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赤眼ゾンビ  作者: 海月
第一章
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出発

 絶え間なく漂う悪臭に、小さく呻く。

 マスクで口元を覆っているだけましなのかもしれないけれど、それでも顔を顰めてしまう程度には、その臭いは強く鼻を刺激していた。

 

 研究所を目指すことにしてから、だいぶ経つ今日。

 何度も道順を吟味して、やっと決まったルートは、直線とはほど遠い。あまりに感染者が多い場合は、山を越える必要もあり、ルートはいくつも用意してある。

 

 午前中いっぱい歩いて、やっと道のりの半分の半分といった所か。

 体力的にまだ問題無いとはいえ、否が応でも臭ってくる生ごみのような、つんとくる臭いと、いつ出会うか分からない感染者への警戒で、正直精神的には参ってしまう。

 それも、ジェイドさんの言う通り、街を出た辺りから感染者の数は目に見えて増えていた。本当に私達の居た街は少なすぎたくらいなのだと思い知らされる。

 

 私たちが潜んでいる場所は、商店街、お店とお店の間にある路地だ。

 ちらりと右を覗けば先に感染者が二人。どちらも足は健在だ。左にはどこから来たのか、一人ふらふらとさ迷っている。

 もう一本向こうの広い道があるのだが、そこは感染者が片手と少し居て、進めそうにない。

 その点、商店街なら広いうえに感染者は少なく、私達が今居るような路地が多いため比較的撒きやすい。さらに続いている道もかなり人影が少なかった。

 さっき話し合った作戦を頭のなかで反芻する。

 まず白樺さんが先の二人に対して囮になる。同時にジェイドさんが感染者を一人倒して、白樺さんはもう片方を迎え撃つ形をとる。

 私の役割は、ジェイドさんが出た時に左の方にいる感染者を倒すこと。

 

 きゅ、と手の内のナイフを握りしめれば少し汗ばんでいる。

 思い返すのはあの時。走り来る感染者を、一突きした。

 白樺さんを守らなくてはという思いで動いていたようなものだから、実は良く覚えていない。

 目を刺すような鮮烈な赤を思い出して、一つ肩が震えた。

 

「海音! 行くぞ!」

 

 いつか見た夢にまで意識が飛びそうになって、でもジェイドさんに背を軽く叩かれることで我にかえった。

 強ばる体を叱咤してどうにか駆け出す。

 ジェイドさんに気づいた感染者は既に、上半身の伴っていない、不自然な走りで地を蹴っていた。

 よく見れば、腹周りの肉は食いちぎられ、内腑が飛び出している。今にも零れ落ちそうだけど、感染者に痛覚も無ければ恐怖も無い。

 臆することなく向かってくる様は、こちらの息を止めるには十分な異様だった。

 

「っ……!」

 

 思わず瞑ってしまった目を、猫に追い詰められた鼠の必死さでこじ開けた。

 眼前に迫るは血濡れた歯茎と腐りきった肌。

 咄嗟に突き出したナイフは喉に刺さった。

 かつ、と骨に当たる感触はそのままに、横に振った。

 感染者の頭が九十度後ろに折れ曲がる。

 骨まで断ち切れたのは、高齢の、密度の低い骨だったかららしい。

 噛み損ねた歯がかち合うのを聞きながら、足を払って転ばせる。

 倒れ込んでくるのを、大げさなくらい後退り避けてから。

 しゃがむ勢いをつけて頭を刺した。

 卵の殻のように。

 頭蓋骨が割れる音とは気づけなかった。

 

 マスク越しの呼吸が辛い。

 雑に外せば、腐臭が喉を通して臭うが、確かに呼吸が楽になった。

 これで二回目。

 ナイフを引き抜くのは前より簡単だ。

 

 二人の方はどうだろうと顔を向ける。

 地面に倒れる影は二つ。そのそばでは嘔吐する白樺さんを介抱するジェイドさんが。

 

「大丈夫ですか……?」

 青い顔をしている白樺さんはきつく目を閉じている。

 手は震えて、でもナイフは離さない。

 けれど、それの刃は一滴の血も吸っていないようだった。

 私の視線に気づいたんだろう、ジェイドさんは何も言わずに感染者の一方を示す。

 制服姿の、体格からして高校生くらいの。

 汚れるのも構わず、うつ伏せのそれを仰向ける。

 襟に灰色の、独特のラインが施された____白樺さんと同じ制服だ。

 

「…………違うよ。自警団の友達じゃない」

 

 吐き気は収まったのか、ゆるゆると首を振って彼は否定した。

 それでも顔色は悪く、泣きそうに歪んでいた。

「でも、同級生だ。……同級生だった」

 彼になんと声をかければ良いのか。

 友達のように背を擦って慰めてあげたいけど。知り合ったのはほんの少し前であることが邪魔だ。

 助けを求めるようにジェイドさんを見やるが、表情を見て、息を呑んだ。

 瞳の底が、妙に暗く。そこには憐れみだとか、そういう同情の陰は全く無い。

 むしろ冷え冷えと、こがらしのような。

 彼が今何を考えているのか読み取れないのが、少し怖かった。

 

 出しかけた言葉を飲み込んで、結局は無言が落ちる。

 

 どうしようもなく気まずい雰囲気のなか、たった一つ胸にぽつんと浮かんだのは、もう戻れない、という、前々からわかっていた筈のことだった。

 不意に湧くこの気持ちは途方もなく重く、目の前が塗り潰されていくようで。

 これまでずっと一緒に生きてきた人達が居なくなるだけで、簡単に支えは無くなる。どう生きていけば良いのか分からなくなるのだ。

 一人、一生一人ぼっちで、私を記憶してくれている人は居ない。

 誰にも認識されずに、何も残せずに。

 

 燻る思考をかき消すように、深く息を吐いた。

 やはり気まずさは残るものの、ここでずっと留まっている訳にもいかない。

 ジェイドさんも多分、同じようなことを思ったんだろう。おもむろに地図を取り出して確認すると、口を開いた。


「白樺、今日はもう感染者を倒さなくていいから、着いてこい」

「そんな! 俺は平気だから! それに、んなことしたら二人に迷惑が」

 はっと顔を上げた白樺さんを、ジェイドさんは冷徹に見下ろした。

 

「……平気? そうやって見栄張って、さっきみたいになったらどうするんだ?」

 人を殺す覚悟ができないならやるな。

 

 最後にそう捨て置いて、ジェイドさんは背を向けた。

 ちらりと見えた横顔に苦悩が浮かんでいるのを、私は見逃さなかった。堪えるように寄せられた眉が痛々しくて、言い過ぎだろうと抗議をするのもはばかられた。

 

「行きましょう。置いてかれちゃいますよ」

 気遣う言葉も見当たらないものだから、私は気持ち明るく声をかける。

 白樺さんは応えるように笑って立ち上がる。

 笑ったといっても、力無い、乾いた笑みで、やはり私の中の気まずさは消えなかった。

 

 

 しばらく道なりに歩いていくと、地面に引きずられた血の跡のようなものが増えてきた。どれも、幅が広く、車のタイヤのようだ。

 散らばる肉片、見事に潰れた目玉や腕を踏まないようにしながら進めば、立ち上る黒煙が見えた。

 発生源はどす黒い血や、たくさんの傷で汚れた自動車だった。

 車で感染者を轢き殺してきたのだろうか。

 どうやら黒煙はエンジン部分から上がっているようで、心配になった私はジェイドさんに耳打ちをする。

 

「あれ、爆発とかしないんでしょうか」

「どうだろうな。エンジンが完全にやられているわけじゃなさそうだ。……ん」

 何か見つけたのかジェイドさんが目を眇めた。

 視線を追うが、特に感染者が飛び出してきたわけじゃないみたいで、私は内心首を傾げた。

「中に誰か居る。人間かどうか分からないが、どっちにしろ放っておいては進めないな。……海音、白樺を頼んだ」

 

 咄嗟に返事をすれば、ジェイドさんはすぐに車の方へ向かった。

 私はいつ感染者が来ても良いように、ナイフを握りなおす。

 ジェイドさんは車のドアに手をかけ、けれど歪んでいるのか、開かない。

 いつ炎上するか分からない。

 一番危ないのは彼なのに、喉が乾いてどうしようもなかった。

 私は唇を固く結ぶ。

 何かしたかった。けれどその何かでさえ分からない。

 結局、私に出来ることなど無いのだ。

 ナイフを握りしめて、私は自分の無能さに歯噛みする。

 

「あっ」

 

 黙っていた白樺さんが声を上げるのと同時、ガラスが割れるか細い音に被せるようにして、炎が踊り昇る不気味な音が低く耳に届いた。

 

 悲鳴を飲み込めたのはジェイドさんが熱風から身を守るようにしゃがんだのが見えたからだ。

 一段高く吹き上げた後、炎は少し勢いを弱める。

 その隙にジェイドさんは、中に居た人をさっき割ったんだろう窓から引っ張り出した。

 体格の良い人のようだが、一応歩くような素振りを見せていて、どうやらなんとか助かりそうだ。

 私はナイフを仕舞って、駆け出す。後ろから白樺さんもちゃんと着いてきていることを確認しながら。

 

 ジェイドさんが肩を貸しながらふらふらと歩いてくるのは筋肉質な男の人だった。

 顔は土気色をしていて、大量の脂汗をかいていた。手の甲にはガラスの破片が突き刺さり、額は切れているのか、片目に向かって血が垂れている。

 他にも怪我があるのかもしれない。

 手の甲の傷に触らないように注意しながら、体を支えるのを手伝う。

 ある程度車から離れた所で男性を慎重に座らせた。

 ジェイドさんは落ち着かせるように話しかけつつ、手に刺さったガラス片を抜こうとしているようだ。

「白樺、俺の荷物の中から手ぬぐいを出してくれ」

「分かった……止血?」

 ジェイドさんは小さく頷いて、血の飛び散ったガラス片に手をかけた。

 引き抜く音に、男性の呻き声が重なる。暴れてしまうかと思ったが、そんな気力も無いようで、声も辺りに響き渡るようなものじゃなかった。

 手際良く手ぬぐいを裂いて、処置を終わらせたジェイドさんはふっと息を吐く。

 前髪をうざったそうにかきあげる右手にふと目がいった。

 小指の方から甲へかけて皮膚が赤く、ぽつぽつと白く膨れている、火傷、みたいだ。

 けれど彼はそんな事を歯牙にもかけず、男性の傷を丹念に調べ、傷口を水で流したりと、淡々としていた。

 

 その姿が、妙にかっこよく、頼もしい。

 

 ……かっこいい?

 こんな状況で何を、と一つ頭を振って自分に呆れた。

 確かに男性の方が余程重症なのだろう。でも、自身の怪我を蔑ろにするのは、きっと良くない。火傷なら尚更、最初の手当てが重要なんじゃないか。

 男性の処置が終わり、立ち上がろうとする彼を引き止めれば、怪訝そうな顔でこちらに向き直った。


「手、火傷してますよね? 私の分の水で少し冷やしましょう」

「いや、これくらい。ちゃんと感染者は倒せるから。それに早く薬を探さないと」

 

 案外と頑固というか、自分のことは二の次のようだ。

 それでも、と食い下がろうとして、苦しそうな咳が聞こえた。

「ねえ、まずは水とか飲ませてあげた方がいいんじゃない」

 白樺さんが心配そうに窺いながら言う。さっきよりも呼吸は安定しているようだ。


「ああ、ならその間だけ冷やす、か」


 本当にしぶしぶといった様子で承諾するので、思わず苦笑が浮かんだ。

 

「何か食べられそうなら、柔らかいものとか」

 こういう時、食事というのは本当に大事で、お腹に何か入れるとほっとするから。

 

 それぞれペットボトルを取り出しながら会話をする。

「柔らかいもの? なんかあったかなあ」

 本気で考えているらしい彼に、少し意地悪な笑みが浮かぶのを自覚する。

「ほら、あるじゃないですか。例えば、」

 ぱき、とキャップを回し、なんとなくジェイドさんを見ると、微妙に口角が上がっていた。

 ああ、彼も知っているらしい。

 

「「桃の缶詰めとか」」

 

「ななななんでそれをっ!?」

 

 何でと言われても。

 

 ジェイドさんの手に水を掛けて冷やしていく。何かボウルみたいな容器があれば良かったんだけれど、生憎と持ってきていない。

 

「出発前の持ち物点検」

「二個ずつ並べれば気づかれないと思ったのに!!」

 しかも服の影に置いてたのにね。

 

 ジェイドさんの手が少し揺れたのは、彼が笑っているからだ。

 釣られて笑いながら、先の重い雰囲気が緩んでいくのが分かった。

 

 

 ボトル二本を使い切ったとき、男性の顔色も先程よりマシになり、なんとか支えだけで歩けるようになった。

 今度は私と白樺さんで支え、ジェイドさんが先導して進むことになった。

 身長差のせいで男性には少し無理を強いてしまうけれど、今確実に感染者を倒せるのはジェイドさんしか居ない。

 怪我人も居るし、初め予定していたマンションではなく、適当な一軒家で様子を見ようと決まった。

 

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