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赤眼ゾンビ  作者: 海月
第二章
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袋の鼠

 私の前に飛び出た海麗ちゃんは、最初ビルの壁に突進したように見えた。

 その勢いによろけるように後ずさる。ぐっと誰かに腕を引かれ、何とか転ばずに耐える。

 けれど振り返る余裕もない。

 鈍い音を立ててビルの壁に打ち付けられたのは――子どもの、感染者だったのだ。

 いったいどこから出てきたのかと混乱するのも束の間、海麗ちゃんが間髪入れずにその小さな頭にシャベルを振り下ろす。壁面に細かい血が飛び散った。

 深く沈み込んだ海麗ちゃんの背を見ながら、私は呆気にとられていた。


 咄嗟に動けた事はもちろん、彼女の動きはあまりにも身軽で、俊敏だった。突然の事に私の目がついて行かなかっただけなのかもしれないけれど、前に出た彼女を追うように動けた人は居なかった。


 彼女は肩を忙しなく上下させながら立ち上がった。


「危なかった、ね」

 上から降ってきた声に振り返る。

「……坂本さん」

 どうやら支えてくれたのは彼だったらしい。

 その彼の言葉に、すっと胸が冷える。

 子どもの感染者が、恐らくこのビルから飛び降りたのだ。私達目掛けて。もし海麗ちゃんが動かなかったら、今頃私は感染者に飛びつかれ、噛まれていた。


 坂本さんが手を離す。籠った熱が外へ逃げる感覚。


「大丈夫か」

 振り返った三ノ輪さんに、私達はバラバラと頷く。彼は海麗ちゃんを見て何か言いたげだったけれど、ふと眉を顰めた。首をめぐらせ、空を見上げる。


 そうだ、私も何かが聞こえて、曇天へ目を向けたのだ。

 全員が音に気づいたのか、しばらく誰も声を発さない。

 風を切る低音。以前にも聞く事はあった、おそらくヘリコプターのプロペラの音だ。先程よりも近くなっている。


「ヘリかな?」

「もしかして助けが」

 金井さんが確認するように言うと、坂本さんがぱっと顔を明るくさせた。けれど三ノ輪さんの顔は晴れない。

「なら気づいてもらう必要があるな。ビルに居る奴らが気づいてくれたら良いんだが」

「でもこのチャンス逃したくないよ」

 白樺さんの声には焦りが滲んでいた。話している間にもヘリの音は近づいてきている。


 けれど気づいてもらうために今この場でアピールをする訳にはいかなかった。不用意に音は出せない。光で気づいてもらうにしても、警戒は怠れない。


「……このビルの屋上に登るのは」

 おずおずと発言すると、三ノ輪さんは今しがた海麗ちゃんが倒した感染者を一瞥する。

「そうだな……」

 やっぱり難しいか、と三ノ輪さんの渋面を見て思う。ビルは三階建てで、感染者が屋上から落ちてきたのなら、屋上に出られる可能性があったから言ってみたけれど、やはり先に立つのは感染者も数が居る可能性だ。


「賭け、みたいなとこはあるけど。でもとりあえず中覗いてみようぜ」

 金井さんが顎をあおる。とりあえず見える窓からは、動く影は見当たらない。


「……そうするか」

 三ノ輪さんが思案顔ながら頷く。決めかねてはいるようだが、他に登れそうな所を探すのにも時間がかかる。



 ビルの表に回ると、一面はガラス張りだった。どうやら一番下は美容室だったようだ。

 扉は木製で、斜めから向こう側を覗き込んでみると、そのすぐ前に私の腰までの高さの本棚が置かれていた。誰かが籠城していたのだろうか。

 三ノ輪さんが鍵が掛かっているらしいことを確かめる。

「周り見ててくれ」

 三ノ輪さんがリュックを下ろし、中からガムテープを取り出す。ガラスを破って内側から鍵を開けるつもりだろう。

 私は周りへと目を向ける。遠くに感染者がふらついているようだけど、気づかれる範囲じゃない。

 ビッと背後でガムテープを剥がす音。それが四、五回続いた後、彼はコツコツと慎重にガラスを叩く。


 ヘリがかなり近づいてきている。けれどお陰でガラスを割る音が紛れ、感染者が近づいてくる気配は無かった。

 本棚もそこまで重い物ではなかったのか、三ノ輪さんが力を込めて押していけば、人が通れる隙間が簡単に開く。


「下は何も居ないな」

 八木さんが呟く。とりあえず全員室内に入り、バリケードをどかした。

「白樺、金井。俺たちは上まで行って感染者居ないか確かめる」

「分かった」

 白樺さんが頷く。彼は銃を一旦しまって、ナイフに持ち替えた。

「俺達は見張りだな」

「安全だったら俺呼びに来るよ、八木さん」

 ヘリの音は室内に居ても急かすように響いてくる。押されるように会話した後、三ノ輪さん達は、右奥にある階段を駆け登る。

 残された私達はドアだけを閉め、並ぶ椅子や、様々な道具を載せたワゴンの裏に身を潜めた。私も階段に近い椅子の裏にしゃがみ込む。

 完全に体が隠れずとも、派手に動きさえしなければ感染者は通り過ぎるはずだ。


 身動ぎもせず白樺さんが来るまでじっと待っていると、ヘリの音のせいで他の人の息遣いさえ聞こえない時がある。


 その度にふと、独りになってしまったようで、恐ろしくなった。少し横を向けば海麗ちゃんが居るのに、胸の底をざらりと不安が撫でるのだ。


 数分は経ったか、ヘリの音も随分と大きくなった。もどかしさを感じ始めた時、パン! とヘリに負けない発砲音が耳朶を打った。

 

 思わず天井を見上げる。銃を持っていたのは白樺さんで、けれど彼はナイフに持ち替えていた。

 どうして銃を使う事になったのか、考えるとうなじが総毛立つ。


 感染者が居たのだろう。それもナイフでは対応し切れない数で。

  

 後ろから金属が床を擦る音がして振り返れば、蛍さんが体勢を変えたようだった。彼も動いた私に気づいたのか、椅子の裏から少し顔を出す。

 階段へちらりと目線をやると、蛍さんが唇を結んで小さく頷いた。やはり彼にも聞こえたらしい。


 けれど銃声はあの一度だけだ。先に行った三人が切羽詰まっているかどうかまで判断できない。

 アイコンタクトが取れた蛍さんと二人で上階を窺う。耳を澄ませてみれば、慌ただしい足音が聞こえるようだ。


 少ししてまた銃声だ。集中して聞いていた私の耳には大きく響く。

 視界の端でちらりと手が動いた。蛍さんを見ると、階段を指さしていた。もう片方の手は既にバットを持ち上げている。


 上階へ行くつもりだ。

 私が膝をついていた足を入れ替えると、彼は首を振った。手のひらをこちらに向け、口を動かす。

 待っていて、とはっきり示された私は、渋々ながらも頷いた。


 彼が素早く外を見て立ち上がる。その瞬間、ふ、とヘリの音が遠くなった。

 進路を変えたのだろうか。けれど今は上階に居る白樺さん達の安否だ。

 落ち着かない気持ちで上階へ走る蛍さんを見送る。


 不安を持て余しながら再度椅子の裏に頭を引っ込めたその時、建物を揺らすような轟音が響いた。あまりの音の大きさに首を縮める。

「何だよ今の!?」

 八木さんの声に立ち上がる。流石にじっとはしていられない。不安げな海麗ちゃんと目が合う。

 部屋の奥の方へ身を寄せつつ、思い返すのは奇妙に音が遠くなった一瞬だ。

「ヘリが墜ちた……?」

 言葉は勝手に滑り落ちた。

 突然に遠くなったヘリの音と違和感。あれは墜落の寸前だったのかもしれない。

 小さなつぶやきだったのに聞き留めたのか、坂本さんが身を乗り出して何か言いかける。


 けれどそれを遮ったのは、ガラスを震わせる程の爆発音だった。思わず耳を塞ぐ。

 次いで八木さんが目を大きく見開き、私の肩を扉の方へ駆け出した。追うように振り返って、私もはっとする。


 この音で感染者が動かない訳がない。


「上に!」

 私は叫んで手近な椅子を引きずる。感染者は既に私達に気づき、唸り声を上げてガラスを叩いていた。脆いガラスの打たれる音に鼓動が早くなる。

 一体、二体と、どこにそんな数が居たのかと恐ろしくなる程、次々に感染者が集まってくる。

 裂けた肉、剥き出しの真っ赤な筋肉。どれもがどろどろに腐って粘着質だ。


 ずらした棚で再度扉を塞いだ八木さんが入れ替わり椅子を持って私の反対側に置いた。

 振り返ると、坂本さんが海麗ちゃんを階段へと急き立てているところだった。


 私は渾身の力を込めて椅子を引きずる。最初に置いた椅子の上へとくの字に引っ掛けて、バリケードを高くするつもりだった。


 椅子を転がすように倒し、雑にその頭を座面へもたせ掛ける。――ピシリと、嫌な音がした。


 三ノ輪さんが鍵を開ける為に割った箇所のヒビが、大きくなったのだ。


「八木さん! ガラスがもう!」 


 急いで椅子を取り、また引きずる。もう腕に力が入らない。握力を頼みに体の重心を前へ傾けて椅子を運ぶ。

 しゃがんで椅子を支える支柱を逆手に持ち、その重みを体に預ける。

 顔を上げると、容赦なくガラスを叩く感染者達が見えた。

 血混じりの涎がガラスに付いては垂れる。感染者は私を食べたくて堪らない様子でガラスを引っ掻き、口を開けていた。


 胃が竦むような、その光景。肩が嫌でも強ばる。


 けれどどうにか硬直を振り払ってぐいっと椅子をひっくり返す。

 顎を上げ、何とか椅子を持ち上げようとしていると、横から手が伸びてきた。

 八木さんが支柱と椅子の曲がった部分を持ち、引き上げる。それだけで随分と軽くなった。

 二人で椅子を重ねた直後、ガラスに大きくヒビが入った。白く濁って、感染者の姿が歪む。


 ――この数の感染者が一気になだれ込んできたら。


「立て!」 

 八木さんに肘を掴まれ立たされる。そうだ、想像して固まっている場合じゃない。

 階段へと駆け出すと、丁度下りてきた白樺さんとかち合う。


「二人とも早く早く!」

 白樺さんが前方へと目を向けたまま私の背を押す。遂にガラスの砕け散る音とかき消すような感染者の咆哮。

 もつれそうになる足を必死に動かし、二段飛ばしに階段を登る。必死の呼吸の間に思い浮かぶのは、噛み付かれた不知火さんの悲鳴だった。

「早くしろ!」

 これ以上無いくらいに足を動かしているというのに、八木さんが背を押す。感染者の声は無慈悲に近づいてきていた。

 ふくらはぎが重く、張ったように感じる頃には、三階分上がったらしい。目の前には坂本さんが居て、扉を開けて待ってくれていた。彼の顔にある焦りと、背後の咆哮が、へたりこみそうになる足を叱咤する。


 屋上に出て曇天の鈍い光を見た途端、ふっと足から力が抜けた。

「海音ちゃん!」

 海麗ちゃんの支えで一歩二歩と進み、重いドアの閉まる音に膝をついた。

 自分の荒い息が耳元で聞こえる。心臓が破裂しそうなくらい早鐘を打っていた。


 息が吸えない。必死に吐き出し、少しだけ吸う。

 それを幾度か繰り返し、なんとか落ち着いて振り返る。扉の傍には三ノ輪さんと坂本さんが居て、坂本さんがドアノブを押さえ込んでいた。扉は外開きだから、とりあえず目の前の物を叩く感染者には開けられないはずだ。

「もう大丈夫だよ」

 海麗ちゃんの声に頷く。どっと顔が熱くなる。

 額の汗を拭い、頼りない手でリュックからペットボトルを引っ張り出す。飲み干したくなる衝動をぐっと堪え、一口含んで、ゆっくり飲み込んだ。


 息を吐き、ふっと緊張が緩んだその瞬間に涙が転がり落ちて、目を見開く。

「海音ちゃん!?」

 慌てる彼女を横目に、私は瞬く。どうして泣いているのか分からない。現に、一度瞬きをすれば、涙はパタリと止んだ。濡れた頬を袖口で雑に拭う。


「……大丈夫。白樺さん、」

 追いつかない感情を探すのを諦め、口を開く。

「へーき、へーき」

 彼がひらひらと手を振る。息は荒いけれど、本当に私よりも平気そうだ。八木さんはもう立ち上がって、三ノ輪さんと話している。


「海麗ちゃんは、大丈夫だった?」

「うん。三階に何体かあいつらが居たみたいなんだけど、もう全部倒した後だったから」

 やはり、居ないというのを信じるのは無理だったらしい。見た所誰も怪我をしていない事だけが救いだ。

 海麗ちゃんの返事を聞いた私はほっと息をつく。

 漸く呼吸も落ち着いてきたところに、後ろにいた蛍さんが口を開く。

「海音ちゃん、立てそうかしら?」

 腰を屈めた蛍さんに、私は頷いた。いつの間にか白樺さんも立って三ノ輪さん達と話し込んでいる。


 私が動いた事に一番に気づいた三ノ輪さんが、私達へ視線を移す。

 それから微かに眉を寄せ、押し出すように彼は言った。


「俺達はここから出られない。……袋の鼠だ」  

 

 

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