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赤眼ゾンビ  作者: 海月
第二章
55/99

許されることが苦しいのなら

 目の前の扉をノックするのには、相当の勇気が要った。

 それなりに強く叩かないと聞こえないかと、その力を込めるのにも躊躇う。苛立ちのように聞こえてしまいそうだったからだ。

 ノックして少し待つと、中からゆっくりとした足音が聞こえた。

 俺は緊張に唾を飲む。

「……どうも」

 自分より低い位置にある顔には驚きも困惑も無い。ドアスコープから俺だと確認していたんだろうが、それでも剣を含まない目。代わりに笑みらしいものも、歓迎する雰囲気も無いが。

「何か用ですか」

 遠くから聞いていたのとは違う、静かな声に気圧されて用意していた言葉が一拍遅れる。

「中に入りますか、八木さん」

 その隙に付け加えられた言葉に俺は目を泳がせた。頭の中で反芻していたセリフはもう使えない。

「……ジェイドは」

「起きてます」

 振り返り確認することも無い即答に、時間稼ぎは失敗に終わったことを知る。

 気まずい沈黙が流れる。その間に思い出すのは目を抉られた梅谷の死体だ。そこまで追い詰めてしまう程の恐怖に対して、どんな言葉が真摯に響くか未だに分からない。

「ジェイドさんとお話しますか?」

 せりあがった謝罪がふっと逆戻りする。俺は溜息をついて、頷いた。


 部屋に上がると、ジェイドはベッドから起き上がり、何か食べていたようだった。シャツを着て傷は見えないが、顔色が悪いことは一目見て分かる。

「八木か」

 ジェイドは俺を認めて、どこかほっとしたようだった。表情の変化に引っかかりつつも、傍に寄ってしゃがみ込む。

「あー、その、傷の具合は、どうだ?」

 昨日の今日だから、治っているはずもないのだが。

 それにその怪我の元凶は俺なので、ジェイドの方をまっすぐ見ていられない。それでももっと自然に聞けたらいいのにと思わずにはいられなかった。

 案の定、ジェイドは苦笑する。頬には痛々しいアザがあった。

「痛いし動きにくい。けどその内治るから、あまり心配しなくて良いぞ。ありがとうな、これ」

 口を開く暇を与えず、最後には椀を軽く掲げてみせる。

 俺はまた溜息をつきそうになるのをぐっと堪え、笑ってみせた。

「足りない物があったら言えよ」

「そうさせてもらう。治るまで、頼んだぞ」

 治るまでと言わなくとも、今までのように調達にはしっかりと参加するつもりだ。

 頷いて、会話は一段落する。切り出すなら今しかないだろう。

「戸倉、」

 言いかけ、戸倉の目がちらりとジェイドの方を向いたことに気付いて、続く言葉を変えた。

「ジェイド、戸倉と少し話したい。借りていいか」

 真っ直ぐ見つめると、ジェイドは何を言うでもなく、ただ戸倉の名前を呼んだ。どうするかは本人に任せるつもりらしい。

 その信頼が、やけに重くのしかかってくる。

「じゃあ外で、いいですか」

「あぁ。……不安ならそれ、持ってこいよ」

 戸倉の後ろにあるナイフホルダーを目で示す。戸倉は逡巡した様子だったが、やがてそれに手を伸ばした。

「行ってきますね、ジェイドさん」

 戸倉がナイフホルダーを腰に巻いたのを確認して、俺は部屋を出る。

 後ろから着いてくる足音は左右で床を踏む音が違う。そういえば戸倉は右足に包帯を巻いていた。

 歩調を緩めようかとも考えたが、ただのマンションでそう距離も無いので今更だった。扉を開け、共用廊下に出る。

 

 ここまで来たらもう、腹を括るしかない。意を決してまず一言目を吐き出そうとした時、対峙した戸倉が口を開いた。

 俺を憎む表情で、目に怒りを湛えて。

「八木さんは自分が何をしたのか分かってますよね」

 針でつつけば割れそうな、張り詰めた雰囲気。俺はやっとの思いで返事をする。

「あぁ。皆に迷惑かけた。特にお前達は……傷付けた」

 歯を食いしばり、がばりと頭を下げる。

「悪かった! いくら謝っても、」

「足りません。傷付けられたこと、傷付けたこと、全部全部、許さない」

 途中で遮られ、は、と目を見開く。思わず顔を上げて、ぞっとする程冷たい視線にそのまま固まる。

 心のどこかで、白樺やジェイドのように許されるだろうと高を括っていた。けど同時にそれを恐れてもいた。だから真っ直ぐした憎悪に安堵さえ覚えた。

 それなのに今、心臓が握り潰されるように痛い。

 戸倉達が来るよりも前、夜中に聞いた叫び声を思い出す。その時はただ眠りに煩わしく、苛立ちも覚えた。梅谷の死体を見た時も、最初はただの恐怖が勝った。経緯を見て見ぬふりしていた俺には信じられない虐殺のように思えた。

 だがその裏は、これだ。ただの少女が浮かべるにはそぐわない、怒りも何もかもを詰め込んで冷たい、この表情。

「海麗ちゃんは、もう限界だった。一線を越えさせたのは八木さんです。貴方は知らないでしょうけど、海麗ちゃんはストレスのせいで夢遊病にまでなってました。そこまで放置していたから、私にもあんなことが出来たんでしょうけど」

「俺は、俺はその子を襲わせるつもりは……」

「そんなこと分かってます。ただ八木さんが復讐に走ろうとしなければ、海麗ちゃんがあんな風に人を殺すことは無かった」

 言い訳をしようとした俺を遮り、戸倉は初めて声音に感情を混ぜた。

「じゃあ、梅谷のあの死体は御陵がやったのか」

 飛び散る血と、脳だろう白い塊を思い出して戦慄する。

「そうさせることを八木さんは私にもしようとしたんです」

 突き付けられた感情に息が詰まった。謝っても足りないなんて、良く言えたと自分でも思う。

「白樺さんを拘束する時にお友達を使ったのは八木さんですか」

 俺はのろのろと首を横に振る。あいつをけしかけたのは鹿嶋だった。

 戸倉の雰囲気が少し緩む。

「そうですか。……でも」

 何が続くかは何となく分かる。白樺は自分にされた事は許すと、むしろ良かったとさえ言った。

 それでも。

「白樺さんは辛そうでした」

 また厳しい響きを帯びた声に項垂れる。

 俺は、白樺が二人を助けに出ないように拘束された時の様子は知らない。ただ先の階段での白樺の表情は、見るに耐えかねた。

 気持ちとは裏腹に動いていることが丸分かりの苦しそうな顔。俺は白樺にとっては余計なことばかりしているのだろう。

「悪かったと、思っている」

 漸く出た声は掠れて、戸倉に届いたか分からない。でも本心から出た言葉だった。


「でも何より許せないのは」


 声の底にたわんで震える怒りがあった。俺の視界には、固く握りしめられた拳がある。

「ジェイドさんの優しさを、毅さを、利用したことです」

 ぐ、と唇を引き結ぶ。戸倉の怒りを理解した瞬間、目頭が熱くなった。

「ジェイドさんは八木さんに対して真っ直ぐでいようとしたのに、あなたはそれを、踏みにじったんです。私にはそれがどうしても許せない。だって、あんなに、あんなに優しい人を傷付けてまでやらなきゃいけない復讐が、あるのが、」

 ぱたりと雫が床に落ちた。ひとつ、ふたつと後を追って床に散る。

 泣いているのは、戸倉だ。

 自責が膝をつかせた。流れる涙はそのままに、手をついて頭を下げる。

「すまん、……すみません、でした。お前がそこで傷付いてることも、何も分かってなかった。白樺もジェイドも、御陵のことだって、俺は……」

 声がみっともなく揺れる。でも気付いてしまったから、せめてそれだけでも伝えたい。

「俺はお前達の感情を、ずっと、蔑ろにしてたんだな……」

 一体いつからこんなにも他人の感情に無頓着になってしまったのか。大人になるにつれ少しずつ、気遣う必要の無い人間が多くなっていったからかもしれない。パンデミックが起こってからそれはさらに加速したのだろう。

 それなのに自分勝手に暴走して、鹿嶋に良いように利用されて。

 三ノ輪は弟が死んですぐに、ジェイドも必死に走ったと、助けようとしたと言ってくれていた。その気持ちを俺は無視して、弟が死んだという事実だけ切り取ってジェイドを憎んだ。

 情けなさにまた価値の無い涙が零れる。

 そのまま頭を下げて、痛い沈黙が流れた。戸倉からの反応が無いことを訝しがり始めたとき、やっと気配が動いた。

 目線だけを少し上げる。傷に障らないようにか、ゆっくりと戸倉はしゃがみ込んだ。

「――もう良いですよ」

 あまりにも先程と違う緩んだ雰囲気に、俺は困惑した。言葉の意味を測りかねてフリーズする。

「謝ってくれて、ありがとうございます」

 その礼に、ますます困惑は深まった。それは掛けられる筈のないものだ。

「……えっと、もう謝らなくて大丈夫ですから、頭を上げてください」

 どうすれば良いか分からず固まっていると、戸倉は戸惑った様子だった。意を決して、恐る恐る顔を上げる。戸倉の目はまだ潤んで光を反射していたが、表情は屋上で白樺と話していた時と何ら変わらない。

「ごめんなさい、今何も持ってなくて」

 気遣わしげな戸倉に、今自分がどんな顔をしているのか思い出して、慌てて涙を拭った。

「お前……急に変わりすぎだろ」

「そうですか?」

 戸倉は小首を傾げるが、自覚はあるのか少し白々しい。それから腰に巻いたナイフホルダーをくるりと前に回してくる。ホルダーを示すその仕草に目を向けて、俺は絶句した。

「実は! ナイフなんて持ってきてませんでした」

 ホルダーの中身は、空だった。

 唖然とする俺に、戸倉はイタズラが成功した子どものような笑みを浮かべてみせる。

「貴方はあわよくば私に刺してほしかったんでしょうけど」

「……怒ってんの?」

 付け加えられた言葉に棘を感じて、良く見てみれば目は笑っていなかった。

「怒ってます」

 背筋に冷や汗が垂れるのを感じながら、俺は必死に思い返す。一体何が戸倉の琴線に触れたのか。いや、今こうなるまでの経緯で触れまくっている。分からないのは今までと怒りの方向性が違うことだった。

「……な、何で、怒ってるんだ……?」

 とりあえず理由を知りたかった。無言でニコニコと笑う戸倉が怖い。

「……八木さんは何で私にナイフを持たせようとしたんですか」

 俺は一つ瞬く。その訳は承知で戸倉もナイフホルダーに手を伸ばしたのだと思っていた。

「不安かと、思った。し、」

 この先をどう言ったものかと、少し逡巡する。しかし待つ体勢に入った戸倉の雰囲気に押されて、なんとか遠回しな表現を探った。

「お前の選択肢が増えればと」

「復讐も選べるように、ですか?」

 薄らと考えていたことを直截に言われ、俺は動揺した。

 戸倉の顔からは笑顔が消えていた。その代わり眉を寄せ、不満を顔いっぱいに表現する。少し拗ねるような。

 

「その気遣い、要らないです。むしろ失礼なくらいです」

 今度は俺が眉を寄せる番だった。理解できていないことを見てとったらしい戸倉はさらに言葉を重ねる。

「私を八木さんと同じ立場にしろって言ってるのと同じことなんですよ」

 胸を突かれた思いで、俺は戸倉を見つめた。

 戸倉は俺を恨んでいるだろう。だから俺がジェイドにやったようにとまでは行かなくても、復讐を望むだろう。

 そう、思い込んでいた。


 違うのだ。この少女は復讐など望んでいなかった。

「私が欲しかったのは、八木さんの反省の気持ちだけです」

 今度は少し困ったような、でも純粋な笑みを浮かべる戸倉は、あまりにも眩しかった。

「でも八木さんは許されることに疲れたような顔をしていたから……少し怒ってみようと思って。最初にナイフを持ってこいって言われて嫌だったから、その腹いせもありますけど」

 また熱くなる目頭を抑え、涙を流すまいとする。

 戸倉は俺とは真逆の場所に居る。他人の気持ちに敏感過ぎる。自分を抑えることにも、慣れ過ぎている。戸倉の清廉さの代償は自分自身だ。

「全部、演技だったって?」

 違うだろうと、確信を持ちながらも問い掛けた。

「……違いますよ。あれは確かに私の気持ちです」

 そうだよな、違うよな。あの声が、表情が、涙が嘘だったら、俺は戸倉の事をこれから信用できない。

 認めたことに少し安堵する。戸倉が自分を犠牲にすることを、俺はもう受け入れられない。俺のせいで辛い思いをさせた上、我慢させるのは耐えられなかった。

 だからそう、申し訳なさそうな顔をする必要は無いのだ。

「でも言うつもりは無かったんです。八木さんは心から悪かったって謝ってくれてるから。許されることが苦しいと思えるなら、私はもう怒らなくても、」

「――んなこと言うなよ」

 語気は自然と荒くなった。廊下に響く声に戸倉が身を竦めたのが分かる。

「良いんだよそれで。何も間違ってないだろ。許す許さない以前に文句の一つ吐き出すくらい」

 そのお陰で、俺はようやく気づけたのだ。未だ理解できていなかったお前らの気持ちにも、いつの間にか人として欠けていた自分にも。

 お前の怒りは必要の無い感情なんかじゃない。抑えるべきものでも無い。吐き出せるなら吐き出せ。

 だってそれは、

 

「普通のことだろうが」


 戸倉の目が大きく見開かれた。直後に逸らされて、浮かんだ感情は分からない。

「でも、」

 小さな声で何やら反論しようとしたようだが、結局黙り込んでしまう。

 俺はなるべく穏やかに聞こえるように、声を落として戸倉に話しかけた。

「少なくとも俺は言ってくれて良かったと思ってる。お前が言った通り、もう許されたくなかったんだ。だから、俺の事をもっと恨んでいい。そう言って良いんだよ」

 そこまで言っても不安げに揺れる瞳は変わらない。さっきよりかは歳相応の表情ではあるが、正直もっと違う形の方が、安心できる。

 腑に落ちない顔して、嫌だとも分かったとも言えない。

 なぁ、何がそんなに、お前を頑なにさせるんだよ。

「……じゃあ、もう充分ですよね。もう言いました。八木さんも許されてくれますよね?」

 逃げられた。思わず顔を歪めるが、確かに言ってくれたことは事実だ。重ねて言っても戸倉をさらに頑なにさせるだけだろう。

「分かったよ。こんな事言える立場じゃねぇけど、許されてやる」

 本当に、どうして不遜な態度で許されなければならないのか。

 ぱっと破顔した戸倉を見て、俺は苦笑する。ここで満面の笑みを浮かべるか。

「はい! これから、よろしくお願いします」

 明るい声に、ふと許されることを憂鬱に感じていた自分がバカらしくなった。

 謝って、受け入れてもらえて、それで終わりじゃないのだ。これからの行動で、戸倉達に信頼されるかは決まる。今俺はやっとスタート地点に立てただけだ。

 弟が死んでから意識できていなかった"これから"を、俺は生きていくしかない。


 随分と後腐れなくしてくれたものだ。


「よろしくな、戸倉」

 

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