きっかけ
「助けてくれて、本当にありがとうございました。私は戸倉海音といいます。海に音であまねです」
そう言って頭を下げたその礼儀正しさに驚いたわけではない。いや、両親に会いたい故の行動に対して少し酷な対応をしてしまったのに、しっかりと感謝してしまうその素直さには感服すべきだろうが。
妙な沈黙を怪訝に思ったか、垂れた前髪の間からおずおずと黒曜石のような瞳が覗く。
はっとしてむりやり口の端に笑みを乗せた。
「……海音、か」
良く似合っている。そう伝えると、彼女はぎこちなくはにかんだ。
____どこか困っているような表情が、俺を混乱させた。
「俺のことも下の名前で呼べばいい」
一縷の望みを乗せてジェイド、と呼ばせた。フローレスで反応が遅くなってしまうのは嘘ではなかったし、どちらにせよ周りの人間は下の名前で呼んでいるのだからその方がいい。
「ジェイド、さん」
言いにくそうな彼女の様子を見ながら、くすぶった不満と落胆を心の底に押し込む。きっと彼女は忘れているけど、俺から話すことでもないだろうから。
これは思い出させてはいけない、パンドラの箱なのかもしれなかった。
それでも追憶せざるをえない。胸を鮮明に、強く揺さぶるその記憶。今、俺がここにいる理由。
「な、お、と」
「ナ、……ホ、?」
「もう一回。な、お、と」
「な、ほと」
うーんと目の前のおじさんが首を傾げた。
「尚斗さん、ちょっと休憩にしない? クワルツくんも退屈し始めてる」
またもやおじさんは唸った。
「ゆずのことはちゃんと言えてるからまだ良いけど……俺のことも言えるようにしておかないと、何かあったとき困るだろ?」
俺は二人を静かに見上げながら、ただ突っ立っていた。
俺たちを引き取ってくれたのは、飯村尚斗、飯村ゆずという何の変哲もない夫婦だった。
最初は酷く警戒して、こんなふうにじっと見つめていたら、ただ一言、「ゆずが寂しそうだったから」と返された。今になって分かったが、あのときユズさんはおそらく不妊治療を年齢の関係で打ち切った直後だったのだ。
さらに、「俺だってあの状態見て気がかりじゃなかったって言ったら嘘になるし」と。一体どういう縁が巡っているのだか、旅行に来た彼らは俺の泣きじゃくる声と開け放たれたドアを見過ごせず、警察へ連絡してくれたらしい。それだけじゃなく、警察を待っている間に部屋を覗いたナオトは俺の手当までしてくれたそうだ。実のところ全く覚えていないが。
「……ナオト」
相手の顔に喜色が浮かんだ。上手くなったなあと髪をぐしゃぐしゃに撫でられた。
日本に来て半年。この時の俺は多分、簡単な日本語しかできなかったはずだ。クワルツの方が発音も上手くて、飲み込みも速かったように思う。
「ジェイド、そろそろ学校に行こうか。同じ年頃の子と遊んでれば日本語なんてすぐわかるようになる」
正直に言えば不安だった。けれどその心の動きをいつのまにやら俺は認識できなくなっていて、嬉しそうに笑う弟を見て、学校に行ったほうが良いと自分を納得させた。
そうして学校に通い始めて、日本語はかなり上手くなった。日本語学級もあったから、一年、二年と経てば、国語の授業も乗り切れるようになった。
ただ、何をしても楽しくなかった。笑う、ということがしごく難しく、やってはいけないことのように思えた。満面の笑みを浮かべられる弟が気味悪かった。
けど周りからすれば、気味が悪いのは俺のほうだったのだろう。にこりとも笑わず、最低限のことしか喋らない子ども。
何も感じられないまま日々が過ぎて、中学に上がったころだった。
「近くに越してきた岡部です。同年代の子がいらっしゃると聞いて……」
その子は俺と正反対の男の子で、苦もなく周りに溶け込んでいった。俺にも変わらず優しかったが、それはきっと純粋な好意からではなかったのだろう。
夕暮れ時、登下校はいつも一緒だったから、何気なくあいつの教室を覗いたときだった。
「……無理にあいつと絡むことないよ。なんか疲れるじゃん」
仲のいい友達同士での何気ない会話。そんな雰囲気だったが、俺は足を止めてしまっていた。
「でも、」
あいつは困った様子だった。
「だってさ、なんか暗いし、口きかないし。あいつが笑ったとこ、誰も見た事ないんだぜ」
きっと友達は心配からそう言っているのだろう。ある種の忠告だ。
それも当然か、と思いつつドアに手をかけたときだった。
「……でも、ジェイドは可哀想なやつなんだよ。母さんが言ってたんだ」
可哀想? 俺が?
「ジェイドは今のお家に引き取られたんだ。でもそこでも喋らないって。……きっとこれまで何か辛いことがあったんだろうって」
俯き、声を詰まらせて語る。その姿は友人を心配する優しい男子学生そのものだったが、俺は軽い苛立ちを覚えていた。
何故なのかは分からない。ただ可哀想というその一言がやけに心を乱してくる。
これ以上この場に居ても不愉快になるだけだ。
そう判断してさっさと帰ろうと踵を返し、塞ぐような気持ちでその日は眠った。
翌日になっても胸のつかえは取れなかった。
「お前、今日は調子悪いんじゃないか」
いつものように朝食を摂っていると、ナオトが気遣わしげに顔を覗き込んできた。
自分ではいつも通りを演じていたつもりだったから、虚をつかれて、つかの間言葉が出なかった。
「どこか痛いのかな」
黙った俺に何を思ったか、ユズさんもどこか心配げな表情だった。
二人のその態度までもが何故か癇に障る。煩わしい、とそう感じて、出来ることなら大声で喚きたいような、不当な嫌悪を覚えたのだった。
同時に、そう感じてしまう自分が酷く恐ろしかった。
「大丈夫」
どうにかその言葉を吐き出して、逃げるように玄関に向かう。
「ジェイド?」
弟が目を丸くして俺を見ていた。玄関の物音を聞きつけて降りてきたのだろう。
「先に行くから」
短く告げ、口を開きかけた弟を無視して外へ出る。もとからクワルツとは仲が良いわけでもないのだからとまたざわつく胸を押さえつけた。
岡部には会うまいと足早に学校へ向かいながら、なぜこんなにも気分が重いのかと考えた。人に噂されるというのが、自分にとってどういう意味を持つのか、俺には分からなかった。
ただ可哀想と言われることが不快だったことは確かで、その反発が周りに向いてしまったことに違いはなかった。
そしてその放課後に、岡部に呼び止められた。
掴まれた腕をそのままに振り返る。彼は苛立ちの混じった目をしていた。
「なんで朝なにも言わずに先に行ったんだ」
そばに居る彼の友人は、特に俺のことは知らないのだろう。おろおろと俺たちを交互に見やった。
「今も一人で帰ろうとしてた」
さらに追及されたが、もはや弁明する気も起きなかった。今度は気だるさのようなものが口を重くさせた。
無言で腕を振り払う。
「前に何があったかは知らないけど__」
背中を向けた俺に岡部が静かに言う。
「今の親にも放っておかれてるんだ?」
精一杯冷ややかに、嘲るような口調。それが彼の小さな報復であろうことは分かったが、俺の心には充分な煽りだった。
足を止めた理由を、図星と捉えたのだろう。畳み掛けるように岡部は言葉を連ね始めた。
「だって他人の気持ちが分からないみたいだし。前の家でも、今の家でも、大切にしてもらえてないんだよ、ジェイドは。……クワルツくんみたいに愛嬌があれば良かったのにね」
クワルツは生まれ持っての性質なのか、人懐っこく、俺よりも笑顔が上手だった。そこもまた、俺の癪に触ることだったから、クワルツを意識的に避けていたのだった。
「クワルツくんはいい子だよね。でもジェイドは?親の躾がなってないからそうなってんだろ?親のせいでジェイドは不幸なんだよ」
自分がどの言葉に怒りを覚えて、どうしてそんな感情が溢れてくるのかが分からなかった。遠回しに親のことを貶めているのだとかろうじて分かった。
____可哀想に。
そしていつか、最後にはそう続くのだろうと思ったら、ぷつんと何かが切れた。
瞬発的な衝動は、相手が避ける前に届いた。
振るった拳が真っ直ぐに相手の鼻面を叩くのを、他人事のように眺める。
手のひらにくい込んだ爪が痛みを感じると同時に、岡部が後ろに尻もちをついた。
座り込んだ岡部の鼻から血が垂れて、ようやっと周囲の音が戻ってきた。
女子の短い悲鳴と、一気にざわめく廊下。
誰かが先生を呼んでくると駆け出して、少しだけ周囲が動く。
音だけは良く聞こえるのに、目の前の景色から少しずつ色が抜け落ちていった。
自分が何をしたのか、よく分かっていた。分かったから、どうしようもない恐怖に苛まれた。
俺はあの父親と、全く同じことをしたのだ。
結局は俺も、その気質を受け継いだ、あれの子供だ。
それから俺は周りとの隔絶をことある毎に感じては、拒絶していった。いつか傷つけないように、丁寧に。
それが逆に深く傷つけていたのだとも知らず。
けれど何よりも辛く思ったのは、学校から呼び出されたユズさんが謝ったことだった。謝る必要など微塵もないのに謝らせたということが、怒りを抑えられなかった俺の子どもっぽさを浮き彫りにした。
深く頭を下げるユズさんを、対面していた岡部の母親は冷たい目で見据えていたが、やがて一つ息を吐いて、そっとユズさんの肩に手を置いた。
「大丈夫ですよ。誰だってケンカくらい……特に彼は仕方ないと思いますから」
ちらりとこちらを見たその目に身を硬くする。
「これからはお母さんがしっかりと寄り添ってあげてください。ね?」
本人は善意であると信じて疑わない、受け取る者しか分からない迂遠な非難。
今まで引き取った孤独な子どもを蔑ろにしてきたのではないかと、言外に非難されていることにユズさんは気付いたのだろうか。
「……私は今回のことは普通の、ただの子どもの喧嘩として見ていますが」
ユズさんが体を起こし、静かに口を開いた。
「貴女はまるでジェイドにだけ非があるように言いますね」
ぴくりと母親の眉が動いた。
「いくら子どものケンカとはいえ手を出すのはおかしいでしょう。鼻こそ折れなかったから良いものの……」
「手が出てしまうほどのことを岡部くんも言ったのではないかと思いますけれど」
明らかに母親の纏う雰囲気が変わった。信じられないといったような表情で、二の句を次げずにいる。
「ユズさん、俺が悪かったんだ」
鼻にタオルを巻いた保冷剤を当てている岡部を見ないようにしながら口を開く。どんな言葉を投げかけられようが、結局は殴った方が悪い。きっと誰がこの話を聞いてもその結論に達することだけは分かっていた。
それに、岡部は事の顛末に関してずっと黙っている。きっと母親からの信頼を失いたくなかったのだろう。私の子がそんなことするはずない。そうやって育てられてきたから、母親の理想から離れた行動をしてしまったことを知られたくないのだとなんとなくそのとき勘付けた。
一瞬だけ、ユズさんが苦しそうな痛むような顔をした。
ああ、悲しませたのか、と思って、胸を針でつつかれたような気がしたけれど、なんで悲しんでいるのかは分からずに戸惑う。ただもう良いと引き止めただけだ。
どうしてそんなにも顔を歪ませるのか、泣きそうなのか。
でも今なら分かる。聞けなかった答えを、今は大切にしまっている。
教頭が気まずい空気を破るように軽く咳払いをした。学校としても大事にしたくないらしく、普段の俺と岡部の様子を見ても、そう重く処罰するなんてこともできないと場を執り成した。どちらにも反省文を書かせて、俺には一日の謹慎処分で今回の件は収められた。
帰り道、ユズさんはいつもと変わらない様子で俺に話しかけた。
「……どうして」
問い詰めたり、諭したり、怒ったりなんかすればいいのに。どうして何も言わないのか、と自分より低い位置にある顔を見た。
穏やかで、心配事など何一つないような。
「ジェイドくんなら、自分のために相手を傷つけることなんてないと思うから」
その返答につかの間立ち止まりかけ、それでもなんでもない風を装って足を動かした。
それは違う。俺はきっとユズさんが思うような人じゃないのだ。もっと真逆の、人を平気で傷つけられる、何か欠けているような人間だ。
否定したくて口を開きかけたが、後ろから肩を叩かれた。
「クワルツ?」
本当なら今は部活をやっている時間だ。何故ここにいるのかと眉を寄せると、弟は苦笑した。
「なんだ、別に怪我したわけじゃないのか」
急ぐ必要なかったなあ、と少し下がった眼鏡の位置を直す。既にこちらの事情を知っているらしいが、まさかそのせいで早く帰ってきたわけでも無いだろう。
「部活はどうした」
大きめの鞄を肩に下げているのを見る。今日は途中で切り上げられでもしたか。
「いやいや、誰だってお兄ちゃんのことは心配するでしょ」
呆れたふうに言われて、顔をしかめる。お兄ちゃんとわざわざ言ったところが嫌味っぽい。
「嘘つけ」
「嘘じゃないよ」
俺たちのやり取りのせいか、ユズさんが可笑しそうにころころと笑う。
「私も追いつくくらい慌てて来るなんて思ってなかったな」
言葉とは裏腹に、その表情はどことなく満足げだ。
ユズさんが今日のことを伝えたのだろうが、まるでクワルツがこうすることを期待していたようだった。
弟はそんなことに微塵も気づかない様子で__本当は気付いていたのかもしれないが__いつも通りの何を考えているのか分からない笑みを浮かべた。
「やめてよー。俺が過保護みたい」
二人は、何が分かっているのだろう。俺が勘づけない俺のことを、どれだけ知っているのだろう。
たわいない会話をする二人に合わせてゆっくりと歩を進めながら、今日知ったいやな自分を、苦く思い返した。
お久しぶりです。来年まで諸事情で結構忙しくなるかもしれない作者です。なので本当に申し訳ないのですが続きが異様に遅くなります。
今までだって遅いっていうのにね!!!!ごめんなさい!!!!




