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赤眼ゾンビ  作者: 海月
第一章
34/99

黒幕

頭を持ち上げようとすれば、踵で落とされた。鼻血が垂れて地面に落ちる。

 ずっと前から罵声を浴びせられていたが、内容が一巡、二巡としていることに気付いてからは言葉として認識できなくなっていた。お前のせいで、何故守らなかった、死んで償え。全てが今はただの音にしかならない。

 一瞬目の前が真っ暗になった。ただでさえ最近は眠りが浅くなっていて、そこへきてあの騒ぎだったから、流石に体は疲れていたらしい。

 飛んだ意識は痛みで強制的に戻される。それが目眩を引き起こす。反応が鈍くなったことに気付いたのだろう。胸ぐらを掴んで起こされた。

 

 霞む目で相手を見返したとき、ふいに後ろで何かが光った。

 それが何なのかを認識した途端、はっと頭が冴えていった。視界が開けてただ反射的に体が動く。

 胸ぐらを掴んでいる手首をもぎ離し、後ろへ投げるようにしながら上に覆い被さると、背中に激痛が走った。

 倒れ込みそうになるのを必死に堪えてわずかに首を動かして振り返る。

「……なぜ庇うんです」

 銃口を構えた鹿嶋はマスクを外して問いを投げた。銃を下げるつもりはないのか、未だに引き金に指をかけている。

「なぜ、撃った。仲間だろう。違うか、」

 息を吸う度、体のそこかしこが軋んだ。一言発するだけで背中が疼いた。

「退いて下さい。自分はあなたを助けにきたんですよ」

「なら、……銃を捨てろ。誰も撃つな」

 呆れたようなため息とともに弾倉が落ちて固い音を響かせた。

「何度も言わせるな」

 俺を一般人だとでも思っているのか。

 オートマチックの拳銃では弾倉を捨てても薬室には弾が一発送られている状態だ。弾倉を抜いたからといって安心は出来ないし、そもそも鹿嶋がもう一つ弾倉を持っているかもしれないことくらいは容易に想像がつく。

 ややあって銃が地面に置かれた。

「意味が分からない。その人はあなたにとって立派な敵でしょう」

 戸惑った様子の鹿嶋は、本当に理解できないようだった。

「敵か味方かでしか考えられないのか、お前は」

 呆れながら言えば鹿嶋はさらに眉を寄せた。何が悪い、とでも言いたげだった。

 服が重たく湿っていくのを感じて顔をしかめる。そう酷い出血でもないだろうが、刻々と自分の体に限界が近づいてきていることに微かな焦りを感じた。

 ここで倒れたら八木はどうなる。

 痛みを堪え、震える膝を叱咤し立ち上がって鹿嶋を見る。

「それに、俺にとっちゃ敵はお前だよ、鹿嶋。狛平でいったい何人を見捨てた? また要らなくなったら処分か?」

 鹿嶋の目が一瞬揺れた。しかしすぐに合点がいったように頷く。

「あぁ、あの高校生に聞いたんですね。あれは不満を溜めた奴が勝手に……」

 そうです、とごまかすように声のトーンをあげ、さらに鹿嶋は言い募った。

 そこには自分では管理しきれないほどに人がいた。そんなところで物資の調達や保管まで背負わされていて、皆がストレスを抱え、一人では到底ケアが追いつかない。当然のごとく圧力をかけられて、救助は来ないのかと日常的に問いつめられ、自分も参っていたのだ。

「自分は何もしていません。確かに双方に問題があったことは認めます。ですが自衛隊だから全てをこなせと言うのは__」

 聞くに堪えないその子供じみた言い訳に、自分のなかでぷつりと何かが切れた。

「それまでに食料配分に差をつけていたことも、女性への暴行が横行していたことも聞いているが!」

 反射のように声を上げて、傷を思って束の間の後悔が過ったが、それよりも浮かんだのはあの子の怯えた表情だった。

 あの暗い部屋から助け出して間もないとき、部屋から勝手に出た彼女を怒鳴りつけてしまったときの痛々しく揺れる瞳を今でもありありと思い出せる。そのときは気付かなかったが、おそらく逆光で顔が見えなかったり、自分が影に覆われていることで、辛かったことを否応なしに思い出してしまうのだろう。ふとした瞬間に萎縮して身を硬くする彼女を見るのは苦しかった。

 ひたと鹿嶋を見据えていると、堪えきれないように目を逸らされた。

「……自衛隊に居場所などなかった」

 ぽつりと漏らして今までの不条理を思い返しているのだろう、結ばれた口が微かに震えている。

「どこへ行ってもヒーローのような目で見られた。指示を求めて俺を見た。ただの人間の俺に、安心しきった表情を浮かべるんだ」

 不安と恐怖に戦っているのは一般人だけではない。自衛隊も警察も、感染者への最前に立たされては多くの命を背負ってきた。だがそれ以前に俺たちは人間だった。

「そのくせ人が死んだらぜんぶ俺のせいだ。期待を裏切られたと勝手に失望して、じゃあ俺はいったいどうすれば良かったんです。どうすれば期待通りでいられたんだ? 名誉のままむざむざと死んでいれば良かったのか?」

 誰に問うわけでもないその言葉に同情の念が湧いてしまうことに、言い訳は出来ない。

 足下を見つめる鹿嶋の気持ちは分からないでもなかった。守る立場だからこそ、少しの選択ミスも俺たちは許してもらえない。

 ただそれでも、どんな理由があろうが狛平での惨劇は起こってはいけないものだった。誰かが止めなければならなかった悲劇だ。

「もう疲れたんです」

 次に顔をあげたときには、鹿嶋の目にかげりは無かった。かわりに心底から人を嘲るような笑みを浮かべている。

「人は、どこまでも堕ちます。少し煽ればすぐに利己的に動くようになった」

 滑稽ですよね、と面白そうに言う。

 

「それで、俺、気付いたんですよ。いさかっている奴らを見ることが、俺には一番おもしろいんだって」


 生き生きと語るその顔には罪の意識など微塵も感じられない。


「こうなる前はずっと退屈だった。俺がこんな奴だとばれたら生きにくくなることが分かってたから、無意識に自分を隠して生きてきた。毎日何か物足りなかったんです。……でも」


 新しい玩具を手にした子供のような笑みだった。嬉しくて嬉しくてたまらないとでも言うような。


「世界が終わって俺は満たされた」


 こいつは、今、生きている心地がするのだろう。やっと息を吸えると喜んでいるのだろう。何をしているかが明確に分かっていながら、心の底から楽しんで、繰り返そうとしている。

 本人にとっては欠点でもなんでもないのだから、矯正することなどできない。善ではないと指摘したところで意味がないのだ。

 俺では鹿嶋をどうするかの決断ができない。被害者でも、絶対の善人でもないからだ。


「……あとは安全に生き延びることができればいい。だから一曹、あなたを待っていた」

 さあ、と手が差し出される。

 

 俺がお前を守るとでも思ったのか。

 沈黙に何を思ったのか、手は下げられた。


「ああ、あの二人のことなら気にしなくても大丈夫ですよ」

 平坦な口調で告げられたその内容に、不吉な予感が胸に走った。


「もう、駄目でしょうから」


 

 のたうつような怒りが胸の内を吹き荒れた。最初に自制したはずの衝動が振り切って、考える間もなく体は動いた。

 真っ白な時間の後、気付けば鹿嶋は地面に倒れふしていた。

「あの子達に何をした」

 起き上がろうとする鹿嶋の胸ぐらを掴むと、厭な笑い方をして、あごをしゃくって後ろを示した。

「俺じゃありません。あいつが勝手にやったことです」

 その()()()遊びを、今の俺にも通用すると思っているその浅ましさに、また苦く重い気持ちになる。

 真っ直ぐに見下ろしても、今度は目を逸らさない。むしろどこか昏い輝きを帯びて、ついぞ見た事のないような表情をしていた。

「なぜそこまであの二人に執着するんです? そんなタイプじゃなかったでしょう。そんなに大事ですか?__何か理由でも?」

 どうやら鹿嶋はあの二人がいても何の意味も無いと思っているようだ。

 理由など、いくらでも。ただ、

「お前に教えてやる義理はない」

 教えたとして、おそらく分かることはないだろう。

「だからそんなことはどうでもいい。何をした?」

「ここまでのやり方を見て、分かりませんか?」

 後悔が波のように押し寄せる。一刻も早く、彼女達のもとに戻らなければ。

 そう思って身を引こうとするが、腕を掴まれた。ぎりぎりと強い力で締め上げられる。

「中にはもう、ゾンビどもがいますよ」

 さっと額が強張った。

「俺がしたいのは剪定なんです。こんな世界で生き残るにはそれなりに外れた奴じゃなきゃいけない。何か、人として欠けているような」

 それをあぶり出すために。

「俺はお前と生き残るつもりはない」

 低い声で言い放って手を振り払えば、あっさりと解放された。

「……そうですか」

 軽い失望の混じったその声に構う余裕など今はない。がたつく体にむち打って走り出す。


 早く、一刻も早く。

 

 今はもう、守る術を知っているのに。どうして俺はまた間違える。


 情けなく視界が滲んだ。


 ふっと辺りが明るくなって、月の光が地面といくつもの柱を照らし出す。その柱は人の形をした恐怖だ。世界に散らばる脅威は、ぞろぞろと入り口へ集まってきていた。

 その光景に否応無しに足が止まる。今の俺には何も無い。この数を一人では捌けない。

 眠りに落ちて無防備な彼女達は、反応できるだろうか。そして順当にいけば一番に襲われるのは自ら階下で眠っている彼女だ。

 

「______ぁ、」


 恐ろしい、恐ろしいその想像にたまらず声を出しそうになったのを、背後から回された手にせき止められた。

「死にたいのかよ。……いいか、下手に動かなけりゃあいつらはこっちに気付かない」

 拘束を逃れようともがくと、いいから聞け、といやに真剣なささやきが帰ってくる。

「ラジカセで音声を流しているんだ。ラジカセは一階にしか設置してないから多少は留まってると思う」

 少しの猶予は与えられたが、そんなものは焼け石に水程度で、やはり最悪の想像からそうかけ離れたものは生まれない。

 しかし少し落ち着いたのを見計らってか、手を外される。

「それで……鹿嶋は今、ワクチンを持っているらしい。加えて武器も、食料も当面のものはあると言ってるんだが」

 なるほどこいつは鹿嶋に言われて俺を追いかけてきたのか。

「睨むなよ。なあ、あんたはどうする。これでも鹿嶋に着いていかないのか?」

「いかない」

 食料や武器はともかく、ワクチンは鹿嶋のハッタリである可能性もある。そんなものに食いついて労力を割けない。

「即答か」

 苦笑する八木を俺は怪訝に伺っていたのだろう、気付いた八木はすっと表情を戻した。

「俺に償いをさせてくれ」

 随分と真摯な言葉に眉を寄せるが八木の目に先程のようなぎらついた憎悪の念は見られない。

「お前は鹿嶋に言われて追ってきたんじゃないのか」

 指摘してみると少し瞳が揺れる。しばらく逡巡して、八木は迷うそぶりを見せながらも口を開いた。

「そうだ。そうすればお前も連れていってやる、そう言われてここに来た。でも、」

 唐突に口を噤んで、切り替えるように首を振る。

「いや、やめとこう。とにかくもうあいつの側につくのは止めた。……まだ間に合うかもしれない。鹿嶋は車を取りに行っているから、今のうちに中に戻ろう」

 協力的なその態度を素直に受け止めるべきか束の間ためらうが、今はもう思考する時間さえ惜しい。

「どこから?」

「バックヤードの入り口から。鍵はずいぶん前に開けたはずだ」

 八木が先に歩き、その後を追う形で暗がりのなかを進む。無駄な明かりが無い今、月明かりのおかげか目が慣れてしまえば歩くのにそう困らなかった。

「ここだ」

 ためらいなく扉を開けた先は、黒く、外と比べ驚くほど見えにくい。見える範囲ではかなり大きな棚が並んでいるようだ。

「暗いな」

 言うと、八木がポケットから何か取り出した。

「フラッシュライトだ。ちっさいけどな」

 小さいが光量はかなり多い。絞られた明かりを頼りに出口まで歩くと、かすかに人の話し声がドアの向こうから聞こえてきた。これがラジオから流れている音声なのだろう。

「すぐ横は非常用階段だから、気付かれることもないだろ。……動けるか?」

 動けるか、と問われても、今は動くしかないのだ。何かしていないと嫌な予感が膨らんでどうにかなってしまいそうだった。

「まだ大丈夫だ」

 端的に答えると、八木は目を伏せた。どこかばつの悪そうな顔に怪訝に思うが、八木はこちらの体のことを気にしているらしい。

「……俺は頑丈だぞ」

 ぽそりと呟いて八木を見れば、今度は眉を下げて、口をへの字に曲げたどこか情けない顔をしていた。あの時の剣幕はどこへいったのだと疑問が浮かぶほどだ。

 復讐はしない、と清廉と言い放った彼女とは、確かに、八木は真逆だっただろう。だがそれを受けて俺は八木を恨もうとは思わないし、むしろ心のどこかで許される場が与えられただけ安心していたのかもしれない。

「事が落ち着いたら、もう一度、謝る機会を与えてくれないか」

 これは八木のためではなかった。ただのわがままであり、自分が楽になるための申し出だ。

 相手はつかのま目を瞑り、ゆっくりと頷いた。


「わかった」




 八木の予想通り、感染者に気付かれることなく非常用階段から目的の階までたどり着くことができた。

 だが、そこに残っていたのははね飛ばされた寝具だけで、人影が見当たらない。それが示すのが希望なのか、絶望なのか。

 すでにそれは冷たく、眠っていた気配も感じられない。

 すがるようにそのフロアを回って、見つけたのは冷たくなった梅谷の体と、それとは別らしい小さな血痕。

「……その、あの女の子はこんなことができる子だったか?」

 八木が若干戦いたように言うが、それに関しては何とも言えない自分がいた。

 遺体の右目は抉られて、おそらく脳まで刺突したのだろう。何度も刺したのか細かい血が辺りに散らばっていた。

「梅谷は海音を、襲った。梅谷の独断……ではなさそうだな」

 ひとまず先の疑問を無視して八木を見れば、視線を外された。

 女を征服することにおいて、彼らはこんな手段しか思いつかないらしい。幼稚で、浅はかな考え方だった。そのくせ一生傷付ける。

「すまなかった」

「その言葉は俺じゃなくて彼女達にむけてくれ。できたらな」

 切った物言いに八木はさらに悄然とした様子だったが、この事は彼女達が謝罪をどう受け止めるかでしかない。ただ女性を手篭めにしようとすればここまでのことをさせてしまうほど追いつめるということ、そしてこちらには理解することのできない恐怖があることを、まざまざと見たような気がしたのは八木も同じだろう。

「けどな、海音はきっと殺すことはしない」

 まだ大人と子どものはざまであるが故の潔癖もあるのだろうか。こうと決めたら彼女はおそらく意思を曲げない。

「なら誰かに助けられたのかもしれない。どちらにせよここには居ないんだろ」

 白樺か、と当たりをつけてみるが、鹿嶋の物言いからして何もされていないとは言えないだろう。助けようとしたとしてこんなふうに手をかけるのは随分と恨みが籠っている気がしてならなかった。

 さらに回ってみると、数人が床に倒れこんでいた。全員が側頭部を打たれて伸されているが、息はあるようだった。

 どうすべきか、と自問するが、このまま放っておくというのもできない選択だった。どういう心境の変化なのか、八木は味方のように振る舞っているが、伸びているこいつらが協力的であるとも限らない。ここにいる以上、目的は梅谷と同じなのだろうし、信用を置けというのも難しい。こんな状況でなければ放り出すこともできただろうが。

 傍らにしゃがんで一人の肩を叩いてみる。

 見たところこぶが出来ているだけのようだから加減なしで叩くと、二、三回でうめきながらも目を開けた。

「____お前ッ」

 覚醒するやいなや拳を振るうとは、案外頑丈らしい。なんとか拳を躱すもすぐに二回目が飛んでくる。

 相手は錯乱状態で、俺を誰かと勘違いしているようだった。話をしようにもできないので、隙を見て肩を掴む。

「落ち着けよ。大丈夫だ」

 相手と視線を合わせると、俺が相手の思う人ではないことに気付いたようで、目に焦点が戻った。手の力を緩めても動く気配を見せないところを見ると、少しは落ち着きを取り戻したらしい。

「誰にやられた? __お前はここに来て何をしようとしていたんだ?」

 相手の肩が小さく跳ねたのが手に伝わり、俺は知らず手に力を込めていた。動揺するということは、やはり目的は彼女だったのだろう。

「お、女の子を、様子を、見に来たんだ。そうしたら居なくなってて、探してたら、三ノ輪が、殴り掛かってきたんだ」

 ばれたらマズいことであるという認識はあるのか、わざわざ含んだ言い方をするところが浅ましい。

 表面上は三ノ輪がまるで通り魔のようだが、加減して殴っているであろう辺り、彼女が逃げられるように図ろうとしたのかもしれない。だとすれば二人は合流していたりするだろうか。

「……そうか」

 頷くと明らかにほっとした様子で肩の力を抜く。

「様子を見に来た、っていうのは嘘なんだろう?」

 再度身を硬くさせたところで熱がこもってしまった手を離した。

 提案したのは確かに八木だろう。でも素直に従い、行動に移したのは彼らだ。


 彼らをあの子に会わせたくない。


 俺が報復する権利は無いと彼女はまた言うかもしれない。苦しむはずなのにどうにかして許そうとするのを見ているのは辛かった。

「ああ、何も言わなくていい。今一階に感染者が次々と入ってきてて大変なんだ。総出で対処してるんだが、お前にはここで倒れてるやつを見ていてほしい。話は後だ」

 彼らがどうなるかは、わからない。生き延びられるか、感染者に喰われるか、二つに一つだろう。

「頼めるか?」

 卑怯な手だ。心のどこかで自分を批難する声が聞こえる。

「……ここには、こないんだよな」

 怯えた目を見て、決心が揺らいだ。批難の声が大きくなる。

 答えあぐねていると、ぱっと目の前が懐中電灯によって照らされた。八木が背後から光を当てたらしく、相手は驚いた顔で俺を見た。

「お前、なんでここにいるんだよ。どうして、八木さん! こいつに復讐するって」

「もういいんだよ。俺が間違ってたんだ」

 被せるように言うと、八木は全てを説明し始める。

 鹿嶋に復讐をそそのかされたこと、その方法も提示されていたこと。鹿嶋は初めから自分たちを切り捨てようとしていたこと。そして、今の状況。


「……なんだよ、それ」


 弱々しく呟いてうなだれるその姿に、こいつも感染者は怖い、ただの人間なのだと思い出す。

 

「今なら従業員用の部屋から外に出られる。階段のほうもまだ安全だろ」

「八木さんは」

「俺たちはやることがある。ずっとここにはいられない。さっき言われたとおり、お前にはこいつらを見ててほしい。ただし起きる気配が無かったら遠慮なく逃げろ」

 最後に目を伏せ、無責任だが、と自嘲気味に呟く。

 しかし向こうは何も言わずに頷いた。


 どうしてこうも人間は状況によって善にも悪にもなりうるのか。ずっと悪人であれば、こんなに迷うこともないだろうに。

 本当はこんな奴を生かしておくことなどしたくない。だというのにあの怯えた表情を見てしまうと何もできなくなってしまった。


「……助かった」

「何が」

 上へ向かう途中、ぽそりと言うと、ずいぶんとそっけない返事が返ってきた。それきり会話は無かったが、八木の雰囲気は多少やわらいだようだった。




「どこにもいないな」

 結果として、上階はもぬけの殻だった。誰の荷物も見当たらないところを見ると、彼女たちは脱出できたのだろう。きっと、海音と白樺も。

 ほっとすると同時に言いようのない不安も感じる。一度離れてしまえばもう会えない世界だ。

「だが、どこから出た? まだ感染者が集まっていないうちに正面から出たとしても気付けないことはないだろう。俺たちみたいに裏から入っても同じだ」

 あの距離で気付けないなんてことはない。疑問を口にして、さらに彼女たちはほとんどが武器を持っていないであろうことに気付く。

「もしかしたら……駐車場を移動してるんじゃないか。一気に下まで降りれるだろ。すでにアイツらに入られてるってわかったんならバリケードから遠いところに出る道を探すはずだ」


 問題はいつから移動を始めたのかだった。もし鹿嶋と鉢合わせていれば、あいつがどうでるか。


 またしても不安が腹の底をあぶる。疲れも溜まっていて体も重いのに、その焦がすような不安だけが膨れ上がる。


 もう二度と会えない可能性が、すぐそこにあった。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 




 

 

 


ここまで読んでくださりありがとうございます!

大変お待たせしたうえにテンポが悪くまったく進んでいないのでとても申し訳ない気持ちでいっぱいです。

ブックマークや評価、とても励みになっております。

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