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赤眼ゾンビ  作者: 海月
第一章
23/99

私は大丈夫

 結局、化け物の正体はわからなかった。一応その死体を見てみたけれど、やはり気持ちが悪いだけで、さらにあの量の感染者を内包していたらしいそれは既に腐敗し始めて酷い異臭を撒き散らしていた。

 

 けれど一つ、気になったことがあった。

 それは化け物のがらんどうの胴を覗き込んだとき、小さな塊がぽつんと残っていたことだ。産まれたての子猫くらいの大きさのそれをよくよく見てみれば、握られた手のような、ずるりとその塊に巻きついている紐はへその緒のようで____胎児のよう、だった。

 ちらと拾った紙片が頭をよぎる。なにかそれに準ずるような単語が書いてあったような。

 しかし疲れきった体と頭を抱えてはそれ以上考えられず、ただ集まってきた感染者の残党を気にしながらデパートへと戻った。

 

 戻って早々体力が尽きてしまって服もそのままに倒れ込んでしまった私を海麗ちゃんはどうやら心配してくれていたのか、目が覚めれば彼女が横で私の手を握り締めてすうすうと寝息をたてていた。

 傍に血に汚れたタオルと水がなみなみと張られたたらいがあることに気づいて、はっと頬に手を宛てる。さらと乾いた肌が指に触れた。血が拭われている。

 見えるところだけでも拭いてくれたのかもしれない。海麗ちゃんは血とか、嫌がると思ったんだけれど。

 とはいえ、私だってずっと血塗れで居たいわけじゃなかったから、後でお礼を言わなきゃいけない。

 随分と眠ってしまっていたのか、時間の感覚はなく、それでも頭はしっかりとしていた。

 ふと今は朝なのか夕方なのか気になって身を起こす。

「……」

 肩に走った重い鈍痛に眉を寄せる。そうだ、骨が軋むほど掴まれて、痛くないはずがない。

 彼女を起こさないように注意を払いながら手を引き抜いて、ついでにいつの間にか掛けられていた毛布も彼女へとかける。

 全身が筋肉痛で、動きがどうしてもぎこちなくなったが、なんとか立ち上がった。

 絡んだ痰を払って、渇いた喉を誤魔化す。

 差し込む光は随分と白く穏やかで、時計の短針が六を指しているところも見ると朝方のようだ。今の季節、午後六時ごろはまだ薄暗い。

 服を開いて隙間から肩を覗く。その一動作でさえ少し辛かった。

 掴まれた後はくっきりと残っていた。青紫に変色した指の形が肩に張り付いて、何のホラー映画かと目を疑うほどだった。意識するとじくじくと痛い。

 こういう時は放っておくしかないのか。きっといつか治るだろうけど肩を動かす度に主張してくる痛みは随分と煩わしい。

 

 昨日の今日なのだから起きているはずがない、とたかを括って上の階を覗いてみる。

 予想通り、起きている陰は無くて、殆どが泥のように眠り込んでいた。

 微かに落胆して踵を返す。

 大丈夫彼はちゃんと居るんだからと自分に言い聞かせ、階段へ足を伸ばしかけて、立ち止まった。

 静かな中で更に耳を澄ませないと聞こえない音量で金属か何かの触れる音。気のせいかと思ってもやはり聞こえる。

 期待に振り向いて、良く目を凝らせばミルクティーの髪をした彼は眠っているどの人の中にも居なかった。

 寝息に隠れてしまいそうな音を慎重に辿る。

 

 近づくにつれて音の正体が何となく分かった。きっとその人は銃の整備をしているのだ。

 だとしたら、尚更。

 期待に身を寄せて、でも足音は立てないように眠っている人達と少し離れた場所を歩いていく。

 ぱっと、目的の人物を見つけて目を細める。整備の音を気にしてか、離れたところで道具を広げている彼は、いつものように淡々と動いているように見えてその手つきはどこまでも丁寧だ。それもまた何も変わらないいつも通りで、そのことがなぜだか嬉しかった。

 

 間違いようもない、くすんだ金色の髪が光を受けて普段より淡い色彩をしている。

 

「…………何か、用か」

 第一声を迷っていたら、振り向きもせずに問われて目を丸くする。まさかばれているとは思っていなかった。

「えっと……」

 ふら、と視線をさまよわせて思わず言い訳を考えてしまう。怪我のことを考えていたはずなのに、いつの間にか彼のことをぼうっと見ていた。

 それって、なんだかストーカーみたい。

「ああ、とりあえずこっち来い。誰か起きると面倒だ」

 促されて、恐る恐る隣に腰をおろす。ちら、と翠の瞳がこちらを見て、すぐにまた手元に下ろされた。

「あの、実は昨日少し怪我を、」

 束の間動きを止めた後、彼がばっとこちらを向くので、驚いて言葉が途切れる。微かに開かれた目が次の瞬間低い声と共に不機嫌そうに細められた。

「何で、すぐに言わなかった……?」

 ほのかに怒気のようなものを感じてなんだかいたたまれない。

 なぜ彼が怒っているのかも分からないから、狼狽えてしまう。

「血が、出るような怪我じゃなくて。ジェイドさんも疲れてるだろうから、もう良いかと思って」

 確かに痛かったけれど、あんなに大変な目に遭った後で自分のことを優先するのは気が引けた。ジェイドさんは会ったときから強いから忘れそうになるけれど、彼だって疲れるし限界もあるはずなのだ。

 俯いていると、頭上からため息が一つ。

「まあ良い。誰に、どこを、やられた?」

 言及されなくて良かったと安堵して、羽織ってきたパーカーを脱ぐ。下は半袖だから少し捲ればすぐ見えるはずだ。

「両肩を、感染者に。強く掴まれて、起きたらこうなっていました」

 患部を見つめる彼の目はどこか後悔が見え隠れしていた。まるで選択を間違えたとでも言うように。

 けれどすぐにいつも通りの静かな表情に戻る。

「触るぞ」

 頷くと手が伸ばされて、そっと患部に触れる、と思えば一瞬そっと押されて、それだけなのに小さな悲鳴が口から漏れた。

「……内出血だけだな。すまない、薬を取ってくるから待っていろ」

 痛みの余韻に耐えながら首を横に振る。

 ジェイドさんの後ろ姿を見送って、深く息を吐いた。

 そして思い返す。もう何年も経ったような気がする、初めて会ったあの日。最初は彼のことが凄く怖かった気がする。いつぼやけた視界の中で彼が悪魔になるのかと、ずっと警戒していた。

 それが少しずつほどけていったのは、真美と両親に会いにいって、怒られてからだろうか。その時は自分のことで頭が一杯で気付かなかったけれど、彼は息を切らして探して、もしかしたら相当心配してくれていたのだろう。

 それからはいつも傍に居てくれる人になった。彼から貰う感情は優しくて、まるで親の庇護のようで。瞬く間に失った物の穴埋めをしてくれるようなことはなかったけれど、でも確かに彼が居なければ私は絶望のなかで息絶えていたに違いなかったのだ。

 だから、その彼が居なくなってしまう先を考えてふぅっとそら寒い恐ろしさを覚えた。

「待たせた。……どうした?」

 

 いくつかの小箱を持った彼が戻ってきて、滔々と流れていた思考が打ち切られる。

 それでようやく、自分の目に薄らと涙が張っていることに気がついた。

 慌てて拭って、にっこり笑う。

「まだちょっと眠たかったんです。それは……?」

 ああ、と彼が手の中のそれをこちらに向ける。

 ガーゼにテープ、それから軟膏。大き目のそれは湿布か。

「今日は湿布を貼っとけ。熱も持ってるしかなり腫れているからな。ある程度腫れが引いてきたらこっち。痣の治りが早くなる薬だ。…………貼れそうか」

 小箱を受け取ろうと手を伸ばす仕草を見てだろう、最後の湿布は受け取らせずに眉を寄せて聞いてくる。

 大丈夫だろう、多分。

「やってみます」

 示そうと思って、開封して湿布を取り出す。

 

 …………。

 

 ………………。

 

「無理そうだが」

 

 片手で湿布を貼り付けるのはこんなにも難しかったろうか。

 痛みのせいも勿論あるけれどそれ以前に自分が不器用であることに気付いて若干へこむ。

「それはもう捨てよう。俺がやるから」

 皺の寄ったそのままにくっついてしまった湿布を諦めて丸める。

「いえ、海麗ちゃんに手伝ってもらいます」

 素直に提案に甘えるのも躊躇われて、というか若干のプライドが邪魔して彼女を引き合いに出して断る。

 ジェイドさんの眉が顰められた。

 少しの間思案していたかと思うと、不意に口の端をあげて、彼にしては妙に優しく微笑む。

「そういえば……血塗れのお前見て彼女、随分と慌てていたな」

 彼女、が一瞬分からなくてきょとんとするが、すぐに海麗ちゃんのことだと思い至る。

 そしてはっとした。

「怖いなら熊谷を通せば良いのに、直接俺のところに来て、雨水の使用許可が欲しかったらしい。震えながらだがお前に重篤な怪我が無いか確かめたいから、と理由まで言っていた」

 それは……怖かったろうな、と思う。どんな理由があっても一人では階上に行かない彼女がどれだけの勇気を振り絞ったかは考えるまでもなかった。

 それは相当消耗するだろう。

 けれど私は首を振る。起きるまで待てば良い。どのくらい眠るかは分からないけど、一週間も眠り続けるわけないのだし。

 と、更に作られた笑みが深くなる。

 「後、知ってるか。意識の無い人間の体は重いぞ?」

 

 そこでようやく、自分の着ている服が綺麗なことに気付いて項垂れた。ズボンや下着は同じだろうが、手がまわるところは一人で頑張ってくれたのだろう。

 

「…………お願いします」

 

 ああ、上手いこと丸め込まれたな。

 多少の悔しさを抱えつつ彼へと肩を差し出す。

 袖を捲ろうとすれば手で制された。

「それも辛いだろ。良いよ」

 何でこの人はこんなに濃やかに気を遣えるのだろう。それも気負いさせない気軽さで。

 ひたりと冷たい感触が肌に伝わる。患部はあまり見たくないので顔を背けていると、静かな声が後ろに聞こえた。

「もう一度言うが……何でこの事を言わなかった? きつい言葉を使えばそれは迷惑だ」

 唐突に戻る話。

 それ、の意味が分からなくて、でも迷惑だと言われて少し胸が痛かった。

 彼は続ける。

「そうやって痛みを隠されれば他人は気づけない。お前が無理をして危急存亡の局面で怪我のせいで動けませんでしたでは遅いんだ」

 きっとそれは仲間の足を引っ張ることになる。

 例えば感染者に追いかけられていたとして、転んで、今の私ではナイフを十分に振ることは出来ない。銃を撃つのも難しいかもしれない。そこではいそうですかと見捨てられる人はそう居ない。助けようとするのだろう。

 

 だから、迷惑だと。

 

「これからは怪我をしたら大小関係なく伝えること。お前に気を遣われるほど余裕が無いわけじゃないんだ」

 突き放すような声音のくせに内容は私を気遣うもので、____ああ、やっぱり彼は優しいのだ。

 迷惑の意味が彼の迂遠な心配であることは、彼自身、気付いていないのかもしれないけれど。

 

 両肩とも湿布を貼ってもらって、すっとする冷たさに張り詰めた重さが幾らか和らぐ。

 

「怪我、もうしないようにしますね」

 

 きっと一番に助けてくれるのはジェイドさんだから。

 言うと、彼は少し笑ったようだった。

「そうしてくれ」

 

 

「戸倉さん……」

 眠たげな声に二人して振り返れば、目を擦り若干不機嫌そうな雰囲気の白樺さんが私を呼んでいた。

「白樺さん。もしかして起こしちゃいましたか?」

 声量には気を付けていたけれど、やはり人の気配だけでも起きてしまうときがある。

 申し訳なく思っているとゆるゆると彼は首を振った。追って寝癖が揺れるのがなんだか可笑しい。

「御陵さんが探してたよ。めっちゃ心配してたから早く行ってあげた方がいいんじゃない」

「海麗ちゃんが?」

 こくんと首肯する彼にお礼を言って、急ごうと小走りにその場を離れる。

 

 そうしてぽつぽつ起き始めた人が居るなかを縫っていく。あんなことがあった後だから顔を合わせるのは怖い人も居るが、まだ起き出していないようで、ほっと安堵する。

「蛍姉さん! 海音ちゃんが! 居ない!!」

 階段のところでわたわたしている彼女に駆け寄る。傍には蛍さんも居て、どうやら宥めてくれていたらしい。

「えい」

「わっ、わっ、海音ちゃん!」

 一足先に気づいた蛍さんが何か言う前に軽く抱きつけば、先程の慌てぶりを少し引きずったままに後ろ手でこちらに体重を預けるようにして抱きつき返してくる。

「海麗ちゃん細いね」

 思わず呟く。程に彼女の体は細かった。

 ぱっと振り返るので、どうしたのかと思えば怒った顔をして鎖骨辺りを頭突きしてくる。

「起き、たら、居なくてっ。バカっっ」

「あー……ごめんね、びっくりしたよね。本当に、ごめん」

 応える声が震えているのは涙でも何でもなく、定期的に入る衝撃のせいだ。結構肩に響く。

「…………」

「………………」

「……もー!」

「痛い痛い痛い、海麗ちゃん肩駄目痛い」

 止めたと思って油断していたら怒りが再熱したのかがっしり肩を掴まれて揺さぶられた。

「あ、ごめん。……怪我したの?」

 眉を寄せて、先程の怒りはぽんと忘れた様子で首を傾げる。

 そういえば、怪我をしたと言ってまず疑うのは感染者に噛まれることだろうか。

 私は慌てて否定する。

「噛まれたわけじゃないよ。ちょっと、まあ、強く打ったみたいなものだから」

 表情を窺って、それでも晴れないことに少し怖くなる。感染を疑われてしまうと居場所が無くなってしまうのだから。

「ちゃんと治りそう? ほかに痛いところ、無い?」

 その言葉でようやく心配してくれたのだと気付いて声をたてて笑った。

「大丈夫」

「本当に?」

「大丈夫だってば」

 信じてくれていいよ、なんて軽く言えば、海麗ちゃんはやっと納得したように表情を戻した。

「海音ちゃんはジェイドさんのところに来てたのねぇ。私にも一声かけてくれたら良いのよ?」

「蛍さん、寝てましたから。それにジェイドさんは道具の場所も知ってると思って、」

「ふーん?」

 どことなく窺う雰囲気の蛍さんにたじろぐ。

「な、何ですか」

 ずいっと顔を近付けてくるのに思わず後ずさるけれど、体格差のおかげで距離はそこまで変わらない。

「それだけ? 起きているのが鹿嶋さんでも良かったのかしら?」

 それは妙な追及で、素直に鹿嶋さんでも良かったのだと頷けばいいだけなのに、どうしてか首を縦に触れなかった。

 何で、何で。

 だって、居なかったから。彼が眠り込んでいる人達のなかには居なかったから、少し気になって探しただけだ。

 ……じゃあどうして私、その中に彼が入らないこと、嬉しかったんだろう。

 そういえば、起きた時からあの翠瞳(すいとう)を探していたような。

 ……どうして私、ジェイドさんを探してたんだろう。

 ぐるぐる。

 なんだかめまいがする。

「あら、顔赤いわよ」

 ちゃかすようなその声に、確かに頬が熱い。

 さっきより体が重いのは気のせいか。喉奥に硬い腫れがある。

「え、ちょっと待ってどうしたの」

 ああ、風邪か。

 意識した途端、膝から力が抜けて床にへたり込む。

 支えようとしたのだろう、腕を掴まれたままに床にしゃがんだものだから、引っ張られて肩の痛みがぼんやりしてきた意識を微か刺激する。

 ひたと冷たい手が額に添えられた。

「蛍姉さん、海音ちゃん熱……」

 

 困ったな。また、心配させちゃう。迷惑かけちゃう。

 

 は、と吐息さえ熱い気がしたけれど立ち上がる。

「大丈夫、少し、寝てきます。だから、気にしないでって、」

 あの人にも伝えて。

 言い切る前に、一歩踏み出した体が傾ぐ。

「海音ちゃん、無理しないで……階段、いけそう?」

 細い体に支えられて、無言で頷いた。

 

 何度かこういうことはあった。中学校に入りたての頃だって、急に熱が出たことはあったのだ。

 

 だからこんなもの、すぐ治る。

「ありがと、海麗ちゃん」

 俯けた顔のまま笑う。おかげでちゃんと笑えているかどうかの心配はしなくて済んだ。

 

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