きっかけ 2
結局、事の顛末を話したのはナオトにだけだった。風呂上がりに一時間とかからなかったそれは、目には厳しい光が宿っていたものの、穏やかに注意で納められた。暴力を手段として考えるな、と。
「ま、そんなこと分かってるだろうが。……先生には怒られたか」
ついでのように投げられた言葉に黙って頷く。居合わせた生徒が呼びに行った先生は、岡部が鼻血を垂らしている姿を見て目を剥き、「飯村が岡部を殴った」という簡潔な説明を聞いて反射のように怒鳴った。
謹慎処分を言い渡されたあの場にもいたが、ずっと視線を感じていた。睨めつけるというよりは、注意深く俺の反応や態度をうかがっているようだった。
「侮辱されて腹が立ったって言えばよかったろ。俺たちはあっちも悪いと思えるけど、黙ってたんならお前だけが悪くとられる」
俺は可哀想と言われて腹が立ったからとしか言っていない。ユズさんのことを言おうか迷ったが、きっといい気分はしないだろうから、言わず終いだった。
ナオトの言い方から、同情するということが時に侮辱になる、そしてそう感じても良いのだと分かって、肩の力が少し抜けた。
「別にもう良い」
既に学校は片付いたものとして胸を撫で下ろしているだろうし、今更この事情を伝えても多分、とりあってくれない。俺があとすることと言えば、謹慎の明日に登校して反省文を書くことだけだ。
「お前はまたそうやって……」
話し合いの中で初めて、ナオトの目に怒りが浮かんだ。
まただ。何故そこで怒るのかが分からない。簡単に人に手を出してはいけないから怒るのなら分かる。叱るのなら分かる。
でも、弁解を諦めてどうしてユズさんもナオトも安堵した顔を見せてくれないのだろう。もうそれで丸く収まるのに。
何も言えずにじっとナオトの目を見ていると、やがて小さくため息をついて立ち上がった。
「俺はお前が心配だよ」
行きがけに俺の頭を軽く叩く。さっきユズさん洗面所から出てきたから、これから風呂に入るのだろう。
その背中を見送って、自分も部屋に向かった。
ユズさんとナオトが暮らしていたところに二人が転がり込んだから部屋が足りず弟と相部屋しているが、今まではこれと言って問題もなかった。
けど今日は何か聞いてくるだろうかとドアノブに手をかけて少し逡巡する。
でもあいつは賢いから、こっちが言いにくそうにしていれば引いてくれるだろう。
寝るまで無言で押し通そうと思いながらドアを開けて、見えた光景にため息をついた。これでは口を開かざるを得ない。
「その体勢で一回落ちただろう」
二段ベッドの上から仰向けになって上半身を出している弟に注意する。だらんと下がった両腕をぶんぶん振って、抗議のつもりだろうか。顔は笑っているからこちらが本気でやめて欲しいことに気づいてないのかもしれない。
「その時はジェイドがまた受け止めてよ」
「嫌だよ。下敷きになった俺が死にそうだ」
そもそも初めに落ちたのは小学校の頃で、開いていた体格差のおかげで何とかなったようなものなのに。
「さっきは怒られた?」
仰向けからうつ伏せになっただけで、結局上半身を出すのは変わらない弟にまたため息をつくが、本人は気にせず笑っている。
「……心配された」
ベッドに腰掛けて、弟を見上げる。弟の目には俺はどう見えているだろう。
「ふぅん。納得いかない顔してるけど、怒られたかったの?」
なんだか今日はやけにずけずけと踏み込んでくるな、と顔をしかめた。
「それが普通だろ。ナオトもユズさんも、変なところで怒る」
自分の手の甲を見つめる。右手の一部だけがほんのり赤みを帯びていた。
つかの間の沈黙の後、ぐっと頭を手のひらで押さえつけられた。次いで低い声が落ちてくる。
「怖がってないでいい加減気付けよ。お前もうジェイド・フローレンスじゃないんだから。俺だってもうフローレンスじゃない」
「何だ、それ」
訝しんで頭を動かすと重みは消えた。視界に引っ込められていく手がちらりと見えた。寝転んだらしい。
もう話す気はないのだろうと電気を消して、自分も布団に潜り込む。
閉じた瞼の裏側に今はもうはっきりと思い出せないあいつの顔が浮かんだ。それを契機に、嫌な記憶が蓋を開けたように次々と掘り起こされる。母を助けない選択をした臆病な自分を責め立てる声が聞こえる。あの時どう行動すれば良かったのか、どれだけ考えても分からなかった。
弟を守ったとあれで言えるか、俺が竦んだだけじゃないか。
__いい加減気付けよ。
今の俺はフローレンス姓じゃない。そんなこと当然分かっている。だが今も流れている血はずっと変わらない。母を殺した奴の血が俺には流れている。
そんな思いが今までもあったのだろうか、時折、どう振る舞えばいいか分からない。弟のように人懐っこい笑顔で近寄ればいいのか、皆よりも一歩離れたところに静かにいればいいのか。……結局後者を選んでいる俺はやっぱり意気地無しだ。
寝返りをうって長くため息をつく。
これからも自責の念に駆られながら、ずっと生きていかなければならない。
そう思うと鉛を飲み込んだような気分だった。
反省文を書くためだけに登校したその日。
「それ、めちゃくちゃ適当に書いていいから」
やっと思いついた初めの文句を書こうとしたところで白紙の原稿用紙を指しながら言われて、手が止まる。 対面に座るその教師は担任ではない。偶然か意図的かは分からないが、生徒の知らせを受けたあの先生だった。確か体育の担当で、ちょうど手が空いていたのかもしれない。
「何でですか」
もともとそれなりに書こうとしていたが、先生の方から手を抜けと言われるのは少し意外だった。
「他の先生には絶対言うなよ?__今朝、岡部が謝りに来たんだそうだ」
苦笑し、念押ししてから言った内容に、目を瞬かせる。
「僕も酷いこと言ったんです、って。ま、詳しい内容は教えてもらえなかったけど、大和田先生は安心してたよ」
組んだ手に顎を乗せて、にっと笑ってみせる。
「飯村も子どもだったんだなあって」
「は?」
諸々の思い__担任の感想に対する困惑やら、目の前の教師の、自分の発言が面白いと信じて疑わないドヤ顔への苛立ちやら__を込めて聞き返すと、今度はからからと声をあげて笑った。
「当たり前じゃないですか。いったい俺を何だと……」
よく分からない安心の仕方に若干呆れていると、不意に先生が笑みを収めた。視線を落としてぽつりと言う。
「ごめんな。何も知らずに怒鳴ったりして」
その謝罪に、どう反応したものかと束の間考えた。こういうとき何と言えばいいのか俺は知らない。
「……別に、気にしてないです」
結局、自分も手元を見つめながら当たり障りのない返事をした。
先生の対応は間違ってない。人に手を出すことは許されないことで、悪いことだから、先生は当たり前のことをしただけだ。
俺は殴りつけたことを、理由があるからと許されてしまうのが怖かったのだ。理由があればあの父も許されてしまうかもしれないから。だから、今では先生が怒ってくれたことに少し安心していた。
けれどそれを上手く伝えられる気はしなかった。
落ちた沈黙を、明るい声が遮る。
「そっか。ありがとな。良い奴だなぁ、ジェイドは」
しれっと下の名前で呼ぶのに、顔をあげると、先生はにやにやと笑っていた。はめられたと理解したときにはもう遅い。
「案外単純?」
「これ書いたら帰っていいですよね」
すぐに切り捨てる。先生が笑いを噛み殺そうとしているのを横目に、今度こそ原稿用紙にペンを走らせた。
インターホンが鳴った。ユズさんが玄関へ向かったのを足音で確認して、上げかけた腰を降ろす。
窓の外がオレンジに染まっている。反省文を書き終えて昼に帰ってきたのが、もう4、5時間経ってしまったらしい。そういえばそろそろクワルツが帰ってくる時間か、とぼんやり考えていると、扉がノックされた。
「ジェイドくん、岡部くんが話したいことがあるって」
束の間逡巡して、しかし立ち上がった。多分ユズさんは俺に気遣って、玄関先で呼ばずに部屋まで来てくれたのだ。岡部と顔を合わせたくないと言えるように。
「行くよ、ユズさん」
扉を開け、心配そうな彼女に微笑んで玄関に向かう。
「あ……」
出てきたのが俺だと分かった岡部が、目をみはる。
「怪我の具合は?」
何か言いたげだったのを無視して口を開くと、彼は虚を衝かれたようだったがしばらくして遠慮がちに大丈夫と答えた。
「鼻血はすぐ止まったし、腫れも、もう治まってきたし__あの」
思い切った様子で顔を上げ、真っ直ぐに俺を見つめる。
「昨日はひどいこと言って、ごめん」
勢いよく頭を下げ、そのままじっとしているのに、俺はまた頭を悩ませた。今日2回目の謝罪。
「……俺は」
もういい、とそう言うだけでいいのに、それでは不十分な気がして、また口を噤む。そろりと顔をあげた岡部と目を合わせていられなくて、顔を逸らした。
「もう無理して俺と登下校しなくていい。話しかけなくてもいいから。……同情から友達にならないでくれ」
違う。もっと言わなければいけないことがあるはずだ。こんな、ただ拒否だけするようなものじゃなくて。
けれどもう言葉は帰って来ない。取り消せない。
「……ごめん」
彼は震える声でそれだけ言うと、くるりと背を向けた。こちらも静かに扉を閉め、深くため息をつく。
自分が今どう思っているのか、どうしたいのかが分からない。ただあいつを傷付けてしまったような気がしてならない。あの目が一番怖がっていることをしてしまった。
また間違えてしまった?
でも傷付けないためには距離を置くことが一番良い。深く踏み込まなければ、きっと。
そうだ、だからこれが多分正しい判断で、間違えているはずがない。
無理矢理に自分を納得させる。
後ろでドアノブの回る音がした。弟が帰ってきたのだ。
「ただいま。何してんの?」
狭い玄関に二人もいると、片方は靴が脱げない。つっかけただけの靴を脱いで先に上がる。
「別にたいしたことじゃない」
「ふぅん」
怪訝そうに首を傾げながらも、弟がリビングに向かう。ユズさんの声がして、部屋が途端に明るくなったようだった。
__そこに俺が行ったら。
その雰囲気を壊してしまいそうで、嫌だ。強くそう思った。
彼らとも離れたほうがいいのだろうか。




