分かるから
焦りや苛立ちは今、無意味な感情だ。
だというのにさっきから汗が滲むほどに気持ちに余裕ができなかった。
とにかく坂を下っていけば合流できるだろうとふんで言葉少なに進んでいるが、いつまでもぐるぐると同じ場所を回っているような気がしてならない。
いつからなのか隅に放置されて黒ずんだコーンを、うずくまっている人影と錯覚して、疲れを自覚する。今はもう真夜中を過ぎた頃だろう。いつもならば夜を明かすくらいどうということはないが、今回ばかりはそれも難しい。気持ちのコントロールが上手くいかないのも十分に休息を取れていない証拠だった。
「なあ、聞きたいことがあるんだけど」
長い沈黙に堪えられなくなったのか、八木が歩調を少し緩めて話しかけてきた。
「鹿嶋とはこうなる前からの知り合いだったのか?」
これといって責め立てる気はないだろう口ぶりに、こちらも偽ることもなく正直に答える。
「ただの同期だな。話すまで顔を知ってる程度だった」
いつだったか、入隊してかなり経った頃に外出したときだ。適当に歩いていると、道の向うがやたらと騒がしかったから見にいってみれば、鹿嶋はどこにでもいそうなガラの悪い輩に絡まれていた。あまりにも面倒くさそうな雰囲気に踵を返そうとした瞬間、連中が鹿嶋に暴力を振るおうとしたせいで見て見ぬ振りができなくなったのを覚えている。
「なんでまたそんなトラブルに巻き込まれてたんだ?」
「さあな……ああいう手合いは沸点が低いし。あいつは何も言わなかったから」
事情を聞いたであろう上官には、かなりの時間、拘束されていたが詳しいところはわからず終いだった。同室の奴からは災難だったな、と苦笑混じりに言われ、あいつは変わり者だからな、とも教えられた。その時は流してしまっていたが、今考えれば鹿嶋は周囲とは馴染めなていなかったのだろう。
「それであいつとはそれっきりだったんだ。時々話しかけられる程度で、後は何も」
「それじゃここで会ったのは偶然か。運が悪いというか……」
ああ、そういえば誰にも伝えてなかったことがあったのだった。
もはや機密も何もないだろう。
「いや、ここに来れば他の自衛官に会う可能性がある事は知っていた」
ただそれが鹿嶋だったのは運が悪いと言えるだろうか。
最悪なタイミングを引いてしまったと言えば、その通りだ。全てにおいて間が悪かったと、認めざるをえない。
「……最初に日本に感染者が現れたのは十二月だったろう」
脈絡のない始まりに、八木は戸惑いながらも相槌をうつ。
「そう、だったな」
十二月の初頭に世界で感染者が出て、そのたった十数日後に日本に飛び火したのだ。
本当に飛び火だったのか、今やもう分からないが。
「感染者が現れて二日後に防衛省に封書が届いたんだ」
「防衛省……」
普通ならニュースでしか聞かないような単語を、八木は馴染みなさそうに呟いた。
「差し出し人は不明だったそうだ。そんな怪しい封書、捨てられてもおかしくないだろう?でも一応中身が検められたんだ。
詳しい内容は教えてもらえなかったが、そこには感染症、ウイルスの情報が詳細に書いてあったそうだ。理解できるのは専門家くらいだったろうが、かいつまんだものが俺たち自衛隊にも送られてきた。今度は名指しで、桜木研究所でワクチンが製造されていることも併せて、どこを狙えばいいか、とかな」
風貌のおかげで頭を狙えばいいとはなんとなく察せられていたが、ワクチンが製造されているとあっては無視することはできない。この情報は基地内だけで回されたが、他の基地にも同じ情報が流されている可能性は高いだろう。
「だから鹿嶋はここにきたのか。……けどニュースではそんなこと一つも報道されなかったぞ。人を襲う前の症状ぐらいだった」
他国で広まったその感染症は、しかるべき機関が全容を解明する前に爆発的に世界へ散らばった。発熱、ついで意識の混濁。理性を失うまでの時間は噛まれた部位が頭に近いほど少ない。
「そう、出回っていた情報は見ていたら分かるものばかりだった。そんななかでワクチンを作ってしまった研究所の存在を秘匿するなんて、どう考えてもおかしいだろう? 混乱が起きないように国民に伝えないにしろ、WHOに報告なりなんなりするべきだ」
なにせどの国でも満足にウイルスの正体を探れる状況でなどなかったのだから。
「それをしなかったのはおそらく保身だ。ワクチンはそう短期間でできるものじゃないから、」
「ずっと前からこのウイルスについて知っていたことを疑われる?」
続きを引き取った八木に頷いてみせると、顔を曇らせる。確かに自分の生まれ育った国が糾弾を逃れるために重大な情報を隠蔽していたとなれば多少は不信感も募るだろう。
だが隠したくなる理由はわからないでもない。災害にまで発展したこの病の情報を共有せず秘匿、しかも自国はすでにワクチンまで開発しているとなれば批難は免れない。こちらも多くの被害が出ていることを考慮すれば、生物兵器を作り出したなどとは言われないだろうが、それでもやはり国の印象は下がる。
「自衛隊にも送ったのはなんでだ?」
「そうだな……主だった理由は研究所の近辺を警戒させることを促すものだったんだ」
「なんでまた」
「……伝手、というとおかしいか。知り合いはな、防衛省に届いたものと、自衛隊に届いたもので、どうも、情報が食い違っているらしいと言っていたんだが」
だがどちらを信じるべきか、その情報の真偽が出る前に国は回らなくなった。
「その研究所の近辺には感染者が多かったのは事実だ。……鹿嶋が持っているそのワクチンも、桜木の研究所で見つけたんだろう」
黒ずんだ壁に貼り付いている文字は二。もう二階にまで降りてきてしまったというのに、いっこうに彼女達の姿は見えなかった。
「そのワクチンが本当に効くかどうかは……」
「ああ、誰も分からない。だからワクチンを持っているからといって、鹿嶋に着いていく理由にはならないんだ」
できれば回収はしたいが。
「お前は、」
少し強張った声に、八木をうかがい見るが、その目線はしっかりと前に向けられている。
「他人を見捨てられるほど情の薄い人間じゃないんだな」
ふ、と思わず冷笑がもれた。先の行動を見ておいて、何を。
__最初に、母を見捨てた。今までも、もう助からないやつを切り捨てて進んできた。同僚を、幼い子どもでさえも。
「そんなわけないだろう。俺は平気であいつらを、感染者に喰わせようとしたんだぞ」
掠れた声が出た。
俺は他人が思うよりも醜い考え方をする。
「でも結局迷った。仲間に引き入れれば同じことをする可能性があるのに、怯えた顔を見ただけで迷って、後悔したろ。俺のことだってそうだよ。あのまま何もしなけりゃこれからお前はもっと楽に生きられた。あんな必死な顔で庇わなくて良かったんだ俺なんか」
その自責にかけるべき言葉が見つからない。そんなふうに評価されるのも。
瞼の裏を掠めた影に目を細める。
「……俺は、助ける人間は選ぶ。さっき庇ったのはお前が兄だったからだよ。復讐に走った気持ちも、分からんわけじゃないんだ」
あの時動いたのはほぼ反射だった。借りを作って許してもらおうなどと打算的なことを考える暇もないくらいには、勝手に体が動いていた。
そしてそんなふうに行動したのは、兄として、その悲しみや怒りが分からないでもなかったからだ。
「俺にも弟がいるからな。あいつが死んだら自分がどうするか、想像もつかない」
悲しみを誰かにぶつけたくもなるだろう。怒りで人を傷つけるかもしれない。
自分の知らぬところで死んでしまったのなら、なおさら近くにいた人を恨むだろう。
「……………………ありがとう」
長い沈黙の末に出された感謝は、苦々しげで、歯切れが悪かった。
子供の謝罪のような、しかしそれが感謝であるちぐはぐさに声を立てずに笑う。
それでもこれだけは伝えておかねばならなかった。
「でも、お前が海音や白樺にしたことは忘れないし、許せない。あいつらが良いと言ってもだ」
笑みをおさめて言うと、向こうも小さく頷いた。
謝罪をする前提でのことだとは、伝わっただろうか。
「これから、一緒に行動させてくれるかな」
「それは……」
あの子達なら、渋々でもそれを受け入れるかもしれない。
「わからない。信頼を得るのは難しいだろうが……」
しかし余計な期待を抱かせることはすまいと、多少濁す。
八木は小さくため息をついた。
「でも、できる限りのことはやるさ。それでも無理なら____」
突如響いた耳障りな音のせいで、決意の続きを聞くことは叶わなかった。
暴動の最中で幾回か聞いた、衝突音。くぐもっているから階下だろう。
どちらからともなく駆け出す。
鹿島か、彼女らか、あるいはその両方か。どちらにせよこの音を聞いて気にするなというのは無理だ。
階段を駆け下りるはめにならなくて助かった、と思った。足裏から伝わる振動がそのまま痛みを伝えてくる。
スロープを降りきっても音の正体は見えない。黒々とした闇に目を凝らす。
「おい、何か聞こえないか」
言われて耳を澄ますと、確かに人の声らしいものが聞こえた。
懐中電灯の灯りを頼りに進み、奥まったところで名前を呼ぶ。
____と、今度は車でない、違えるはずもない、発砲音。
続くのは絹を裂いたような悲鳴で、もう目と鼻の先に彼女たちが居るのだと確信する。おそらく鹿嶋もいるのだろう。




