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赤眼ゾンビ  作者: 海月
第二章
57/99

目覚め

 どくん、と小さなはずの心臓の音が、耳にやけに大きく聞こえた。


 声はもう、届けられない。手を伸ばすことさえできない。暗闇は既に私の視界を奪い、時間は体力を奪った。

 だから心の中で必死に唱える。食べ物も、水も、残った物は全部あげる。だから早く、私を死なせて、あなたは生き延びて。


 衣擦れの音と共に、澱んだ空気が億劫そうに動いた。

「真美……」

 小さく掠れた、親友の声。その呼びかけには応えず、__応えられず、ただ私は冷たい床に横たわる。

 長い沈黙の末、かさりと袋に触れる音がした。きっと最後に残った携行食を破こうとしている。

 

 私はそれを、息を潜めて感じていた。


 彼女は密かに泣いている。どんな思いで最後の食料を口にしているかは、手に取るように分かったけれど、良いよと許す力さえ残っていない。

 けれど、許すも何も、私は彼女を憎む気持ちなんてこれっぽっちも持っていない。あるのはただ安堵だ。


 だって私は、このまま居たら彼女を襲ってしまう、醜い化け物になるかもしれないのだから。




 目を覚ますと、淀んだ空気が部屋に充満していた。それどころか、思わず顔を顰めてしまうような、酷い臭いまで漂っている。食べ物が腐ったよりも酷い、ともすれば吐いてしまいそうな。

 鼻につくその臭いに顔を顰めつつ、重い体を起こす。

 ――べちゃり、と動いた拍子に嫌な感触が体に伝わった。その正体の見当もつかないのが、余計に気味悪い。


「何……っ」


 恐る恐る服を捲ると、腹にぶよぶよした、肉の塊としか言えないものがくっついていた。拳程のそれは腐っているのか赤黒く、黄色い汁で汚れている。悲鳴を上げることすら止められたその気持ち悪さ。

 得体のしれない肉塊に、心臓が早鐘を打ち始める。一刻も早く視界から消したくて、震える手でその肉塊を掴んだ。

 ぐっと歯を食いしばり、爪に食い込む肉塊に吐きそうになりながら引っ張る。肉塊は思いがけず肌に密着している。

 

 肌が粟立った。額に汗が滲む。


 肉塊を引っ張ると、皮膚が引っ張られる感覚があった。それでも肉塊が体にくっついていることが不快で仕方がない。

 微かな痛みを無視し、力を込めて肉塊を取った。

 思い切り力を込め、勢いに任せて肉塊を取ると、腹からブヂっと聞いたことの無い肉の軋む音がした。同時に鋭い痛みが意識を刺す。

「へ、え、うそ」

 増すばかりの痛みと、生暖かいものが流れる感触に冷や汗が流れる。顔を歪めながら、腹をよく見るためにどうにか体勢を崩す。

「やだ、」

 手が震え、その恐ろしさに狂いそうになる。

 

 肉塊を引きちぎった後の腹に、皮膚は残っていなかった。内蔵こそ見えていないものの、筋肉らしきものが血溜まりの中で震えている。血溜まりは見る間に盛り上がり、脈動と一緒に流れ出す。

 予想だにしていなかった結果に、脳が理解することを拒否していた。傷口を抑えることさえできない。

 ただハクハクと呼吸でもなく、声を上げるでもない無意味な行動を繰り返す。


 脳裏に薄らと、人ではない自分が浮かんでいた。




 パッと目を覚ます。

 一瞬何処にいるのだか分からず混乱するが、淀んだ空気にすぐに状況を思い出した。

 途端にあの痛みが鮮明に思い返されて、急いで服を捲る。


 そこに血液は付着し垂れていたけれど、傷は綺麗さっぱり消えていた。


 痛みも無いことにほっと息をつくが、同時に夢でなかったことに落胆する。傍を見ればあの肉塊がまだ形を保って血液に身を光らせていた。

 血液が少しも乾いていない所を見るに、気絶していたのはそう長い時間じゃないはずだ。その間にあの傷口が塞がってしまうなんて、どう考えても可笑しかった。

 私は体に起こっている気味の悪い変化に未だ鳥肌の立つ腕をさする。あの肉塊があるのは後二、三箇所、だろうか。

 それでもあの痛みはもう体験したくなかった。肉塊は服が擦れる度存在を訴えてくるが、感覚的に引きちぎった物よりも大分小さい。さらに痛みも無いので放置を選択する。

 乾いて痺れるような舌を、なんとか唾液で潤して私は立ち上がった。


 部屋の中には、誰も居ない。体育用具室にありふれた物と、少しのごみ。

 それ以外は何も無い。


「海音……」


 生きて、出られたのかな。

 体育用具室の扉は開き、彼女は居ないのだから、きっとここを出られたのだろう。

 私は用具室から背を向けた。そこには見たくない光景が広がっているだろう。

 けれど動いていないと、思考はもっと落ち込むだろう。一人ぼっちの今、止めてくれる人は誰も居ない。無駄に消耗するだけだ。

 はぁ、と息を吐き、瞼を持ち上げる。


 見渡す限りの、悲惨。

 パッと見て腐っていると分かるほど、血と混ざってどす黒い色が目の前に広がっていた。人が一人一人倒れている、なんて言い方はもはや出来なかった。塊のように見えるそれらに、人だった名残を僅かに残すだけだ。

 

 鼻をつく悪臭がどっと濃くなった気がした。

 悲しみより先に立つのは胃から込み上げる吐き気だった。

「……ぅ、」

 慌ててその場にしゃがみ込み、床に向かってえずく。当然、長らく何も食べていない私の胃は空っぽだから、少しの胃液が出ただけだった。

 喉を刺す酸っぱい胃液に顔を顰める。


 この中に私の友人や知人、母親が居る。皆、抵抗らしい抵抗も出来ず死んでいった。生き延びたのは卑劣なあいつらと、彼らのなすがままに体を差し出した女だけ。


 ぎり、と奥歯を噛み締める。

 さっき俯いた時、視界に落ちてきた髪の毛は、埃に汚れていたけれど、明らかに白くなっていた。過度のストレスがかかれば若くても白髪になるとは言うが、まばらではなく、見た限り全て白く抜けてしまっているのが異常だ。


 きっと私はもう、人間じゃない。


 疑惑は確信に。期待は落胆に。


 顔を歪め、鬱陶しい髪を払う。確信に変われば不必要に怯えることもない。人としての理性が崩れようが、憚る事はもう無い。この体がいつまで保つかは気にしなくて良いのだ。

 空腹も、喉の渇きもさして感じない。


「……この学校、きっととんでもない幽霊物件ね」

 思考を切り替えるために呟き、床一面に転がる死体を見渡す。地縛霊やら怨霊やら、私に霊感があればうじゃうじゃ見えそうだ。

 けれどきちんと葬儀をしてあげられたら、こんな感想は出てこなかっただろう。

 死体というには形を留めていないそれを見ながら、私はもう遠い学校生活の記憶を呼び起こす。

 校門から昇降口までは、花壇が並んでいた。確か美化委員会がその花壇を整えていた筈だ。だから学校のどこかには、小さいだろうがスコップがあるだろう。


 私は彼らを弔ってやるつもりだった。火葬の方が楽かもしれないけれど、この体育館全体が燃える可能性があるかと思うと、なかなか手段として選べなかった。それなら埋葬の方が安全に、確実に弔えるだろう。

 

 体育館を出ようと、慎重に足元を見ながら歩く。動く度にハエが飛び回り、鬱陶しい音を残した。

 体育館シューズの裏からグチョグチョと嫌な感覚が伝わってくる。お陰で足取りは酷く重たかったが、コツンと何か硬いものが爪先に当たる感覚は意識に鋭く思えた。

「……?」

 拾い上げようと身をかがめれば、すぐに正体は分かった。拳銃が黒い床に同化するようにして投げ捨てられていたのだ。

 そのまま拳銃を手に取り、じっと見つめる。

 今の私に必要かと言われれば、正直迷ってしまう。ゾンビに襲われても、私にはもう感染の心配は無い。そもそも襲われるかも分からない。

 それなら別に素通りしても良かったのだが、浮かんだ恐怖はなかなか消えない。

 テレビ越しでしか見た事はないけれど、皮膚が食いちぎられ、その下の肉や骨が見える様は、想像できる限りの痛みを訴えてきた。あの時の衝撃は今でもしっかりと焼き付いている。

 そして人間の恐ろしさも、もう嫌という程焼き付けられている。


 銃を手に持ち、今度こそ体育館を出る。

 とはいえスコップがありそうな場所がパッと思い浮かばないので、まずは昇降口に向かった。

 渡り廊下から学校内に入って、昇降口へ。ここは体育館の入口よりも荒れていない。

 目的の花壇も遠目に見え、先にスコップらしいものは無いかと目を凝らす。けれどそれっぽい物は見当たらず、干からびた花が茶色い土の上で横たわっているだけだ。


 数歩進んだところで、諦めてふと視線をあげる。

 そしてピタリと、足を止めた。


 見える影はフラフラと覚束無い足取りで、傍から見れば、まるで病人のようだ。

 いや、と私は頭の中でその比喩を取り払う。

 彼らは実際、病人なのだ。未知のウイルスのせいで体がボロボロになっても動き続ける人間。脳が破壊されれば動かなくなるのだから、少し体が頑丈なだけの人間だ。


 たとえ顔は血濡れて、腹から内蔵が飛び出ていたとしても。腕から折れた骨が突き出ていたとしても。


 彼らが人間だということに変わりはない。

 

 そう思って気をまぎらせてみるが、その容貌は恐ろしく、体は固まったまま動かない。

 ただ右手に持つ銃が、異様な存在感を放ってズンと重たかった。

 息を潜めてゾンビを見つめるが、あちらの視野は狭いのか私のことは見向きもしない。襲う時は機敏に動くというけど、獲物が見当たらなければあれ程遅いらしい。

 私にとっては長く苦痛な時間をかけ、ゾンビは校門の前を通り過ぎていった。


 は、と私は息を吐いてその場にしゃがみ込む。

 ゾンビは共食いをしない。それは自警団に混じって調達をしていた男子からも聞いた話だ。

 そして私も感染しているというのなら、あいつらは襲ってこないだろう。私が近づいても、何の興味も示さなかったはずだ。

 けれどそう理屈を詰めてみても、本能的な恐怖が先に体を支配した。


 私は頭を振り、震える膝を叱咤して立ち上がる。

 校門は閉め切られ、ゾンビは目の前に獲物が居なければたださまようだけ。余程のことが無ければ入ってこない。

 

 やると決めたことはやらなければ気が済まないタチの私は、スコップ探しを先程よりも慎重に再開した。

 とはいえ、あと探す所と言えば、校庭にひっそりとある物置小屋か、職員室くらいだった。物置小屋には鍵がかかっていたので、先に職員室を探すことにする。


 記憶と違って不気味な程静かな構内は、けれど血痕なども無く、体育館に比べればまだ安心できた。


「……え?」

 目的の職員室には着いたものの、当の職員室の窓は開け放たれていた。それも一部が割れて穴が空いた状態で。

 ぐるりと辺りを見渡す。動くものも、怪しげなものも無い。

 私は一応周りに目を配りながら、職員室のドアに手をかけてみる。やっぱり鍵が掛かっているようだ。ドアが施錠されているから、中に入りたい誰かは窓を割ったのだろうし、それも当然だけど。

 とにかく中に入るのにまた鍵を探さないといけない手間が省けたのだ。私は遠慮なく窓を乗り越えて、知らない誰かに続いた。


「誰か居ますかー?」

 銃を握りしめ、さっと職員室内を見る。呼びかけには誰も答えない。

 ゾンビだったらあんな窓の開け方もしないだろうし、校舎内を見てもうろついているとは到底思えない。感染していた人間が室内で理性を失っている可能性もあるけど、呼びかけないと他の生きている人には会えないだろう。


 しばらくの間呼びかけてみたが、答えてくれる人は現れそうになかったので、諦めて職員室を物色する。


 結局、見つかったのは飲みかけのペットボトルだけ。飲むのは気が引けるけど、とりあえず背負ってきた避難用の薄いリュックに放り込む。あとは鍵だけど、これは何度か借りに来たことがあるので、場所も知っている。

 壁にズラリとかけられた鍵のタグを注意深く見る。

「物置……これかな」

 他にもそれらしい鍵は無いか探していくと、体育館の鍵の他に、保健室の鍵も無いことが分かった。先に来た誰かが持っていったのかもしれない。

 保健室に用があるなら、ケガをしていたか、もしくは休むためにベッドを使いたかったかの二つだろう。


 どうしても、期待せずにはいられなかった。気づけば私は駆け出していた。


 謝りたいことがあった。言いたいことは、たくさんある。そのどれもが、あの部屋に閉じ込められる前の後悔を含んで重かったけれど、もし会えるならどうしても伝えたいことだった。

 

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