禍根
「クソ……皮肉にも程があるだろ」
三ノ輪の小さな呟きは後方の喧騒に掻き消されて消えた。
新しいまっさらな生命の誕生のように、腐りきって未来の無いモノが一所から。それは確かに、気分の悪くなる光景だった。
命を扱うことのある医者には腐るほど暴言が出てくるはずだ。
「抑えろよ。お前の気持ちが全部分かる訳じゃ無いが、今は」
「分かってるよ」
そうは言うが、怒りが抑えきれないのか歯を噛み締めているのはどこの誰だか。
ちらと後方を横目で一瞥すると、一体あれのどこにそんな容量があったのかと叫びたくなるような量の感染者が濁った目を爛々と輝かせて追ってきていた。
目眩のするような光景に我にかえる。そうだ、他人を気遣っている場合ではない。
今更手持ちの残り少ない弾とたった一本のナイフで立ち向かったところで刹那に肉薄されて終わりだ。かといってここを出るまで追いつかれない保証も無い。
これは……籠城するしかないかもしれない。
俺が全速力で走れば感染者とは張れるだろうが、力いっぱい走り続けるのは無理な訳で。つ
いでに言うと後ろの二人の息も乱れてきている。
「金井! そこの____」
「ジェイドさん!!」
籠城するように指示を飛ばそうとして、そいつからはついぞ聞いたことの無い大声が遮った。
声とともに何故かバットがすっ飛んでくるのを見て、考えるより先に体が動く。
金属製のそれを受け取れば手のひらが僅かに痺れるが、それさえ気にならない。
一縷の希望に口角が上がる。
振り返ると同時に、バットの重みを利用するように横に薙いでやれば、気持ちいい程に感染者の顔が歪んだ。
景気良く飛び散る血を追うように手の中のそれを彼らの顔に叩きつける。
振りかぶった自分の腕の筋肉がちぎれていくのが感覚的に分かった。明日は痛むことだろう。
けれど体は軽い。重みも感じない。ただ温い空気が熱くなった頬を撫でていく。
先の呼び声のおかげで後方の感染者はそちらに流れていったらしい。
気付けば半分に減り、更に減り、向こう側の人間が視認できるようになった頃。
最後の感染者を殴り飛ばす。倒れ込み、気丈にも起き上がろうとした感染者の頭を、白樺が踏み潰した。バットで殴って陥没した所を的確に。
数秒の間の後、ニッと笑って拳を突き出してくるので、合わせてやる。粘度の高い血液で手が塗れているから良い音は鳴らなかったが。
「映画のワンシーンみたい!」
へへっと笑う白樺のなんと気の抜けたことか。つられて今度は安堵の笑みが込み上げてきた。
余裕が出来たせいで腕の怠さが一気に酷くなった。もう既に張っているから筋肉痛は確定らしい。
「……ジェイドさん」
白樺の後ろからおずおずと出た顔は、俺を認めるとついと歪んだ。
此方が目を丸くする暇も無くその瞳から透明な雫が落ちる。
「な、何で泣く」
何故か化け物に出くわしたときよりも動揺してしまう。しかもただふるふると首を横に振るだけで一向に泣き止む様子が無いのもまた焦りを助長させた。
なんとか声を掛けようとして、しかし何を言えば良いか分からない。まさか幼い子にするように猫撫で声を発する訳にもいかないだろう。
助けを求めて白樺を見れば、素晴らしい満面の笑み。何がそんなに嬉しいんだよ。
観念して、そっと海音に近寄る。何度も手の甲で目を擦っているところを見ると、謎の罪悪感に苛まれた。
自分の手を見る。大丈夫、左なら殆ど血は着いていない。
躊躇いがちに小さな頭に手を伸ばす。近付いたことは分かっているのか、俯いて違うんです、と蚊の鳴くような声で否定した。
ぬばたまの髪は熱く滑った。綺麗な光の輪が手の下で動いて、妙に目に残る。
「……怪我は」
半ば絞り出すように聞く。
すん、と啜り上げる声が一つ聞こえた。大きく息を吸い込んで、次に嗚咽を飲み込むようにして少し震えた声で答えた。
「ありません」
……良かった。
頃合いかと手を退けて、海音はようやく顔を上げた。
どうやらあの通信を受けて応援に来てくれたようだが、何故このメンバーを寄越したのかが分からない。鹿嶋が拠点に残るのは良いとして、他にもっと腕の良さそうな者が居たはずだ。
熊谷が居る班は午後の巡回にあたっていた筈だが、まさか、鹿嶋はそのまま向かわせたのか。
強さの計り知れない化け物の相手に、その場に居合わせた者を宛がったと?
……やっぱりアイツは何も考えちゃいない。その考え無しが何を起こすか、知った方が良い。
「……ちょっと」
痺れを切らしたようにずいと前に出てきたのは……八木の兄だった。
ここに八木の居ないことを信じたくないような、そのくせ半分悟ったような苦しみを綯い交ぜにしたその顔を見て浮かんだのは保身の為の嘘をつくことだった。
俺のせいじゃないと、三ノ輪はそう言ってくれたがやはりこうして家族の死を告げるのは。
「死んだ。お前の弟は化け物に襲われて死んだ」
あまりにも淡々とした宣告は三ノ輪の口から出ていた。しかし微かに同情と悔しさが滲んでいて、揺らいでいた思考が落ち着く。
一歩踏み出すと八木はたじろいだようだった。
何か口を開く前に、頭を下げる。
「俺の思慮が足らなかった。……すまない」
数秒が経っても八木は何も言わない。視線だけをあげると握りしめて白くなった拳が見えた。
それが視界から外れる。多分、殴られる。
避けてはいけない。謝罪だけで許される訳がないのだから、殴られようが首を絞められようが受け入れるしかない。
「八木さん、それなら俺殴ってよ」
思わず姿勢を戻すと立ちはだかった金井が居て、戸惑ったように動きを止めた八木が向こうに見えた。
思いがけない行動に俺は一つ瞬く。
「本当ならここに居ないのは俺なんです。俺の代わりに武器になるものを探しに行ったときに八木は殺された。だから謝るのも俺で、殴るべきも俺なんです」
言い切って口を閉じると、金井は静かに腰を折った。
「すみませんでした」
その一言に八木はだらりと腕を降ろす。怒りが霧散したような行動だった。
しかし違うことはその表情に浮かぶ、深い憎悪のような、絶望のような黒い感情が語っている。
「違う」
大きな禍根を金井に負わせる訳にはいかないと、堪らず言葉が滑り落ちた。
家族を奪われた者がする表情は、それだけで奪った者の神経をすり減らす。それが向けられる辛さを俺は知っている。
胸の柔らかいところを深く抉って、埋められない溝が出来たと知らしめる、その目。
「指示を誤ったのは俺だ。だから、」
言い募ろうとして、ぴしゃりとした声に遮られた。
「待ちなさい。これじゃ埒が明かないわ。今はこんなことやってる場合じゃあないでしょう」
割って入ったのは熊谷で、それでやっと周りのことを放置していたことに気がついた。それぞれの顔を見回せば、先の残党を気にして落ち着かないような表情、此方を怪訝そうに窺う顔が見て取れた。
その若干の居心地の悪さからか、八木は無言で俺達に背を向ける。
ここで決裂してしまうのは避けたかった。けれど嫌でも感じる拒絶。当たり前だった。静かなくせ、絶対の憎しみを語ってくれる後ろ姿を黙って見ているしか出来なかった。
いつの間にか握りしめていた手は血が乾いて開けなくなっていた。