捨てるべきもの
「ねえ……大丈夫なの? 顔が真っ青よ。何があったの」
今海音ちゃんは居ない。お友達を探しに行ったらしい。あの集団に入っていたのに、殊勝なことだ。
「海麗ちゃん」
「……なに」
彼とは身長差がたっぷり頭一つ分と少しはあるけれど、目だけを動かして煩わしく思いながら見上げる。
「それはこっちのセリフよ。何があったの?」
もう、めんどくさいな。何も知らないくせに。
それでも重い口を開こうとしてしまうのは、私がそれだけ彼に入れこんでいるからだろう。心配するあまり自分の顔色も悪いことを思い知らせてやりたいけど、あいにくと鏡は持ち合わせていない。
「じゃあ全部言うよ」
そうすれば貴方は何も言えなくなるだろうから。
「全部って」
「私はね、中学校に避難してたときに強姦されたの。お母さんもそう。……それを思い出しただけ」
正しく。一つの狂いもなく。
「蛍姉さんには言ってなかったけど、お母さんはこの世界に絶望して死んだんじゃないの。殺されたんだよ。妊婦さんは邪魔だから。赤ちゃんは泣くし、叫んであいつらをおびき寄せちゃうから」
何の反応もないから、構わず続けた。
「誰が殺したかはもう良いけど。私はもう姉さんが思ってるような子供じゃないよ」
善い人でもない。復讐が目的で人を殺して、挙げ句の果てに、あの子も傷付けた。
「だから、」
「もういい」
ぎゅっと抱きしめられて、その先は言えなかった。低い低い声に、彼は男性なのだと改めて感じる。
振りほどく気力も無くて、そのまま彼の胸に体を預けた。
私はいったい何をしてきたのだろう。彼女が来なければ一生精神を病みながら暗闇をさまよっていただろうことだけは分かる。
ずっと私もお腹に赤ちゃんがいるだろうと思い込んでいた。でも今日何ヶ月か振りに月のものがきていた。それでようやく現実が重くのしかかってきたのだ。
海音ちゃんが来たとき、私は確かに嬉しかった。でもなんだか見覚えがあって、必死に記憶をまさぐっている内に、なんとなく学校で見たことがあるなと思ったのだ。きっとすれ違っただとか、そんな程度だろうけど、長い黒髪が印象的だった。
避難していたときもこれといって接点はなかったけど、だからこそ彼女がそこにいることがおかしかった。健康そうな彼女を見て、男の子にも怖がる様子をあまり見せない彼女に違和感は加速していった。
彼女は私と同じ目に遭わなかったのだ。
気付いたら、憎くて、憎くて憎くて憎くて……酷いことを口走った。
「私、海音ちゃんに謝らなくちゃ……」
言葉と一緒に涙が流れた。きっと腹がたってもあれは言っちゃいけないことだった。
法律のない世界だ。どれだけ自分が清く生きようとしたって守ってくれるものはない。殺されたらそれでお終い。そのなかで必死に人間として当然の倫理を守ろうとしている彼女に対して私は綺麗ごとだと嘲った。
「どうして。喧嘩でもしたの?」
「ケンカというか」
一方的に傷付けた。
はあ、と脱力する。私は多分人としての一線を超えたのだろうし、これから救助なんかが来て古い世界のようになったとしても堂々とは生きていけない。そうなれば思い止まらせようとしてくれた彼女に私は感謝するだろう。
おかげで今、少しの後悔が胸の奥で疼いている。
「あの子なら許してくれると思うけどね」
「……またそうやって、甘やかす」
姉さんがいつまでもこんな態度をとるから、私はどう頑張ったってこの心を引き剥がせない。
「あのね。海麗ちゃんがどんなことをしても、されても。……私はあなたのそばにいるから」
私は本当は知っているんだ。貴方が貴女なんかじゃないこと。
身じろぎすると彼は少し腕を緩めた。その隙にやや強引に抜け出す。ずっと妹のように扱われてきたから、この想いを親愛で抑え込もうとしたこともあった。
違うと気付いたのは、彼が女の子と歩いているところを見たときだった。手を繋いで笑いあっていたあの光景を多分私は忘れられない。その頃にはもう私は彼らがどんな関係であるかは察しがついて、はっきりと嫌だと__嫉妬した。
もう言ってしまおう。
「蛍、さん。蛍さん、私は貴方のことを愛してます。いつからかは分からないけど愛しています。ずっと、ずっと。今まで貴方にキスしたどの女の子よりも」
ぽかん、と彼は間抜けな顔を晒している。
好きだと言ったら笑って流されるだろうから。大人しか言えないようなこの言葉を私は重ねる。恥ずかしいなんて思わない。この機会を逃せば思いを伝えることはおそらくできなくなる。
何か言いたげな彼に口を挟ませないように言い募る。
「愛していましたでも、返事は要りません。もうこの想いは捨てます。こんな世界だから」
海音ちゃんはきっと今いる人を大切にするために過去を捨てようとしている。私がこの感情を切り離しても意味は無いかもしれないけど、彼女の代わりに避難所で起こったことも全て覚えておきたい。
「____そんなの」
ずるいでしょう。なんとでも言えばいい。私は彼女とずっと一緒に居ると言ったのだから。彼女は本気にとっていないだろうけれど、もう決めたことだ。
顔をじっと見据えていると、根負けしたように彼はため息をついた。
「……分かった。いや、分かったとか言っちゃいけないのかな」
呟いて今度は私の目を覗き込む。
「もし、世界が元に戻ったら__誰もが優しい世界になったら、返事をさせてください。要らなくても」
ふ、と笑みがこぼれた。自分勝手な人。
「なら私はもう少し姉さんでいるわ」
「私ももう少し妹でいてあげる」
生意気に言い返して、これで話はお終いだ。




