違和感
「ジェイドさん!?」
「おい馬鹿、立つな!」
上げかけた腰をなんとか落ち着け、突然の事に動揺の収まらない胸を抑える。
湯気で見えにくいことを願いつつ、縁に引っ掛けていたタオルで体を隠した。
恥ずかしさを堪え、腕で抱えるような姿勢そのままでジェイドさんに話しかけた。
「どうしたんですか? 何かありました?」
言いながら少し不安になってきた。
集団で暮らしていたって、いつ感染者に襲撃されるとも限らない。
しかし彼は、いや、と否定から入った。
「のぼせていないか確かめてほしいと熊谷に頼まれた」
熊谷という名前から蛍さんを思い出すのに少しの間があいた。
けれど、彼女が頼んだという事は心配してくれたらしい。後で謝っておこう。
「大丈夫そうだったから、さっさと退場したかったんだが」
不意に視線を下げる。
そこには先程私が使った水が小さな水溜まりを作っていた。
なるほどそれのせいで今こんな事になっているらしい。
「そういえば海麗ちゃんは? 頼むなら彼女にすれば良かったんじゃ?」
流石に居たたまれないのか、気遣ってくれたのか、背を向けて車のボンネットに腰掛けた彼に声を投げる。
「寝たらしい。それで俺に矛先が向いた。……すまない」
謝罪を受けて、思わず首を横に振った。
多分だが押しの強い蛍さんのお願いを断るのは難しいことだろう。
けれど背を向けている彼には見えないと思い立って口を開いた。
「彼女のお願い、断るのは大変だとおもいます。私は平気ですから」
「ああ、全くだった」
返答に若干の疲労が見える。
気苦労を思うと多少の同情が湧いた。
「お疲れ様です。……にしても早いですね」
海麗ちゃんのことだ。
入ったときはまだ夜というほど夜じゃなかった。
眠そうにも見えなかったけれど。
「そうだな。確かにこんな所じゃ、やることも無いだろうが」
ぱっと見た限り、ここでは男性が大抵のことを担っているようだった。
食料、水、生活に関してもほぼ彼らが居て成り立っているようだ。女性がすることと言えば、料理や洗濯ぐらいだろうけど、料理には野菜や、肉があってこそで、缶詰やインスタント食品に手を加えることはほぼ出来ない。
海麗ちゃんがのんびりと裁縫できるくらいに余裕があるらしかった。
「やっぱり私も」
研究所を周ってみたいです、と言いかけて、また困らせてしまうかと続く言葉を変えた。
「調達に混ぜてもらいたいです」
少しは役に立つことができるかもしれない。
直後に彼が振り返る。驚いたと言わんばかりに。
完全に気を抜いていた私は咄嗟に背を丸めることしか出来なかった。
動揺を表すように水面が大きく揺れる。
「っ悪い、つい」
ぱっと顔を背ける。
それを確認してこっそりため息をついた。
父以外の異性と、四六時中ではないとはいえ生活をして、ようやく慣れてきたばかりなのだ。
そう考えてしまうと、この状況は少し、いや、かなり恥ずかしい。
今更ながら熱くなってきた頬を抑える。
「ただ、気になったんだ。どうして自分から危険な場所に飛び込もうとする」
その問いに手を降ろした。
私は先の会話から想像していた。何もしない、何にも急かされることのない一日が過ぎていく様を。
その折で考えるものはきっと、あの日からジェイドさんに助けてもらうまでのことだろう。
思い出す度、強くなっていく気持ちがある。避難所を崩壊させた自警団に対してだ。
焼き付く思いを理解してしまうには私は臆病だった。
だから、他の事で頭をいっぱいにしておきたい。考えつく暇もなく動いていたいのだ。
けれどそれを伝えることを私は躊躇していた。
白樺さんもそうだけれど、二人はいつも私を気にかけて心配をしてくれていた。特に自警団絡みでのことは。
だから違う、もう一つの理由を伝えることにした。
「せっかく生き延びる術を教えてくれたんです。私は忘れたくない」
彼から見ればまだまだだろうけれど。
でも私が外へ出たとして、いきなり感染者と出くわしても倒すことを考えることすらできずに死ぬだろう。
それとも食べ物を探せずに餓死?
どちらにせよ、ジェイドさんがいなければ私は簡単に死んでいた違いなかった。
ジェイドさんは束の間、沈黙を保った。
「……俺は正直、今まで無理を強いてしまったと思っている。本当は、普通に歩いて、走ってが出来るくらいの体力があれば、後は俺が守れば良いんだしな」
唐突に始まった話は訥々としていて、彼にしては歯切れが悪いようだった。
「ここに来るまでも何かとやらせてきたが、極端に言えば必要はなかった。もう外へ出る必要すら無いかもしれない。お前がもし、俺が勝手に教えたことに恩義を感じてそう言っているなら、無理しなくていい」
その内容を、眉を寄せて噛み砕く。
ジェイドさんは、私が感染者を倒せるように教えたことを後悔しているのだろうか。
それとも私が無理をしているんじゃないかと、気遣っているのか。
元は私が生きたいと言ったからだ。
彼はそれに応えてくれただけなのに。
恩義とか、まるで私が着せられたみたいに言われても、困ってしまう。
「私が教えてほしいって頼んだんです。ジェイドさんの勝手じゃありません。それを自分から潰したくないですしそれに……私は無理をしていたなんて思ったことは一度も無いです」
いつも彼は私の体調に合わせてくれていたし、確かに辛いと感じたことはあれど、必要なことと感じていたからやっていた。
生きることを掲げただけなら、それも良いかもしれない。
でも。
「もしまた、他人に任せっきりにしておいたら。きっと同じことは起こります。いつか崩れます」
私をきっかけに、一人二人が行動してくれるようになれば、最悪なことは避けられるはず。
今はきっと蛍さんが橋渡しのような役目をしているだろう。避難所のときと同じような人達ばかりが集まっている訳でもないし、切羽詰まっている様子も無かった。
けれど、守る人と守られる人の間には確かに壁ができる。
「だから…………っくしゅ」
尚もいい募ろうとして、くしゃみに邪魔をされた。
いつの間にかお湯は温くなり、剥き出しの肩は冷え切っていた。
指はすっかりふやけてしまっている。
風邪を引いたら嫌だなと、体を少し沈みこませて、もう一度口を開こうとする。
けれど今度はジェイドさんに遮られてしまった。
「分かった、分かったから。お前が変に強情なのも、自分から危険な場所に赴こうとする理由も。……俺から鹿嶋に伝えておくから、後からちゃんと聞いておけよ」
言いおいて彼は立ち上がる。
なんとか説得できたようで嬉しく思いつつ、既に歩き出していた彼の背中に気づいて慌てて投げかけた。
「ありがとうございます。あと、おやすみなさい、ジェイドさん」
「……ああ」
ひらり、と手が振られる。
きっと彼はまだ眠らないだろうけど。
最後までずっと後ろを向いていた彼が扉をくぐったことを確認して、ぬるいお湯から体を出した。
嗅ぎなれない新品の服を着て、海麗ちゃんの所へ戻ってみると、本当に眠っていた。
海麗ちゃんだけじゃなく、女性は全員が眠り、挨拶もできなかった。
とりあえずどうすればいいのか、と視線を巡らせると、暗闇に慣れてきた目に空いた布団が見つかった。
昼間に見かけた、蛍さんの寝床のはずだ。
今は敷かれた状態で、枕元に何か落ちている。
皆を起こさないように静かに動きながら、荷物から懐中電灯を取り出し、それに光を当てる。
四つ折りにされた紙片だった。内容によるとどうやらこの一角は私に割り当てられた場所らしい。
海麗ちゃんの隣で、気を回してくれたらしいが、蛍さんは良いのだろうか。
紙にはご飯も少し置いておくことが書いてあり、確かに缶詰めと乾パンが見つけられた。
ありがたく思いながらも、ここで食べるとなると電気を点けっぱなしにしてしまうことになるので移動しようと立ち上がる。
場所はエスカレーター辺りで良いだろうと、真っ直ぐに歩く。
ひたり、ひたりと裸足で歩く音が聞こえた。
もちろん私のものじゃない。
ふうっと息をつき、手の中の懐中電灯を握り直す。
感染者を何度も見てきたはずなのに、お化けや幽霊を思って怖がっている自分が何だか可笑しかった。
光はもう届かない距離だろうと、足を止める。
背後の音もぴたりと止んだ。
しばらくしても動く気配がない。
勢いよく振り返り、丸い明かりをその人にあてる。
ゆらりと立つ、海麗ちゃんがいた。
「……起こしちゃった?」
びくびくしていたのが恥ずかしくて、気の抜けたままに誤魔化すように笑みを浮かべるが、どうも様子が可笑しい。
不規則に体が揺れているし、光を当てても腕をかざす仕草すらしないのだ。
何よりその表情だった。
目を見開き、焦点は合っていない。ぽっかり開いた黒い穴を見つめているような。
異常だ。
今、声をかけても良いのだろうか。
数秒、迷った挙句に刺激しないようにゆっくり彼女に近付いた。
それでも何の反応もしない。
「海麗ちゃん」
呼びかける。やはり反応しない。
「海麗ちゃん、どうしたの」
肩に手を置く。ひくと一度大きく揺れた。
「大丈夫? ねえ、何かあったの? 海麗ちゃん?」
少しの変化の無い顔の中で、唇が細かく動いているのにようやっと気がついた。
この至近距離にして、なんとか聞こえるほどの声量。
耳を傾けて、背筋に悪寒が走った。
「お母さんお父さんごめんなさいごめんなさいごめんなさい私がうらぎったのごめんなさいもうもどれない生きてられないごめんなさいゆるして助けてお母さんお父さんごめんなさい私はもう汚いからごめんなさいごめんなさいおいていかないで許して助けて」
ぞわぞわと背を声が不快に撫であげる。
普通じゃない人を見て忌避感を覚えるのは昔からの人の性だろうが、明らかに異常な海麗ちゃんを見て私はこれ以上ないくらいに恐怖していた。
手を離せないでいるのは友達になったからというそれだけ。
なのに、ここで彼女を置いていく選択は出来そうになかった。
肩を強く揺さぶり、まるで意識のない彼女に呼びかける。その度力なく彼女の腕が揺れた。
息継ぎも無しに言葉を吐き続ける彼女は壊れた人形のようだった。
どのくらいそうして居ただろうか、不意に海麗ちゃんの表情が動いた。
焦点の合った目にほっと安心したのも束の間。
「え?」
地面に体が叩き付けられる重い音が響いて、肺から空気が押し出された。
手から転がり落ちた懐中電灯が暗闇のあらぬ方向を照らし出す。
押し倒されたと気づくと同時に振り上げられた腕は顔面に迫っていた。
平手打ちでこんな音が出るものかと思考はずれる。
張られた頬もヒリヒリと痛かったが、歯にも衝撃が走り、口内は痺れたようだった。
黒い影が動くのを横目で確認して、押さえつけられた肩を捻るように回して腕をかざす。
骨に響く、今度は拳だった。
熱を帯びる腕を自覚しながら、振り上げられる拳を今度は受け止めた。
そのまま無茶苦茶に振り回そうとするので必死に抑え込む。
たがの外れた感染者と比べるのも可笑しいが、彼女の腕は細くそこまで力は出ないようだった。
肩を押さえつけている方の手首を掴み、体全体で押すようにして上下を反転させる。
「……っ」
途端に抵抗するようにもがきだす。暗闇のせいで今彼女がどんな表情をしているのか分からなかった。
じたばたと動く足に蹴られでもしたら堪らないと、自分の膝を彼女の太ももに乗せる。
弱くなって、強くなって。波のように繰り返される動きを、汗だくになって抱えこんだ。
さすがに疲れてきたのか、少しずつ力が弱まっていった。
いつからか聞こえていたすすり泣きも収まり、やがて規則正しい寝息に変わる。
疲れ切った体を引きずり、懐中電灯を拾う。
結局、缶詰めと乾パンは食べることは出来なかったな、と海麗ちゃんのことを考える力もなく思った。




