足がかり
目の前に美しく笑う女性がいた。
私が見つめているうちに、その女性は苦しげに顔を歪め始めた。
目が血走り、大きく開かれた。への字に曲がった唇から泡が押し出される。首ががくんと倒れたかと思えば大量の血がほとばしった。
黒一色の空間を鮮明な赤が染めていく。
「ああああああああああ!!」
大きく体を仰け反らせて上げる悲鳴は、むしろ、咆哮というほうがしっくりきた。
あまりの恐ろしさに叫ぶことも出来ない。上がっていく息が耳にうるさい。
眼球だけ動かせば、右手には鈍く光るサバイバルナイフが握られていた。
殺すか、殺すまいか。
生きた心地がしない。汗が肌を伝い落ちた。
だらだら。刃の光が顔に当たり、目を眇めて見てみれば、汗と思っていたそれは返り血だった。
はっ、はっ、と全速力で走った後のような呼吸。
震えながら女性を見れば、既に地面に頽れていた。手からナイフが滑り落ち、甲高い音を響かせる。
臭いたつ腐臭、地面から嘘のように湧きでる血はマグマのようにぐつぐつと音を立てては泡を作り破裂させている。
腰が抜けて服が濡れるのに構わずへたりこんだ。
違う。殺してなんかいない。私は、ただ、ただ、死にたくなくて。あの時は白樺さんを守ろうと必死で。だから、だから______!
「私は……っ」
自分の声で目が覚めるなんて。
とてつもない脱力感と、疲労感。喉はからからに渇き、シャツは湿っていた。
起きてからも悪夢は離れず、しばらく放心する。静かな部屋に響く呼吸音。
荒い呼吸が落ち着くまで、そう時間はかからない。
首や額に汗で張りついた髪の毛を払う。すっと冷たい空気が通り、汗が引いていった。
枕元に置いてある水で喉を潤し、時計を見れば、いつもよりかなり遅い時間だった。
ジェイドさんたちは何をしているだろうか。
手早く布団をたたみ、下だけジーンズにはきかえた。何日も着ていると、目立つ汚れが無くても気になる。雨が降ってくれるか、綺麗な川でも見つけられたら洗濯ができるのに。
リビングへ向かうと、ジェイドさんはノートにひたすら何かを書き込んでいる。その横で白樺さんは拳銃の整備をしていた。
「あ、戸倉さんおはよ」
白樺さんが先に気付いて挨拶をしてくれた。それに返しながら私もカーペットの上に座る。
「ジェイドさんは何を? 集中しているみたいですけど……」
邪魔しないように自然と小声になりながら聞くが、白樺さんは困ったように肩を竦めて首を振った。
知らないらしい。
かち、と白樺さんが弾倉を元に戻した。これで整備は終わり、白樺さんは満足気にしている。
「……よし。海音、白樺、ちょっと良いか」
と、私達の方を見たジェイドさんは、ノートをこちらに向けた。
ノートに箇条書きで何か書かれている。
それを流し読みしていく。
「これ……もしかして、感染者のこと?」
思ったことをそのまま漏らせば、ジェイドさんはそうだ、と頷いた。
「ひたすらに人間を襲うことは知ってるだろうが……」
「へえ、感染を広げるためと、エネルギー補給の目的があるんだ」
白樺さんが言っているのは上から二個目のことだろう。
感染を広げるために首元だけ噛む時と、エネルギーを得るために全身を食べる時があるらしい。
考えなしに人を襲っていたわけじゃ無さそうだ。
他にも、音には反応するが、人の話し声が特に著しい反応を見せること、人間と同じく強い光を当てられると視界が眩むこと。脳以外を破壊しても意味のないこと。
私の知らなかったことが書いてある。
「でも何でジェイドさんが知ってんの? テレビじゃこんなこと伝えることすら無かったし、そもそも病気の名前さえ決まってなかったんじゃない?」
むしろ病気の解明より先に感染を止めることが第一のようだった。研究も進められていたに違いないけど、その時は既に遅かったんだと思う。
「それは俺が自衛隊だったからだ。ある程度の情報は優先して送られる。特に今回みたいに武装でもしなけりゃ国が崩壊するようなときはな」
ただし、とジェイドさんは続けた。
「医学的なことは分からない。どんなウイルスなのか、なぜ人にしか感染しないのか」
おかげで動物は火を通せばなんとかたべられるのだ。
「もっと知ることが出来るとすれば」
とんと隣のページを指先で叩く。
「ここに行ってみることだ。……桜木製薬の研究所。聞いたことはあるだろ」
確か私が生まれるより前に出来た会社で、それでも新しい方なので、まだ大企業とはいかなかったはず。最近では海外進出をしてニュースになっていた気がする。
「桜木製薬は一番研究が進んでいたらしい。だからそこに行けば何か得られるかもしれない。運が良ければワクチンとはいかなくとも、風邪薬なんかが手に入るだろう」
ドラッグストアの薬全般は暴動が起こってすぐに買い漁られたり、混乱に乗じて持っていかれている。
体を清潔に保つのが難しい今は、風邪だけでも致命的になりかねない。
「こっから近いのって言ったら茨城かあ。歩いたらどれくらいかかるんだろ」
「歩くとして休憩するにも部屋を探さないといけないですもんね」
移動を少しでも速くしたいなら、車か自転車だ。
ただ、車は言わずもがな騒音が問題になるし、自転車だと何かあったときすぐに対応出来ないかもしれない。
やはり歩くのが一番確実だろう。
「食料とかほとんど置いてかなきゃなんないよね。最悪野宿もありえるだろうから、何を持ってくか決めよ」
「おい、ちょっと」
いそいそとノートをめくって持っていくものを決めようとする白樺さんと、要るものをあれこれ出そうとする私に待ったがかけられた。
「行くのは俺だけでも構わないんだぞ?」
その言葉に私達は心底きょとんとした。今の流れは完全に一緒に行く流れではなかったか。
返事をしない私達に、ジェイドさんはさらに言い募った。
「ここは東京だが中心部から離れているし、自衛隊が一掃した地域でもあるからここが少なすぎるだけだ。もう少し行くだけで一気に感染者は増える。お前達には難しい」
それは、そうだけれど。
言葉に出来ない何かが胸に溜まる。自分の気持ちでさえ上手く表せないのがもどかしかった。
「でも僕は知りたいよ。普通に。そのウイルス? とかのせいで僕らこんな目に会ってんでしょ。どんなやつかくらい知りたい」
随分と直球だなと自分と比べて思う。
でもその直球さは、白樺さんの本心なんだろう。
白樺さんの言葉に乗っかって私も頷く 。
「そうです。それに別れたらまた会える保証もありません」
ジェイドさんは困ったように頬を掻いた。
子どもがごねるのをどうやって宥めようか悩んでいるようにも見える。
けれどジェイドさんは言うことを聞かないからといって怒鳴りつける人じゃなかった。
「仕方無い……本当に、歩く隙もないほど多いぞ」
念を押すように言われるが、私達は今更意志を曲げるつもりは無い。
不意にジェイドさんは目を細めた。
「分かった。一緒に行こう」
一緒に。
いつしか強ばっていた肩から力が抜けた。
かくして私達は長くなるであろう移動に向けて、準備を始めるのであった。