密かな選択
「白樺さん、私の事、そんなに気にしなくて良いんですよ」
彼にとっては、私は重い重い枷のようなものなのだろうし、それなのにこんなにも気に掛けてくれるのは、嬉しいけれどまた彼の負担になりそうで、少し嫌だった。
それにこうやって心配してくれるのは、私への負い目もあるからだろう。
もう許すとはっきり伝えたのに、私はまだ彼を苦しめているだろうか。
「え……」
そう思って言ったのに彼には伝わらなかったのか、彼は酷く動揺したようだった。
「白樺さんはたくさん私の事を心配してくれているみたいだから」
小首を傾げると、彼は落ち着きを取り戻すように息を吐いた。
「当たり前だよ。……仲間なんだから、心配くらいさせてよ」
友達ではなく、仲間という単語を選んだ白樺さんが、何だか急に大人びて見えた。
だって仲間と言われて妙に安心してしまった。対等に扱ってもらえている気がした。白樺さんは私に負い目があるから心配して、気に掛けてくれているんだろうなんて、そんなひねくれた考えをしてしまっていたけれど、そうじゃなかったのだ。
「じゃあ、私も白樺さんの事たくさん心配しますね。仲間だから」
私の言葉に目を丸くした彼は次いで小さく吹き出した。
「なあに、それ、嬉しいけどさぁ」
何がツボに入ったのか、彼は声を抑えてまた笑う。
「もう、何で笑うんですか」
ただ白樺さんが言ってくれた事を返しただけだ。
むっと睨みつけると、彼は漸く笑いをおさめた。
「ごめんごめん。割と冗談のつもりだったんだよ」
未だに可笑しそうにする彼に、私は睨むのを止めて内心首を傾げる。さっきの彼に冗談の雰囲気はあまり感じられなかったけれど。
「じゃ、これからも仲間として、よろしくね」
白樺さんがにっと笑う。大人びた表情じゃない、いつもの明るい彼の顔。
「はい。……白樺さん、もう一つ良いですか」
少し前の恐怖を思い出して、緊張に鼓動が速くなった。けれど、彼の目をしっかりと見据える。
「私、桜木芽さんとお話した時、これを渡されたんです」
彼女の名前を出した途端、白樺さんの顔がくもった。
彼の様子を注意深く見ながら、私はポケットから紙片を取り出してみせる。
「ここに行けば、最低限の安全は保証されるそうです」
白樺さんがほんの一瞬だけ顔を歪めた。予想通りの反応に、私は密かに胸を撫で下ろす。
「それは、信じられない」
存外に強い口調だった。彼の中での製薬会社への嫌悪感は十分らしかった。
「白樺さんは、行くつもりはありませんか」
確認するように重ねて聞いてみる。彼はジェイドさんに着いていくと決めた時、病気の正体が気になるからと言っていた。その気持ちがまだあるかどうか、確かめたかった。
「逆に戸倉さんはココに行くつもりなの」
眉間に皺を寄せ、厳しい声を隠そうともしない白樺さんは、どうやら私の言葉を研究所へ誘うものだと思ったらしい。彼の気迫に押されて返答に詰まる。
束の間の躊躇いを彼は肯定と捉えたのか、厳しい表情はそのまま、噛んで含めるように言う。
「ダメだよ。デパートで出たみたいな化け物がまた出てきたら俺達どうなるか分かんないでしょ。それに桜木芽の言う事なんて信じられない。戸倉さんの傷を躊躇いなく触った奴だよ?」
だから、と続ける彼に、私は慌てて首を振った。
「違うんです。そうじゃなくて。ただ、行く気が無いことを確認したかったんです」
ふっと彼の雰囲気から剣呑が抜け落ちた。代わりに怪訝そうな表情を浮かべる彼に、私は話し合いの最中に思っていた事を話す。
「これを見せたら、ジェイドさんはきっとここに行こうとするでしょう? だからさっきは言い出せなかったんです」
あぁ、と彼は納得がいったように頷いた。
「ジェイドさんは初めから、研究所を回るつもりでいたみたいだしね。戸倉さんはそれに俺が賛成するかもって思ってたの?」
「いえ、さっきの話し合いで白樺さんは研究所を探すのに反対してたから、これを見せたんです。私はジェイドさんに伝えて欲しくないけど、誰かに相談したくて……」
白樺さんが淡く苦笑した。
「確かにこれは誰かに言っておきたいよね。それにジェイドさん、今度こそ一人で行こうとしそうだし。俺はもう、研究所に関わらない方が良いと思ってるよ」
彼の口から直接その言葉を聞けて、ほっと安堵する。
「良かった。……あ、白樺さんは病気の正体が気になるって、言ってたじゃないですか。それはもう良いんですか」
白樺さんが思い出すように目を細めた。それから少し恥ずかしそうに笑う。
「俺、あの時は戸倉さん達に着いていきたいだけだったからさ」
白樺さんも、あの時は同じ気持ちだったらしい。私にとっては良い援護だったけれど、彼も置いて行かれまいと必死だったのかもしれない。
「だから正直あの化け物を見ただけでもう十分っていうか」
遠い目の白樺さんに、私は乾いた笑いをこぼした。今思い出してもあの化け物は気味が悪く、うなじに鳥肌が立つ。
もう二度と、会いたくない。
「私もです。やっぱりこれは、ジェイドさんには見せないようにします」
手の中の紙片をまた二つ折りにする。
安全を求めて行くにしてはリスクが大きすぎる。
「そうだね、俺もそれがいいと思う」
紙片をポケットに仕舞うと、白樺さんが歩き出した。怪我をしている私でも着いていける速さだった。
「あとね、戸倉さん。俺、メンタルに来てる人が結構居るって言ったでしょ?」
彼が探索から戻ってきてからのことだろう。あの時は彼自身も疲れているようだった。
「もう一度言うけど、引っ張られないようにしてね。辛かったら俺に言って」
念を押す白樺さんに、私は不思議に思いながらも頷く。
「分かりました」
しっかりと視線を合わせると、彼はそれでも不安そうだった。どうしてそんなに不安がるのかは分からず困惑する。
「気をつけてね」
「大丈夫ですよ」
私は思わず苦笑する。白樺さんが気にしている事が分からないから、とにかく大丈夫だと言うしかなかった。
階段を登れば、海麗ちゃんと寝ていた部屋はすぐそこだ。
白樺さんはもう一つ上の階へ食料を取りに行くので、ここで一旦お別れだった。
ドアには鍵がかかっているだろうから、私はコンコンと軽く叩く。ややあって、もう一度ノックしようとした所でドアが開いた。
「海音ちゃん、おかえり!」
「ただいま」
ぱっと笑う彼女に、私はちょっと眉を寄せる。
「海麗ちゃん、鍵、かけてた?」
ドアが開く前に、鍵を開ける音がしなかった。彼女に限ってそれはないと思っていたので、何かあったのかと胸がざわつく。
「あ……バレちゃった?」
彼女はそっと視線を外して、困ったような表情を浮かべた。
言い辛そうな雰囲気だったので、とりあえず彼女を促して部屋の中に入る。今度はしっかりと鍵を閉めた。
一人で行動した私だけど、逃げ場が無い点では、鍵をかけない部屋に居るのも危険な気がした。
「どうしたの? 何かあった?」
さっき白樺さんに念を押されたばかりだったから、余計に不安だった。
けれど目の前の海麗ちゃんは眉を下げて微笑んでいて、そこまで不調があるようには見えない。ただ言葉に迷っているようだった。
暫くして、躊躇いがちに彼女が口を開く。
「……金井、さんがね、その、」
微かに彼女の視線が揺れる。余程言い難い事なのか、次の言葉を押し出すにはしばらく間があいた。
「自殺しようと、してて」
私ははっと目を瞠った。海麗ちゃんが言い渋る理由が漸く分かった。同時に白樺さんの不安も、あれだけ念を押した事にも得心する。
「ねぇ、海音ちゃん、あの人がどうなったか知ってる?」
海麗ちゃんが上目遣いにこちらを窺うのに、私は首を振ってみせた。
自殺という言葉が、まだ噛み砕けないでいた。
金井さんとはあまり話したことはないけれど、遠目から見ていた時は、明るい性格の人のようだった。
だから、上手く結びつかない。
それでも痛むような海麗ちゃんの目を見て、私は何とか彼女を安心させられる言葉はないか探した。
「……でも、それなら三ノ輪さんとか、白樺さんの態度で分かると思う」
さっきの話し合いでも、どちらも酷く落ち込んだ様子は見えなかった。
ゆっくりと言うと、海麗ちゃんは安心したように息を吐いた。
「そっか。海音ちゃんがジェイドさんに会いに行った後ね、私と彩瑛さんと、蛍姉さんとで名前と人数の把握をしてたの。どの部屋に人が居るか分からなかったから、返事が無かったら勝手に開けてたんだけど」
それで、見てしまったのか。束の間の逡巡の後、私は何とか口を開く。
「辛かったね」
海麗ちゃんが緩く頭を振った。自身の腕を擦る彼女は、どこか疲れているようだった。
「大丈夫だよ。ちょっと……びっくりしちゃっただけ」
彼女が口を噤むと、しんと沈黙が部屋に落ちた。
私は自分の手元に目を落とす。彼女に何か言わなければならないのに、どんな言葉も響かないような気がした。
だって疲れたと、生きていたくないと思っても、自身にナイフを向ける事なんてなかった。誰かのその決心を見る事も。だから海麗ちゃんの気持ちも、金井さんの気持ちも分からない。
それが酷く、気持ち悪かった。
僅かな顔の動きを見ても、声を聞いても、些細な行動に目を凝らしても。
海麗ちゃんの気持ちを、上手く読み取れない。
私にその辛さは、分からない。さっきは理解もせず、ただ一般的にそうだろうと見当をつけて上辺だけ寄り添ってみせただけだ。
ぎゅっと手を握る。
しばらくして、海麗ちゃんがそっと息を吸う気配。
「ねぇ、海音ちゃん」
作られた明るい声が、余計に痛々しい。それは私を気遣うものか。
「私も、ゾンビ倒せるようになりたいな」
先程の弱りきった表情とは違う、目にきつい光の宿った意志の強い表情だった。それでも声は堪えるように震えていた。
「え……?」
予想だにしていなかった言葉に、私は顔を上げる。
目の前の海麗ちゃんはほんの少しだけ口角を上げてみせた。
「海音ちゃんみたいに調達に混ざれるくらい……は無理かもしれないけど」
私が呆気にとられている間に、彼女はぐいっと身を乗り出して言い募る。
「でも、一体くらい倒せるようになっておいたら、蛍姉さんも安心出来るだろうし。やっぱり自分の身は自分で守れた方が良いでしょ」
「あの、海麗ちゃん、ちょっと待って。どうして急にそう思ったの? 別に海麗ちゃんは無理しなくたって良いんだよ」
手の平を向けてストップをかけると、彼女は不満げにしながらも座り直した。
「急じゃないよ」
不貞腐れたその表情に私は戸惑った。彼女にとっては、ずっと考えていた事だったらしい。
「海音ちゃんが調達に混ざるって聞いた時に思ったの。このままで良いのかなぁって」
視線を外し、彼女は訥々と語り始める。
「最初はね、そんな事やらなくても良いよって思ってた。でもデパートから出て、ゾンビ達を見た時に、海音ちゃんこんなのと戦ってたんだって、私とおんなじなのに……」
きっと海麗ちゃんも、暴動が起こってからすぐに避難所に来たのだ。だから感染者に襲われた事はないし、それからも自警団に守られて見る機会すら殆ど無かったはずだ。
「それに」
彼女は手元を見つめ、しばらくの間沈黙する。更に俯いてしまった彼女の顔は、長い前髪に遮られて良く分からない。
けれど最後まで聞き届けたかった。彼女は今、苦しみながら考え抜いている事だけは分かっていた。
暫くして、やっと彼女が口を開いた。
「それに、男の人達も――自警団も、きっと怖かったよね」
認めるのは酷く難しい事だっただろう。苦しげで、それなのに口元だけは必死に笑んでみせる彼女は、私よりもずっと強い。
ぐっと唇を引き結び、私は海麗ちゃんの傍に寄り添う。
「何か、私、すごい甘えてた気がしたんだ」
彼女の熱が籠った背中をゆっくりとさする。震えた呼吸が手の平越しに伝わってきた。
彼女は金井さんを見て気付いてしまったのだ。
感染者の前では、誰もが恐怖と戦っていている事。……それを強いていたのは、自分達だった事。
それを認めてしまえばもう、被害者のままでは居られない事。
「私、出来るかな」
顔をあげた彼女の、泣き出しそうな目元にそっと服の袖を当てる。瞬きに溢れた涙は、それ以上流れる事は無かった。
「出来るよ」
今居る他の人達と歩み寄る事も、感染者と対峙し戦う事も、私にだって出来たのだから、彼女にも出来る。
だって彼女は、金井さんの事を案じた。既に彼女の中で男性への嫌悪感は薄れてきているはずだ。
「……どうして言い切れるの?」
すんと鼻をすする彼女に、私は小さく笑う。
私と一緒だから、とそう言えば、彼女は否定するだろうか。




