目標
日常生活に支障がないくらいまで回復するには数日がかかった。
食事を終えてから眠るまでの合間に男性のことを教えてもらった。
視力が戻ると男性の容姿がはっきりと分かった。金髪に、緑色の混じった虹彩。背が高く、何故か物静かな印象を受ける人だった。外国の人なのかと尋ねると、国籍は日本だと答えられた。ハーフではないらしい。
名前はジェイド・フローレス。自衛隊、だそうだ。良いのかな、と思ったけれど日本人国籍なら問題無いのかもしれない。詳しくないので、本当か嘘なのかもわからなかった。ただ、名前の分からない大きく複雑な作りの銃を持っていて、他にも武器を持っているようだ。
人手が足りず、避難誘導に駆り出された所で感染者が現れたらしい。軍用車に人を乗せられるだけ乗せて逃げたが、結局その中に感染した人が居たようで、自分一人だけが生き残ったのだと感情をどこにも、声にも出さず、言った。
自衛隊になる人は責任感が強そうだと勝手に思ったことがある。実際混乱した場の中で、少しでも他人を助けようとした彼は人一倍自衛隊だという自覚があったんじゃないだろうか。だからこそ、結局助けられなかったことに対して自分を責めていたりしているのかもしれない。とはいえ、これは私の勝手な想像。ただ、先の事があったから、私を助けてくれたたのかな、なんて甘い考えが頭を過ぎったのだ。
だって私なんて、拾ってもデメリットしかない。……自警団がしたような使い道はあるかもしれないけれど。
あの時のことは夢で何回も何回も見ている。きっとこれからも見続けるんだろう。少しずつ体力が戻ってきてからは夜中にそのせいで起きてしまうことも少なくない。そして大抵、勘ぐってしまう。助けてくれたその人もそういう事を要求してくるんじゃないかと。
彼が食料を探しに行くときだけは、心から休めた。
そしてつい先程食料を探しに彼は出た。
そっとベッドから足を下ろす。床の冷たさが足裏から全身に伝わるようだった。
すぐ側にあった体育館シューズを履いて立ち上がると、貧血で視界に銀砂が舞った。体はまだ本調子ではないけど、行かなくちゃならない。
ずっと寝ているか座っているかだったから、歩く感覚がなんだか久しぶりだ。気を抜くと足がふらつくので、壁に手をついて体育館を目指した。
鉄製の扉から、血の臭いがする。酷く気分が悪くなる臭いだった。口元を抑え、扉の隙間から中を覗き込んだ。中に動くものは無い。
深呼吸して、中に入る。
死体が折り重なるようにして存在していた。それぞれから出る血は水溜りを作っていたんだろう。今はもうすっかり乾いて、不気味なシミのようになっていた。死体にはどれも小さな穴が空いていて、どこにも噛み付かれたような、感染者に襲われたあとは無かった。
つまり、自警団が全員、殺したんだ。
心に激しい嵐が一つあるようだった。口から溢れそうになる口汚い言葉と叫びを抑えなければならないのが、辛くて、苦しかった。
固く閉じた目から涙がこぼれ、ぼたぼたと床に落ちた。肩が大きく震えているのが自分でも分かった。
どれほどそうしていたのか、いつまでも涙が止まらない気がして、服の袖で目を擦り、強引に止める。
ずっと遅くなった歩みで、まずママとパパを探した。
どちらも、あの日から私が閉じ込められていた用具室の扉の前にいた。
ママは胸に、パパは額と腕に銃弾の跡があった。あのとき、パパは殺されていなかったんだ。
ここまで追い詰められたのか、それとも、私の事を思って居てくれたのか。
「ママ……パパ…………」
もっとずっと一緒だと思っていた。いつか私が結婚して、子供が生まれても。普通の未来を思い描いていた。
死んでしまったことが、理解できない。信じられない。信じたくない。
震えそうになる口を固く結んで、二人の手を握る。氷よりも冷たい手。ドラマや映画で良く聞く死後硬直は、もう無くて。二人の手を簡単に繋げてあげることができた。
ずっとここで蹲っていたいけど、もう一人会わなきゃいけない人が居る。
半開きの扉からの中は相変わらず暗く、埃っぽかった。
すぐそこに、友達は、真美はいた。
あの時届かなかった手を今度はしっかりと掴む。記憶よりも細く骨ばっているのは気の所為じゃないだろう。
親友の顔が歪んでいるのは、堪えていた涙がまた馬鹿みたいに溢れ出したからだ。
拭っても拭っても、身体中の水分を奪うように流れる。冬なのに体が熱を持っていく。袖が涙を吸って、肌にぺったりと張り付いた。
いつも先周りしてくれるからって、先に天国に行っちゃうことないじゃない。
なんで私なんかを生かそうとしたの。
なんで一人にしたの。
私も一緒に、行きたかった。
あの時何もせずに死ねば…………。
「私の分まで、生きてよ。死んだら許さないから」
「っ……」
弾かれたように顔を上げて真美を見つめる。もちろん、死んだ人は生き返らないし、喋るわけがない。
ああ。
認めなくちゃならない。
私の家族は、唯一の親友は。
死んでしまったのだと。
「おい!」
怒号に近いそれに鼓動が跳ねる。同時に肩を荒く掴まれた。
「フローレス、さん」
確認するように呟いたのはあの夜を思い出してしまいそうだったから。
振り返った先の人は肩を上下させて、少し怒ったような、すごく焦ったような表情をしていた。
「…………あ」
そういえば、私、書き置きも何もしてない。
「あ、じゃない! 今は治安だって悪い。どんな奴が彷徨いてるか分からないんだぞ!? 頼むから、」
ふっと肩に乗っていた重みが消えた。
呆然としつつも私はどこか違和感を感じていた。不自然に切られた言葉もそうだけど、何故この人はこんなにも汗だくになって私を探してくれたのだろうか。
何も言えずにいると、彼は一つ頭を振り、無言で私を立たせた。
もう何も言うことは無いとばかりにすたすたと歩き出す。
背の高い彼に合わせるのは大変だろう。慌ててあとを付いていく。
保健室の前の廊下、ドアに手をかけたままフローレスさんはぽつりと尋ねてきた。
「お前、あそこで何してた」
対して私は答えることに躊躇していた。
ベッドのなかで、私は淡い希望を持ち始めていた。実は皆まだ生きているんじゃないかって。閉じ込められていたのは私だけで、真美も、両親もどこかに身を隠して待ってくれているんじゃないか。
今なら有り得ないと思える。なのに、変な期待に身を寄せてしまった私は目で見ないと信じられなかった。
そっとフローレスさんを窺う。答えを待っているのが何故だか分かった。
こんな有り得ない答えを受け止めてくれるだろうか。
内心では怯えながら、でも声音にはおくびにも出さないように気をつけて。
「まだ、皆生きているんだって、信じたかったんです。死んでない。あそこに皆は居なくて、何処か他の所に逃げたんだって」
「それで? 生きてたか。皆は、生きていたか」
また背中越しに声が響く。
それは質問というより、確認。私に事実を知らしめるためのもののようだった。
顔を合わせていなくて本当に良かった。泣くのを堪えるために唇を噛んで眉を寄せている姿は不格好だろう。
この人はなんて酷いことを聞くんだろうか。
耐えきれなくなって、荒い声が出てしまう。
「……っ死んでました。ママもパパも友達みんな。なんでそんな、」
遮るように彼は振り返り、私は口を噤んだ。そしてさっきよりかは幾らか柔らかい口調で言うのだ。
「なら、良い。他にも聞きたい事があるからとりあえず入って飯にでもしよう」
言うや否や、彼は扉を開け、中に入るよう促してきた。
私はといえば、彼の意図が分からず、若干の苛立ちを抱えるはめにあっていた。
だって本当に、意味が分からない。普通、そういう事にはあまり触れないようにするのではないのか。
けれどご飯、という言葉に反応して私のお腹はわがままにも、空腹を訴えてきた。どんな時でも、どんな気分でも人間は体を生かすのに必死らしい。
「ほら、カップ麺くらいならもう食べられるだろ」
「……ありがとうございます」
湯気の立つそれを受け取り、近くの椅子に座る。
彼の手にはただの食パンが保持されていて、どことなく感じる気まずさを払うように私は喋りかけた。
「あの、ご飯、それだけで良いんですか」
しばしの、沈黙。
それがまた私にとっては非常に辛い。
「別に……俺は食べ盛りの中学生でもないし」
「そう、ですか」
そしてまた沈黙がおちる。
もう少し続けようかとも思ったが、また同じことになりそうなので、素直に麺をすすり、早々に食べ終えてしまった。
小さくご馳走さまをすれば、彼はさて、と声を上げた。
「もう落ち着いているだろうから聞くが……俺がくるまでのことと、名前、聞きたいんだが?」
……そうだった。私は命の恩人に感謝の言葉はおろか名前も言っていなかった。
いくらなんでも自分自身のことで頭がいっぱいだったからってそれは無い。
立ち上がり、頭を深く下げて助けてくれたお礼を言う。
「助けてくれて、本当にありがとうございました。私は戸倉海音といいます。海に音であまねです」
数秒後、そろりと頭を上げてみると、彼の瞳にはどこか驚きが浮かんでいた。
けれどそれも束の間、一つ瞬きをして、彼は少し、ほんの少しだけ、口角を上げてみせた。
「海音か、お前の雰囲気にとても良く合っている。俺のことも下の名前で呼べばいい」
フローレスじゃ反応を返すのが遅れる、と言われれば、もうジェイドさん、と呼ぶ他なくなってしまう。
けれど、最初にすることというのは1番癖になりやすく、名前というなら尚更で、これは直すのが面倒だと内心ため息をついた。
「えっと、ジェイド、さん。私があそこに居た理由は……」
今に至るまでの経緯を話す。
上手く纏めるのは難しく、途中何度か詰まってしまったけれど、彼は急かすこともせず聞いてくれた。
そうして何もかも話し終え、彼が言ったのは、
「その自警団とやらに復讐したいか」
という、遠回しだったが要約すればこんなふうな事を聞いてきたのだ。
復讐をしたいか、と。
予想というか、考えたことも無かったその問に一つ瞬いて答えを出す。
「……復讐なんてできません。私にはそんな事をする勇気も、技術もありません」
これは本音だった。私は確かに自警団のことを恨んでいるし、憎い。復讐はきっと、あいつらを殺すことになるのだろう。
けれど、殺せるか、と聞かれたら答えはいいえ。
それに何より、私はあいつらと同じ人間の屑みたいな存在になりたくない。そこだけは譲れない。
「俺が代わりに復讐すると言っても?」
急に剣を帯びた雰囲気に、試されているような気がした。答えを間違えたら切り捨てられる、そんな錯覚に陥りそうだった。
「それは、それはジェイドさんが損をするだけです。もし1人でも私のように生きていたら、その人に一生恨まれて、殺そうとされて。それに復讐は本人がやるから意味があるものだと、思います」
復讐の権利は私にある。
言外に伝えれば、ふっと張り詰めた雰囲気が和らいだようだ。
よく分からない安堵を覚えるが、自警団については私の意志を言い切った。
「……なら、お前はこれから何を目標にして生きる?」
今日は質問ばかりされるらしい。しかも重要で、言葉にしなくては分からないようなことを。
それでも私はきっぱりと、いっそ清々しい気分で言うのだ。
「生き延びることが目標です」
彼女の分まで生きると約束したから。
死ぬのは許されないから。
私は、生きて、とお願いされたから。