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赤眼ゾンビ  作者: 海月
第二章
64/99

波紋

「そんなこと、あって良いわけ……!」

 白樺さんが呻くように言う。


 彼の言いたい事は、この場に居る全員に伝わっているだろう。

 その事実に慟哭するにも、奪われ過ぎた私達は咄嗟に激昂する事すら出来ないのだ。

 

 ただ瞼の裏に鮮明に思い出されるのは、もういなくなってしまった家族や友人の顔だった。

 パンデミックが起こらなければ、狭い体育館に押し込められた末に、自警団に殺される事もなかった。生きたいと叫ぶ声も、逝かないでと泣く声も、聞かなくて済んだ。


 パパやママは死ななかった。真美を飢え死にさせる選択もしなくて良かった。


 家族が死に、友人が死に、平穏が奪われた。銃を手に取り、ナイフを振るい、人を殺して生きていくしかなくなってしまった。

 普通に生きていれば抱くことも、受けることもない感情を嫌という程知った。


 それが、奪っていったのは病気ではなく。


 息を吸おうにも、喉に何かつかえているようだった。空気が重く、暗く、冷たく纏わりついてくる。湿った手に撫でられているような不快感。

 

 パンデミックが無ければ幸せな日々が続いていた。

 どうして私達がこんな目に、どうして。


 感染症のせいだと、災害のせいだと割り切って、胸の底に押し込めていた暗くどろどろした感情が渦巻く。


「桜木製薬会社がウイルスのことを以前から知っていたとして、パンデミックが起こされたのか、起こってしまったのかは分からない。でもな、桜木芽は俺にこのメモを持っていないか聞いてきた。……いや」

 ジェイドさんは僅かに眉を寄せる。

「持っているだろう、と」

 確信めいた表現に言い換えた彼は、声に嫌悪を滲ませていた。

 

 拾ったことを知っているとでも言わんばかりの言い方。まるでその場を見ていたかのような。


 ――その髪型、なかなか似合ってるじゃないか。


 それは出会い頭に言われた言葉の微かな違和感の正体だった。

 わざわざ似合っていると口に出したのは、髪を切る前の私を見ていたからだとすれば、違和感は無い。


 彼女は私達に接触せず、ただ見ていた。だから、あのタイミングの良さで助けに入れた。


 けれどその理由は分からない。分かっても、もう意味は無いのかもしれない。

 

 メモを拾わせたともとれるその言い方が癪に障るようで、ジェイドさんは尚も眉間に皺を寄せながら付け加える。

「それが世に出るのは都合が悪いとも言っていた」

 一層、彼の苛立ちが濃くなったような気がした。併せて事情を察した人達の雰囲気が剣呑になる。


「それは、製薬会社が人体実験を繰り返していたって言っても同然じゃない」


 彼女の謎は別にしても、蛍さんの人体実験という言葉に、さらに製薬会社への嫌悪感が募る。あの多腕多脚の化け物がその実験の果てのものだとすれば、あまりにも倫理にもとっている。


「……桜木製薬会社は、一連のパンデミックに関して、ほぼ黒って訳か」

 三ノ輪さんが苦々しく呟く。

 流れからすれば、当然の結論だった。推論はどうしてもそこに辿り着き、今ある情報と照らし合わせても、断定は出来ないというだけ。


「けど、鹿嶋のワクチンがあるかもしれないっていう話は本当だったのねぇ」

 蛍さんが頬に手を添える。パンデミックに関係しているらしい製薬会社の研究へ希望を持っていたのだから、複雑な気持ちだろう。

 それはきっと、全員が同じだ。


「あんな怪物が生まれるかもしれないウイルスに対して、まずする事は対抗手段を持っておくことだろうしな」

 ジェイドさんが軽く溜め息をつく。その目の憂いはまだ消えていなかった。


「だがワクチンを打ったらしい鹿嶋は感染者になった。それがワクチンじゃなかったのか、未完成の物だったか。

 でも桜木芽が、ウイルスを知っている者が生きていて、しかもあのメモを世に出てはまずいと回収に来たなら、桜木製薬会社はどこかで生きている可能性がある。治療薬の研究が進められているかもしれない」

 はっと、私はポケットの中の紙片を思い出す。

 その場所へ行けば身の安全が保証されると言っていた彼女。さらに彼女の名前を出せと言い付けたのだから、桜木製薬会社に関わりがある場所だと思っていいはず。

 けれど白樺さんに先を越されてしまう。


「でもさぁ、そいつらって絶対に俺達の味方か分かんない訳でしょ。ゲームじゃ敵サイドだよ。もし研究所とか会社が生きてて、俺達を歓迎するかな?」

「実験材料にされちゃ敵わねぇしな」

 八木さんが吐き捨てるように言う。さっきからの落ち着いた表情も見れば、彼は一足先に話を聞いて、白樺さんと同じ考えに辿り着いていたのだろう。


 私はそっと目を伏せる。


 桜木芽は信用出来ないのだ。私達を見かけただけならまだしも、わざわざメモを落とし、そうと分かるように回収した。世に出たら都合が悪いとまで言って、桜木製薬会社が怪しいのだと勘づかせるような言動をした彼女は、何を考えているのか。


 そこまで考えて、何かが引っかかった。けれど刺々しい八木さんの声にその正体を掴み損ねる。


「ジェイド、俺達は生きることだけ考えればいいだろ。このまま話をしたって、机上の空論にしかならないだろ? お前の思う通り、ウイルスへの対抗手段を持つのは状況の解決にはなるけど、それまでの食料だって考えなくちゃいけねぇんだぞ」

 重ねられた八木さんの主張はもっともだった。

 

 桜木製薬会社を疑い、さらにワクチンを探し求めるにしても、前提として生きるのに食べ物や水は必要だ。


「確かに、それを考えるなら全員が回復しないとな」

 三ノ輪さんがジェイドさんに向けて微苦笑を向ける。

 

 ジェイドさんはもちろん不知火さんも、私だって感染者と戦えるかと言われたら難しい。


 ジェイドさんは気を落ち着けるようにゆっくりと息を吐いた。

「……そうだな。知らない内に焦ってたらしい、すまん」

 話が一段落ついたことで、場の雰囲気が少し緩む。

 

 同時に私はこっそり心の中で安堵の息をついた。

 これで渡された紙片を見せるかどうか、もう少し悩める。先延ばしになっただけなのは分かっているけれど、それでもほっとしていた。


「これからの事はゆっくり話そう。どうせ時間だけはあるんだ」

 三ノ輪さんがそう締めくくる。それから思い出したように付け加えた。

「そろそろ梅雨の時期だろうから、雨水を溜め込んでおける物を集めておきたい。それぞれの部屋でも探しておいてもらえますか」

 雨水は煮沸して飲み水として利用できるから、梅雨は私達にとって待ちわびていた季節だった。これを逃せばきっと厳しい夏が待っている。


「分かったわ。それじゃ、私は不知火さんの様子を見てくるわね」

 蛍さんが一番に頷いて立ち上がる。不知火さんの事が気にかかっていたらしい。

「はい。あぁ、そうだ。ジェイド、タンクの水は朝と晩しか使えなくしてもいいか?」

「問題ない。屋上の鍵も閉めとけ」

 タンクの水を無駄遣いしないようにだろう。水はいくらあっても足りないものだけれど、だからこそ油断すると使いすぎてしまう。

 何が起きるか分からないこの状況では、物資が十分でも無駄遣いは出来ない。


 それぞれ軽くやり取りをした後、三ノ輪さんは屋上へタンクの元栓を閉めに行き、蛍さんは不知火さんの様子を見に戻る。

 

 私も一旦部屋に戻ろうかと一言断ろうとした時、ジェイドさんが無表情で言った。

 

「どんな奴が彷徨(うろつ)いてるか分からないって言っただろう」


 その言葉は、いつかも言われたような。


 素知らぬ振りをすれば良かったのに、思い当たった途端に視線が揺れてしまった。それを見咎めた彼の無表情に凄みが出る。

「お前は怪我してるんだぞ、分かってるのか? しかも八木と話した後ならナイフも持っていなかっただろう。もし桜木芽が攻撃してきていたらどうするつもりだったんだ?」


 矢継ぎ早に指摘されて、胸がきゅっと締まった。

 自分でも危険はあると分かっていたけれど、心のどこかではナイフを使うような事になるなんて有り得ないだろうと高を括っていたのだ。

 でもその結果がこれだ。勝手に傷口を触られた以外は、最終的に何もされなかったから良いものの、確かにあの時は怖かった。

「……ごめんなさい」

「違うな」

 即座に切り捨てられて、怒鳴られた訳でもないのに首を竦める。

 慎重に言葉を選び、私は言い直した。

「これからは気を付けます。……出来るだけ一人で行動しません」

 彼の圧に耐えかねて更に付け加える。そこまで言って漸く、彼は頷いた。


「過保護だな、ジェイドさん(・・)は」

 八木さんがひょいと片眉を上げてみせる。声が少し笑っていた。

 からかわれたことに気が付いたらしいジェイドさんは、彼を見やって目をすがめる。

「いつまでも緊張しているのも良くないが、あまり気が緩みすぎるのも問題だからな。それはお前にだって言えるだろう」

 白樺もだ、と彼は付け加える。

「分かった分かった。俺達も気を付ける」

 厳しい視線を向けられた八木さんは、けれど平気そうに飄々と受け流した。横では白樺さんがこくこく頷いている。

「本当に分かってるのか」

「分かってるって」

 不満げな顔のジェイドさんを軽くいなして、八木さんはこちらを向いた。


「誰だって一人になりたい時はあるよな?」

「分かってないじゃないか」

 ジェイドさんが嘆息を漏らす。そうも言ってられない状況なのに、と言いたげな表情だった。


「でも今回のはかなりのレアケースだろうよ。マンションなんだからバリケードでも張ればもっと安全だろ」

「そうですよ」

 誰がパンデミックについて怪しい製薬会社の人間と出会うと予想できるのか。

 ジェイドさんが言いたい事はそこではない事を承知しながらも、私は八木さんの言葉に同意を示すために頷く。

「それは……そうだが」

 難しい顔で頷くジェイドさんに、お説教の気配が遠のいたことを感じて胸を撫で下ろした。

「とりあえず皆気を付けるように」

 ジェイドさんが再度ため息をつく。

 私は曖昧に笑って、重ねていた足を少しずらした。痛みは大分引いている。

「私も海麗ちゃんのことが気になるので、一旦部屋に戻りますね」

「あ、」

 白樺さんが小さく呟いたので何事かと目を向けると、彼は首を横に振った。

「いや、う〜ん。そうだね。戻った方が良いかな。ジェイドさん、俺皆に晩ご飯配っとこうと思うんだけど」

 言葉を濁す彼に首を傾げるけど、特に大事なことじゃなかったのだろう。気にせず立ち上がる。

 窓の外はまだ青空が広がっているけれど、暗くなる前に夕食を配った方が準備もやりやすいだろう。

「そうだな、頼む。……海音、今日はもう大丈夫だ。また明日」

 え、と私は目を瞬かせる。

「ここで寝ようかと思っていたんですけど……」

 一旦戻って、海麗ちゃんとお話した後に布団を持ち込むつもりでいた。三ノ輪さんに任されたのは、夜間も含めてじゃないのだろうか。


 束の間、凄絶な沈黙がおりた。沈黙を破ったのは、八木さんのえっと驚く声。


「お前本当に狛平から来たのか!?」

 目を見開いて言う八木さんに、私は頬を引き攣らせた。

「八木」

「すまん、失言した」

 彼はすぐに謝ってくれたけど、顔にはありありと驚きと呆れが浮かんでいた。

「いえ……」

 八木さんのお陰で漸く先の沈黙の意味が分かったので、居心地悪く首を振る。

 狛平で嫌という程危険に晒されたのに、良く男性と眠る気になれるなと、そういうことだろう。いくらジェイドさんとはいえ、と。


「夜は俺が居るよ?」

 白樺さんが苦笑を浮かべる。きっと私が彼の事を忘れていると思ったのだろう。

 そうではないけれど、何故か上手く説明出来ないので、私は眉を下げて頷いた。

「よろしくお願いします」


 八木さんはもう少し残るそうで、私と白樺さんだけで部屋を出る。

 何とも言えない雰囲気が多少残る中、白樺さんが口を開いた。

「戸倉さん、夜もジェイドさんに付き添うつもりだったんだよね?」

 白樺さんは困ったような顔をして続ける。

「それって、無理してた?」

 その言葉に私は目を丸くする。思ってもみなかった質問だった。

「いえ、そんなことないです」

 首を横に振って、束の間考える。無理しているつもりも、ジェイドさんを怖く思う気持ちも、全く持っていなかった。

「ほんと?」

「白樺さんも、ジェイドさんのことは信頼してるでしょう?」

 あの化け物と戦った時も、デパートで離れ離れになってしまった時も、彼も私と同じくらい、ジェイドさんのことを心配していただろうし、その分信頼していたはずだ。

「それは、そうだけど」

 まだ納得いかない様子の白樺さんは、曖昧な返事だ。

 彼がジェイドさんを今まで出会ってきた危ない男性達のように思っているとは、どうしても思えなかった。けれど白樺さんはそんな心配をしているようにしか思えない。


 それが嫌に胸をざわつかせた。


 もし白樺さんが、ジェイドさんを信じられないと言うなら、私は白樺さんを、――信じられなくなる。


 彼の不安そうな顔を見上げ、私はぎゅっと唇を結ぶ。



「でも、不安なのを我慢させたくはないから」

 ふっと真剣味を帯びた声に瞬きをする。何だか真っ直ぐ芯の通った言葉に、もやもやしたものも消え去ってしまう。いつの間にか力が入っていた眉間から力が抜けた。


 暖かいものに押されるように、自然と頬が緩んだ。彼がいつかくれた飴玉を思い出す。

 

「心配してくれて、ありがとうございます」

 白樺さんが怪訝そうに眉を寄せる。彼はただ、私が辛くないか心配してくれていただけなのだ。

 

「それから、ジェイドさんのことは本当に怖くないんです。私がジェイドさんに助けられたこと、知ってるんですよね?」

 私は彼が頷いたのを見て、更に続けた。

 薄々思っていたことだけれど、当たり前過ぎて自分でも忘れていたのだ。

「助けられた後は、私とジェイドさんは学校の保健室で寝ていたんですよ」

「……それはおんなじ部屋で、ってこと?」

 何故か複雑そうな表情を浮かべる白樺さんに、私は更に説明を重ねた。

「私は今よりもずっと体力がなくて、ジェイドさんは今みたいな怪我もしてませんでした。でも、ジェイドさんは全くそんなことはしなかったんです」

 触れる時も、必ず一言付けてくれていた。そうして黙々と私の面倒を見てくれた。

「だから、信頼してるんです」

 この世界で、これ程信頼できる人が居るというのはきっと、とても幸運なことなんだろう。

 パンデミックが起こってから、彼だけが私の救いだった。


「そっか。……そっか、ごめんね」

 謝る彼の目の奥に暗い影を見て、私は眉を顰める。

 自分の行動を酷く後悔しているような、その表情。

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