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赤眼ゾンビ  作者: 海月
第一章
25/99

共通点

 血の染み込んだ服を摘み、緩く息を吐いた。これではもうこの服は破棄するしかない。

 ナイフに付着した粘度の高いそれを振り払う。

「……アンタ、随分と落ち着いてるよな」

 零れた呟きにふっと見返せば、三ノ輪の視線は自分の足元に向いていた。そこには今しがた絶命した感染者が倒れ伏している。

「多少は慣れたからな」

 こちらもまた独り言のような声量で返す。

 こちとら半年以上前から感染者と対峙させられてきたのだ。最近に至っては最早作業のようなもので、今更のように事態の異常さが胸に迫ってくることもない。

「いや……それじゃない」

 軽く唸り、何か思い出せないのか次第に眉間に皺が寄る。

「戸倉のことでしょ?」

 金井の助け船に三ノ輪は深く頷く。対してこちらは何故その名前があがったのか分からず首を傾げた。

「戸倉が、どうかしたか」

 この二人と彼女で接することはほぼ皆無だったと思うが。

「なんか、こう、そわそわしないのかよ」

「は?」

 

 またしても頭を抱え始めた三ノ輪に代わり、金井が頬を掻いて先の言葉の意味を明らかにする。

「えっとね、三ノ輪が言いたいのは戸倉置いてきて大丈夫かってこと。心配じゃない? って」

 そういうことか。

 真っ赤になって忙しなく呼吸していた彼女が脳裏に浮かぶ。

「…………特には」

「嘘だろ」

 さっきまで金井の注釈に何度も頷いていた三ノ輪の目には若干の呆れが混じっている。

「傍に居てやれば良いのに」

「男に世話されて嬉しいやつ居ないだろう」

 間髪入れずに返せば、随分と大きなため息をつきやがる。

「彼女もお前についていてもらう方が安心でき

ると思うけど」

 ぽそりと呟いて、反論は認めんとばかりに踵を返す。先の影響か、今日はいつもよりも感染者が多かったが、それもようやっと引いてきたようだった。

 コンクリートに映る自身の影は色濃く、足元を覆っている。湿気を孕んだ温い風がうなじを不快に撫で上げた。風に乗って届く臭いがまとわりついてくるような気がして、眉をしかめる。

 ふっと頭痛が強くなった気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 こんなところに居たのか。

 扉を開けたさき、夜になって冷えた空気に車体が墓石のようにいくつか鎮座している。その内一つ、車のボンネットに男が一人あぐらをかいていた。

「熊谷」

 ゆるりと俯けていた顔をあげる。月と星のおかげで暗闇に分かる、赤ら顔。けれど完全に出来上がってはいないのか顔つきは随分と落ち着いている。

「丁度良いところに酒の肴が来たわ」

「その言い方やめてくれないか」

 人を何だと思っているんだ。

 呆れながらも車へ近寄って車体にもたれかかるようにして腰をおろす。

「付き合ってくれるようで何より」

 手渡された紙コップにはどうやら安物のワインが入っているようだった。

「毒なんて入れてないけどね」

 じっと見つめていると静かな声が降ってくる。不機嫌な様子もないから、単にからかうだけのつもりだろう。

「随分と洒落たものを飲むな」

 ふっと笑う気配。

「じゃあお望みは?」

「芋焼酎。一番安いのが良い」

「合わないねえ」

 紙コップにワインも滑稽だが。

 ちらっと見えたプラスチックのボトルは三分の一も減っていない。熊谷は酒に弱いのか、顔に出るだけか。

 会話の切れ目に一口含んだそれは甘く、ジュースとしても差し支えなかった。火にかけてアルコールを飛ばせばあいつらも飲めるんじゃなかろうか。

「ワインはね、僕も飲まないよ。あまり」

 言いつつ手のなかのコップを呷るちぐはぐさに、眉を寄せる。本当はかなり酔っているわけではないよな。

「それ、その口調はどうした。そっちが素か?」

 数秒の間が空いた。

「……いや。強いて言うならどっちもね。でも今はこの状況から逃げたいから、こっち」

 地雷を踏み抜いたのかとつかの間ひやりとしたが、特に気にしていないようだった。

「あれを見たあとじゃあね。どうにも眠れない」

 疲れたように、少し後ろ向きな感情を乗せてため息をつく。

「何か話そうか」

 化粧っ気のない顔が少し安堵したように緩んだ。この日の幾人かは緊張に晒された状態で眠りに就かなければならかったから、そう考えれば酒も良い薬だった。

「優しいねえ。……ああ、そうだ」

 空になった自身のコップにワインを注ぎ、しかし飲まずに手の中で回しながら喋りだす。

「あなた、随分とあの子達に懐かれてるみたいだけど。いつから一緒なの?」

 海音を見つけた頃はまだ肌を刺すように寒かった。そこから彼女の体力が戻るにつれて暖かくなってきたから、

「海音は冬から、白樺は冬の暮れか、いや、春だったか」

 白樺と出会ってからは特に会話が増えた。海音が笑うことも多くなったし、その頃から彼女は少しずつ自分から話すようになった。歳が近いとやはり心持ちが違うのだろうか。白樺と話すときの彼女の表情は気のせいか朗らかだった。

 そう思うと何となく、若干、複雑な気持ちになったがまあ良い。

「そんなに懐いてるように見えるか?」

 しかし熊谷から見て懐いているように見えるのなら今までの会話は無駄ではなかったのだろう。

「だって、ねぇ。今日合流するまでの間の二人の表情、見せてやりたいくらいだわ」

 熊谷は言うにはまるで泣きそうだった、と。

「それは……あれが恐ろしかったとか」

 俺のせいで二人の目に涙の膜が張る想像は、出来ればしたくなかった。

「それもあるかもしれない。けどそうだったら必死に大人に噛み付くこともないし、銃弾が飛ぶあの状況で前に出ることもないでしょ」

 ……噛み付く? 前に出る?

「あの二人が? 今日は何があったんだ?」

 大人に意見するのは、彼女ならあるいは頑固な性格からあるだろう。一方向とはいえ混戦になる寸前の銃撃戦で前に出るのは危険で、悪手としか言いようがない。そんなことを分かっていて尚できるのは白樺か。


 そうして、呆れを含みながらも詳細を聞いてみれば、

「____は?」

 どちらも海音がやったことだと。そしてそれに付随するように白樺もまた。

「なんでまたそんなことを」

 言いかけ、しかし先程の会話から思い当たって口をつぐんだ。

 熊谷のあの言い方なら、化け物が怖かったらその二つの行動をしないと言うのなら。

 

 全部、俺が原因か。俺を心配したからこそその行動をとったのか。

 

「弱ったなぁ…………」

 二人が反抗した大人というのはあの八木だと言うし、あの子もあの子で打ち合わせも何もなしに危険な行動を起こしたことはいただけない。

 けれど何故か、怒る気にはなれなかった。

 片手で顔を覆い、空を仰ぐ。

「随分と嬉しそうで」

「うるさい」

 単純にそのことを教えてくれれば躊躇いなく説教できたというのに。本当に余計なことを伝えてくれた。

 

 本当に。

 

「でも気をつけなきゃ、駄目ねえ。これは」

 

 手の覆いを外せば、ひやりと冷気が頬をさする。

 

「お前、酔う気ないだろう」

 

 遠く、風に乗って何か咆哮が聞こえた気がした。感染者かもしれなかった。

 

「この機会を酔っ払って潰すわけにはいかないわあ。すっかり頭も冴えてしまったし」

 

 感染者は、ここに居る限り脅威の対象ではないのだ。

 

「八木は、今、どう思っているんだろうな」

 

 この状況に陥って尚、悩みの種が人間というのは皮肉か。

 

「まるで他人事ね」

 声音に含まれた若干の怒りに顔を上げる。

「良い? あの人に因縁をつけられたのはあなただけじゃないの。あの二人もなのよ」

 すっと額が冷たくなる感じがした。

「秋くんがフォローしにいかなかったら海音ちゃん、八木さんに撃たれていたかもしれない」

 返す言葉が見つからず、ただ目を伏せる。

 八木の苛立ちが心に迫るようで、どうにも胸が苦しい。

「あたしも出来るだけあの人を見張っておくつもりだけど。爆発するか、抑えるか、どちらだと思う?」

「……抑えてもらいたいものだが」

 唸るように返事をして、しかしそれは結局都合のいい願望でしかない。

「…………もし、あの子らに何かするようだったら」

 いつかも頭をもたげた疑問だった。

 

 守るために、排除する。そうして平穏を得て、出来上がる幸せは。

 

「あなたは、海音ちゃんのことをどう思っているの?」

 

 脈絡のない質問。内容も併せて、眉根を寄せる。

「どう、って」

 せめて白樺ひっくるめて聞いてほしいものだが、そのつもりは無いらしかった。

 だからこそ、その意味は男女のそれが絡んでいるように思えてならない。

「その話、今するか?」

「酒が入っているということで、ね?」

 上手く切り返したかと思えば、見たくもない上目遣いを直視するはめになった。

 しかし、あの子をどう思っているか、とは難しい。

 大切に思っている、というとどこか嘘臭い。かといって昔話を引っ張り出すのは、少し恐ろしい。

 

 

 巡らせ、巡らせ考えついたのは、

「生き抜いて、……一緒に」

 というなんとも、明日素面で言おうものなら悶絶しそうなくさい台詞だった。

 現にカッと首筋が熱くなっている。まだコップ一杯飲み干した程度なのに今日はやけに酔いがまわるのが早い気がして、俺も疲れているらしい。

「忘れてくれ。俺はただ自衛官としてあの子と向き合いたいと思ってるよ。もちろん白樺にも」

 静かに、それも確かな本心だった。

「……そ。誤魔化したわね」

 呆れたふうもなく、あぐらをかいて頬杖をつく、その横顔は満足そうだ。

 

「お前は、じゃあどうなんだ」

 特に不服なわけではないが。やられっぱなしというのも癪に障って切り返す。

「あらやだあ。気になるの?」

 ぐ、と喉が鳴った。

 完全にこちらの思惑が見抜かれたようでそれにまた悔しく思うことになる。

 

「……まあ、ね。あの子が幼い頃からの付き合いだから」

 淡く苦笑して、妹みたいなものよ、と。

「この口調を始めたのもあの子が理由でね」

 ほら、と手を広げる。

「あたし高校の頃にはもうこの体格だったのね。海麗ちゃん最初はすごく怖がって」

 だから怖がらないように。

 

 細めた目を見るだけで、答えはわかった。

 

「……御陵も、両親とははぐれたのか」

「はぐれた後にあの子を見つけられた。だから詳しくは知らない。でも……もう多分あの子は壊れてる。僕はなにも、してやれない」

 声が震えていた。頬から水が滴って、後から後から流れた。悲痛に歪んだ目が容易に想像できた。

 ほぞを噛んでも遅く、微かな嗚咽が夜の静寂(しじま)に響く。

 

 後悔しているのだろうか。自分の行動に。

 選択を強いられ、奥歯を噛みしめて、どう転ぶか分からない緊張に潰されそうになりながら選んだものが結果として間違っていたとしたら。

 

 この世界は、おかしい。

 

 何故親の庇護を受けているはずの子らが無理に引き離されなければならない。人が死んでいく様を見続けることは人生においてありえないはずだ。武器を持つ必要は。食料不足に喘ぐ必要は。

 遠く、海を挟んで貧しい国は日常茶飯事のことかもしれない。

 けれど。

 平和な国に生まれた特権が今無くなって、汚らしい人間の本性が見える事態に陥って、かけられた圧力は淡々と人を歪ませる。

 思い描く生き様が掠れ消えるこの世界はどうなるのだろうか。

 

 

 身を捩るように続く泣き声を聞きながら、長いこと逡巡していた。

 

 

 

 

 


 


「…………やっぱり」

 先に行きかけた金井と三ノ輪が振り返る。

「午後の見回りは、やめておく」

「おー?」

 呟く声量に金井が首を傾げて聞き返す。

「したいようにすりゃ良いさ。今じゃ職種なんぞ関係ないんだから」

 何でもないように言う三ノ輪はまるでこちらの懸念を知っているかのようだった。

 どれだけの気遣いが詰まっているかは知れないが、その言葉は至極胸を軽くした。

 

「……ああ」


 

 

 


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