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赤眼ゾンビ  作者: 海月
第一章
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仕切り直し

 瞼に強い光を感じて、目が覚めた。

 昨日、なかなか眠れなかったにも関わらず、お陰でいつも通りの時間帯だ。

 窓から朝日が覗いている。

 ぼんやりとそれを眺め、けれど二度寝するのは躊躇われた。

 男性の容態も気になるので、なるべく手早く支度をして、下に降りた。

 

 降りてまず目に入ったのは、何故か食料や水を並べている二人の姿。

 男性はもう大丈夫なのか、と首をめぐらして、しかし見当たらない。

 混乱するより前に、白樺さんは立ち止まっている私に目を向けた。

「戸倉さん。……あーっと、あの人のことなんだけど」

 言いにくそうに、目を泳がせる。

 もしかして、間に合わなかったのか。それとも手当てに何か、失敗が。

 不安にさっと血の気が引いていく。

 けれど白樺さんは首を横に振った。どこか悲しげな色が覗いている。


「ずっと前に噛まれていたみたいなんだ。皆、気付けなくて。ジェイドさんがすぐに対処してくれたんだけど」

 ちらりと困ったようにジェイドさんへ視線をやって、それからまた、安心させるように小さく笑みを作った。

「だから戸倉さんも、誰も悪くもないよ」

 彼なりに、私の気持ちを軽くさせようと言ってくれたのだろう。

 その優しさが一番、愕然とした思いを拭ってくれた。


「そう、だったんですね。ありがとうございます、ジェイドさんも、白樺さんも」

 

 特にジェイドさんは大変だったろう。

 感謝と、労いもこめて頭を下げれば、彼らは頷き応えてくれた。

 なんとか助けられると思っていた。安心しきっていた。

 だけど自分はまだ、甘かったらしい。

 

 そっか、こんなこともあるのか。

 感染して、自我を失っていく人を見ることも。

 その時私はジェイドさんと同じことができるだろうか。

 でも、きっと私はまた成り行きのように殺してしまうんだろう。……どうせ、そこで迷ってしまうような人にはもう会わないのだし。

 

 昏い考えを、私は首を振って捨てる。

 今心配したって、意味のないことだ。

 

「もう直ぐに出ますか?」

 改めて二人の方に寄っていって、机に並べられた缶詰めやカップ麺を覗く。

 やっぱり移動しながらだと、極端に物資が少なくなるらしい。

 必要な分を、ぎりぎりまで倹約しなければならないからだろう。

「ああ。準備出来次第……そうだ、何か食うか?」

 横から伸びてきた手__白樺さんのものだ__が飴の入った袋を置くのを冷たい目で跳ね除け、ジェイドさんは適当な缶詰めを差し出してくれる。

 けれど私は首を振って遠慮した。

 今のことを思えば、特に食べる気になれなかったからだ。

 顔を曇らせる彼に少し申し訳なくなるが、二人が準備をしているのに何もしないというのも気まずい。

 何か他に必要なものは、と視線をよそにやって、昨日使ったきり放りっぱなしの救急箱が目についた。

 ガーゼはかなり少なくなってしまっているけど、他のものはまだ余っているようだ。

 包帯も、消毒液も半分以上ある。

 きっと役に立ってくれるだろう。

 取りやすいようどれもリュックのポケットに。かさばるから箱から出しておけば、多少の怪我くらいなら対応出来そうな程の量が入れられた。

 多分、どれだけのもしもを重ねても対処出来ないときは来る。何がきっかけでどう動くか、予測しても、しきれない。

 自分の行動一つで危機に陥ってしまうことだってあるのだ。

 ふいに一つ湧いた疑問に、はたと手が止まった。

 例えば、もしあの悪夢のような夜、私が呼び出しに応じていなかったら。今ここに居たのは、両親か、それとも真美だったろうか。

 もしあのまま素直に抵抗しなかったら、皆はまだ生きていただろうか。ただただ我慢して、甘んじて受け入れていれば。

 下卑た笑みを思い出して、背中にぞくりとしたものが走った。


 感染者への恐怖で塗りつぶされることもなく心の根底に染み付いたそれは、今日は特に色濃い。

 幾度かこうやって降って湧いては私を苦しめるこの悪夢は、例えば夜眠る前、着替え中に自分のどこか青白く見える肌が目に入った時、よくあらわれた。

 

 ぼーっとしていて手が止まっていた。

 再度鞄の中身を整理しつつ、それでも自分の中でぎこちなさが残る。


「戸倉さん、はいこれ」

 

 見ると腕に食料を抱えた白樺さんだ。

 白樺さんだと、頭では分かっているのに。

 

 刹那的に思考が止まる。瞬きも、息さえ忘れてしまう。

 伸ばそうとした手が震えて、空を掴んだ。

 

「__戸倉さん?」

 訝しげな顔が視界に入って、ようやく瞼が動いた。

 取り繕うように笑って、それでも眉を寄せる白樺さんに礼を言いながら食料を受け取った。

 

 駄目だな、と思う。

 こんな調子で外でも動きが止まってしまってえば、どうなるか分からない。

 

 けれどかといってそれを忘れてしまうのは、恐ろしかった。

 だって、その記憶と一緒に全て忘れてしまいそうだから。

 ママが、パパが、真実が私を守ろうとしてくれたこと。それからもっと前の優しい生活も。

 

 食料同士でぶつかって音がならないよう、しっかりと紐で結んだり、タオルでくるんだりしていると、カサリと何かが手に当たった。

 取り上げてみると、それは個包装された飴玉だ。

 白樺さんが、こっそり混ぜたのかもしれない。

 そっと顔をあげると、彼と目があった。

 気にかけてくれたらしいと思い当たって、私は一呼吸置いて、笑った。

 なるべく嬉しそうにすれば、彼はほっとしたように胸に手をやる。

 そのどこか大げさな仕草に、先程とは違う笑みが込み上げてきた。

 やっぱり白樺さんは、気持ちを明るくさせる天才かもしれない。

 

 荷物を上手く纏めて終えて、私は一度リュックを背負い、重すぎないか確認をした。

 重すぎれば走るとき邪魔になってしまうからだ。

 軽く揺らして音が鳴らないことも確認すれば、出発の準備は整ったことになる。


「準備出来ました」

 全員が準備を終えて、太陽の位置が高くなった時刻、また研究所へ向けて歩を進めた。

 

 


 外に出るのはなかなかに覚悟が必要だった。

 街は異様に静かだし、感染者が死角から襲ってくるものなら対応が間に合わずにそのまま……なんてことも有り得るのだ。

 私が感染者に恐怖は抱いてもパニックにならずに済むのは、ジェイドさんのお陰かもしれない。

 距離は必ず十分に取って、息を整えて正確にナイフをつき刺せば良い。

 もし失敗しても彼が居る。

 その安心感が一番成功率を上げてくれているのだろう。

 だから、緊張と気合いが綯い交ぜになった白樺さんを見て、少し心配になった。

 あんまり緊張してしまうと上手く行かなかった時逆に悪い方向へ転ぶ。

 

「……大丈夫ですか?」

「あ、あぁうん。大丈夫だよ。どして?」

「なんだか気を張っているみたいなので」

 

 こそこそと茂みに隠れながら、私は問う。

 けれど彼は行く先の感染者をひたすらに再起不能にしているジェイドさんから目を話さない。

 いつか、私がほとんど役に立たなくて寝てばかりの時も彼はこんな風にして進んでいたのだろうか。

「んー、そうかな。でも気ぃ緩めるのも変じゃない?」

 ややあって返された返事は少しおざなりだ。

 まあ、そうかと腰に付けたホルダーに目をやる。今日も一度は使うことになるだろうそれ。

 ジェイドさんは私達に感染者を倒す方法、そんなものは確立されていないのだけれど、を折に触れて教えてくれた。

 正直あんなふうに体を使えるとは思えないけれど、少しずつ倒せるようになれと白樺さんに会う前に言われた。

 きっと彼も同じようなことは言われているだろう。

 だからこそあの日は一対一の形で倒せるようにしてくれた。

 ただし、白樺さんは銃では倒したことがあるらしい。どこで、とは聞かずとも分かった。

 

 遠目にジェイドさんが此方に来るよう合図をしたのが見えた。

 二人で茂みを出る。

 いつの間にか居た猫がさっと逃げていった。動物は感染者に狙われることはほぼ無いから、気楽でいいものだ。


「あっちに五体。橋を渡るにはこの道を通るしか無い。俺はこの家を回って前に出るから、手伝ってくれるか?」

 猫に引かれかけていた気を戻し、白樺さんと共に頷く。

 

 感染者の聴力は良い。それこそ声を少し張っただけで、一キロ先の彼らは簡単に来てしまう。

 だから慎重に、音を立てないように。

 後ろから奇襲をかけるときは焦らず、ただ見つからないようにと言い含められている。

 息にまで気を配ってしまうのは仕方ないことだった。

 少し前を行く白樺さんに追いつこうと足を早める。

 何しろこれは二人同時にやらないと、意味が無い。

 致命的にタイミングがずれてしまうと一人が狙われることになってしまうからだ。

 だからペースを崩していた。

 それがいけなかったかもしれない。

 後頭部、骨に守られていない場所を狙うつもりで伸ばした腕は、浅かった。

 人が回せる首の範囲を越えて感染者が振り向く。

「あ……っ」

 ごりごりと骨の擦れる音が響き、濁った瞳に私の引き攣った顔が映し出され、まずいと思うより早く無理やり感染者の体がこちらへ向いた。

 手から離れてしまったナイフが地面へ落ちる。

 迫りくる顎を掴み両の手で必死に抑え込むが、感染者に力技で勝てる訳が無かった。

 どろりと垂れる唾液が頬を濡らした。

 反射的に顔を背けて、ぎゅっと瞼を閉じる。

 気持ちが悪くて仕方がなかった。

 それでも手はぐちゅぐちゅしたもので既に汚れ、むしろそのせいで限界が来ていた。

 ついに地面に膝がつく。

 

 噛まれる。

 絶望的な気持ちの中で、誰にともなく祈るような気持ちだった。

 

 手にかかる重量が不意に大きくなった。

「大丈夫?」

 その声に瞼を開けて、目の前には未だに感染者がいた。

 けれど、眉間を一直線に貫かれているのを見て肩から力が抜けていく。

 すぐに元感染者は退けられ、地面に雑に寝ることになる。

 私は些か掠れた声で彼の名前を読んだ。

「白樺さん。……はい、大丈夫、です。多分」

 良かったと彼は頬についた返り血を拭いながらにっこりと笑った。

 彼の手を借りて立ち上がりながら、私は辺りを見渡す。

 感染者は全員、倒れていた。けれどジェイドさんが居ない。

「ジェイドさんは」

 戸惑いつつ白樺さんに聞こうとすると、丁度彼が板塀を猫のように降りたところだった。

「遅い! すっごく遅い!!」

 白樺さんが非難の声をあげるが、一方で私はある事に気付いて動揺していた。

 だって、遅いということはこれまでジェイドさんは来ていなかったという事で。そうするとあの三体の感染者は誰が倒したのかという疑問が残る。

 そしてここでは白樺さん以外ありえない。

 

「え?」

「ん?」

 

 思わず声をあげた先、彼は一体どうしたのかとでも言いたげに首を傾げた。

「あれは、あの三体は白樺さんが?」

「え、うん。そうだけど?」

 ここで違うと返されても困るが、白樺さんは結局六体全員を一人で倒してしまったらしい。

 息を切らしてやってきたジェイドさんは、私達を見て少し呆気にとられた様子だった。

 だって明らかに片方だけ返り血の量が違う。

「……白樺さんが全員倒したみたいなんですが」

「そう、みたいだな」

 ジェイドさんも私と同じ、微妙な気持ちらしい。

「待って待って。何、僕が悪いの!?」

 慌てた様子で白樺さんが自分を指差し言うが、彼は悪くない。ちょっと私達が信じられないだけで。


「っていうか! ジェイドさん遅すぎ!」

「あ、あぁ。すまない。……ちょっと猫が」

 猫が、どうかしたのだろうか。

 

 詳しい話は後にして、私達は難なく橋に辿り着き、向こう側へと渡ることができた。

 そこでもまた、感染者は居る。

 進むにはどこへ行っても感染者を倒す必要があるのは変わらない。

 存外に疲れた腕を揺らして、私は小さくため息をついたのだった。

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