頷いて彼のリュックからまとめられたビニール紐を取り出す。食料をまとめるために持っていた物だ。彼は手際良くそれをドアノブとハシゴに括り付ける。
それを見ていると、後ろで坂本さんが声を上げた。
「……あ、そうだ」
先程よりは明るい声。良い事を思い出したと言わんばかりの。
振り返れば、坂本さんはペットボトルを手に持っていた。中身はオレンジがかっていて、飲み物には見えない。
「それ、何ですか?」
首を傾げると、彼は少し興奮したように言う。
「ガソリンだよ。この前火炎瓶を見たから、とりあえず持ってきてみた。これ投げ込めば何とかなるんじゃないかな」
早口でまくし立てる彼に私は閉口する。確かにそれで上手く感染者が燃え上がれば、少なくとも扉が開けられる心配は無くなる。
けれど危険だ。建物全体に火が回るような事があるかもしれないうえ、その時に屋上なら大丈夫だという確信は無い。
「……ねぇ、銃の準備、出来たよ」
海麗ちゃんの声にほっと肩の力を抜く。彼女に頷いて、私は坂本さんの持つペットボトルへ目を向けた。
「とりあえず皆に相談してみましょう」
私はまた身を乗り出し、ビニール紐での固定を終えたらしい三ノ輪さんへ声を掛ける。
まずは弾を詰めてすぐ撃てる状態の銃を手渡し、それからガソリンがある事を伝えた。
それを聞いた彼は顔を曇らせ、思案顔になる。
「確かに燃やせば何とかなるだろうけどなぁ」
ガソリンを、火を使っても一歩間違えれば私達は焼け死んでしまうか、感染者に食われるかになってしまう。
「……扉を開ける感染者を倒せるか、その後扉を閉め切れるかだよな」
呟く三ノ輪さんに、坂本さんがさっきよりかは落ち着いた調子で口を開く。
「扉開けれる奴ってすぐには出てこれないですよね? なら足止めできれば何とかならないすか」
「足止めったってどうするんだ」
三ノ輪さんの口調に厳しさはない。ないけれど、坂本さんに具体的な案は無かったらしく口ごもる。
私は三ノ輪さんの足元を見て、何となくの思いつきを話してみる。
「ビニール紐を使うのはどうでしょう。足の位置なら入口で多少は詰まると思います」
そこまでの強度は期待できないけれど、なりふり構わず突っ込んでくる感染者ならそのまま転ぶ。ただ転んだ後にまた感染者が殺到するだろうから、言うだに欠点のある思いつきだった。
「そうだな、多少は……」
何の打開策にもならないそれに、三ノ輪さんも歯切れの悪い返しだ。
沈黙が降りそうになったタイミングで坂本さんが口を開く。
「そんで言ってるゾンビが出てきたら閉められれば良いんですよね?」
私は隣に居る坂本さんをちらりと見た。真剣な彼の表情に意味もなく手を握り締める。
扉を閉める方法を考えると、どうしても落ち着かなくなった。
だって誰かが扉を閉めるしか方法は。
「――オレが閉めましょうか」
私は微かに目を見開く。それから彼の顔を見ていられなくなって、たまらず視線を落とした。
そんなつもりは無かった。そんなつもりは無かったけれど、私がやりますと手をあげる事も出来なかった。
坂本さんは明るい声で尚も続ける。
「いけますよ。オレ、けっこう力強いし」
ぐっと彼が拳を握る。扉を叩く音と感染者の唸り声が、耳に迫るようだった。
三ノ輪さんが一つ瞬きをして、重そうに口を開く。
「……分かった。頼む」
それから私達は話し合いを重ねる。見張りや扉を抑える役を交代しつつ、準備を進めた。
「坂本さん、これも」
真新しい軍手を彼に差し出す。
「えぇ……大丈夫だって。それに軍手が滑ったらヤバいでしょ」
坂本さんが苦笑する。それに私は首を振った。
「滑り止めがあるから大丈夫です。心配なら軍手の指先だけ切りましょうか」
手の甲でも噛みつかれたらお終いだ。肉と認識されなければ感染者も噛まないのかもしれないのだから、とにかく肌の露出を抑えたい。有無を言わさず指先の部分だけをナイフで切り、彼に手渡す。
「あっても無くても変わらないでしょ」
笑いながら言うから、私は彼の目をじっと見つめた。
先程から坂本さんの噛まれる箇所を少しでも少なくしようとしているけれど、本人は大袈裟と感じるのか、柔らかく拒否される事がある。
死ぬつもりなのか。もう覚悟が決まっているのか。だから何をしても無駄だと思ってしまうのだろうか。
彼が拒否する度、聞けないけれど、粘土のように重い感覚が喉の奥に落ちる。
視線を外し、私はリュックからヘアゴムを取り出した。坂本さんの腕には二つに裂いたタオルを、肘を除いて巻き付けてある。そこからさらにレインコートを着てもらったから、そうずれる事はないだろう。
でも念には念を入れて、私は彼のレインコートの袖をヘアゴムで留める。
「めちゃくちゃ暑い」
首にも頭にもタオルを巻いている彼の目がらんらんと光っている。本当に暑そうだった。
「我慢してください」
「ていうかオレ今すごいダサいでしょ」
「そんな事ないですよ」
私は彼にも生きていてほしいから、ここまでしているのだ。坂本さんはこうして自警団の居たデパートから脱出した時点で、ある程度の信用は出来る人だ。私達が調達に混ざると聞いて嫌な顔もせず、明るく接してくれた。
「あとは……」
「まだやるの!?」
坂本さんが小さく笑う。それがまるで、自分がどれだけ危険な事をするのかが分かっていないみたいに見えて、私は一瞬眉を顰める。
私は微かに息を吐いて、笑みを浮かべた。
「まだやります。でもこれだけですから」
リュックから取り出したのは透明な保護メガネだ。感染者の血液が目に入らないようにと、一応持たされている。普段は使わないけれど、感染者に囲まれるくらいになるだろう坂本さんには絶対に必要だ。
「はいはい」
素直にメガネをかけた坂本さんがニコリと笑う。
「準備万端だね」
軽い調子で言う彼に、私は力強く頷いた。




