罪人
夏直前とはいえ、夜は長袖を着込む。それでいて室内で丁度いいのだから、外に出れば当然、少し肌寒い。
頭上から降ってくる仄かな明かりを頼りにデパートを出て、張り巡らされたバリケードに沿って歩いた。
「……寒い中わざわざすまんな」
裏手に出たところで振り返った人物に対して、首を横に振って応える。
「そうか」
薄暗い中で八木が唇を歪ませたのが分かった。
「弟の、件は」
切り出すが、一向に薄笑いをやめない。そのことを訝しがりながらも、押し出すように言葉を続けた。
「本当にすまなかったと思っている。俺が判断を誤ったせいで、必要の無い犠牲が出た」
八木が、は、と鼻で笑った。心の底から嘲るように。
「必要の無い、ねぇ」
俯いて、肩を震わせる。
次に顔を上げたときには、優しげな笑みを浮かべていた。
「いや、俺だって、お前を許してやりたいんだ。俺らのせいで嫌な雰囲気にしちまったのも、反省してる」
素直に受け止めるには、真っ直ぐ過ぎる言葉だった。
顔が見えるぎりぎりの距離で八木は大仰に腕を広げてみせる。
「だから、お前も辛抱してくれ。許されるために」
八木の他に数人居るのは分かっていた。
話し合いに関係ない筈の誰かが居るということはそれだけで対等な会話とは言えなくなるものだ。
取って代わって生じるものというのは。
後を尾けてくるような形で、ずっと背後に居た一人が動く。
手に持っていた何かを背中に押し付けられて、視界に青い火花が映ったかと思えば瞬く間に体の自由が利かなくなった。
呼吸の自由さえ、束の間奪うことのできるスタンガン。殺傷能力が低く、相手の動きを止めることに重きを置いて作られた物。
立っていることが難しくなり、片膝をついた。
喉を鳴らして息を吸う。
「お前も俺と同じ思いをすれば良い」
二人がかりで地面に押さえつけられた。コンクリートの表面のざらつきが無遠慮に頬を撫でる。
避けようと思えば、避けられた。スタンガンを奪って相手を鎮めることも可能だったろう。
それでも。
「……なんだよ。何、笑ってんだ」
反応が思った通りでなかったことにイラついているのか、打って代わって剣呑な口調だ。
「許すために、攻撃するのなら……、受け入れるさ。……抵抗も、しない」
微かに痺れる唇を何とか動かして言う。
直後、地面に頭が押し付けられた。視界が激しく揺れる。
「ああ、許してやるよ! お前が死ねば! 泣いて、叫んで、心の底から生きたいって、そのすかしたツラ歪めながら命乞いすればさあ!」
激昂し、怒号を上げる姿からは、どれだけこちらを憎んでいるかがありありとわかった。
もう一度踏みつけられる。
地面と擦れた頬にぴりぴりと刺激を感じて、掠り傷でもできたらしい。
「さっき、必要の無い犠牲とか言ったよな」
しゃがみ込んだ八木が、手荒に髪を掴んで引き上げる。
顔を上げさせて目を合わせると、激情を抑えるように低い声で言った。
「弟は無駄死にだったって? 何の役にも立たずに死んだと?」
答えずにいることをどう受け止めたのか、一瞬で鬼のように顔を歪めると捨てるように手を離した。
「どけ」
押さえつけられていた腕が自由になる。
途端に脇腹に鋭い蹴りが入れられて、ろくに身構えていなかったせいか、呻き声が口から漏れた。
足先を腹と地面の間にねじ込んで無理やり体制を横向きにさせられる。
「見えるか?」
目を上げると、暗い中にも銀に光る小さなポケットナイフが八木の指先で摘まれていた。
その切っ先は真っ直ぐ俺に向いている。
「避けるなよ」
銀色が動く。
ダーツのように投げられたそれが刺さるのは眼球か、頬か、眉間か、はたまた首か。
空気の流れが異様に長く感じられる。
ナイフが光を反射するのを見て、走馬灯のように、鮮やかに記憶が蘇ってきた。
イギリスの小さなアパートで俺達は暮らしていた。
父、母、俺と二つ下の弟。
俺と父はあまり親子らしいことをしなかった。
平時であれば普通の、毒気の無い父だったが、酒が入ると駄目だった。酒気を帯びて帰ってきたかと思えば、執拗に母を怒鳴りつけて、喚き散らした。
母はと言えば、優しい、毅い人だった。
母が浮気のことを知っていたかは定かじゃないが、理不尽に罵声を浴びせられても謝るようなことはせずにひたと父の顔を見据えて、一言二言発した。そうすると、父はいつも不機嫌そうではあるが黙ってしまうのだった。
俺と弟は、普通とは言えないその関係に知らぬ振りをしていた。
勘づいていたのだとは思う。弟のクワルツは聡い奴だったし、怒鳴り声を聞かない日は無かったから。
ただ声を上げることは出来なかった。心のどこかで母だから大丈夫だろうと根拠の無い安心をしていた。
しかしそんな浅はかな考えが通用するはずもなかった。
ガラスの割れる音で、目が覚めた。
扉の隙間から父と母が居るらしいキッチンを覗くと、いつものように父が喚き散らしていた。
ただ一つ違うことと言えば、母が顔を抑えてじっと俯いていたことだった。
抑えた手から滴が滑り落ちて、床に跳ねる。涙じゃなかった。
「……ジェイド」
寝ぼけなまこの弟が、それでも何かを察したように抑えた声量でおれの名前を呼ぶ。
遠慮がちに滑り込ませてきた小さな手が暖かいのは、おれの手が冷たいせいでもあった。
汗の滲んだ手で弟の手を握り返しながら、妙に冴えた頭で扉の向こうを窺った。
母の傍に、割れたガラス瓶が転がっている。
父の顔は染めたように真っ赤で誰が見たって興奮状態だった。
「……ねぇ、」
弟の視線を受けて、ようやく体が少し動くようになる。
「クワルツ、ベッドに戻ろう」
「でもお母さんけがしてる」
口の中がからからに乾いていた。どうするの、ともう一度問い掛ける弟の声が遠い。
おれの根拠の無い安心は父の暴力で完全に萎縮してしまった。覆いが外されたように夫婦の関係がくっきりとおれの目に映し出されている。
自然荒くなった息をどうすることもできないままに弟の手を引いて、ベッドに入るよう促した。
「お母さんは、……お母さんはきっと大丈夫だから」
外はまだ暗い。弟は不安そうな顔をしていたものの、すぐに寝息を立て始めた。
「……きっと大丈夫だから」
自分に言い聞かせるように呟いて、ベッドに戻る。
掛け布団にすっぽりとくるまっても、尚聞こえる父の怒声と、何か鈍い音。
そのくせ母の音だけは一切聞こえないのが堪らなく恐ろしかった。まるで居なくなってしまったようで。
一晩中その身が縮むような恐怖は収まらなかった。薄い布では防ぎようのない見えない暴力を、おれも受けていた。
一声で良いから、何か発してくれと母に願った。
母の声を聞くことができたのは翌朝のことだった。
「おはよう」
挨拶をされて、返せない。
母の目尻からこめかみにかけて大きなガーゼが貼ってあった。袖の隙間から覗く腕にたくさんの痣が見える。
「……傷、なんで」
原因なんてとっくのとうに知っているはずなのに、否定してほしくて聞いてしまった。
「……ジェイドは、お父さんのこと好き?」
ただ投げ掛けられた質問と、覚悟を決めた強い瞳に、母は自分の返答しだいで何かをするのだと思った。
嫌いだと答えた。
母は少しの間、おれを抱きしめた。
「ジェイドはクワルツを守ってあげてね。お兄ちゃんなんだからね」
母がどんな傷を、どこに負っているのか分からなかったから、抱き締め返すのを少し躊躇った。
「……うん」
休日に相手をしてくれた時の父の笑顔がちらりと脳裏を過ぎった。
それから母は家を空けるようになった。仕事を始めたらしかった。
きっと父から逃げるための準備だったのだろう。おれとクワルツを養うための準備でもあったはずだ。
ただ、それまでと同じように家事をし、怒りをぶつける父の相手をしていた母は、目に見えるように疲弊していった。
日に日に濃くなる目元の隈を見ていると胸がふさぐようで母の顔をまともに見れなかった。
その日は唐突にやってきた。母が働き始めてから二年近く経っていた。
夜遅く、父が乱暴に扉を閉める音。
酒が入っているらしい。母が帰ってくるのが遅い今日に限って、いつもより早かった。
喉元を冷たい手に掴まれているような錯覚に陥りながら、そっとベッドから降りてドアの側で聞き耳を立てる。
「__なんで俺が、…………、俺は、お前らより……のに、なんで、」
何かに対して暴言を吐き続ける父の声は、乱暴に物を扱う音で掻き消されて良く聞こえない。
「…………」
微かに弟の声が混じった気がして、はっと顔が強ばった。冷水を突然かけられたように体が一瞬硬くなった。
真っ白になりそうな頭を何とか動かして、ばれないようにドアを開ける。
「お前!」
途端に明瞭に聞こえてくる怒声は紛れもなくクワルツに向けられたものだった。
「いったい誰のおかげで生活できてると思ってるんだ!!」
父がクワルツに手のひらを叩きつける。
あっと思う間もなくクワルツが地面に転がった。
弟は父を逆上させる何かを言ったのかもしれない。
それでも親のやることではなかった。
血が波のような音を立てて流れている。体の感覚が無い。
その時おれは迷っていた。
弟を助けにでれば自分も母のような怪我を負わされるかもしれない。
おれが助けに行かなければ弟は酷い怪我を負ってしまう。
でも怖い。怖くて足が竦む。弟を守れと言った母の声が耳鳴りに変わる。
「……たすけて」
涙でぐちゃぐちゃになった弟の顔を見て、葛藤が弾けた。
ドアの向こうへ飛び出して無我夢中で弟に駆け寄る。
「なんでこんな事するんだ! クワルツにまで暴力ふるって!!」
弟に覆い被さるようにしながら父を睨む。熱い水滴が頬を伝って床に落ちていった。
「あんた一体おれらの何なんだよ!!!」
叫ぶ。
父親と思えない男の顔が赤く染まる。
「この……ッ!」
見開かれた目は充血して、口を開こうにも怒りで言葉が出ないらしい。
「あんたはクズだ!」
思いを吐いたら、体が床に叩きつけられた。肺から空気が押し出されて一瞬息が止まる。
「お前まで俺を認めないのか、」
痛みを堪える表情で、でもそれはさっと怒りに塗り替えられて。
「お前が居るせいなのに、____お前らが居なければ!」
襟ぐりを掴まれて何度も床に叩きつけられた。意味の無い憎しみと一緒に。
視界が揺れて吐き気がした。
「あんな女と結婚しなけりゃ良かったんだ! そうすればお前らが産まれることも無かった!!」
揺さぶるのを止めてほっとしたのも束の間、顔を力いっぱい殴られた。
頬が歯に当たって、痺れるような痛みの後直ぐに熱を持ち始める。
「俺の人生が狂ったのはお前のせいなんだよ!」
また殴られる。
そう思って目を硬く瞑りながら腕で顔を守った。
受けたことの無い痛みに体の震えが止まらない。
でもいつまで経っても痛みはこなかった。
その代わり鈍い音がして、困惑しながら瞼を開いた。
「お母さ、」
「……恥ずかしい人」
くぐもった母の声は聞いた事がないほどに厳しく冷えていた。
父とおれの間に体を滑り込ませた母の体にはきっとまた痣が増えている。
「ジェイド、クワルツと一緒に部屋に戻って。ずっとクワルツと居てあげてね」
おれを立たせると、母は額に一つキスをしてそっと肩を押す。
促されるままに一歩二歩と足を動かして部屋の隅で膝を抱えている弟を呼んだ。
「クワルツ、部屋に行こう」
「…………でも」
「大丈夫」
ぼんやりした心地で弟を半ば無理やり連れていく。
後ろでは既に父が張り裂けんばかりに声を上げている。
暗い、部屋で。
ドアを背にして座り込んだ。
「お母さんは? ねぇ、お母さんはどうなるの? ぼくとおんなじことをされちゃうの?」
弟が肩を揺らしてくるが、口を開く気になれない。
「すごく痛かったよ、ねぇ、お母さんはたすけてくれないの」
ねぇ、ねぇ、と呼びかける声。それでももう一度この部屋を出ようとは思えなかった。
二度とあんな痛みを受けるのは嫌だった。
それでも弟は、何も分からない馬鹿な弟は助けに行こうとおれを引っ張った。
「……やめろ」
呟いた言葉が部屋の外から聞こえる音で掻き消される。
怒号に、皿の割れる高い音、何かが打ち付けられる鈍い音。
音、音、音。
耳を塞いでも消えない。頭の中へ入り込んでくる。
心が軋んで割れそうだった。
「お母さん死んじゃう、ジェイド……!」
弟が縋ることがおれがいかに意気地無しかをしらしめすようで頭に血が集まる。
「うるさい、お母さんは、きっと大丈夫だから……」
手を振り払って、けれどあの男のように大声を上げる真似はしたくなかった。
「じゃあ、退いてよ! ぼくが行く!」
「ダメだ」
悲鳴のような声が聞こえる。
「ダメだ」
唇が震えてどうしようもない。
鼻をすすって、弟の手を握った。
「大丈夫だから」
一晩中鳴り止まない音を聞きながら暗闇を見詰めていた。
弟は何度も出ようとしておれを蹴ったり殴ったりしたが、父と比べればなんということはなかった。
疲れて寝てしまった弟の顔に光が差して、朝が来たことがわかった。細かな埃が朝日に照らされてゆっくりと舞っている。
固まった関節を動かして、ドアノブに手を伸ばした。
開けることが酷く恐ろしくて、少しの間躊躇った。
それでも母が心配で、その気持ちが手を動かす。
「お母さん……?」
返事はない。嫌な空気が漂っている。
部屋はこれ以上ないくらい酷い有様だった。
割れた皿があちこちに散らばって、イスも、テーブルも倒されて、ドアは開け放たれていた。
ふらふらした足取りで進む。
倒れたテーブルの陰に母は居た。
「お母さん」
母の体は身じろぎ一つしない。
青白い頬を見て寒気が広がった。額から流れる目の覚めるような赤が対照的で脳に焼き付く。
「お母さん、お母さん」
すぐ側で何度も呼びかけたのに母は何も言わない。
体に力が入らなくなって、床に膝を着く。
割れた破片が足を裂いても痛くなかった。
「おきて、お願い、お母さん」
涙が溢れて止まらない。
起きてと願うだけなら要らないのに、それでも出てくるのは、分かってしまっているからだ。
ひぃ、と息を吸う。
「お母さん死んじゃったの」
振り返ると弟が血の気のない顔をして立っていた。
「なんで、たすけてあげようとしなかったの?」
舌が喉の奥に張り付いて声が出ない。
「どうして?」
唇を結んで俯く。弟の顔を見られなかった。
「……ジェイドがお母さんを殺したんだ」
弟の糾弾に、軋んだ心はあっけなく崩れた。
きっとおれは一生許されない。おれがお母さんを見殺しにした。
母の死体にしがみついて狂ったように泣いた。
それから後は良く覚えていない。
いつの間にか警察が来て、祖父母にも会ったことの無いおれたちは気づけば孤児院に放り込まれていた。
父のことは何も聞かされなかったが、毎日が酷く色褪せていて、いつも耳鳴りがしていた。
だから何の脈絡もない日本人の夫妻がおれ達を引き取りたがっていると聞いても、どうでも良かった。
「君がもし良かったら、おれ達の子どもになってくれないかな」
掛けられた声にただ頷いた。
頷いたことが正しいと分かるのは少し先のことだった。
頬からこめかみにかけて熱い液体が伝う。体の中で一番熱いと感じるのは涙と血液だ。
地面に落ちた銀色が耳の横でからんと音を立てた。
間髪入れずに腹を蹴られる。
「何、避けてんだよ」
衝撃でやっと頭が冴えた。俺は随分と懐かしい夢を見たらしい。
「何か言えよ!」
激した声が夜にこだまする。
……死ぬわけにはいかなくなってしまった。俺の両手にはまだ守るべきものがある。弱くて小さくて、それでもなお生きようとする。
俺が死んだら手の中のものを守りきれない。
罪人だなんだと叫ばれようが、爪が剥がされようが、なんだって良い。
守るべきものが俺にはあるのだ。




