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赤眼ゾンビ  作者: 海月
第一章
29/98

持てば苦しい感情

 こち、こち、と秒針の音がやけに耳につく。夜であることだけが何となく分かった。

 いつの間に眠ってしまったのか。

 海麗ちゃんは寝に行ったらしく、毛布から出して辺りをまさぐった手に編み棒らしき物だけが当たる。

 

 熱はある程度下がったようで、少ししんどさがましになった気がした。

 それでもまだだるくて、緩慢な動きで毛布を被り直した。

 

 額にあてがわれたひんやりとした母の手、それから穏やかに私を宥める声を思い出す。夜、仕事を終えて帰ってきて、真っ先に私の様子を聞く父の低い声に、両親が居ることに安心して眠ったことも脳裏に浮かんだ。

 

 そのどれもが、今は無い。

 

 たまらなく寂しい。辛くなると分かっていても思い出に縋らずにはいられない。

 母と父の手が、声が、もう一度欲しかった。

 甘ったるい気持ちの子供のままでいたかった。

 順に思い浮かべていって、突然酷い焦燥に駆られる。

 

 思い出せない。

 

 あんなにも一緒に居たのに、ずっと、この先も見るはずだった、両親の顔を思い出せなかった。何度記憶をさらっても出てこない。

 思い出そうとすればするほど、手のひらから零れ落ちていく記憶の砂を自覚する。

 毛布の中で胎児のように丸まって、両手で顔を覆った。

 このまま二人を忘れてしまうのだろうか。その内声も消えてしまって、ああ、私はおいていかれたのだろう。父と母は私をこの世界に捨て置いた。

 

 ……いっそ狂ってしまえればどんなに楽か!

 

 過ぎった思考に、けれどそれを否定する理由はちゃんとあって、それがまた私を苦しませる。

 いつまでも耳の底に鮮明にある声。囁くような声量のくせに。

 __死んだら許さないから。

 あの子も私を置いていったくせして、私を縛り付けるのだ。きっと彼女は狂うことも許してくれないだろう。

 

 最期に手がとれなかったことは今でも後悔している。

 小学校からずうっと一緒だった。臆病な私の手をとって色んな所へ引っ張っていって、それが原因で喧嘩をしたりもしたけれど、長引くことはなかった。いつも笑顔で、基本的に何でもそつなくこなすような子だった。

 いつも穏やかに居られたのは彼女のおかげだ。

 でももう会うことはない。

 鈍い頭痛が先ほどから強くなってきていた。鼓動が速く、息苦しささえ覚える。

 なのに、それなのに、やっぱり涙は出てこない。こんなにも胸が苦しいのに吐き出せない。罪悪感に押し潰されそうだ。

「もうやだ……」

 嗚咽に紛れるように口から弱音がこぼれる。

 不幸を呪ったところで何にもならないけれど、誰かを恨む勇気も無いのだから仕方ない。だから、怒りの代わりに寂しさだけが募っていく。

 

 誰かに傍に居てほしい。

 

 そう切に願ったとき、足音が聞こえた気がした。

 

「…………誰?」

 

 毛布から顔を出して誰何するけれど、何もかえってこない。

 ジェイドさんや海麗ちゃんかと思った。そうであったら。

 

 足音が近づいてくる。微かな話し声も。

 

 気付いて、戦慄した。

 

 足音は複数ある。声は全員低くて内容が聞き取れない。

 

 腹の底から恐怖した。

 

 多分、その人達はまだ階段を降りている。懐中電灯の明かりが踊り場にちらついたとき、初めて呆然とした頭が動いた。

 喋り声も前より聞こえる。

 

 本当に良いのか? 何弱気になってんだよ。 楽しみだなあ。 処女かもな。あの二人が何もしてなけりゃ。 んなわけ。このご時世何の役にも立たない女抱えるとかやってられるか。やっぱ相応の意味が無いとな。

 

 

 

 ____意味。あなた達にとって意味が無ければ女は生きてはいけないのか。

 この世界で女は一つの用途でしか存在しないのか。

 

 ____それに。

 

 怒りに染まった唇を噛む。

 女を連れているだけであなた達と同類に落とされる程、あの人達は屑じゃない。堕ちてもいない。

 毛布を跳ね除けて立ち上がる。

 

 そういやここに居る奴ら全員お手付きだったっけか。

 

 何でもないことのように言ったそれに一瞬だけ立ち尽くした。

 私は汚い、違う、穢いから。お父さん、お母さん、ごめんなさい。もう、私は……。

 

 暗闇の中をひた走る。水滴が後ろに流れていった。

 

 私が居ない事に気が付いた彼らは怒り狂っているのか、怒号がフロア全体に響く。

 探せ探せ、と、もしかしたら聞こえるように大声で言っているのだろうか。

 エスカレーターまで行こうとしていた足を止め、本屋に駆け込む。

 どこまでも追ってくるつもりならば逃げずに隠れた方がいい。それに、もうすぐ近くに足音が迫ってきていた。

 どうやら一人だけらしい。

 

 タイミングを見計らって、相手の目が私を捉えた瞬間に本棚の陰へ移動する。

 案の定気づいたその人は本屋に足を踏み入れた。

 ライトの明かりがゆっくりと暗闇を舐める。

 それを頼りに方向を推測して中腰で奥の方へ移動し、相手が反対側のブースへ行った所で真っ直ぐレジへ向かう。

 確認がかなり早い。もうレジが見える位置まで行ってしまいそうだ。

 回り込まず、静かにレジを乗り越える。

 下の空いたスペースに体を捩じ込ませてほっと息をついた。

 少ししてレジカウンターを光が照らす。

 息を潜め、指が白くなるまで強く手を握る。

 

 ふい、とライトの明かりが横に逸れて、足音が遠ざかった。

 そっとレジ下から顔を出して、暗闇の向こうに目を凝らす。

 近くにはもう居ないみたいだ。

 その場に座り込む。

 

 ほっと胸を撫で下ろしてようやく、体のだるさを自覚した。

 

 これからどうしよう。

 まさか彼らも夜明けまでここを探し回るわけはないだろうし、隠れているのが得策だろうか。

 膝を抱えて、泣きたいような気持ちになった。

 なんでいつも私だけ。

 

 __そういやここに居る奴ら全員お手付きだったっけか。

 

 はっと天井を仰ぎみる。

 上の階からは得に何も聞こえてこない。

 彼らの目的が私一人でなかったら、もし私が見つからない腹いせに彼女達を襲おうとしたら。

 感染ったって良いんだと投げやりに言ったあの子は抵抗できるだろうか。諦めたように暗い瞳をしていた彼女達も。




 レジ下から出るのは酷く勇気が要ることだった。

 

 おぼつかない足取りで本屋を出る。

 周囲を見回して、ふと気配を感じた。

 

 直後、口元を大きな手が覆って後方へ引っ張られる。

 そうして放り投げられるように床へ押し倒された。

 身を捩るがびくともしない。

「驚いたあ? 隠れられてると思ってたんだもんね。待ち伏せは考えられなかったかな」

 これが子どもと大人の力の差。男女の体格差。

 カチッと懐中電灯が点けられて辺りがぼんやり明るくなった。

 微かな灯りに照らされたのは見覚えのある顔で、目を見開く。

「紹介の時から思ってたけど、君、やっぱり血色良いね。髪もさらさらだし……この時代じゃ随分健康的だ」

 頬に指を滑らせ、髪を掬う。

 じっとりとした動作に嫌悪感が湧いて、顔を逸らした。

「……わー、嫌そ」

 けれどそれさえ楽しむように梅谷さんは笑ってみせた。

「その反応、超新鮮。避難所から連れてきた奴らもうなんも言わないからさー」

 見回りの際は一言も喋らなかったくせに良く回る口だ。

 けれど引っかかる。避難所から連れてきたというのは。

「女は馬鹿だよね、ほんと。物資を分けるっつったら簡単に股開くんだもん」

 今度は首筋に舌が這う。

 ぬるりとした感触に肌が粟立った。気持ち悪い。

「あ、手は外してあげるけど叫ばないでね。皆集まってきちゃうから」

 独り占めを目論んでいるらしい彼はあくまでのんびりとした口調で釘を刺した。

「……その、避難所は」

「ん?」

 腹に沿わせた手を意識しないようにしながら声を絞り出す。

「感染者でも出たんですか。物資を分けるって、それまで彼女達には」

「何気にしてるの、他人でしょ? 君ら」

 ぎっと奥歯を噛んだ。神経を逆撫でする物言いだ。

「まあ、良いけどさ。気になるなら教えたげる」

 嘲るように鼻で笑うと、梅谷さんはホームセンターにあるような大きなカッターを取り出した。

「そこでな、俺達はお前みたいな子どもやら女やらを守ってやってたわけ」

 カッターを弄びながら、自慢げに語る。

「ヒーローだったんだよ。ゾンビかいくぐって食料集めて。何人かは、死んだ」

 けれどそれさえ誇るように。そこまでの犠牲を払って尚、守っていたのだと。

「……なのに、お前らときたら。ペラペラ不満をたらすだけ。安全な内側にこもって足りないことを嘆いて……本当に見下げ果てた人間だった」

 すっと底冷えした眼差しで、私ではない誰かに向けて吐き捨てた。

「だから俺達はもう避難所を出ようって決めたんだよ」

「じゃあなんで……彼女たちを連れてきたんですか。連れてきていない人達は、なんで」

 心臓が激しく脈打っている。指先を痛い程握りしめた。

「__そうだな。君もこれからされる事は分かってるよね?」

 だからこんなに震えてるんだもんね、と嬲りたくて仕方がないような声で言う。

「で、今居る人達はそれでしか価値を持たない人達。それすら出来ない腰抜けはまあ……途中退場?」

 カッと頬に血が昇った。少しでも距離を置きたくて身をくねらせる。

「君も死にたいわけ」

 カッターが首に添えられる。

「……助けて」

 か細く呟くと、彼は狂ったような笑い声をあげた。

「助けて! 今更誰に! 君を大事そうに抱えてた外人は今頃死にかけてるだろうし__あの坊主に至っちゃ元々こっち側なんだ」

 

 頭が芯から冷えた。

 

「嘘、」

「嘘なわけあるか」

 

 息が吸えない。視界がぼやけて、まるであの時に戻るような感覚。

 白樺さんのことを仲間だったと言い、ジェイドさんは、きっと今別の人に酷い目にあわされている。

 

「ほら、また。自分だけが被害者みたいな顔して」

 カッターが首筋を切った。鋭い痛みが弾ける。

「うんざりだわ、ほんと」

 胸から腹にカッターを動かすと、あっけなく二枚の布は裂かれた。

「でも随分と食いやすかった。中学校だから学生も多くてね。馬鹿で、危機感のないやつら。制服はやりやすかったなあ」

 

 裂け目から手を入れて、胸を無遠慮に掴む。

 耐え難い痛みだった。

 

 でもそれ以上に心が痛い。私と同じ中学校の生徒たちはこうして嬲られて、どうしようもない力量差に絶望して。

 

 最後に、殺された。

 

「……クズ」

 

「俺からしたら人間の屑はどっちだって話」

 平気そうに切り返して、直後、二の腕を切りつけられた。

 火が舐めたような感覚に止める間もなく叫び声が漏れる。

「おとなしくしなよ」

 首筋の傷を舐められ、食いしばった歯がぎりぎりと鳴る。

 あの時確かに息づいた炎が再び腹の底を炙っていた。見て見ぬふりをしたそれが目の前にちらつく。

 私はすぐ消える泡みたいな偽善にすがりついて、怒りさえも唾棄してしまっていた。組み敷かれる側だと、ある種諦めて悲嘆にくれてみせた。

 狭いあの用具室に閉じ込められた時もそう。

 必死に扉を叩くあの子を横目に私は何をしていた?

 震えて怯えていただけだ。


 眼前の男をキッと睨み付ける。

 これが正しい感情だ。憎悪と嫌悪が入り混じる怒り。

「おとなしくなんかしない」

 腕を伸ばして、さっと相手の顔へ手を這わせ、軽く目を突いた。

 ぐうっと唸って顔を抑えながら、梅谷は体を起こす。

 その隙に身をねじり、床へ手をついて股の間から抜け出した。肩に鈍痛が走って、一瞬動きが止まる。

 しまったとほぞを噛んだその時にはもう、相手の手が迫ってきていた。

 頭が後ろに倒れ、視界が激しく揺れる。髪を掴んで乱暴に引き寄せたのだ。

 心臓の音が耳元で聞こえる。焦りに汗が滲んで手のひらがこわばった。

「嫌!」

 それでも抵抗したくて、腹を折って前傾姿勢をとるが、大人の力には勝てない。舌打ちが間近に聞こえるほどに距離は近かった。

「めんどくさ」

 ふくらはぎの真ん中辺りにざっくりとカッターの刃が刺さる。

 知覚が遅れるほどの痛み。

 ようやく脳が追いついて悲鳴をあげさせる。

「さっきの威勢はどこいったのかな?」

 高い笑い声。

「ほら、人は痛みに勝てない」

 ぱっと髪を離された私は地面に伏せる。

 苦痛だけが頭を支配するなかで、ズボンを脱がそうとしているらしい、腰に彼の指先が触れた。

 あの冷たい夜が体をずぶずぶと飲み込んでいく。きっと逃げられない。

 

 結局、夢の欠片を食んでいただけなのだ。

 

 私が(わたし)である以上、いつか必ずこんな日はやってくる。たとえ受け入れるつもりがなくても。

 

 もうどうなったって良い。考えるのも疲れた。

 諦念を受け入れてしまうと、いやに楽になった。あの時もこうしていれば良かったのだろうか。

 

 

 

 

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