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赤眼ゾンビ  作者: 海月
第二章
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不安

「そんなに怖がることか」

「怖がらせてるのはジェイドさんです」

 不機嫌そうな声にこちらも憮然として返す。前に肩を感染者に強く掴まれて出来た青あざを見せたとき、怒った様子を見せたのはジェイドさんじゃないか。

 けれどあの時は言っていなかった事で叱られた。だから今度はきちんと言ってしまおうと、やっと体ごとジェイドさんに向き直る。

「足と腕と首。足が一番大きい傷です。後はちょっと切ったくらいです」

 隠さずに怪我したところを全て言う。これで怪我したことを怒るなら、私だって言いたいことがある。

「切った?」

 けれどさらに説明を促されて、私はどこまで言ったものか悩んだ。全て言えばまた彼にとって私は重荷になってしまうような気がした。

「……カッターで、少し」

「自分で切った訳じゃないだろう。下に居た時、何があった」

 襲われた時のことは、あまり思い出したくなかった。

 首を這うぬるりとした感触、腹を撫でる無骨な手。ただ嬲ることだけを考えていたあの目。

 少し思い出すと、次々に蘇ってくるのは感情だった。恐怖と、怒りと、諦念と。

 ますます重くなる口を動かす。

「梅谷さんに切られました。抵抗しようと、した時に」

 腹がぎゅっと竦む感覚を堪え、それだけ伝える。目を逸らしているから、彼が今どんな表情をしているかは分からない。ただ絶句したような雰囲気は伝わってきていた。

 ややあって、彼が動く。

 ベッドが軋む音。彼がベッドから降りたのだ。膝をつき、あぐらをかいて座る。

 彼が居たから遮られていた、カーテンから漏れる淡い光とその微かな熱を体に感じる。

「俺が居なかった時のこと、全部話してくれ」

 何故か覚悟を決めたような、しっかりした声。ベッドから降りたのは、視線を合わせて私の話を聞こうとしてくれているからだ。

 事務的に話すだけなら、もう一番苦しいことは言った。抵抗しようとした、と言っただけで彼には私が何をされかけたか伝わったようだし、その後は白樺さんと合流するまでのことを言えば良い。

 真摯に光る翠色の瞳を見返して、口を開きかける。けれど、彼はさらに言葉を重ねた。

「起きたことじゃない、思ったことを話してくれ。怖かったとか、辛かったとか、何でも良いから」

 何故か乞うようなその言葉に、胸がぎゅっと苦しくなった。まるで重荷になっても良いと、許すみたいな言い方。

 抑えていた感情が爆発しそうだった。

「……いやです、言いたく、ない」

 首を振り、言葉少なにその優しさを拒絶する。気を抜くと感情が溢れてしまいそうで、息をするのも躊躇う。

「どうしてだ」

 それにも答えられず、ただ首を横に振る。彼を困らせていることなんて分かっている。でも言いたくない。


 一回、二回、深呼吸をしてなんとか気分を落ち着ける。

「……もう、いいんです。海麗ちゃんと三ノ輪さんが助けてくれましたから」

 これ以上その事をつつかれたくない私は、会話の流れなど丸っきり無視してジェイドさんに問いかけた。

「それより、ジェイドさんは、どうして八木さんの所へ行ったんですか」

 彼は明らかに困惑している雰囲気だったけれど、私は気にせずに続けた。

「穏やかに話し合いなんて、出来る訳ないじゃないですか、あの人に」

「……けど、行かないと話し合いすらできないだろう」

 話をすぐに元に戻す気はなさそうで、少し安心する。同時に彼の言葉に不満のようなものを感じた。

「結局ジェイドさんは怪我したのに? それにジェイドさんはあの人に対してやり返さなかったんでしょう」

 化け物と戦った後、弟が死んだと知った八木さんが拳を振り上げても、避けようとしなかった彼だ。その死を自分のせいだと言って、あの人の暴力を甘んじて受け入れようとする彼が簡単に想像できる。

 それに駐車場で感染者にナイフを振るおうとしたときに割って入ったあの人の動きと、今のジェイドさんの痣の多さを見て、彼は暴力を振るわれても殆ど抵抗しなかったことがうかがえるのだ。


「危ないって少しでも思ったのなら、行かないで欲しかったです」


 ぎゅっと唇を結んで、ジェイドさんを見据えた。彼はただ瞠目して、何か言う気配はない。

 彼の追及から逃れられて余裕が出来たぶん、彼の行動に対する不満が頭をもたげた。

 

「怪我した事を隠したら迷惑だって、ジェイドさん言いました。それなのに自分は隠し事をするんですか?」

 彼が一つ瞬いて、それから苦々しげに顔を歪めた。

「じゃあ全部話せば何か解決したっていうのか? あれは俺と八木の問題だったんだ。海音に言っても」

 その先の言葉を聞きたくなかった。だから、私は声を張り上げて遮る。

「私は! 一人で居ることよりも、梅谷さんに触られたときよりも! ジェイドさんや白樺さんが危ない目に遭ってるって知った時の方が怖かった、ずっと不安でした!」

 言ってしまってから、私はそうだと一人で納得する。

 世界が感染症に侵されてしまってからは、ずっとジェイドさんと一緒だった。その後に白樺さんも。それが普通だった。異常な世界での普通だった。だから二人が居なくなってしまったら、きっと私は何も出来なくなる。途端に弱くなってしまうはずだ。


 ジェイドさんは呆気にとられたように目を見開いている。

 たった数ヶ月しか一緒にいなかった私にこんなことを言われるなんて、彼にとっては想像も出来なかったかもしれない。


 あぁでも怖かった、なんて言ったら、結局また彼に気を遣わせてしまうだろうか。あの時のことを言いたくなかったのはもう彼の重荷になりたくないからだったのに。


「確かに私に言っても何も出来なかったかもしれないけど……」

 声は拗ねた子どものようだった。

 私はいつもジェイドさんに助けられてばかりだから、彼のためにできる事なんてない気がしていた。だからジェイドさんが八木さんに呼び出されたと知ったときも、一人で無理してまで探そうとは思わなかった。

「でも相談してくれたら、私なんかでも頼ってくれたら、出来ることは探します。探させてください」

 もっと対等になりたい。信じてほしい。

 その言葉を吐くには、まだ自分は弱いけれど。

 ちょっとだけすっきりした気分で笑う。自警団に絡んだ感情も、居なくなった人達のことを悼めなくなった寂しさも、きっと私は抱えていられる。だって今、たくさん心配してくれる人がいるから。白樺さんや、海麗ちゃんや、蛍さんに、三ノ輪さんもすごく気にかけてくれる。

 その中でもジェイドさんは。


 彼は私が言いたいことを言い終えたと判断すると、軽くため息をついた。彼の顔には苦笑ともつかない、困ったような微笑が浮かんでいた。

「……分かったよ」

 その言葉に、少しは私の思いが伝わったのだろうかと安堵する。

「何かあったら言うようにする。……心配させて、悪かった」

 謝られて、私は思わず眉を下げた。心配したのは自分のことなのに。

 でも怖いと、不安だったと言ったら、それは彼を心配していることになるだろうか。

 そう思ったら胸を締め付けていた自己嫌悪が少し薄らいだ。

「本当に、もう隠し事はしませんか」

「あぁ。もうしない」

 念を押すと、穏やかに返された。それに甘えて、もっと聞きたくなってしまう。

 でもぐっと我慢して、私は聞き分けの良い素振りを見せる。

「じゃあいいんです。もっと心配させてください、悪かったなんて言わないで」

 身を乗り出す。ジェイドさんがふっと目を細めた。


 彼が手を伸ばして、私の頭にそっと置く。何故か耳の横から回り込むような動きで、梅谷さんに触れられた時のような恐怖も不快感もなかった。

 その手の温かさにふわりと気持ちが緩んだ。それでようやく自分がずっと気を張っていたことに気付く。心の底ではまだ二日前の緊張から抜け出せていなかったのかもしれない。

 けれどその心地良さを感じていたいと思う前に気恥しさがどっと襲ってきた。前にもこんな風に頭を撫でられたことはあったような気がするけど、その時はもっと気持ちが混乱していて、恥ずかしくなる余裕なんてなかった。

「ジェイドさん、」

 羞恥が顔に色として出てしまう前に、身動ぎして手を離してもらおうとする。思った通り手は離れてほっとするのもつかの間、おろすと思っていた腕はそのまま肩へと回されて、ぐっと引き寄せられた。

 腰が浮いた中途半端な姿勢になったのを、ジェイドさんはそのまま抱きとめるようにして抱え込む。

 

 あまりにも急な出来事に思考が止まって、何か言おうにも言葉が浮かばない。ただ身を固くして、息をひそめる。

 彼が着ている服からは、知らない人の匂いがした。きっとこの部屋で見つけたものだからだ。視界いっぱいに広がる白色の向こうから、とく、とく、と心臓の音が微かに聞こえてくる。

 

「ありがとう、海音」


 頭上から声が降ってきた。囁く声量でも、それはしっかりと聞こえたけれど、どうしてお礼を言うのかが分からずに私は困惑する。

 それにそのありがとうに込められた感情が、ただ胸をざわつかせた。何故か翠色の瞳を思い出す、それは不思議な既視感だった。

 既視感の正体を探ろうにも、既にその感覚でさえ淡く薄れていく。あぁ、と何故か惜しい気持ちになりながら、既視感が消えるまで追い続けた。

 暫くしてそっとジェイドさんが腕を解く。私も元の位置に腰を落ち着けて、若干ぼんやりした気持ちから切り替える。

 切り替えた、と言っても気恥しさは頂点に達しているので、彼から何となく目を逸らした。

「ジェイドさん、その、あんまり急にこういうことをするのは……」

 ん? と視界の端でジェイドさんが首を傾げる。その様子を見て、私は唐突に悟った。

 この人、私のことを子どもだと思っているんじゃないだろうか。

 いや、今も実際子どもだけれど、もっと幼く見られている気がする。それこそ性別の境なんて気にも留めないくらいの、幼い子ども。

「やっぱり何でもないです」

 ふんとそっぽを向く。

 分からないなら、それで良い。私達の間にそんなもの無くて良い。むしろ最初から性別など気にしていなかったから、彼と気兼ねなく話せて、一緒に居れたのかもしれなかった。

 彼の側が心地いいのもきっとそのせいだ。


「そこまで言ったなら言え、気になるだろう」

「い・や・で・す」

 

 何だよ、と彼が小さくぼやく。私はごめんなさいと返しながら、堪えきれずに声をたてて笑った。

 


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