きっかけ 4
痛みを覚悟して歯を食いしばる。
鈍い音が聞こえた。……痛みは無い。
「え……」
まぶたを上げると、弟が肩を抑えて目の前にしゃがみこんでいた。一気に血の気が引く。
「クワルツ!」
クワルツが振り返ると、後ろの男が動いた。いつの間にか小さな携帯用ナイフを構えていた。しかし持つ手はかたかたと震え、少しずつ後退しているようだ。
逃げる気か。
このまま放っておいてていいのか、少し迷う。分厚い眼鏡に、特徴の薄い顔立ち。眼鏡をかけていなければ今後すれ違っても分からないだろう。
追いかけるか判断に迷っているうちに、男がくるりと後ろを向いて駆け出した。思わず腰を浮かせかけた俺を、誰かの手が留める。
細い路地から男が出る前にあっさりとその人は追いつき、振り向いた男の足を払った。男は背中を打ち付けて呻く。上着の襟を掴んで多少勢いは殺したようだが、コンクリートの地面に叩き付けられてすぐに動くのは難しいだろう。
その間にナイフを取り上げて、慣れた動作で男を組み敷く。
ナオトがあんなふうに鮮やかに動くところは初めて見た。自衛官だったというのは、嘘じゃなかったらしい。
ぽかんとしている内に足音が近づいてきた。振り返ると、警官が二人、息を切らせて立っていた。一人は男を組み敷いているナオトに近づき、もう一人は俺たちの方へしゃがみこむ。中年で、落ち着いた物腰の人だ。
「大丈夫かい?」
俺は鞄を当てられただけで、痛みもない。クワルツも今は平気そうな顔をして頷いていた。
それに安堵してから、はっと腕の中を見る。ただでさえ息苦しい鞄の中で、さらに俺がずっと抱え込んでしまっていた。かなり苦しかったはずだ。慌てて鞄を開ける。
女の子の口にはガムテープが貼られ、体はブランケットでぐるぐると巻かれていた。裾は硬く縛られており、人のシルエットが出ないようになっていた。
女の子がぱっと目を開いた。怯えた黒い瞳が俺を見るが、すぐに自分をさらった男でないことに気付いたらしい。涙がじわりと浮かぶ。
「酷いことをする」
少し怒ったように警官が呟き、そっとガムテープを剥がす。俺も結ばれた箇所に手を伸ばして、固結びのそれに爪を立てて緩めていく。
拘束がほどけた瞬間に、女の子は我慢の糸が切れたように泣き出した。今度は子どもらしい、耳に響く大声だった。さらにその音量のまま、俺の首もとにしがみついてくる。もはや耳を突き刺すような泣き声だが、不思議といら立つことはなかった。
警官の肩にあるトランシーバーが何事かの連絡を発した。警官が一言返し、俺の方を見る。
「この子のご両親が祭り会場で待っているそうだ。あちらは任せて、君たちも戻ろう」
優しく促す警官に頷き返し、女の子の方を見る。まだ涙はぽろぽろと流れていたが、あの大音量は止んでいた。
「お父さんもお母さんもいるって。歩けるか」
「…………ううん」
てっきり肯定が返ってくるものだと思っていたから、少し驚く。だが首に回した腕の力が強まったあたり、歩く気はなさそうだ。
「そうか」
助けを求めるように警官を見たが、穏やかに笑って頷かれただけだった。その後ろで弟が笑いを噛み殺している。
仕方なく女の子を抱きかかえ、立ち上がる。高い体温とそれなりの重みが伝わってきた。弟にはしてやれなかったことだった。
祭り会場へ戻る道すがら、警官に女の子を見つけてからの経緯を話した。責められるかと身構えていたが、そんなことは無かった。
「君は勇気がある。……普通はなかなか迷子の子に声をかけられないものだよ。意外だろうけど、責任が生じるからっていう理由で尻込みする人がほとんどなんだ。だから、その勇気は持ち続けてほしい」
女の子の手をひいたのは殆ど成り行きのようなものだったし、きっと父親に間違われなければ、気付きもしなかったはずだ。だから本当はそんな勇気なんて持ち合わせていない。
ちらっと警官の方を見て、その目に真摯な色が浮かんでいることに気が付いた。本気で、そう思っているのだ。
なんとなく否定しづらくなって、結局頷くことしかできなかった。
「……ただ」
ふいに警官の声にすごみが出た。
「こういうことは我々の仕事だから、まず通報しなさい。いいね?それからお父さん」
口元にはやはり笑みを浮かべていたが、その口調には有無を言わさぬ何かがある。クワルツにも向けられたそれに俺達は黙って頷いた。
対してナオトはすっと目を逸らした。
「……自衛官でしたので」
「今は一般人です。追い詰められた犯人は逆上したら何をしでかすか分からないもんです。自衛隊だからといって常日頃そういう奴らの相手はしてこなかったでしょう」
ナオトの言い訳を軽くいなして、だから私たちに任せてください、と警官は念を押す。
ここまで言われたら、ナオトも頷くしかなかったらしい。
「以後、気をつけます」
「よろしくお願いしますよ」
返事は若干逃げに走っていたが、警官はそれで良しとしたらしい。
腕の中で女の子がみじろぎした。
「お兄ちゃん」
話している内に涙は止まったらしい。頬についた水滴を、ハンカチは無いから袖で拭ってやる。
「どうした?」
黒曜石のような瞳が俺を真っ直ぐに見据えていた。汚れたものなんて何も含んでいない、まっさらな目。
「お兄ちゃんはいいひとだよ」
不意打ちの言葉に目を見開く。
その真っ直ぐさのせいで、含みの無い瞳のせいで――うっかり信じてしまいそうになる。
もし俺が悪い人だったら、なんてくだらない質問に含まれた、その真意を見透かしたような答えを、このまま信じてしまえたらどれだけ良かっただろう。
俺は横に首を振る。否定しようと口を開いた。
「そんなこと――」
「Jade Florenceは、ジェイド・フローレスはいいひとだよ」
横からかけられた声は弟のものだった。混じってしまった発音は、言い直してもやっぱり少しおかしかった。二人で話すときはいつも英語だったから気づけなかったが、弟は地名や人名を日本語の発音に直すことは苦手らしい。気づけたのは、そこに冗談のような響きは微塵も感じられなかったからだった。
「俺のことも、君みたいに守ってくれたんだよ」
そして嬉しそうに、無邪気に笑って、女の子の頭を撫でる。
「気づいてくれてありがとう」
世界から灰色が抜け落ちていく。
わざわざフローレンスだと言ったのは、俺がずっとあの選択を、ジェイド・フローレンスだったときの選択を後悔していることを分かっていたから。まるでその後悔は間違っていると伝えるために、その名前でいいひとだと肯定したようだった。
気を抜けばすぐにでも涙が出そうだ。世界が色付いていくのが分かる。女の子の黒髪が陽の光を受けて動くたび艶やかに光った。
「クワルツ、嘘は駄目だろ」
ナオトが少しむっとした様子で言う。それに対してクワルツが笑い声をあげた。
「お兄ちゃん、あのお兄ちゃんも、まいご?」
クワルツが軽い調子で謝っていると、こっそり女の子が耳打ちしてきた。そのおかしな発想に今度は俺が笑う。
「ううん、俺の弟。クワルツ」
「くあるつ? お兄ちゃんは、ふ、ふー……?」
女の子にはちょっと難しかったらしい。危うい発音だ。それから首を捻って思い出そうとしているのはファミリーネームの方だろう。
「俺はジェイド。言えるか?」
「……じぇーど?」
「うん」
はっきり言ってもう会うことは無いだろうと思う。でも女の子がいつか思い出すときには、ただの誰かというよりも、名前と一緒に思い出してほしいと思った。名前の分からない誰かに埋もれたくない。
そういえばこの子の名前も聞いてなかったなと思い至って、女の子を覗き込む。
「そっちは?」
女の子がきょとんとする。ややあってから、意味を理解したのか、笑顔になった。
「とくらあまね!」
元気にそう言って、女の子は――あまねはにこにこしながら付け加える。
「あまねはね、海に音って書くの!私もうかんじで書けるんだよ」
名前を聞いたらやたらと嬉しそうだったのは、漢字で書けることを自慢したかったかららしい。得意げな表情だ。
「すごいな。俺は漢字は苦手だったから、覚えるのは大変だったのに」
訓読みやら音読みやら、送りがなに書き順と漢字は一文字のくせに覚えることが多すぎる。それがずらりと並べられている様を見るとめまいがした。
だから、このくらいの歳で漢字を覚えようとするのか、と妙な感心を覚えていると、鋭い声が聞こえた。
「海音!」
正面から母親らしき人が駆け寄ってくる。海音も身を乗り出しているから、そうなのだろう。そのまま母親は海音を腕のなかに収めた。
娘の無事を確認した母親が、今度は視線をこちらに向ける。最初は警戒するような目だったが、隣にいる警官を見て、少しだけ表情が和らいだ。といっても困惑しているような雰囲気だ。
「そちらは……」
人が多い道端で話すのもなんだからと会場に入り、警官がいきさつを説明する。
海音の両親は娘が誘拐されたと聞いて顔を青くさせたが、話を最後まで聞き、ほっとした様子だった。
「迷惑をおかけしてしまって、本当に、すみません。誰にも怪我はなかったんですよね?」
恐る恐る問う母親に、警官が頷いてみせる。
「良かった……」
眉を下げて笑う。それから深く腰を折った。
「皆さんがいなかったら、この子とはもう会えなかったかもしれない。なんてお礼を言ったらいいか…………ありがとう、ございました」
つかの間の後の言葉は、震えていた。どれだけ海音を大切に思っているかを、その声は雄弁に語っていた。
「僕からも、感謝を。本当にありがとう。僕たちにはこの子しかいないんです。絶対に、喪いたくない子なんです」
妻の肩に腕を回し、さすりながら父親が言う。母親の足にくっついていた海音が不思議そうにその様子を見つめていた。
きっとまだ幼い海音には充分に理解できないだろう。親からどれだけの思いをそそがれているかなんて。海音を呼んだときの母親の目には、強い光が宿っていた。子どもを見て安心するのではなく、その周りを囲うものをまず警戒していた。
ちらっとナオトを見る。目の前の親子を見つめるナオトは微笑んでいた。……本当の親子だったら、と一瞬考えて。
「お礼だったらこっちに」
とんとんと肩を叩かれて、はっとする。
「俺は、むしろ俺のせいで」
視線をこちらに向けられて、とっさに顔を伏せる。それから、海音に言われたことや、警官のあの真剣な目を思い出した。
「……気にしないでください。海音さんに怪我がなくて、良かったです」
父親がいや、と首を横に振った。一歩前に出る。
「ありがとう。君は娘の命の恩人なんだよ。大げさなんかじゃない、本当にそうなんだ。だから、ありがとう」
重ねるように母親がまた頭を下げる。
こんなに感謝されたのは、初めてで、戸惑ってしまう。命の恩人だなんて、俺には過ぎた言葉だと思う。
……それに、感謝したいのは、俺もだった。
「すみません、そこらで勘弁してやってください。うちの息子はこういうの慣れてないんで。顔まっかでしょ」
割って入ってきたナオトが茶化すように言うと、海音の両親は初めて朗らかに笑った。
助けてくれたのか、ただ茶化したかっただけなのかはわからないが、顔が赤くなっているのは事実のような気がしたから、顔を背ける。
「でも今の内に慣れておいた方がいいかもしれない。多分、というか確実に警察から感謝状が贈られるから」
警官のその言葉にぎょっとする。冗談じゃない。
「クワルツ、代わりに」
「やだ」
即答だった。思わずため息をつく。
「いいじゃないか、別に」
恥ずかしがることじゃないだろ、とナオトは気軽に言うが、こちらとしてはもう目立ちたくないのだ。
「私としてはぜひ受け取ってもらいたい。……と」
警官が苦笑したところで、もう一人の警官がやってきて耳打ちをする。
「では私たちはそろそろ。数人を見回りにあたらせたので、どうぞ楽しんで。戸倉さんは少しだけ話が」
そう言って警官が両親と話し始めると、自分は関係ないことを悟ったのか、海音がトコトコとこちらにやってきた。
「じぇーどお兄ちゃん」
「ん」
視線を合わせるようにしゃがむ。眉を下げ、少し不安そうな表情だ。どうしたのかと目で問うと、ためらいながらも海音は口を開いた。
「あのね……また、あえる?」
予期せぬ質問に虚をつかれて、目を瞬かせる。会えるかどうかなんて、分からない。
でも。
「あぁ。きっと会える」
こんな地元の祭りで会ったくらいなのだから、可能性が無いとも言いきれない。期待させる罪悪感はあるが、海音の寂しそうな顔を見ていると、そう言うしかなかった。
ぱっと海音の顔が明るくなった。綺麗な黒髪は母親譲りだが、こうして見ると、顔立ちは父親に似ている。
「じゃあ、わたしの名まえ、ちゃんとおぼえててね。ぜったいね」
「わかったよ」
差し出された小指に自分の小指を絡ませる。あまりにも小さくて頼りない手だったが、それでも約束は約束だった。
だから、ずっと覚えていた。高校に上がっても、防衛大に入って、目の回るような日々でも。
海音と出会ったことをきっかけに自身が急激に変わったわけじゃない。けれど過去に囚われなくなって、一歩を踏み出せたことは、緩やかに俺を変えていった。
とん、と晩酌をしているナオトの前に一枚の紙を置く。
「何だ、これ」
「読んで」
顔をあげるナオトに、短く告げる。進路希望調査書、三つある枠の、その一番うえ。
「自衛官、なぁ……」
ため息のように、呆れたように、ナオトが呟いた。酒とつまみを横に避ける。
「理由を聞かせてもらおうか?」
さっきまで呑んでいたとは思えないほどしっかりした目と声だった。
椅子を引いて、ナオトの正面に腰をおろす。
「元自衛官の父親に憧れたから、は駄目か」
「面接で言うならいい理由になるな」
この人はこんな理由で納得しないと、薄々かんづいてはいた。これもちゃんとした理由の一つだが、ナオトは別の理由を待っている。
一つ息を吸う。
「守りたいから。みんなを守りたいから。無理だと思うだろうし、馬鹿らしいかもしれないけど、全部まとめて守りたい」
俺を認めてくれたあの子や、その周りの人、ずっと見守ってくれていたユズさんやナオト、……兄想いの、弟を。
人だけじゃない。取り巻くその環境も、いつまでも穏やかに暮らせる生活も。
「……自衛隊に入ったら、守りたい人を守ることはできない。それに、全員がお前みたいな理由で入隊するわけじゃないから、徹底的に馬の合わないやつが出てくる。まぁ、これはどこに行っても同じかもしれんが」
そこまで言って、ナオトは深く息を吐いた。
「自衛官になりたいなら、防衛大に入るほうがいい。それが最短ルートだ。それなら、そうか、お前はもう帰化しなくちゃいけないな」
帰化、外国人が日本国籍を取ることだ。その呟きで自衛官を目指すことを認めてくれたのだとわかって、嬉しくなる。
「あんまり俺に似ると、人生めんどくさいぞ」
紙を手渡しながら、ナオトが忠告する。けれどその目には柔らかい笑みが浮かんでいた。
俺はナオトに向かって笑った。生意気に、挑発するように。
「子どもが親に似るのは当然だろ。望むところだ」




