表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
赤眼ゾンビ  作者: 海月
第二章
42/99

始まり 2

「飯村!!」


バディが俺を呼ぶのと同時、喉に絡んでいた手が外れた。体当たりのていで感染者もろともバディの隊員が隣に転がる。

 感染者が起き上がる前にと体を押さえ込んだバディに、手が空いたらしい別の隊員が駆け寄ったのを横目に激しく咳き込む。

 なんとか息を整えようと背を丸め、深呼吸して暴れる心臓をなだめる。

「大丈夫か!?」

「感染者、は……」

 背中をさすってくれる隊員に聞く。

「もう全員倒したよ。今から市民の誘導を始めるとこだ。……立てるか」

 心配そうな声に、膝が笑いそうになるのを堪えて立ち上がる。まだ心臓はバクバクと鳴っているが、ようやく十分に息が吸えるようになってきた。

 バリケードに使っていた護送車を動かし、感染者が追いつかないうちにと避難を進める。

 護送車がここに来るまでにどれほど感染者との距離を引き離せたかの情報はまだ降りてきていないから、隊員はいつでも対応できるように気を張るしかない。

 人数は一台目のときよりも少ない、二十人弱。恐怖から動けない者もいるのか、隊員が寄り添っている光景も見られる。やはり精神的負担は大きかったのだろう。想定よりも時間がかかるかもしれない。

 そんなことを思いながら図書館の入口に目を向けると、小さな影が流れに逆らって出てきた。

「あっ、ちょっと!」

 近くの隊員が慌てて捕まえようとするが、その腕をかいくぐって子どもは走る。胸には俺のヘルメットを抱えていた。

 あっという間に俺を見つけて駆け寄ってくると、ぐいぐいと服の裾を引っ張る。

「何してるんだ?出てきたら駄目だろう」

 出てきた理由は分からないが、とにかく今ここに居るのは危険だ。肩に手を置いて戻るように促す。

「かえりたい」

 か細い声だった。目にもうっすらと涙の膜が張っている。俺の動きが止まったことがわかったのか、女の子は振り返った。

「かえらせて」

 家に帰っても、もう両親はいないだろう。日常も戻ってこない。それでも帰りたがるのは、きっとこの現実を否定したいからだ。

「それは、できない」

「なんで? あんなにおっきなクルマもあるよ」

 それなのにどうして帰してくれないのかと、その純粋な疑問に答えるのは簡単だった。家に帰っても無駄だと伝えるだけだから。

 そんなことは、できるはずもなかった。

「……駄目だ。もう家には帰れない」

 絞り出すように言う。幼い子どもにはどれほどの苦痛だろうか。大人でさえ身を投げる者がいるこの状況は、子どもに耐えられるものなのだろうか。

「やだ」

 頑として首を横に振る。止める間もなくその目から涙がこぼれ落ちた。

「かえる。……ぜったいかえるっ!」

 それはもはや悲鳴のように響いた。周りの視線が一斉に向けられる。誰かが舌打ちをする。

 大声を出せば感染者が寄ってくることは、今や常識だった。

 誰かに指示されるでもなく女の子を抱えあげ、口を手で塞いだ。泣くことさえ疎まれるこの状況が憎かった。

 女の子を図書館まで連れていく。と、何故か人が避けていった。まるで怯えているようだ。


「その子ども、他所へやってくれ」

 剣を含んだ声で男性が言う。後ろには家族だろうか、女性が小学生くらいの男の子の肩を抱いている。

 男の子がべそをかきながら指をさす。

「その子、人の頭もってた」

 ひっ、と誰かが息をのむ。会話が聞こえただろう周囲の人達が後ずさった。

 先程の怯えたような視線と、今の会話。女の子が帰りたいと言い出したことに合点がいった。

「そんなもの持って、感染してるかもしれない。それにその顔、お前は知ってたんだじゃないのか? なのにここで面倒見てくれって?」

 冗談じゃない。吐き捨ててこちらをきつく睨みつける。


「……大人は見殺しにしたくせに、子どもは助けるの?」

 唐突にあげられた声はどうやら制服を着た女子高生から発せられたらしい。

 腿の辺りで握りしめた拳が震えている。

「お父さんは助けてくれなかったくせに! ただ熱があっただけで、噛まれてもなかったのに! なのに、自衛隊はっ……!」

 その悲痛な叫びからは、自衛隊への憤りや失望がありありと見えた。

 きっともう、我慢ならなかったのだろう。

 何も言い返せず、ただ目を伏せる。

 命の選別はかなり早い段階から始まっていた。噛まれた者はもちろん、熱がある者、暴力的な者も対象に避難所への誘導を取りやめた。――直接的に言うならば、見捨てた。

 それは政府からの指示じゃない。誘導を行った駐屯地の、あるいは隊の判断だろう。俺が出動していたときにも、実際に噛まれた者を護送車に乗せなかったことはある。

 暴れたり、懇願したりする市民を抑える自衛官の顔は、いつだって苦しげだった。


 周りから向けられた視線は、いつの間にか困惑から責めるようなものに変わっていた。

 重苦しい雰囲気がその場を包む。その空気にはどこか自衛隊に対する嫌悪のようなものが混じっていた。


 ……感染者を素通しにすればどうなるのか、分からないわけじゃないだろうに。そのうえで素通しにしてしまった責任を負うのは俺たちだ。

 それに誘導の取り止めを批難するならば、この子は受け入れられるべきだろう。

 近しい者を喪った痛みはさんざん喚くのに、見知らぬ者には目を背ける。

 助けろと言い、助けるなと言う。


 お前らは、いったい俺たちに何を求めているんだ?


 抱えていた女の子を下ろす。

「…………その判断は、全てあなた方を守るためのものです。どうかご理解を、お願いします」

 下した判断を遂行した隊員の胸中を思えば、どれだけ詰られようと謝る気にはなれなかった。


 悔しさを押し込め、絞り出すように言う。

「この子は、他の避難所へ移します」

 ふっと男性と幾人かの空気が緩んだ。口を開きかけた女子高生もたじろいだように黙り込む。やはり母親の頭を抱えているというのは、それだけで恐ろしいのだ。それがまた腹立たしくて、感情を殺すために下唇を噛む。

 しかしこれは根底に大切な人を喪いたくないという思いがあるからこその矛盾だ。その矛盾は、理解しなければならない。


「……わたし、かえれるの?」

 女の子が期待するように言う。

 返事は一拍遅れた。それだけで帰れないと女の子は察したらしい。

 顔が歪み、また涙がこぼれ落ちようとした瞬間。女の子がくるりと背を向けた。

 あっと思う間もなく駆け出し、慌てて手を伸ばすが虚しく空を掴む。


 飛び出した背中を追おうとしたとき、にわかに外が騒がしくなった。図書館の入口から数人が走り込んできた。

「ゾンビが出たぞ!」

 うち一人が叫ぶ。途端に館内がざわめいた。

 思わずたたらを踏んだその隙に女の子が入口にたどり着く。

「その子を止めてくれ!!」

 声を張るが、咄嗟に動ける者はいなかった。むしろ何事かと動きを止める。

 するりとその小さな体が扉をくぐるのを見て、頬が強ばった。しかし外に出れば人が居ないぶん、追いつくのは容易い。

 ちらりと左に目を向けると、感染者に組みつかれた隊員が見えた。そこから広がる血溜まりも。

 大股で一歩、女の子に手が届く。同時に発砲音が一つ。

 次に凄まじい泣き声が耳をつんざいた。いったいその小さな体のどこから出るのかと思うほどの泣き声だった。

 嫌だ。帰る。ただそれだけを繰り返して女の子は喚く。

「何をしてる!! 早くその子を中に――」

 上官が弾かれたように顔をあげる。何に気づいたのか、さっと顔色が変わった。

 泣き声に混じる、獣のような咆哮を聞き留める。

 その場に居る誰もが一瞬、動きを止めた。


大賀(たいが)班長、こちらもう撃たせます!」

 我に帰って叫ぶのは感染者の第二波に対応する班の班長だ。

 八九式小銃を構えた隊員が道路の中央に慌ただしく並び始める。

「頼みます!各員、待機位置につけ。……飯村」

 こちらを向いたその目に堪えるような色が浮かんでいるのを見て、女の子を抱える腕に力がこもった。女の子は先程と違ってすすり泣きに変わってはいたが、やはり帰りたいと訴えている。


「……それは母親か」

 ヘルメットから垂れる長い髪をみとめて、上官は女の子が受け入れられなかった理由を悟ったらしい。この状況下では、誰かを排斥し追い出すのに手間はかからない。

 近くなる感染者の咆哮を聞いて、胸の底に熱い悲しみが広がるのを感じた。

「俺にはもう、何が正解なのか分かりません」


 手を差し伸べたは良いものの、この子は結局ひとりぼっちだ。さらに孤独感を強めさせただけだ。

 自衛隊の矛盾を暴かれて、弁明もできずに逃げた。隊員がどんなに苦渋の決断を下したかも言えなかった。

 この子の慟哭は、ただでさえ気の立っている感染者をさらに刺激しただろう。


 全ては俺の軽率な行動が招いたことだ。俺のせいで隊は今、不要な危険に晒されている。


 目は熱く、視界は揺らいだ。


「確かにお前のやったことは正解じゃないだろうな。もっと上手いやり方はあった」

 丸投げした俺が言えたことじゃないが、と苦笑して付け加える。

「でも正しい。人間としてやるべきことをやろうとしたんだ、泣かなくていい」

 指摘されて、堰を切ったように涙がこぼれた。何も言えずに首肯して、雑に涙を拭う。今は泣いている場合じゃない。

 整列が完了する。咆哮も一段と近づいたようだ。

「飯村、護送車にはまだ市民が残ってる。そこにその子も乗せておくんだ。何かあったらお前が運転しろ」

「了解」

 できるところまで責任を取れと言外に言われたようで自然と背筋が伸びた。

 踵をかちりと合わせて敬礼する。女の子は泣き疲れて眠っているようで、片手で容易に支えられた。


 車の後ろに回り幌をあげる。驚いたように顔をあげるのは三人の男女だ。手短に状況を説明し、女の子が母親の遺体を手放さないことも付け加える。頷いた彼らは、忌避するように遠巻きにしたが、それでも車から降ろせとは言わなかった。

 泣いたからか熱がこもっている背中を支え、起こさないようにゆっくりと壁にもたれさせる。

「外で何があっても出てこないでください。……あと、この子が起きたら、家に帰れることを伝えてもらえますか」

 戸惑いながらも全員が頷いたことを確認し、しっかりと幌を閉じる。


 声をあげて泣いたところで、銃声が飛び交うなかでは感染者のもとへは届かないだろうが、油断はできない。最初からこうして嘘をついておけば良かったのだ。


 ついに号令が放たれた。耳に轟く発砲音が新しい感染者を引き寄せることは前提で、それまでに撤退して人がいない状態にする算段だった。

 倒れる感染者を盾に少しずつ前進する群れを、はやる気持ちを抑え見つめる。


 意識の網を広げるようにしてその攻防を静観していると、空気が僅かに動いた。


 反射的に構えるより早く、目の前で影が動く。


 まずいと思ったその時にはもう、影は待機していた隊員に噛み付いていた。

 首筋を噛まれた隊員が後ろに仰け反る。抵抗しようともがくが、呆気なく肉を食いちぎられて、首から血を吹き出させた。

 早鐘を打つ心臓を宥めながら、銃を取り出す。射程距離には入っている。


 八九で応戦している班は誰もこの事態には気づいていない。一番近くで耳を聾する銃声を聞いているのだから当たり前だ。

 待機している他の隊員は、数名が気づいたようで、こちらも銃を構えた。


 だが、俺を含め、誰も引き金を引けずにいた。撃てば背後で戦っている隊員にあたってしまうかもしれないからだ。その上、感染者と化した隊員はヘルメットを被っている。当たったとしても意味が無い可能性が高い。


 それならば、ナイフを使うしかない。


 そう結論付けるが、喉の奥につい先程感じた息苦しさが蘇る。

 荒くなっていく呼吸を意識の外に感じながら、手の震えを抑えこみ、なんとか銃を仕舞う。

 幸い感染者は、元同僚を食らうことに夢中のようで、まだ動く気配はない。


 ここで食い止められなかったら、この避難所は意味を成さなくなる。

 ぐっと奥歯を噛み締め、ナイフをホルダーから引き抜いた。張り付いたようになっていた足を引き剥がして、地面を蹴る。

 視界のなかで、迷彩柄がぴくりと動いた。気づかれたのかと頬が強ばった瞬間、感染者が前――八九を構えた隊員たち――へと飛び出した。


 手を伸ばすが、届くはずもない。

 振り返った隊員の驚いた顔が苦痛に歪むまでが、妙にくっきりと見えた。

 横にいた隊員が八九を放り出し、噛みつく感染者を剥がしにかかる。背後で誰かが叫ぶ声が聞こえた。


 絶え間なく聞こえていた銃声が乱れ、その隙を縫うように感染者たちが前に躍り出た。その数は十人を超えるか、超えないか。

 感染者を引き剥がすことに成功した隊員が、思い切り感染者を突き飛ばす。

 その間に噛まれた隊員に駆け寄ると、肩と首の間を抑えて痛みに呻いていた。手からどくどくと溢れる血が服を黒く染めていく。

 この傷なら止血さえできればなんとか持つだろうが、高確率で感染しているだろう。

 しかし見知った顔が痛みに喘いでいるのを、放っておけるわけがなかった。

 

 隣で隊員が素早く八九を構え直し、先の元隊員へとその銃口を向ける。

 その隙に負傷した隊員を背に担ぎ、重さで鉛のようになる足を叱咤して救護班のところまで走った。

 救護班の下へ隊員を連れていくと、その班員は目を見開き、恐々とした表情で背後を見つめていた。

 いったい何事かと振り返ると、ぱっと目の前に赤い色彩が広がる。


 夥しい量の血液が、地面にばらまかれていた。


 小銃を抱えた隊員が数人、感染者に向かってがむしゃらに引き金を引いている。その目の前では血溜まりと、痛みに呻く隊員が地に伏していた。それに折り重なるようにたおれているのは感染者だ。

 待機していた隊員たちが負傷者の回収に走ろうとするが、銃撃と感染者の板挟みでそれも叶わない。


 たった一人欠けた途端に、状況は激烈に変わってしまった。


 一人が噛まれたという事実が、隊員を大きく動揺させ、照準を狂わせる。死ぬかもしれない恐怖が身体の動きを奪うのだ。


 震える唇をきつく噛む。走り出そうと一歩を踏み出すが、肩を掴まれて後ろにつんのめった。

「お前はもう行け。もうこの場所には居られない。……見ろ」

 耳元で声が聞こえた。信じられない気持ちで振り返ると、やはり上官だった。

 まるでこの避難所を見捨てるような物言いに、頭に血がのぼる。

 ぎりっと奥歯を噛み、上官を見やった。しかしその目は冷ややかで、たじろぐことはなかった。

「見ろと言っただろう。図書館の入り口だ」

 冷笑を含んだ声に、何か空恐ろしいものを感じた。言われるままに上官の背後へと目をやって、すっと頭が冷える。


 内側から、バリケードが組まれていた。空になった棚を積み、中に本を積んでより崩れにくくして。


……そんなものか。俺たちがしてきたことは、その程度だったか。

 彼らにとって、俺たちの命は簡単に無視できるものなのだ。


「飯村、もう守りたいものを守っていい。隊員たちも持ちこたえられそうにない。……撤退命令を出す。お前が何をしても俺は咎めん」


 あのバリケードは、感染者の侵入を防ぐと同時に、俺たちを拒絶してもいる。そんな彼らに遠慮することなどない。つまり、不平等に誰か一人を保護しても文句は言えない。

「俺は、」

 ただ逃げろと言わない、その気遣いがありがたかった。


 上官へ心からの敬意を込めて、敬礼を送る。


「行ってこい」

 その一言に、首輪を外されたようだった。息苦しさも、恐怖も、すっと逃げていく。


 呻き声、唸り声と銃声が飛び交う。聞き知った声が背後で撤退を叫ぶ。

 血の広がる地面を必死で蹴り、護送車の運転席へ転がり込んだ。何事かとこちらを覗く気配に、振り返らず叫ぶ。

「何かに掴まってください、発進します!」


 行く当てなどない。ただ闇雲にハンドルを操り、背後の喧騒が遠ざかるまで、車を走らせた。



次回はいったん現在に戻る予定ですので、よろしくお願いします。

ご意見、ご感想お待ちしております!



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
script?guid=on
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ