不吉
「ちょっとぉ!? 鹿嶋さぁん!?」
朝のデパートに蛍さんの声が響き渡る。
まだ眠っている人も居る中で遠慮なく大声を出す蛍さんはなかなかの剣幕で鹿嶋さんに詰め寄った。
大声に起こされた人達に頭を下げつつ、後を追う。
寝る方向もばらばらで、床には衣類や空のペットボトルが散らばっているのは下の階とは大
違いで、本当に雑魚寝だな、と必死に床を探しながら思う。
「なんで海音ちゃんも調達班に入れるのかしらぁ!? 女の子よぉ、分かってる!?」
やっぱりその事らしい。苦笑が漏れるその間にも蛍さんは主張を止めない。
そもそもは私の言い方が悪かったのだろう。
目が覚めて、昨日言われた確認をしておけという言葉を思い出した私は、とりあえずこの階に向かったのだ。
そして、丁度起きていた蛍さんに捕まり、調達班に入る旨を伝えると、寝ぼけ眼をかっと見開き、あの調子で突撃をしていってしまう。
慌てて追いかけるも、あの床を攻略するのはなかなか難しかった。
「蛍さん、違うんです。私から入りたいってお願いを」
「なんですって!?」
やっと追いつき誤解を解こうとすれば、鋭い眼光で見られた。
上からの視線に思わず首をすくめる。
「あ、ごめんなさいねェ。でもあなた本当に入りたいの?」
怖がったことを察してか、いくらか表情を和らげる。
けれどやはり疑わしそうだ。
「はい。守ってもらうだけで何もしないのは、嫌ですから」
詳しく理由を話すのは躊躇われたので一言伝えると、蛍さんは眉を下げて難しそうに唸った。
「でもやっぱり……」
「熊谷、海音はここに来るまで何度も感染者と対峙してきた。邪魔になるようなことは無いはずだ」
後ろからの援護に振り返る。
いつの間にかジェイドさんが後ろについていてくれていた。
けれど、蛍さんは違う、と首を横に振った。
「あのね、どこの誰が足引っ張られること心配してるって言ったのかしら? あたしはね、こんなちっちゃな子に戦わせるのは可笑しいんじゃないかってことを言ってるの」
「ち、ちっちゃい?」
蛍さんからしたら私は小さいかもしれないが、歳のことだとしてもそこまで言われるだろうか。
それともそのくらいか弱そうに見えるのか。
密かに傷付いていると、それまで黙っていた鹿嶋さんが割って入った。
「なら熊谷さんの班に入れるのはどうでしょうか」
「鹿嶋さん!!」
責めるように蛍さんが声をあげる。
それを制して鹿嶋さんは続けた。
「戦わせたくないんですよね。なら熊谷さんが彼女を守れば良い、違いますか?」
「それは、そうだけど……」
苦々しげに蛍さんが唇を歪めた。
納得いかないのか私をちらりと見やる。
私はきちんと蛍さんの顔を見据えた。まだ化粧の施されていない顔のなかの瞳はただ痛むように揺れている。
それでもじっと見つめていると、呆れたと言わんばかりにため息をつかれた。
「分かったわ。海音ちゃんは案外頑固なのね」
ちょん、と鼻先をつつかれた。
頑固、とは。今までで殆ど言われたことが無い気がする。まるで頭が硬いみたいじゃないか。
なんだか不名誉な称号は置いておいて、私はにっこりと笑う。
「決まりですね」
「あなた、アイツらの恐さ分かってないわね?」
間髪入れて突っ込まれたが、もちろん分かっている。
一人で行動しようとも、突っ走っろうとも思っていない。
ただ少し前みたいに何もせずいるのは嫌。
それだけだった。
「今日は午後が熊谷さんの班に割り当てられてます。それまでにやることを教えてあげて下さい」
相変わらずマスクを着けた鹿嶋さんが促し、話は終わり。
怒ってやしないかと蛍さんを窺い見ると、目が合った。
「なあに? その顔、もしかしてあたしの機嫌窺ってる?」
言い当てられて、目が泳いでしまった。しまったと臍を噛むが、もう遅い。
けれど、蛍さんはからりと笑った。
「良いわよ、別に。怒ってなんか無いわ。でも、そうね、無理はしていないのね?」
口調は軽く、唇も笑んでいたが、目だけは本気で案じていた。
この人は。まるで私のことを昔からの友人か家族みたいに思ってくれているのか。
そんな人、私は会ったことがない。
「してませんよ」
今日は食料調達ではなくてデパートの周りの巡回になるそうだ。他にもバリケードの補強、いざという時の脱出口の確認。
教えてもらうだけでは時間が余るので女性三人と自己紹介をした。全員がどこか暗く沈んでいて、私にもあまり興味は無いようだった。
「海音ちゃん、おはよう。早いね」
先程まで眠っていたのか、海麗ちゃんがあくびを噛み殺しながら駆け寄ってきた。
「……おはよう」
目を擦る彼女の様子に、昨日の異常性は見えない。
「あれ? 海音ちゃんなんか、ほっぺた腫れてない?」
「……昨日のこと覚えてないの?」
思わず小さく呟く。
まさかとは思ったが、夜中でのことは一つも覚えてないようだった。
張られた頬の痺れるような感覚はすぐに消えたし、腕も赤くならず、動かすと多少の痛みがあるくらいで、怪我とも言えない。
頬も、きっとバレないだろうと思っていたのに、まさか本人に気付かれるとは。
少しの間逡巡して、なるべく自然に笑った。
「そう? 気の所為じゃないかな」
「えー。なら良いけど……」
む、とまた頬を見るのでそっと顔を逸らした。
それでも追いかけてきて、遂に目が合う。
一瞬の後にどちらともなく吹き出してしまった。
本当に、覚えていないんだ。むしろ私が見た夢なのかもしれない。頬は笑う度、違和感を残したが。
「海音ちゃんは何してたの?」
ひとしきり笑った後、不思議そうに蛍さんを見遣りつつ首を傾げる。
「ああ、私も調達班に入れてもらうことにしたから。それで蛍さんに話を聞いてたの」
ぴき、と彼女の表情が凍った。
手をわたわたと意味も無く動かしながら何か訴えようとする。
そうしてやっと出たのは、
「だ、ダメだよ。危ないよ」
という予想通りのことだった。
「大丈夫、今まで何もしてなかった訳じゃないんだから」
けれど彼女はなかなか手強い。
「でもアイツら、速いし」
「うん」
「気持ち悪いし」
「うん」
「それに、えっと、臭いし、気持ち悪いし」
それはただの悪口だ。
どうしたものかと頭を悩ませいると、見兼ねた蛍さんが手の平を海麗ちゃんの顔に突き付けて止めた。
「ストップ。無駄よ、海麗。この子ほんっと頑固なんだから」
「……そうなの?」
「ちょっと」
本当、の部分の語気を強めながらこちらを見るのはやめてほしい。あとその方向で海麗ちゃんに諦めさせるのはどうかと訴えたい。
海麗ちゃんも意外、みたいな目で若干引かないで。
どうも私の性格が誤解されているようで、たまらずため息をつく。
「蛍ねーさんの、班なんだよね? なら絶対に海音ちゃんから離れないでね。他の人と二人っきりもダメだよ。海音ちゃんも蛍ねーさんと一緒に居てね。いざという時は蛍ねーさんのことを盾にしても良いんだよ」
一息に言い切る彼女にぽかんとしてしまう。蛍さんのことをかなりぞんざいに扱っているのは気の所為だろうか。
「う、うん。分かった」
「了承してんじゃないわよ」
勢いに押されて頷くと、横からすぐに鋭いつっこみが飛んできた。
盾にするつもりは微塵もないけれど。
「でも一人にはならないよ。約束する」
「絶対?」
「うん」
念を押してくるのに苦笑しながらも頷けば、幾らか安心したように彼女は頬を緩めた。
「あたしが海音ちゃんの盾になるのが確定したところ申し訳ないんだけど。あなた、武器かなんかは持ってるの?」
ちくっと言葉に針が入れられたのはスルーして、私は荷物からホルダーごとナイフを取り出した。
分かりにくいかとナイフを引き抜く。
刃こぼれこそ無いものの、若干表面が曇ってしまっているそれを見て、蛍さんは何故か拍子抜けしたようだ。
「それだけ? もっとこう、銃とか……ジェイドさんは自衛隊員なんでしょう?」
感染者を倒すうえで最も安全かつ早いのは銃火器だろう。ナイフは接近戦になるのは確実だし、見つからずに仕留めるには背後から近づくしかない。
その点、銃なら見つからない限り撃ち仕留めるのは簡単だ。一定の腕前さえあれば倒せる割合は高まるうえ、面と向かう必要も無いから腐った肌を見て恐怖に混乱もしない。
ネックなのは発砲音だった。
感染者は五感を使って人間を探す。聴覚はかなり優れているらしく、音がしたらとにかく音源を探し出し、人間なら躊躇なく襲う。
静かな街に音は大きく響くものだ。
他に、弾が尽きてしまえばそれまでということ、マガジンは嵩張る上に重いことが挙げられる。
ジェイドさんは二丁持っているけれど、私達に扱わせるのは本当にどうしようもない状況だけ。
そのどうしようもない状況はまだ来ていない。
「……ので、銃は武器に入れてません。ナイフはまだ五本くらい持っているそうです」
私と白樺さんの分を合わせて七本持っていた。
それでも重いはずだ。このサバイバルナイフだって初めて持った時はずっしりと手に重かった。
「へえ、よくやるわぁ」
妙に感心しているようで、しきりに頷く。
「ここにはどのくらい武器があるんですか?」
不意に彼女は目を泳がせた。顎に手をあてがい、必死に記憶をまさぐっている。
「え、っとぉ……確か拳銃が七、八丁でサブマシンガンとショットガンが一丁ずつ。あなたのそれと同じようなのが十、いや十一?」
「あんまり覚えてないんですね」
「仕方ないじゃない。そこら辺全部鹿嶋さん任せよ」
特に責めたつもりは無かったが、蛍さんはむっとした様子で反論した。
一班で六人編成だったか、同時に全ての班が出るわけじゃないだろうから余裕で一人一つは武器が持てるらしい。
ショットガンにサブマシンガン。名前しか聞いたことが無いから上手く思い浮かべられない。拳銃よりは大きいだろうけれど。
いつかは見る機会が来るだろうと一旦好奇心は置いておいて。
「そろそろですか? 班の人の顔くらいは覚えておいたほうが良いですよね?」
いつ止まるかは分からない時計を見上げ、正午過ぎであることに気づく。
蛍さんはそうね、と頷き行きがけに海麗ちゃんの頭をまたわしゃわしゃと撫ぜた。
「じゃあ行ってくるね」
バイバイと手を振り、不安そうな顔は見なかったことにする。
「…………白樺さん」
「何、」
顔合わせも兼ねての打ち合わせに集められた班員に、白樺さんは見事に収まっていた。
本当に蛍さんの意見が通ってしまったのは、鹿嶋さんが優しいのか、蛍さんの主張が強かったからか。
八割の確率で後者だ。
鹿嶋さんが手を叩き、注意を促した。
「今回もいつも通り、指定されているコースの巡回、バリケードの確認及び補強です。詳しいことは聞いてると思いますから省きますが、万が一生存者に出会った時はまず感染の有無を確かめて下さい。敵意が見られる場合は殺しても構いません」
内容は主に私達に向けられていた。
淡々と告げられた最後の言葉に眉間にしわが寄るのを自覚する。
簡単に言ってくれるが、敵意が見られる場合なんて人の命が関わることなのに範囲が広すぎる。
この状況下で他人に敵意を向ける人間はロクな思考を持ち合わせてないかもしれない。
けれど、人が減り続け感染者が支配し始めている世界で、生存者同士で潰し合うのは純粋に人類の衰退に繋がりかねないのだ。
覚えたのは反発のような何かで、大人なのに、と偏見も混じっていた。
他の人たちは銃の調子やらに集中しているのをいいことに、私は口を挟んだ。
「良いんですか、そんなこと言って。今は人間が減る一方なんですよ。なのに」
他人事のように殺人の許可を与えて。
不意に彼の瞳が三日月に歪んだ。マスクの下で唇を釣り上げる気配。
人をだまくらかす、ずる賢い狐のような。
「そんなこと? ならあなたは敵にナイフを突きつけられ、身ぐるみを剥がされても抵抗しないでいられますか? 自分は生命の危機を感じた場合という意味で最後に付け足しましたが、あなたは人間同士で殺しあえとでも解釈しましたか」
「でも、無闇に殺せ、と言うのは人として少しどうかと思います」
その場にそぐわない笑顔に少し怯みつつも、声に出す。
「自分は敵意の程があなた自身で判断できるだろうと思っての発言でしたが、そんなふうに解釈されるとは」
そこであからさまにため息を吐いてみせるのは、多分、私が間違っていることを強調したいから。
かっと頬が熱くなる。
早合点を指摘されて、恥ずかしくなったのだ。
「いえ、あなたのその、人としての道徳を大切にする思考は素晴らしいと思いますよ。……ただ少し、深く考えすぎる癖があるようですが」
次いで入れられたフォローはしっかりとこちらを揶揄っているようで、恥ずかしさから震えそうになる唇を噛んだ。
「鹿嶋さん、通信です」
大きなトランシーバーを手に持ち、男性が耳打ちする。
鹿嶋さんはちらりと私を一瞥してからそれを受け取った。
背を向けてはいるが内容は充分に聞こえてくる。
無意識の内に聞き耳を立てれば、かなり抑えられてはいるものの随分と動揺しているのか、内容の前後するものだった。
『 石原が殺られた。化け物が、頭が____つが急に出てきて、でかいんだ。三メートルくらいありそうな。__は近くのビルで、応援が__しい。それ以外は____つを纏めて待機______、』
途切れ途切れの通信、ガッと一際大きなノイズが混ざり、それ以降は何も聞こえてこなくなる。
あまりにも不吉な内容に、聞こえた人達は一様に顔を曇らせた。
「……くそ、壊れやがった」
苦く吐き捨てる、その手にあるトランシーバーは黙り込んだままだ。
「鹿嶋さんどうしよう、俺の弟が。弟が死んじまうかもしれねぇ。なぁ、助けてくれるよな? なぁ!?」
声を荒らげた男性が鹿嶋さんに縋りつこうとする。
その手はぶるぶる震えていて、多分もう望み薄だとは、誰も言えない。
「落ち着いてください」
それをやんわりと言葉で押し留めてから、彼は体ごとこちらを向いた。
「熊谷さんの班は作業内容を変更します」
何を言い出すのかと全員の視線が集まるなか、彼は動ずることなく言い放った。
「無線機の向こうの化け物とやらを偵察しにいく」
それが変更された作業内容です、と。