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赤眼ゾンビ  作者: 海月
第二章
56/99

許されることも叶わない

 自分の声が他人のように響いていた。遠く、口が動く感覚さえ曖昧になりそうな。

 頬が熱い。胸に渦巻いている感情が一体何なのか分からない。ぐちゃぐちゃと酷く掻き乱される。

 もう嫌だ、こんなこともう言いたくない。

 誰かを詰って、打ちのめすのは嫌。辛そうに顔を歪めている人を見たって気持ちよくもない。

 わざわざ私個人に頭を下げなくたって、もう分かっている。皆の前で謝った、その後の表情で悟った。皆の雰囲気がふっと和らいだ瞬間に彼は苦しそうな、絶望したような表情を浮かべていた。

 もう許さないでくれと、そんな声が聞こえた気がした。

 その時にもう私は彼を許していたのだ。


 けど簡単に許しても彼は納得できないだろうから、少しだけ、怒ってみようと思った。ナイフを持ってこいと言われて、その意図に苛立ちを覚えたからそれをそのまま貯めて吐き出す。


 それだけのつもりだった。


 許さないと言った瞬間、自分の中の感情が鎌首をもたげた。

 

 知らない筈の感情に思考を食い散らかされて、忌々しく責める言葉が溢れて留まらない。


 あなたのせいで海麗ちゃんは。

 あなたのせいで白樺さんは。

 あなたのせいでジェイドさんは!


 見て見ぬふりをしていた、抑え込んでいた筈の感情は言葉に乗るといとも容易く形を成した。

 やっと止まったのは、彼が地面に手をついて頭を下げた時だった。

 体の感覚が、周囲の空気が漸く戻ってきて、私は脱力する。波打つ胸を抑え、彼の言葉を反芻した。私達の気持ちを蔑ろにしていたのだと、震える声だった。

 それを聞いて私は、心の底から安堵した。


 良かった、いい人だった。許してよかったんだ。

 

 いつの間にか流れていた涙を拭って私は膝を折った。彼と目線を合わせ、私は嘘の無い言葉を彼に伝える。

 ありがとうと、白樺さんの時と同じような気持ちだった。

 呆気にとられた顔で固まっている彼に笑いかけ、全て話す。ナイフを持てと言われたことが嫌だったこと、反省しているその気持ちは十分に分かっていること。

 ――だから、あんなふうに私の気持ちを伝える必要はなかったこと。

「……んなこと言うなよ!」

 それなのに今まで項垂れていた彼が、目に強い光を湛えて私の言葉を遮ったものだから、私は二の句を告げなくなってしまう。

 その隙をこじ開けるように、彼は更にまくしたてた。

 

 それで良い。間違っていない。許す以前に、文句を言うことは。それは、


「普通のことだろうが!」


 さっと顔が強ばった。また同じことを注意されて、叱られたような気がした。

 唇が勝手に動いて反論しようとするけれど、その先は思いつかない。だって八木さんが言うことは真っ当な、人なら普通のことだから。だから、ただ俯いて黙り込んだ。

 八木さんはさらに重ねる。

 俺のことをもっと恨んでいいと、そう言っていいのだと。


 反駁したかった。恨んでも意味は無いし、もう彼を恨もうにも、そんな気持ちは残っていない。それなのに、彼の言う普通が邪魔をする。

 思考が止まりそうなのを、必死に動かす。のろのろと捻り出した答えは、逃げに走っていた。

「……分かったよ」

 最初こそ不満そうな顔をしていたものの、結局は根負けした八木さんにほっと息をつく。

 

 よろしくお願いしますと笑えば、彼も吹っ切れたように、笑みを浮かべてくれたのだった。


「あの、私の目、赤いですか」

 おずおずと聞くと、八木さんは一瞬怪訝そうな顔をした後、ああと頷いた。

「まぁ……泣いてたってバレるくらいには」

 私は目元にそっと触れる。そこまで腫れは酷くないようだけど、一目見て分かる程度には荒れているのだろう。

 正直、ジェイドさんには泣いていたことを悟られたくない。もう何度も彼の前で涙を流してきた。その度気遣ってくれたけれど、その後の気恥しさはどんどん募っていった。

「私ちょっと、部屋に戻ります。ジェイドさんには……」

「言わねぇほうがいいか?」

 こくりと頷く。

「その、すぐ戻るので、その間ジェイドさんをお願いします」

「見とくよ。別に遅くなっていいから、顔落ち着かせてこい」

 俺も同じような顔だけどな、と笑う。けれど八木さんはもう目の充血はほぼ引いていて、きっと私よりマシな筈だ。

 私はぺこりと頭を下げて、その優しさに甘えることにする。

 

 最初の部屋に戻ろうかとも考えたけど、海麗ちゃんがこの顔を見たらきっと何があったか問い詰めるだろう。心配もかけるだろうし、何より全て話すとまた呆れられそうだ。

 少し考えたすえ、私は一つ下の階に降りる事にした。

 今までの経験からも、感染者が入り込んでくる可能性があるこの状況から見ても、単独行動は危険だ。対抗できる武器だって持っていない。

 

 けれど今は、とにかく一人になりたかった。

 階下に誰か居るかも分からないから、階段を降りきる前にそのまま腰を下ろす。

 風の音に、ほっと息をついた。壁に頭をもたせかければ、ひんやりした感触が伝わってくる。


 八木さんは、許されたくなかったらしい。

 苦しかっただろう。彼の中では色んな思いが綯い交ぜになっていたはずだ。その中で許されることが苦しいなんて、辛い思いを選んだのは、結局は八木さんも優しい人だからだ。

 

 けれど私はそんな彼が羨ましかった。だって許されることが苦しいと思えるのは、謝罪をする先があるからだ。その後の関係があるから、その苦しみは選択できた。選択肢に入った。


 でも私は。


 遠く、置いてきた人達のことを思う。今はもう腐って、変色して、感染者のように変わり果てた姿であの狭苦しい体育館に倒れている人達。せめて弔いでも出来ればよかった。私がやったのは、悲しんで自分の怒りに変えたことだけ。

 その中に居るあの子は、私が見殺しにした。

 胸の内でどれだけ後悔して、謝って、許しを請うても、あの子から返事が来ることはない。

 許されることは、叶わない。


 せめて埋めてあげていれば、少しはこの気持ちも軽くなっていただろうか。何か、悼む物が残せれば良かったのだろうか。

 

 でも誰に聞いても答えは返ってこないだろう。この後悔を拭える人はもう居ない。


 膝を抱えて顔をうずめる。時間が経って心が離れる程、記憶から薄れていく程、それは痛烈に思い起こされる気持ちだった。

 

「やぁ」

 びく、と私は顔をあげた。唐突に掛けられた声は聞き覚えがないものだ。だから私は自責と後悔を中断して振り向く。

「あっ、」

「こんにちは」

 声に聞き覚えはなくとも、その容貌には覚えがあった。相手は唇を釣り上げ笑顔を浮かべる。

「その髪型、なかなか似合ってるじゃないか」

 トン、トンと階段を降りてくるのは、デパートを出てすぐ感染者に囲まれた時に助けてくれたあの人だった。

 

 髪はざっくりと短く切り揃えられ、何より特徴的なのは、向かって左に付けられた医療用らしい白い眼帯だ。暗い夜でも目につくその眼帯のお陰でその人と確信が持てた。

 

「……ありがとう、ございます?」

 出会い頭に褒められて戸惑いつつも、ぺこりと頭を下げた。語尾は上がってしまったが、相手はさして気にしていない様子で私の隣までやってくる。

 とりあえず自己紹介か、と口を開きかけるが、相手の方が速かった。

「その足の怪我は?」

 会話の筋が見えず、私は目を泳がせる。

「これは……カッターが刺さって」

「車に乗り込んだその日に?」

 この答えで合っているのかいないのか。とにかく相手のペースには合わせるため頷く。

「見せてもらっていいかな」

 言うや否や、長身の彼女は私の足元にしゃがみ込んだ。

 

 ナイフを持ってこなかったことを改めて後悔する。持ってきていれば、何をされるか分からないこの恐怖も少しはマシになっただろう。

 相手は助けてくれた人だけど、掴み所の無い会話が更に不安を増長させた。

 そんな私をよそに、彼女は慣れた手付きで包帯を取り去る。広範囲に血の滲んだ当て布を見て、彼女の動きが止まった。

「これも取るよ」

「何をするんですか?」

「見るだけだよ。包帯もちゃんと巻き直すさ」

 不安に駆られて聞いてみるが、有無も言わさず当て布を剥がしてしまう。

 三ノ輪さんのようにゆっくりと剥がした訳じゃないからか、鋭い痛みが走った。

「……うん、切り傷だ」

 だからそうと言っているのに、と不満が過ぎる。外気に触れると痛みが更に増すようだった。

 

 たらりと血の垂れる感覚に、私は青ざめる。

「血が」

 傷口が開いてしまったらしい。当て布に染みた血の量から考えても、止血にまた時間がかかるのだろう。

 それに、三ノ輪さんに安静にしているようにと言われたのに、このままではきっと怒られてしまう。

 顔を歪めつつ、とにかく当て布を返してもらおうと、何やら背負っていたリュックを漁っている彼女へと口を開く。

「布を、返してもらえませんか、」

 私の声など聞こえていないのか、彼女は尚もリュックの中で手を動かしている。目的の物を見つけたらしい彼女はそれを階段へ置くと、私の傷口に手を伸ばした。

 

「ちょっと痛むよ」

 怪訝に眉を寄せると同時に、傷口をぎゅっと摘まれた。まるで余計に血を出そうとしているような、強い摘み方だ。

 唐突な痛みに、呻き声を噛み殺す。汗がどっと吹き出した。

「これはお詫び。もう少し動いては駄目だよ」

 これがお詫びと言われても、いったいどれがそのお詫びにあたるのか。汗か涙かで視界が滲む。

 彼女は満足したのか指を離し、さっと傷口に何か振りかけた。消毒液の痛みを思い出してびくっと体が跳ねるが、予想していた程の痛みはない。ならばただの水だろうが、それなら三ノ輪さんがしてくれた処置と変わらないように見える。

 傷口を洗い終えた彼女は、プラスチックの容器に手を伸ばす。ぺりぺりと蓋を剥がすと、今度はピンセットで中身を摘み出す。

「これは大きな絆創膏みたいなもの。でも剥がさずに置いておくんだよ。いいね? この糊が傷を早く治してくれるから」

 言いつつ彼女はそれを傷口に貼り付けた。そしてそのまま手で抑える。

 

 まだ不安は残るものの、傷口は抑えられたようなので、はぁと息をついた。

「お医者さん、なんですか」

 額に浮かんだ汗を拭い、私は話しかける。けれど彼女は、またも質問に答えてくれなかった。

「この集団で噛まれた者は?」

 端的な質問に、私はようやく彼女の目的に気づいた。

「……感染している人は、居ないと思います」

 彼女は感染者になり得る人を探しているのだ。助けてもらった時の状況を考えれば、疑うのも仕方ないけれど、それを知って彼女がどう出るかが分からない。だから自然とはぐらかす答えになった。

 不知火さんは噛まれた人、だけど、腕ごと切り落としている。感染しているとは断言できないはずだ。

 彼女の表情を窺う。大きな変化は無いけれど、その代わりに心の内は全く読めない。


「そう、なら僕はもう行くよ。お詫びもできたことだし、もうここに用は無いしね」


 え、と目を瞬かせる。てっきり彼女は身の安全を確認したくて私に話しかけたものだと思っていた。

 

「一人で大丈夫なんですか?」

 立ち上がった彼女は私を見下ろす。その表情はまるで予想外の事を言われたとでもいうような、驚きの混じった表情だった。

「……大丈夫って?」

 思わず投げかけてしまった質問だから、彼女にとっては意図が見えなかったのかもしれない。

「一人だと危険じゃないですか。集団で居た方が休めるでしょう?」

 言えば、彼女は少しの間考え込む。そんなに変なことを言っただろうかと、心配になってくる反応だ。

「今まで一人でやってきた訳だし、平気だよ」

 ふ、と彼女は笑う。そして、思い立ったようにリュックをまたまさぐり始めた。

「もし行くあてが無いなら、ここに行けばいい。ここで僕の名前を出せば、余程の大人数でない限り何とかなる」

 リュックから取り出したのは、手のひらサイズの手帳だ。それにさらさらと何か書きつけると、破ってこちらに渡してくる。

 受け取れば、そこには住所が書かれているようだ。

「これは?」

 戸惑うが、彼女はまた答えない。そして微笑んだまま、口を開いた。

 

「僕の名前は、桜木芽」


 胸を突かれたような気がした。目を瞠り、彼女の口元を凝視する。

 聞いた事のある名前だ。正確には、苗字。

 

「最低限の安全は保証する。まぁ辿り着くのには骨が折れるだろうけどね」

 彼女はそれだけ言うと、もう話すことは無いと言わんばかりにくるりと背を向けた。

 頭の中でぐるぐると聞きたいことが巡るが、そのどれもが言葉として出てこない。

「それじゃ。運が良ければまた会おう」

 彼女は軽快な足取りで階段を降りきる。早く早くと気は急くのに、未だに衝撃が冷めず、体は動かない。

 最後にちらりと彼女の横顔が見えて、ようやく金縛りが解けた。

 

「……っ」

 慌てて立ち上がると、傷がずきんと痛んだ。思わず壁に手をつく。これでは追いかけられない。

 

 痛みのせいか先程の衝撃のせいか、忙しない鼓動を聞きながら、私は暫くの間立ち尽くしていた。


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