始まり 3
必死にハンドルを駆りながら、頭の中で地図を思い浮かべる。向かっている方向は何となく当たりを付けているが、正しい道を走れているかはまだ少し確証が足りない。
後ろから追ってくる感染者はいないようだが、他の感染者に気づかれるのも時間の問題だろう。とにかくどこか停まれるところを探さなければならない。
十数分走らせたところで、周辺の景色が見慣れたものに変わっていることにふと気づく。
確かに狛平市方面へは走らせていたが、案外早く市内へ入ったようだ。ここまでくればもう迷う心配はないだろう。
だが感染者の脅威はどこも同じだ。確かこの辺りに研究所はあったから、一掃が行われているかいないかで状況は変わる。
速度を落とし、辺りをうかがう。遠く、まだこちらに気づいていないらしい人影が見えた。
ふらふらと覚束無い足取りからして感染者だろう。
ハンドルを握る手に思わず力がこもる。これから先、感染者との対峙は避けては通れない。
意識的に息を吐き、深く吸う。今までのように援護してもらえることもないこの状況に、目眩がしそうなほど緊張していた。
ナイフはまだ使える。銃の弾も後ろに十分あるはずだ。戦う手段を持っていることが、幾許か気持ちを落ち着かせる。
のろのろと車を走らせるが、他に感染者が出てくる気配はない。
サイドミラーで後ろから何も来ていないことを確かめ、ゆっくりと車を止める。
背後の小窓から、中を伺う。誰もが俯いて、揺れが止まったことに気づいてないようだった。どうやら眠っているらしい。あの女の子も、伏して小さく丸まっている。
そのことに少し安堵しながら、意を決してドアを開ける。
感染者までの距離はあと五十メートルといったところか。見る限り外傷は無さそうで、血が染みて黒く染まった衣服や、異様な挙動さえ無視すれば俺たちとなんら変わらないように見えた。
この病の感染経路は主に罹患した者の体液に触れることだ。だから噛まれるだけでなく、目鼻や口などの粘膜から感染することも有り得る。性行為での感染も、可能性はあるだろう。
だからこうしてほぼ外傷の無い者がいることもあり、また本人の知らぬ間に感染していることも少なくないのだ。
そしてその無自覚の感染を避けるためにも、返り血や、垂れ流される涎に気を払わなければならない。
きっと唇を結ぶ。
最初はゆっくりと、やがて顔が見える程度になったところで走り出す。半長靴が出す硬い音が己の耳にも届く。
足音に気づいた感染者がぐるりと頭を巡らせた。充血して全体が赤く染まったような目がこちらを見据える。
認識された。
そう感じた刹那、その目が唐突に近づいた。細い血管が目玉を支配するようにのたうっている。感染者が走り出したのだ。
込み上げる吐き気と恐怖を飲み込み、左腕を相手のこめかみめがけて振り抜く。鈍い音とともに相手の体が振れた。感染者は体勢を立て直したいらしいが、綺麗に側頭部へ当たったのだ、それも難しいだろう。
感染者は平衡感覚を失って体を揺らしながらも、口を開けて手を伸ばす。
回復してしまう前にと、首を掴み、そのこめかみへナイフを突き刺した。
「ぇあ、あ、ぁああああああああ!!!」
ぐるりと白目を剥き、感染者が吼える。口の端に泡が膨らみ流れ出した。
それでも力を込め、動かなくなるまで深く突き刺した。
やがて感染者の体から力が抜ける。くたりと地面へ倒れ込むと同時に自分も膝をつく。
手がぶるぶると震えている。それでもナイフと手は糊でくっつけられたように離れない。
耳の奥で先の叫び声がこだまする。感染者だと――ゾンビだと、ヒトではない何かだと形容されるにはあまりにも人間らしく、悲痛に塗れた叫び声。
見下ろしたその顔が、ただの人間と変わらぬように見えた。
ただ痛みに苦しんで死んだ、俺と同じ、人間の。
震える手に力を込め、ナイフを引き抜く。堰を切ったように血液が溢れ出した。
俺がやっていることは、人殺しだったのだろうか。
そんな思いが胸をついて、耐えきれずにアスファルトの地面へ嘔吐する。酸っぱい匂いが鼻の奥に充満する。
口許を拭い、息を整える。
……今は。
今は誰かを守ることだけを考えればいい。人殺しだろうが何だろうが、そのためなら何だってやろう。
耳の奥に祭りの喧騒が蘇る。いいひとだ、と何故かきっぱりと言い切った声。それから、喉の奥がむず痒くなるような気恥しさと、妙な安堵感。ここに居ても良いのだと、認められたような。
だからこそ、俺は与えられた評価に値する自分で居たい。だって、誰かを守るのは"良い人"だろう。なら、そのための行為はすべからく、許されるべきだ。
だから今は深く考えなくていい。
深く息を吐く。先の目眩のするような動揺と不安は消え去り、代わりに冷たい錘が胸にある気がした。
だがなんとか気分も落ち着き、やっと周りを見る余裕ができた。運の良いことに、他の感染者の姿は見えない。やはり自衛隊によってある程度片付けられたのだろうか。
降りてからそう時間は経っていなかったらしく、女の子含め全員がまだ寝息をたてていた。また車に乗り込み、今度は少し速いペースで走らせる。
感染者を見つける度、迂回するか、対峙するかの判断を迫られた。しかしもう感染者への恐怖は随分と薄まっており、対峙するにしても、そう負担に感じることはなかった。
何体目か、ずるりとナイフを引き抜く感触にも慣れたころ。
それまで女の子以外は寝たり覚めたりを繰り返していたようだが、ついに一人は完全に目が覚めたらしい。
「あの、一体どこに向かってるんですか? 割と遠くまで来てるみたいですけど」
躊躇いがちにかけられた声に、ちらりと女の子の様子を見やる。小さく丸まっている彼女の背はゆっくりと上下している。起きる気配はなさそうだ。
「とりあえず狛平中学校へ。あそこも避難所になっていますから」
「はぁ……その狛平中学校、はまだ大丈夫そうなんですか」
男は頷きながらも、場所に覚えは無いらしく不安げな表情をする。この辺りにあまり詳しくない様子なのは、避難所をたらい回しにされたからだろう。
「分かりません」
「分からないって」
男が絶句する。不安の色をより一層濃くさせ、その目に疑心を浮かばせる。
この男に着いていっても大丈夫なのか、と。
その疑心が形を成す前に、ただ、と付け加える。
「この辺りは感染者の掃討が行われましたから、他の地域よりもずっと安全なはずです」
それを聞いて、男の雰囲気が少し和らいだ。不安げなのは変わらないが、全面的に信用してもらおうなどと考えていないので、気にせず話を続ける。
「とにかく、中学にはもうすぐで着きます。しばらく我慢してください」
車であればもう数分程度で着く距離だ。それに市内にはまだ避難所に指定されている場所が幾つかある。
男も特に異論は無いのだろう、素直に頷いている。
最後に、ダンボールの中の水は自由に飲んでいいと伝え、幌を閉じる。
だが中学校がまだ避難所として機能しているかどうかは、はっきり言って不安だった。日本で避難勧告が出されてから二ヶ月弱。その間に物資の補給が十分に出来ていた保証は無い。もし自分達で食糧を確保出来ていなければ、今ごろ避難所は虫の息だろう。
考えても仕方のないことだが、どうしても嫌な想像がちらついてしまうのだ。そもそも機能していたとしても受け入れてもらえるかどうか。
しかしそれも避難所に着かないことには分からない。
一つ頭を振って、気持ちを切り替える。あと少しで中学校だ。集中しなければ、下手を打つかもしれない。
先程のように前方を睨みつけていると、ふとくぐもった叫び声が聞こえてきた。
――後ろからだ。
何の前触れも無い事態に額が強ばった。と同時に前方に感染者の姿を認めて、車を急停止させる。
奴らはまだこちらに気づいていないようだ。
その隙に素早く後方へ回ると、また悲鳴が上がった。それはもはや聞き慣れてしまった、痛みに耐えるための叫びだ。
焦燥に駆られて、何も構えず幌を開け放つ。
そこには血塗れの喉を抑え、床に転がり手を伸ばす男がいた。口から泡を吹き、目を真っ赤にさせて、助けを求めるようにさらに手を伸ばす。
奥にはもう一人の男が、二の腕を抑えながらこちらに背を向け、必死に後ずさっている。
もはや本能的に何があったのかを悟る。
荷台に登ると、足元で血溜まりが跳ねた。助けを求める手前の男のものだろう。これだけ深く噛まれたなら感染はほぼ確実だ。そうでなくともこの出血量では助からない。
男を一瞥し、車内を見渡す。一体誰が感染者となったのか。
意識するでもなく視界に入ってきたその答えに、束の間言葉を失う。
予感はしていた。頬に付いていた血液が感染者のものでないとは言えないし、そもそもずっと抱えていた母親も感染済みであれば、その手に血液が、ウイルスが付着することもある。そして目や口を触るなと言われても、子どもが我慢できるとは限らない。
そこには、女性の首元にしがみつく、あの女の子の姿があった。流れる大量の血と金切り声がなければ、母親にしがみつく子どものように見えただろう。
「……降りろ」
呆然と女の子を見ながら、絞り出すように言う。それは腕を押さえる男への言葉だったが、男も恐慌に陥っているからか、動く気配は無い。
やがて女の悲鳴が細くなり、体からくたりと力が抜ける。
「降りろ!!」
女の子が振り返った。その目は血走り、胸元まで血で染まっている。
あぁ、もうこの子は正気じゃない。
男がやっと動き出す。震え、涙を流しながら死体を乗り越えようとする。
それに向かって女の子が飛び出した。
俺は結局、誰も守れないのか?
唇を噛む。焼け付くような焦燥と、失意で一瞬目の前が白くなる。
ブツン、と皮膚の破れる音が聞こえた気がした。途端に視界が戻り、見下ろした自身の腕に噛み付く女の子が見えた。
茫然自失のような状態でも、差し出したのは利き手でない左腕だったらしい。
左腕を水平に振り抜く。あっさりと女の子は口を離し、血とともに壁に叩きつけられた。
その隙を見逃さず、銃を抜いて構える。起き上がろうとする女の子に向かって引き金を絞った。
乾いた音が車内に響く。なかなか頭に当たらない。
当たれ、早く、殺して、守らないと、あの子を――――
スライドが後退して動かなくなる。弾が無くなったのだ。
そこでようやく、女の子がもう動かないことに気づいた。銃弾と血でぐちゃぐちゃの顔をこちらに向け、息絶えている。
じくじくと痛む腕を意識の外で感じながら、膝をつく。
は、と乾いた笑いが口から漏れた。
俺は女の子に銃を向けながら、女の子を守っているつもりでいたのだ。
のろのろと顔をあげる。車内に動くものはもう無い。
頭の奥が痺れているような感覚。周りの音も遠のいていく。
不意に疑問が頭をもたげる。世界が感染者で溢れてしまってからは、聞こえる音は限られていた。それは感染者の唸り声だったり、悲鳴だったり。
そして今、聞こえているのは。
パッと荷台に血が飛び散った。誰かの手が床の端を掴む。真っ赤な塊が荷台へ這い上がろうともがいていた。
右側の額の皮は大きく剥がれ、骨まで剥き出しになっている。その血が垂れて白目は赤く染まり、黒目は光を返していない。
それでも口元は微かに動いていた。
弾かれたように手を掴む。先に降ろした男が、呼び寄せられた感染者に襲われたのだろう。
男の足元には感染者がしがみついて、必死に肉を貪っている。
目はおちくぼみ、頬はこけてほぼ皮だけの状態から、飢えを満たすために男を襲ったらしい。そうでなければ今頃俺も噛みつかれているはずだ。
男を引き上げ、その分近くなった感染者の顔面を蹴り飛ばす。もんどりうって荷台の外へ倒れ込んだところに踵を落とし、眉間へナイフを突き立てた。
感染者の体が一度二度と跳ね、その目から獰猛さが消える。
しんと辺りが静まり返った。
他に感染者の声は聞こえず、男はもう事切れたのか荷台に半身を乗せた状態から動いていない。
もう、守るべきものはない。噛まれた自身にも、その価値はない。
ただ惰性のように、歩き出す。目指す所は家でもなく、あの懐かしい母校だった。
突然血塗れの男が来た時の反応は想像するまでもなかったが、それでも重い足を引きずり、校門へと歩みを進める。
鈍い足取りでも数分と経たないうちに学校へたどり着いた。その間感染者に出くわさなかったのは、それほどまでに中学校に近かったからだ。
誰でも良い。誰か、生きている者に会いたかった。
その一心で開け放たれた校門をくぐる。
学校が避難所として使われる場合は大抵、体育館を生活の場にする。
目の前の昇降口を無視し、校舎の壁に沿っていけば、すぐに体育館が現れた。
だが。
正面の扉はガラス張りになっており、その向こうには靴が散乱している。端の方は揃えられているものもあるが、真ん中の方は誰かが踏み荒らしたようだった。
その様子に、俺は微かに眉を寄せる。奥にあるその扉を開けない方が良いと、鈍った頭がそれでも警鐘を鳴らす。
俺はその直感的な予感を無視して、嫌な音を立てる鉄扉を両手でこじ開けた。
途端に耳障りな羽音が唸りを上げた。蝿が隙間から一匹二匹と飛び交う。次いで酷い腐臭が鼻をつき、思わず顔を背けた。
中で人が死んでいる。それも、かなりの大人数が。
開け放たれた門を見て、それでも希望を抱いていた。
感染者の侵入を防ぐためにも、普通はしっかりと閉められるはずの校門。しかしそれが開け放たれているということは、つまり。
吐き気を堪え、扉を開ききる。外からの鈍い光に照らされた死体が、元は真っ赤だったろう茶色い地面に折り重なるように転がっていた。
死が自分を取り囲んでいるようだった。唐突な孤独感が胸に去来する。
腕をさすり、唇を震わせて死体の山に目をこらす。どの死体にも噛まれた痕はない。さらに腹部や頭部から大量の出血があることから、他の感染症でもなさそうだ。
何か、人同士の諍いがあったのだ。
そう当たりを付けて、室内に足を踏み入れる。
腐っている死体は少なかった。腐っていたとしても、手足の指先が変色している程度で、それよりも腹が膨れている者の方が目についた。
どれだけつぶさに見ても、もう生きているものは居ないのだと思い知らされるだけだった。
そしてふと、自分の左腕を見下ろして奇妙な安堵を覚えた。
噛まれた箇所からもう血は出ていないことから考えても、そう深い傷ではないだろう。だが同じように少し噛まれただけで発症した者はいるから、傷の深さで判断はできない。
つまり俺は既に感染している可能性がある。そしてその場合は少なくとも一週間以内に発症するはずだ。
すっと肩から力が抜けた。同時に重すぎる孤独感も薄れていく。
何故こんなにも気が楽になったかといえば、諦めがついただけだろう。もう無理に生きる理由を探す必要が無くなったから、気負うものが無くなったから。
何となく開けたように感じる視界で、もう一度辺りを見渡す。全員の埋葬をすることはできないが、目を閉じさせるくらいなら一日も要らないだろう。
頭をめぐらし、入口の方を見た時、不意に違和感を覚えた。入口のすぐ横には体育用具室がある。
何故かその扉の前だけ、妙に死体が集まっているように見えた。
怪訝に思いながらも、特に警戒はせずそちらに向かう。
ただの偶然か、用具室に何かあるのか。大抵は中の物を運び出して食糧や生活用品を備蓄するが、状況からして武器でもあったのかもしれない。
周辺の死体を避け、扉に近づく。いくつかの弾痕と乾いた血が、扉に重苦しい異様さを持たせていた。この避難所を襲った者達は、用具室の中に目当ての物でもあったのだろうか。
けれど中に何があろうと俺にとってはどうでもいいことだ。きっと価値も無い。
無造作に扉を引く。と、何か引っかかる感触がした。数度揺らしても開かない。
「……鍵か」
開かないならそこまでだと、背を向ける。そうして別のことへと意識を向けかけたとき。
音が聞こえた。
カン、カン、と扉に金属質の物をぶつけているような。あまりにも弱々しく、今にも消えてしまいそうな音だった。
何か居る。人か、違うものか。始めは一定だった音の間隔が、どんどんと伸びている。音の主が疲れてきているのかもしれない。本当にこの扉の向こうには誰か居るのか、そんなこと有り得るのか。
しかしその逡巡は、音が途絶えると同時に消え去った。




