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赤眼ゾンビ  作者: 海月
第二章
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災害の根

 衝撃もさめやらぬまま、私は壁に手をつきながら階段を登る。慣れ始めていたはずの痛みが、再び戻ってきていた。

 行きよりも長い時間をかけ、ようやく階段を登りきる。


 手の中の紙片を見やり、私はまた考え込んだ。

 やっぱりジェイドさんに相談すべきなのだろうけど、彼に言うと怪我も治りきっていないうちに動いてしまいそうな気がするのだ。特に彼女の言った、この場所へ行けば安全は保証されるということを伝えれば。

 後は単純に、まだ目元が腫れているから会いたくない。

 でも伝えるなら彼しか居ないだろうし……と思考は堂々巡りだった。


「……蛍さんさぁ、もうちょっと心の準備くらいさせてくれてもいいじゃん」

 ふと聞こえてきた声に顔を上げる。

「あら、でも上手くいったじゃなぁい? 話すことは大切よ」

 白樺さんと蛍さんのようだ。また気遣わせてしまいそうな二人に、私は眉を下げる。

 せめてこの顔じゃなかったら、先程のことも相談できるのに。

 迷っている間にも話し声はどんどん近づいてくる。

「金井さんが元気になってくれたのは良かったけど。……ん? 誰か居る?」

 見つかってしまったか、と私は軽くため息をついた。紙片をズボンのポケットに突っ込む。

「白樺さん」

 壁の影から出ると、彼は安堵した様子で私の名前を呼んだ。

「あれ、下で何してたの?」

 上から降ってくる声に私は緩く首を振ってみせた。

「特には、何も」

 一番に相談したいジェイドさんに言えないとなると、こんなにも迷ってしまうものなのか。咄嗟に飛び出た誤魔化しは、自分でも分かる程に不自然だ。

 案の定、白樺さんは戸惑う気配を見せている。

「……海音ちゃん」

 蛍さんの訝しげな声音に、私はちらりと目線だけを上げた。

 彼は眉間に皺を寄せ、私の足へと目線を向けている。

 ハッとして足元を見やると、赤い染みが付いた靴が目に入った。ズボンで上手い具合に隠していたのが、階段を登る内にずり上がってしまったらしい。

「海音ちゃん、あなた、何をしてきたの」

 蛍さんの雰囲気に厳しいものが混じった。有無を言わさぬその雰囲気に、私は思わず視線を逸らした。

「戸倉さん、傷口が開くようなことしちゃったの?」

 白樺さんも靴を見たらしい。心配そうな声に、私はますます俯く。

「海音ちゃん、三ノ輪くんを呼んでくるから、ジェイドの部屋に入ってて。いい?」

 何も言えずただ頷くと、蛍さんは来た道を足早に戻っていった。

 

「……歩ける?」

「……はい」

 心配をかけて申し訳なくなりながらも、一方で鉛を飲み込んだように気分は重かった。

 これはもう、何があったか伝えるしかないのだろう。

 何と言えば良いのかを頭の中で転がしながら、私と白樺さんはジェイドさんの居る部屋に向かう。

 

 部屋に入ると、ジェイドさんと八木さんは何やら話し込んでいたようだった。

 二人は私達に気が付くと、会話をぴたりと止める。

「どうした?」

 ジェイドさんが口を開く。ベッドから身を起こしている状態の彼からは、嫌でも私の顔が見えるだろう。だからその問いかけは、どうして泣いていた様子なのかを問うものに思えた。

 伺うように八木さんを見ると、ふいっと顔をそらされた。

 え、と目を見開き、ジェイドさんに視線を移す。

「頑張ったな」

 短い言葉。けれど穏やかな翡翠色の目に、私は肩の力を抜いた。

 彼は私が八木さんと話した内容を、もう知っているのだ。

「八木さん、言わないって」

「約束はしてねぇよ。言わない方が良いかとは聞いたけど」

 少し前の会話を思い出し、私は思わず頭を抱えた。確かに、そうだけれど。


「もしかして八木さん」

 白樺さんの呟きに振り返る。彼は驚いたように目を見開いていた。

 その視線を受けた八木さんは居心地悪そうにしながらも頷く。

「……謝ったよ」

 二人の間で何か話されていたのだろうか。白樺さんはそっかぁ、へぇ、と気の抜けた返事だったけれど、どこか嬉しそうだった。


「何ですか?」

 不思議に思って聞いてみれば、白樺さんはにやっと笑う。

「八木さん謝る前すごーく弱気だったからね。戸倉さんにいつ謝ろうって」

 私はぱちりと瞬きする。それから思わず、笑顔になった。

 二人の間でそんな会話がされていたということは、どちらも少しの信頼を置いているような気がしたからだ。

「余計なこと言うな」

 八木さんは不機嫌そうに白樺さんを睨みつける。

「本当のことだし。……戸倉さんは、それで?」

 八木さんの視線を飄々と受け流したあと、彼が自身の目元を指さす。

 私は曖昧に笑って頷いた。バレたくない人達にはとっくにバレていたことに、若干の恥ずかしさを覚える。


「じゃあその足は八木さんと何かあったわけじゃないんだね」

 安堵とも心配ともとれない表情で白樺さんが言うのに、さっと顔が強ばった。そっと怪我した方の足を引く。

「足? どうかしたのか」

 ジェイドさんが眉を寄せる。

「これは……」

 何から話せばと迷って、そういえば単独行動もしてしまったから、それも怒られそうな行動だったことに気付く。

 束の間落ちた沈黙を、ガチャリと扉の開く音が破った。

 蛍さんが三ノ輪さんを連れてきてしまったのだ。

「戸倉、何したんだ」

 部屋に入ってきた三ノ輪さんの顔に、咎めるような色が浮かんでいる。

 私はそっと息を吐いた。

「……デパートから出て、感染者に追いかけられていたのを助けてくれた人に会いました」

 全員が名前を知っているか分からなかったから、少し不自然な言い回しになった。けれどその場の雰囲気が変わったことから、ほぼ全員が誰かは見当がついたのだろう。

「あいつが、海音に何かしたのか」

 ジェイドさんが目の底に厳しい光を湛えて言った。

「その、桜木(めい)さんは、感染者がいないかどうか気になっていたみたいで、足の傷を見せてほしいと」

「それで包帯を取ったって?」

 三ノ輪さんが顔を顰める。それでも怪我には触るなと言いたげな表情だった。

「取ったというか……それで、傷口が開いてしまったんですけど」

 勝手に取られたのだけれど、それを言うと彼女への心証があまりにも悪くなりそうなので、もごもごと誤魔化した。


 ズボンの裾を捲りあげ、絆創膏のようなそれを見せる。表面はツルツルとしていて、歩いていると突っ張る感じはあったものの、剥がれる様子はなかった。

「これを貼られて。糊が傷を早く治してくれるから、剥がさないでって言われました」

 三ノ輪さんがその絆創膏をじっと見つめる。

「……ドレッシング材っぽいな。他にされたことは?」

「貼る前に水で洗われました」

 三ノ輪さんから咎める色が消えたのにほっとしつつ答える。

「そうか。そうだな、本当にドレッシング材なら二、三日置いてから剥がせばいい」

 聞き馴染みのない単語に戸惑っていると、彼は簡単に説明してくれた。

「ドレッシング材は傷口が乾燥しないようにするものだよ」

 見慣れない物を貼られて不安だったけれど、彼がそう言うのなら大丈夫なのだろう。でもそんな物なら、ジェイドさんに使ってもらいたかった。

 心の中で惜しく思うけれど、彼女はもう行ってしまったのだから、諦めるしかない。


「海音、本当にそれだけなんだな?」

 探るようなジェイドさんの態度に、私は落ち着かない気分になる。同じようなやり取りは既にした。それなのに彼は尚も確認を重ねる。

 

 私はポケットの中の紙片を思い出した。更に今までのジェイドさんの言動も併せて考えれば、彼が何故ここまで食い下がるのかが分かったような気がした。

「……特にワクチンのことや治療薬のことは言われませんでした」

 ジェイドさんが僅かに目を見開く。それを見て、やっぱり、と確信した。

 

 彼は、私と出会った彼女が桜木製薬会社に、もしくは研究所に属していた人だと知っている。

 ジェイドさんは私が名前を出す前から、彼女のことを知っているようだった。朧気な記憶を引っ張り出せば、感染者から助けてくれた彼女はそのまま私達の車に乗り込んだように思う。

 

 だとすれば名前から、感染者を化学的な何かで倒してしまったことから、彼は桜木製薬会社に関わっているのか聞くはずだ。


 けれど彼女がそうだと答えたとして、彼は緊張し過ぎているような気がする。

 私が怪訝に思っていることが伝わったのだろうか、彼の視線が少し下がった。何やら逡巡している様子だ。

 しばらくして、彼は口を開いた。

「とりあえず座ってくれ。全員に共有しておきたいことがある」

 ジェイドさんに促され、彼の周りにそれぞれ座り込む。


 その場にいる全員が、これから不穏な話が始まるのだと勘づいていただろう。

 私は悟られないように小さく息を吸った。ジェイドさんが考えあぐねている様子の問題を聞くことが不安だった。


「桜木製薬会社では感染症の解明、ワクチンの開発が進んでいた。これは鹿嶋からも聞いたか?」

 ジェイドさんの問いに、デパートから合流した人達がバラバラと頷く。

「俺と鹿嶋は自衛隊だったからそれを知っていた訳だが、それは匿名で直に自衛隊へ伝えられた情報だ」


 ……彼は最初に桜木製薬会社のことを教えてくれた時、ただ情報が優先されるからとしか言っていなかった。

 他に組織を通さず匿名で。それはあまりにも曖昧な情報だ。だから私達に不安を与えないようにそこを伏せたのか、あるいは彼自身、この情報しか信じるものがなかったのかもしれない。


 しんとした空気が部屋におりる。八木さんだけは、少し落ち着いた表情をしていた。


「正直、真に受けて良いのかも分からないものだが、俺はそれに賭けようと思ったんだ。鹿嶋も同じだろう。……だが」

 ジェイドさんが傍にあったノートを開く。確か彼が桜木研究所の場所や、三人でいた時の食料をメモしていたものだ。

「あの研究所で見つけたメモを写したものだ。海音、覚えてるか」


『検体一:女、感染から七十五時間後発症。妊娠状態での感染。胎児にも発症が確認された。検体二:男、死亡から一時間以内にウイルスを投与……』


 書き出しに覚えがあり、内容をさっと斜め読みすれば、やはり見覚えがあった。この内容が書かれたメモをジェイドさんに渡した直後に、鹿嶋さんと出会ったのだ。


 私はジェイドさんに向かって頷く。

「試験管があったすぐ側に落ちていたものですね」

 試験管の中には血液らしきものが入っていた。そのメモは採血された人の、所謂カルテのようなものだろう。


 ジェイドさんが視線を横に滑らせる。

「三ノ輪、これはワクチンや治療薬を作る目的の物に思えるか?」

 問われた彼は小さくため息をついた。

「思えないな」

 瞳を翳らせた彼は、酷く痛ましいものを見たような顔をしていた。

 口を開くのも億劫な様子で、けれど緩慢に首を振ると、その理由を話し始める。

「……そもそも、感染したのが分かる時点でおかしい。俺は日本でも、どころか外国でも検査薬が出来たなんて話は聞いてねぇよ」

 

 胸を強く押されたように苦しかった。彼女の薄い笑みが頭を過ぎる。

 だって随分と、それは想像しやすいのだ。

 

「それに、時期は分からないけど、これが世界で最初の感染者が出た後に出来ることな訳がないだろ。電気が保ったのはせいぜい一、二ヶ月だ」

 日本では感染者が一人出た途端、爆発的に感染が広がった。

 三ノ輪さんの言い方からして、感染したかが分かるには検査薬がいるのだろう。そしてその検査薬を作るには、発症して感染が確認された人が必要に違いない。

 外国でのことを受けて最初から構えていたとしても、感染者相手に悠長に血を採ってウイルスの研究なんてできるのだろうか。


 メモを読んだ時は感染と発症の違いは気に留めていなかった。さらに言えば、時間的なものも。

「抗体も出来てるみたいだけど、それこそ検査薬より時間も、設備も必要だ」

 三ノ輪さんが顔を歪める。怒りを抑えるような表情。

「――俺にはむしろ、ウイルスの症例を観察しているようにしか思えない」

 

 感染したと分かっている妊婦を三日、そのまま発症――理性を失い、人への食欲を見せることだろう――を見守り、その赤ちゃんが感染していることも確認して。


 ふと血溜まりに浮かぶ、小さな体を思い出した。多腕多脚の化け物の、伽藍堂の腹に浮いていた胎児。

 さぁっと全身の血が足元に下がる感覚。


 一時間以内に死んだ男性にウイルスの投与を。パンデミックが起こってからは、死体を手に入れるなんて容易いことだろう。

 けれどその死体は殆どが、感染者に喰われ絶命したものだ。そうじゃない死体を探すのは骨が折れる。

 ……それなら最初から一人連れてきた方が楽だろう。


 それがパンデミックの起こる前か、後かは定かではないけれど、どちらにせよ準備が必要だ。

 世界で初めての感染者が出て数ヶ月で感染症への備えも、抗体までも作れてしまうのは何故か。


 桜木製薬会社は、パンデミックが起こる前から感染症の原因であるウイルスを知っていたからだ。


 緊張した面持ちの蛍さんが皆を見回す。

「その桜木製薬会社は、ウイルスの存在を知っていた……けれど世間にはひた隠しにしてきたんだね? 少なくとも、……私は聞いたことないわ」

「俺もです。それにこの病気が明るみに出るのは発症して、人を襲い始めた時だろうし……」

 粟立つ腕を、私はぎゅっと握った。そんなことあって良いのだろうか。


 何となく感じていた予感が、たった一枚のメモで確信に変わっていく。それは、ずっと子どもの世界に居た私には恐ろしい確信だった。


 ジェイドさんが静かに口を開く。


「……今回のパンデミックは、人為的なものが絡んでいる可能性がある」

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