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赤眼ゾンビ  作者: 海月
第一章
36/99

瓦解

 天井と床の隙間から四角く切り取られた外を見やる。

 あれから随分と経ったように思えるのに、未だに外は濃紺に沈んでいた。

 待機してもらう場所として、入口と出口どちらからも遠い場所を選んだが、待機組は明らかに不安そうな顔をしていた。

 それもそのはず、さきほどからかなりの数の感染者の唸り声が聞こえるのだ。

 バリケードが破られたからといってそう簡単に感染者が集まるはずがない。一、二体がふらふらと入ってくるならまだしも、十数体かそこら辺の数の感染者が群れて動くなんて聞いたことがなかった。

 そして、理由はどうあれ、もう拠点としてここを使うことは不可能だろう。

 となれば先行きは見えずに、不安ばかりが募っていくことになる。

 私だってそうだ。足が地につかない頼りなさが、ここまで来て形を持ち始めていた。


 ジェイドさんを助け出して、ここで感染者をしのげたとして。既に鹿嶋さんが姿をくらましているならば、残るのは感染者に対して非力なただの人間だ。その先がどうなるかは、もう想像はつく。

 でも今は目をそらす。まだ仮定の話だ。それに私だけが悩んでいても仕方がない。


「海音ちゃんも行くの?」

 確認するように首を傾げる海麗ちゃんに、微笑んでしっかりと頷いてみせる。意思を変えるつもりはない。邪魔だと言われても着いていくつもりだった。

「でも、でも今度はあいつらじゃないんだよ。海音ちゃんはあいつらには慣れてるかもしれないけど、人は何するか予測なんてできないじゃない」

 それに男の人だし、と付け加える。

 確かに海麗ちゃんが言っていることは何も間違っていない。私はきっと何もできない。

 けれど私は彼に返しきれないほどの恩がある。

「大丈夫だよ。白樺さんも、三ノ輪さんも居てくれるし、それに相手が銃を持ってるって決まってるわけじゃないから」

 喧嘩しに行こうとしてるのでもない。

 そう伝えると海麗ちゃんは目を伏せて、小さく頷いた。

 彼女が心配してくれているのは、すごく嬉しい。

 あの言い合いのようなもののなかで、お互いに意見が噛み合わないこともあるのだと知って、彼女は多分、渋々だろうけど、私のことも認めてくれた。その上で私の考え方は甘ったれていて、頼りないと思われたのかもしれないけれど。


 ホルダーにナイフを収め、背中の方へ回す。武器を持っているそれだけで相手はささくれ立ってしまうだろうから、出来るだけ見えないようにするつもりだった。

 重い荷物は待機組に見ていてもらうので置いていく。もし八木さんがジェイドさんと”話し合い”の最中だったら、不知火さんが声をかける。年上だからね、と笑っていたが、逆上なんてされたら一番に敵意が向くのは声をかけた人間だ。それも踏まえての提案だろうことは私にも分かったし、三ノ輪さんも変わろうかと申し出たけれど、彼はやはり首を振った。

「彼の危ういところもさんざん見てきたのに、こうなることも予測できなかった。鹿嶋さんのこともきちんと僕が見ているべきだったんだよ」

 随分と背負ってしまう人のようだったけれど、その顔には深い悔恨の念が浮かんでいた気がして、なんだか心もとない気分になった。

 三ノ輪さんは気付いたのか気付いていないのかそれでも食い下がっていたけれど、結局、柔らかく説き伏せられて、提案を呑むことになったようだ。


 そんな一幕がありつつも、簡単な準備を終えた私たちが出口へ向かっていたその時。

 タイヤと地面の擦れる甲高い音が耳朶を打った。急ブレーキをかけているのか、一層音が高くなったところでおそらく壁にぶつかる派手な音。


 なんでいつも、こういう時に限って。


「待機組のところに戻りましょう、早く!」

 沈黙は一瞬だけ。不知火さんが焦った様子で口火を切って固まっていた空気が動き出す。

 白樺さんが振り向くので、苦い思いを押し込んで頷く。その顔には不知火さんとは違う焦燥が見て取れた。

 そのことに幾分か気分を落ち着けつつ、駆け出した不知火さんの後を追う。


 駆け足ならば戻るまで一分とかからない。

 警戒の色を浮かべている海麗ちゃんや蛍さんの視線を追うと、黒いバンが壁に頭をつけて止まっていた。バンパー部分が広くへこんでいる。


 武器を持っている人で自然と待機組を庇うように前に立って、開くドアを見つめる。

 どうせどちらであっても私はがっかりする。誰であろうと邪魔者であることには変わりない。


 緊張の幕を破るようにぞんざいな仕草で車を降りたのは、あの中学校を地獄に陥れた自衛官だった。


「まだ……生きてたんですか」


 いかにも面倒くさそうに銃を構える。引き金に指が掛かっている、威嚇じゃない、この人は撃つつもりなのだ。

 いったい何人が、そのことに気付けたのだろうか。

 妙にゆっくりとして見える景色の中で銃口から吹いた火花だけがくっきりと見える。勝手に回避行動を取ろうとする自分を他人のように捉えながら、視界の端にくずおれる人影を見た。

 周囲の音が戻ってくる。

 発砲音の余韻を呆然と聞いていると、甲高い悲鳴が耳をつんざいた。撃たれた本人の声が聞こえないほどの悲鳴だった。


 そんなふうに何のためらいもなく。


 く、と喉が引きつった。


 後ろで叫んでいる女性も、きっと同じ所にいたのだ。発狂する寸前のような、死を間近に感じた人の取り乱し方だった。


「今回はしぶといな……あぁ」

 誰に聞かせるでもなく呟いて、無造作に投げられた視線に肩が竦む。

「流石に同じ手は喰わないのか」

 白樺さんと、私と、横にすべらせて、後ろはきっと海麗ちゃん達に向けた。私が分からなかっただけでまだ自警団に属していた人がこの中にいる。


「災難だな、お前も。あの夜に素直に従っておけば両親も死ななかっただろうに」

 ばりばりと左腕を掻きながら投げられた言葉に、胸をどんと衝かれたような気がした。

「なんで……あなたが、知って」

 舌が上顎にひっついて上手く喋れない。

「最後の最後だったからな。どうやって生き残った?」

 まあ良いか、と最初から返事など気にしていなかったかのように言って、銃口を上げる。


 私が素直に応じていれば、パパとママは助かったの? 命と引き換えに体を差し出しますって、あなたに言えば良かった?


 頭が痺れていく。あの夜が鮮明に浮かび上がって、ああ、お前はそこにいたのか。冷ややかな光をたたえた目が今も昔も私を見ている。壁一枚を隔てた向こう側で命がむごたらしく奪われていく。鉄の扉を必死に叩いていた友人が今は床に臥せって浅い呼吸を繰り返している。水が無くなった。意識を保っていられなくなって、いく。いまが、昼なのか、夜なのか、わからない。体のふるえが止められない。あ、もう、




 ____名前をよばれた。


「撃つなッ!」


 怒号が聞こえたと思ったら、周囲の音が遠のいた。誰かに抱き込まれている。


「鹿嶋、もう止めろ。こんなことをしても、誰もお前にはついていかない。俺もだ」


 力強い声に安心する。


「でも、自分はっ、……ワクチンだって見つけました。さっき打って、ほら、何ともありません。この先感染の心配もないんです。だから、そこにいる奴よりもきっと」

「ならどこにだって行けばいい。聞こえなかったか? 着いて行く気なんてさらさら無い」

 ぴしゃりと突き放す。それっきり相手は黙ってしまった。


 顔を上げてみて、驚いた。厳しい表情で鹿嶋さんを見るジェイドさんの顔は傷だらけで、口の端も切れているし、鼻血もでたのだろうか、雑に拭われた跡がある。


 その痛ましさに思わず手を伸ばそうとした瞬間、笑い声が響いた。タガの外れた、聞いていられないような笑い声だった。

 狂ったか。ささやく音量でジェイドさんが言った。背中に回された手に力がこもる。

 やがて狂った哄笑が収まる。

「……気持ち悪い。馴れ合って、群れて、守り合って。そのくせ平気で邪魔者は切り捨てるんだろう。輪に入れなかった奴のことなどどうでもいいんだろう」

 気持ち悪いと、また憎々しげに吐き捨てる。がりがりとさらに左腕を掻きむしり、目は赤く染まっていた。

 随分と虫の良いそしりだ。群れることを罵って、何の意味があるだろう。

「羨ましかっただけでしょう」

 私が向きを変えるそぶりを見せると、ジェイドさんはそっと腕をほどいてくれた。


「邪魔者になる自分が嫌いだったんでしょう。惨めになるから、最初から皆と群れることを嫌ってた」

 馴れ合うことは何も悪いことじゃない。生きやすくするためのただの術だ。

「どこに行っても馴染めずにいる惨めな自分をごまかすためにこんな風にまわりを破壊して、自分のほうが上だって錯覚して」

 八木さんの行動に違和感を覚えたのは、きっとこの人も一枚噛んでいたからだ。この人の描いたシナリオの通り動いてくれそうだったのが彼だった。

「うるさい、」

 呻くように言って、威圧したいのか一歩近づいてくる。

「もう私を黙らせることもできないんです。分かりませんか。鹿嶋さん、年上として敬意を払うほどの人でもないんですよ」

 頭が酷く冴えて、ぽろぽろと言葉が溢れていく。醜く歪む顔を見て、ざまあみろと嘲る気持ちも湧かない。

「うるさい、うるさいうるさいうるさい! じゃあ俺はどうすれば良かったってんだ!! 惨めなまま一人でいれば良かったか!? 邪魔者は邪魔者らしく隅で縮こまってろって言うのか!」

 掻き続けていた左腕から、血がぽたぽたと流れている。

 なぜ彼はそこまで執拗に左腕を掻いているのだろう。あそこまでいったら痛くて止めるはずなのに、まだ、掻いている。

「入れて、って言えば良かった。それだけ。変に気を引こうとして外れた行動をするから邪魔者扱いされちゃったんです」

 異常なその行動を見つめながら、きっと彼には一番難しかったことを言った。


「……それだけで、」


 ふと、彼の目から険が消えた。


「なんで。じゃあ、俺は、今からどうしたら、」


 泣きそうな、寄る辺ない子どもみたいな声だった。


「謝ってください。今までしてきたこと全部」


 今の彼にはこれしかできないから。


「人を、守れるはずの人たちを、守るための力で殺しました。女性をくいものにして、不満を消そうと、しました」


 あの女性が、海麗ちゃんを貶めてまで守ってもらおうとしたみたいに、きっと避難所には色んな悪意が渦巻いていたのだ。身勝手な人たちもたくさん居たのだとも思う。見捨てたくなってしまう、そんな人が。

 彼の目からぱたりと涙が落ちる。


「…………ごめんなさい」


 嗚咽にまみれてはいるけれど、ちゃんと聞こえた。きっと本当は彼も分かっていたはずなのに、いつから捩じれてしまったんだろう。


「ごめんなさい、ですって? それで許されるとでも?」

 厳しく上がった声に制止はかからない。私もかけられないものだった。

 つかつかと歩み寄って、声を上げたあの女性が手を振り上げる。鹿嶋さんは避ける気も無いようだ。


 乾いた音が響いた。


「ふざけんじゃないわよ。こっちはあんたに一生分からない痛みを背負わされたのよ、誰が許すっていうの?」

 肩を震わせて、呻くように彼女は非難し続けた。

「皆あんたを頼りにしてた。あんたは最初は希望だったのに。それを、なに?不満を消す?あんたがしっかりしてれば不満なんてたまらなかった……私たちはいたずらに浪費されただけだったのよ!」

 最後は叩きつけるような声で、彼女の持つ感情全てをないまぜにした叫びだった。


「俺は、」

 唇を薄く開いて、言葉を探しているようだったが、やがて諦めたように、彼は跪き、そっと額を地面につけた。


「…………は、」

 嘲笑う、その寸前の吐息に込められたはっきりとした憎悪を感じて、私は身震いした。


「あんたには!……あんたには謝る権利もない!そこの子供が__何も知らない他人が__許したからって、私が許すとでも思ってるの!?」

 足元の頭を容赦なく足蹴にして、踏みにじる。それでも鹿嶋さんは何も言わない。

「生きたくて、生きたくてたまらなかった。その思いを逆手に取るようなクズが。ねぇ、赤ちゃんを宿した人をあんたはどのくらい見捨ててきたのか、分かる?」

 生きたいという思いがどれほど切実か、私たちは知っている。彼女が今ここに居るのは、恥辱に耐えてきたからだ。それほどまでに生きたかったから、海麗ちゃんを貶める言葉が出たのだ。なりふり構わず命に手を伸ばそうとした。

 けれど彼女と違って恥辱の果てに生命を授かった人は、どうなってしまったのだろう。

 とてつもない危険を背負って生きる辛さを、私は知らない。危険だけじゃない。葛藤も、慟哭も、何も知らない。


「私が殺すわ。死にたくなかった私たちを殺したあんたを私が殺す。……それで全部終わりよ」

 いつの間にか床に落ちていた拳銃を拾い上げて、鹿嶋さんの頭に向ける。

 それでも鹿嶋さんはみじろぎ一つしなかった。鼻を啜る音だけが聞こえる。

「待って。待って、ください」

 何も言葉を用意していないのに、声を上げてしまう。止める権利があるのかどうかも私には分からないのに。

 掠れていても耳には届いたのか、彼女が顔だけこちらに向ける。

「何よ私にもありがたいお説教垂れるつもり?」

 相手は今、やろうと思えば私を撃ち殺すこともできる。

 それを案じてかジェイドさんが制止するように私の肩を持つけれど、私は柔らかく手を外した。

「さっきから、何なのあなた。私の気持ちも何も知らないくせに。謝っても許されないことがある事、分からない?それとも神様にでもなったつもりなの?ばかばかしい」

 神様になんて。

 私は静かに首を振った。そんなものになったつもりは少しも無い。

「あなたの気持ちは、全部はわかりません。でも鹿嶋さんがやってきたことは全て知ってます。友達も、家族も皆この人に殺されました」

 一歩ずつ近づいて、目を合わせる。

「ならあなたも止める理由なんて無いはずよ」

「嫌なんです」

 脈絡のない返答を不審に思ったのか、彼女はぴくりと眉を動かす。

「もう、人が人を殺すところを見たくなんてないんです」

 こんな世界だからなおさら守らなくてはいけない一線がある。それがなんだか、具体的には言えないけれど、きっと越えてしまえばいくら世界が立ち直っていこうが、もう戻れない気がするのだ。

 揺れた瞳に少し安堵する。

「狛平でのこと、覚えてますよね。無抵抗の人を、銃や、ナイフで殺して。おんなじことしちゃ駄目です」

 彼女が武器を向けるその理由も、見る人によっては正当性は十分にある。海麗ちゃんも痛いほど気持ちが分かるはずだ。

「じゃああなたは、こいつを許すべきだと思うの。このクズを? 無理よね、何をしたか知っているなら」

「……でも、この人はきっと、心から謝ってるんです。だったら、殺さないで。もう少しだけ、機会をあげませんか」

 私が言い募ると、彼女は束の間まぶたを閉じた。


 やがてのろのろと首を振る。


「分からない。私にはやっぱり無理だわ。これが生きていることに耐えられない」


 あなたの考えは理解できない。


 瞳を翳らせて、いっそ沈着な態度で彼女はそう言い切った。

 胸が塞がる思いで彼女を見つめる。静かな視線に、この人はもう決めているのだと悟った。

 鹿嶋さんは今、何を思っているのだろう。銃口の先にうずくまる人影を見やって、やっぱり、許しを乞うこともできないのはあまりにも惨めだと思った。


 彼は震えていた。泣いていた。


 何が正しいのか分からない。どちらの気持ちも分かってしまうのだ。考えても考えても最善は浮かばない。

 彼女が鹿嶋さんを見下ろした。


「ぅ……あ……」


 聞き覚えのある唸り声がどこから聞こえたのか、一瞬わからなかった。

 ただおもむろにこちらを見上げた鹿嶋さんの顔は、涙とよだれでぐちゃぐちゃで、目は燃えるように赤かった。


 …………感染者だ。彼は、感染している。


 私が彼女の腕を掴むと同時に今や感染者と化した彼が襲いかかる。

 小さな悲鳴は多分、目の前に広がる恐ろしい情景のせいだろう。

 どうして、なんで。

 執拗に左腕を掻きむしる姿が脳裏に閃いた。


 けれど一瞬浮かんだ考えはすぐに消え去ってしまった。

「ひっ、ぃ、」

 ぐじゅ、と彼女の左側から肉を噛みちぎる音がした。目いっぱい彼女を引っ張り、無我夢中で彼から引き剥がす。

 もし彼女が噛まれていたらせめて血が全身に巡らないように固く縛らなければいけない。

 途端に慌ただしくなった空気の中でジェイドさんが素早く動いた。

「鹿嶋!俺だ、分かるか?鹿嶋、しっかりしろ!鹿嶋!」

 身の内の衝動を抑え込むように蹲り震える彼の肩に手を置いて、ジェイドさんが何度も彼を呼んだ。まるで正気に戻すように、強く。

 同時に三ノ輪さんも駆け寄り、荒い息の彼女を丹念に見る。

「大丈夫。噛まれてない。あいつは……自分の腕を喰ったんだ」


 最後の最後に、彼は、誰も傷づけない選択をしようとしている。

「なんで‥‥なんでよ……卑怯よ。ずるい。そんなのってないわ」

 ほたほたと涙を流す彼女は、動揺しているようだった。

「そんなこと出来るなら誰もあんな思いしなくて済んだのに……!」

 彼女は口を手で覆い嗚咽を堪える。

 確かにあの悪夢のような夜を作り出した人間の最期としては綺麗で、随分と優しいことをしてしまっている。

 けれど耳朶に響くのは喉も張り裂けんばかりの咆哮。今の彼に自我が残っているかは怪しいものだった。ジェイドさんが唇を噛んで鹿嶋さんを床に組み敷く。

「……これは、引き金を引くだけで良いのよね」

 手の中の銃をぐっと握りしめて、青ざめた唇で彼女は問うた。

 撃鉄は起きている。十分、その役目を果たせるものを彼女は持っていた。

 頷くと彼女はふらつきながら立ち上がって鹿嶋さんへ近づいた。

「あんたのことは多分、誰も許さない。でも、そうね、同情は少しくらいなら出来る。私たちは、あんたにもたれかかりすぎてたのかもしれない」

 彼女は自嘲気味に笑って、銃をしっかりと構えると、今度はその目に強い光をたたえて引き金にかけた指に力を込める。

 鹿嶋さんが彼女を見上げ、はくはくと口を開閉させた。漏れるのは小さな呻きだけで、何を伝えようとしているのか、私には分からないけれど。

「…………」

 きっと初めて撃ったのだろう。抑えきれなかった反動でたたらを踏みながらも、銃弾はそう逸れることなく鹿嶋さんの頭を貫いた。

 くたりと彼の体から力が抜ける。


 自警団という、あの組織は、これでもう瓦解したと思って良いのかもしれない。


 何故だか、肩の力が抜けた気がした。


 胸の内のつかえが取れたような、そんな気分だった。


 けれどそれも束の間、現実はそう簡単に感傷に浸らせてはくれない。

「あいつらだ!」

 鋭い警告に振り返ると、数体の感染者が出口から入ってきているのが見えた。あれだけ騒いでいて逆にこれだけというのもおかしいけれど、変わらないスピードでもって迫ってくるその姿は、やはり、いつも通りだ。

 蛍さんが構え、海麗ちゃんとお姉さんをこちらへ追いやった。二人ともかなり怯えた様子だが、あまり外には出ていなかったのだから当たり前だろう。あの速さは本当に身が竦む。

「四人とも車に乗るんだ、さあ! 誰かもう一台車を見繕って!」

 不知火さんが檄を飛ばし、私を含めて女性全員を車へ押し込む。慌てて私も感染者に応じることを言おうと思ったのに、眼前でスライド式のドアが閉められたせいで引っ込むしかなくなってしまった。

 中には段ボールが数個詰められていて、座席が倒されているとはいえ四人だけでも狭く感じてしまう。これでは当然、全員を運ぶことは無理だろう。


 窓から外をうかがうと、最初に入ってきたときから感染者の数は変わっていないようだ。既に感染者の数が減っているのも見えているし、おそらく数の利でなんとかなるとは思うが、もしまた入ってくるようなら分からない。

 もう勝手に出てしまおうかと思ったとき、バックドアが開いた。

 開けたのは三ノ輪さんと金井さんで、二人はぐったりした男性を手前に横たわらせる。最初に鹿嶋さんに撃たれた人だ。今は気を失っているが、脇腹からお腹にかけて黒々とした血がしみを作っていて、酷いけがを負っていた。

「こいつを見ていてくれ。あと、工具箱。そこら辺にないか?」

 背後を手探りで探すと、それらしい物が手に触れた。重さから見て間違いないだろう。

「私も手伝います」

「あっ、おい!」

 そのまま渡さずに工具箱を抱えて車を降りる。そして制止の声も聞かずにバックドアを降ろすと、その寸前に海麗ちゃんの心配そうな顔が見えた。窓越しに笑いかけると、なんだかちょっと呆れられてしまったようだ。

 応戦中の彼らの中には当たり前のようにジェイドさんも居て、鮮やかに感染者の頭を至近距離で撃ち抜いているのを見ると、私が出て行く必要なんてないだろうけれど。

「……あー、もう。そうだよな、心配だよな。引くほどボロボロだし。あいつらに関してはもうお前はいらないだろうけど、ジェイドのこと支えに行ってやればいいよ」

 ふっと工具箱の重みが消えた。三ノ輪さんにも呆れられている。

 いくらなんでも子どもっぽいわがままだったかな、と思って頬が熱くなったが、ぺこりと頭を下げて、ジェイドさんの元へ走った。

 ふらついたジェイドさんの左側に立って、なんとか支える。最後の一体が床に伏せて、気が抜けたのだろう。何も言わずに肩を借りてくれた。

「ジェイドさん、大丈夫ですか」

「平気だ。……すまん」

 謝られるのが少し悲しいような、腹立たしい感じがして、私は彼の腕をしっかりと自分の肩にまわして握った。

 背中に手を回したとき、服が濡れていることに気付いた。

「これ……」

 血だ。もう出血は止まっているようだけど、肩甲骨のちょうど下の方まで服が裂けている。痛みを想像してぞっとしながらも咄嗟に手を傷に当たらない位置に添え直す。

「ジェイドさん」

 これでは平気なはずがないだろうと非難するように名前を呼ぶと、目を逸らされてしまった。身長差のせいでただでさえ視線が合いにくいのに、これでは表情さえ分からない。

 追及しても大丈夫としか言ってくれないだろうと、とりあえず諦めて無言で車まで支え続け、ドアを開けてジェイドさんを座らせる。

「運転は僕がしよう。五分後に出発だ」

 不知火さんが一言告げる。

「この車大丈夫なのか?」

「潰れてるのはバンパーだけだしね。フロントガラスも無事だから平気だよ」

 すぐ出れるように動かすからと運転席に乗り込む。

「海麗ちゃん、私の荷物は?」

 中に上がる前に聞くと、彼女はあっと声を上げた。忘れていたらしい。

「ごめん。置いてきちゃった……」

 あんな状況だったし忘れてしまうのも当然だろう。

「気にしないで。取ってくるね」

 ドアを閉めて、少し急いで荷物を回収しに向かった。五分は多分、追加の車を待つ時間だろうけど、すでに駆動音がしているからだ。

 ぽつんと残された鞄を掴もうと屈んだとき、目の端に動くものが映った。間の悪さに重いため息をつく。

 二体の感染者がほぼ同時に走ってやってくる。片方は喉を噛みちぎられたのか骨がむき出しになっている。もう片方はバールか何かだろうか、喉を貫かれている。都合の良い事に声は出せないようだ。

「戸倉さん?」

 車の方を見ていた白樺さんがじっとしている私に気付いて、そのまま感染者にも気が付いたようだ。

「銃、使わない方がいいね」

「そう、ですね。バールが刺さってる方、お願いできますか」

「うん」

 この感染者は多分、先の咆哮を聞きつけてやってきたのだろう。なら声を出せない彼らは仲間を引き連れてくることはない。

 ぐんぐんと近づいてくる彼らを睨みつけ、冷静に、冷静にと自分に言い聞かせる。遠くからなら平気でも近い距離で見る彼らは呼吸が止まりそうなほど恐ろしい。


 何人かが気付いたようだけれど、もう私たちの目の前に感染者は迫ってきている。

 伸ばした腕が私を捕らえようとするのを横にかいくぐって、腕をなごうとしたそのすぐ後、真横から飛んできた拳が正確に感染者の顔を捉えた。

 倒れ込んだそれを地面に押し付けたその好機を逃さないように、相手を必死に噛もうとしている感染者の頭に力一杯ナイフを突き立てる。

 ナイフを抜いて白樺さんのもとへ踏み出すと、蛍さんがすでに頭を砕いていた。

 荒い息を落ち着かせながら振り返る。

「なんであなたがここに」

 嫌でも声に嫌悪が混じってしまう。

 彼はばつが悪そうにしながら口を開いたが、ちょうど声がかかった。

「戸倉、白樺! お前らはこっちだ早くしろ!」

 三ノ輪さんが開いたドアの前に立っている。後の人はもう分かれて車に乗り込んでいるのだろう。

「……とりあえずここを出ないと」

 白樺さんに促されるがまま車に乗ると、蛍さんが助手席に座った。

 三ノ輪さんもこっちに乗るみたいだ。……なんとなく分け方の意図は見えた。私たちの不安を極力取り除こうとしてくれているのだ。

 全員が車に乗ったことが分かるとすぐに車は発進した。先に急ごしらえの車が走っている。


 揺れる車内には血の臭いが漂っている。向かいに海麗ちゃんが膝を抱えて座っていた。皆疲れている顔をしているから、自然と車内に沈黙が満ちる。

 道に出ると、やはりというべきか私たちに気がついた感染者が追ってきた。車の速度には勝てるはずもないから、簡単に引き離せるが、ずいぶんと量が少ないように思える。

「なんであんなに少ないんだろう……」

 車の音は静かな街に響いているはずだ。もっと追ってきていても不思議はない。

「鹿嶋は一階にカセットで音を流してたんだと。あそこまで引きつけられてるってことは人の声だろうが、今はありがたいな」

「ジェイドさん」

 鹿嶋さんを組み敷いていたときにでも聞いたのだろうか。もしあのまま閉じこもっていたらと思うとぞっとするが、確かにこの状況ではとてもありがたい罠だ。


「……あの、八木さんが、居たんです」

 言うべきかは迷ったが、やっぱり伝えておいた方が良いだろう。

「ああ、知ってる。和解、っていうのは微妙だが、少なくとももう妙な行動は起こさないだろう」

 あまりにもあっけらかんとした態度に肩すかしをくらったような気分だった。薄く笑う彼の顔に痛々しい痕ばかりあるのはあの人のせいじゃなかったろうか。

「でも、でも八木さんはジェイドさんに理不尽なことしたんですよ。なのに、なんで」

 彼は笑みを崩さない。そうして穏やかに言うのだ。

「八木の気持ちは妥当だ。だから俺はそれを受け入れるよ。でもな、海音と白樺にしたことは許せない。それだけだ。後はもう、これからの行動次第だ」

 そう言ってくれるのは、嬉しいけれど。

 隣に座る白樺さんも複雑そうな表情だ。きっと私と同じような気持ちだろう。


 すっきりしない思いを抱えつつも表面上は納得したように頷く。彼がそう感じているのなら、仕方ない。


 感染者の集団はいつの間にか消えていた。このまま少しして適当に休めそうな場所が見つかれば良いのだが。


 けれどそれは、おそらく無理だ。デパートに群がっていた感染者を撒けたとはいえ、感染者が私たちを放っておくわけがない。数が集まる前に建物内に避難できたら万々歳だけど、それでもリスクが高い。

「不知火さん、行き先は決まってるの?」

 白樺さんが膝立ちになってシートのへりを掴みながら聞く。

「先の車は金井くんが運転してくれてるんだけど、彼なら土地勘があるし、多少の当てならついているかもしれない。僕だったら古そうなマンションとか、アパートとかがいいんじゃないかと思うけど」

「そっかぁ」

 うーんとうなりながら白樺さんが座り直す。

「どうした、白樺」

 浮かない表情にジェイドさんも不思議な様子だ。

 白樺さんが困ったように首を傾げながらゆっくりと口を開く。

「あんまり長いこと走ってると別のところから感染者が呼び寄せられるわけじゃん。確かにあいつらは車よりも遅いけど、もし____」

 急ブレーキを踏んだのか、車体が不安定に揺れた。唐突なそれに思わず手を前につくが、それも一瞬で済んだ。のろのろと少し進んで車は止まった。

「パンクとか、したら」


「白樺!」

「俺どなることないじゃん!」

 一瞬この車になにかあったのかと思ったが、どうやら先の車が止まってしまったようだ。

「何があったんですか!?」

「分からない、でも本当にタイヤが潰れてるみたいだ」

 言いつつ不知火さんが車を寄せようとハンドルを動かす。

「ちょっと、待ってください」

 引きつった声でそれを止めたのは三ノ輪さんだった。

「ここ、瓦礫だらけなんです。あいつが壁壊して出てきたから。……あの馬鹿なんでここ通った?」


 気付けば辺りはうっすらと明るくなっていた。

 窓の外に目を向けて、ここは、ああ、研究所の前だ。あの気持ちの悪いものが出てきた場所だ。地面には研究所の白い壁が大小関わらず散らばっている。鉄骨がはみ出ているものもあっただろう。下手に動くとこちらのタイヤもパンクするかもしれない。

「……全員をこの車に乗せてUターンしよう。すし詰め状態になるかもしれないが、それしかない」

 そう言った不知火さんが車を出たときだった。

 影が、彼の腕を掴む。今度こそ無慈悲な歯が腕に食い込む。ぶちり、と血管ごとちぎられた瞬間、彼からは想像もできないような絶叫が車内に響いた。

 車内だけじゃない、明けがかった街にもそれは広がる。そしてあの感染者の集団にも。


 サイドミラーに、絶望が映っている。

「誰かナイフを!」

 鋭い指示に体が考えずとも動いた。震える指を動かしホルダーからナイフを取り出す。

 三ノ輪さんに渡すと、彼は無我夢中で不知火さんの肩にそれを突き立てた。聞いていられない苦痛の叫びが耳に痛かった。


 三ノ輪さんがさらにナイフを食い込ませると、ごき、と聞いたことのない大きな音が彼の肩から鳴った。それを契機に絶叫は止む。不知火さんが痛みに堪えかねて気絶したのだ。

 皮膚を断ち切り、三ノ輪さんはその腕に必死にかぶりついている感染者へとナイフを振るった。

 倒れこんだのを見計らって乱暴にドアを閉める

「蛍さん、彼をこっちに運びます」

 皆が事の成り行きを呆然としながら見守っていた。リーダーのような彼があまりにもあっけなく感染者に噛まれた。

 海麗ちゃんが恐ろしいように縮こまるその前に彼が横たえられる。

 荒い息を整える暇もなく三ノ輪さんが段ボール箱を開け、銃を取り出した。マガジンを引き抜く。

「ライターは!?」

 蛍さんが運転席に移動しながらライターを投げて寄越す。

 危なげなく受け取った三ノ輪さんは銃をライターであぶりはじめた。

「三ノ輪さん!?」

 弾は抜いてあるとはいえ、銃を熱するという行為に白樺さんが驚きの声を上げる。ジェイドさんが横たわっている彼の体を抑えた。

 銃身の部分を炙ったその理由がなんとなく理解できて、腕に鳥肌が立った。

 三ノ輪さんが素早く切断面に銃身を押し付ける。かすかだが肉の焼ける臭いが漂う。

 その痛みに気絶していた不知火さんが絶叫とともに目を開いた。悪夢のような数秒間の後、ぐったりと彼はまた目を閉じた。

 けれどまだ出血している。止血のためにもう幾回かこの行為を三ノ輪さんはしなければならないのだ。


 サイドミラーに映る感染者の集団。もう、手遅れと言って差し支えのない距離だった。やり場の無い恐怖というのはどうしてこうも頭を痺れさせるのだろう。

 ここで死んでしまうのか。また狭い檻に閉じ込められて。

 前の車から人が飛び出した。やけになってしまったのかもしれない。それとも正しい判断だろうか。

 車窓を人影が横切った。何の抵抗手段も持たない彼は、その人影に押し倒されてぐちゃぐちゃに喰われていくのだろう。それを契機に感染者が餌を取り囲んだ。

 私たちが乗っていることはもう知っている感染者たちは、ばんばんと車を叩き始めた。目が覚めるような悪夢だ。

 誰かの泣き叫ぶ声を聞きながら、ただ背中に流れる冷たい汗を感じていた。いくら考えようとしても解決策は見当たらない。ゆっくり死ぬか、痛みに苛まれながら死ぬかの選択しか私たちには残されていない。

 胸が早鐘を打つ。苦しかった。

「戸倉さん、……戸倉さん!」

 はっと我に帰る。白樺さんが窓に服をあてがっていた。外から私たちを見えなくするつもりだ。ジェイドさんと三ノ輪さんはまだ不知火さんについていなければならないようだ。

 頭の痺れが掻き消えた。

 もう何も気にしていられない。上着を脱いで、上方についている取っ手に服の袖を押し込んで固定する。

 人の姿が見えなくなれば彼らも諦めるかもしれない。


 どん、と車体が大きく揺れた。上に感染者が乗り上げたのだろうか。


 こつこつ。


 反対側の窓にも目張りをしようとしていたのを止めて、はっと顔をあげる。明らかに感染者じゃない、窓を誰かが叩く音。

 呆然としていると、逆さになった人の顔が見えた。眼帯をつけて、性別は分からないが、笑っているようだ。車体の上にいるだろうその人はぱっと手を振って消えてしまった。

 私はきっとおかしくなってしまったのだ、と思った。

 けれどそれが違うことに気付いたのは、窓に即席の目張りを施している白樺さんがうわっと一声あげてのけぞったからだ。

「戸倉さん、見て」

 服を持ち上げ、白樺さんが外を見せる。

 ぽろ、と感染者の顔から目玉がこぼれ落ちた。喉がひゅっと変な音を立てた。

 そこにあったのは脳までどろどろに溶けた感染者の頭だった。ただ溶けているだけじゃない、溶けるそばから黒く変色している。

 一体、二体、脳が溶け消えた感染者が地面へくずおれていく。


「もしかして、誰かが助けてくれてるの?」

 唇から言葉がもれた。

 建物が淡く色づいている。だんだんと夜明けが近づいてきているのだ。


 髪が溶け、頭蓋骨に穴が開き、脳が溶けて、瞳からぎらついた食欲が消える。恐ろしい光景だけれど、死の恐怖が取り払われて行く光景でもある。


 どっと安堵が押し寄せた。手の震えが止まらない。


 いつの間にか車内は静かになっていた。何が起こっているのかは分からないから、誰もが窓の外を見つめていた。


 もう感覚が狂ってしまって、夜明けだという自覚が持てないけれど、殆どの人は寝不足だろう。私も例に漏れずその一人だった。目張りを取っても感染者の姿が見当たらないことと、疲労困憊であることが重なってついうとうとしてしまう。

「海音、無理するな。後は俺たちがなんとかするから」

「でも……」

 こつこつ、とまた窓が叩かれた。


 助けてくれたのは誰なのか。金井さんたちは無事なのか。海麗ちゃんは相当こわい思いをしただろうから、きっと誰かがそばに居た方がいい。

 やりたいことと知りたいことがあるのに、まぶたが重くて開けていられない。


 なんとか起きていようと思うのに、結局、私のまぶたは睡魔に負け、情けなくも閉じられてしまった。


 真っ暗な闇の中で、ジェイドさんの誰何の声だけが聞こえた。






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