-333日目のラフメイカー
わっ、と吹いた春の風が、流れた汗ごと濡れた顔ごと通り抜けてひやりとした。
「ひぃ、ふぅ。やっぱり坂道、辛いなぁ」
昇り坂のアスファルトをポツポツと雨みたく濡らしちゃうのが嫌で顔を上げれば、ゴール地点までの坂道の続きがすーっと伸びている。
結構頑張って走ったなと思ったのに、全然気のせいっぽい。
遠くから響いたキンコンカンコンって鐘の音を聞いたのも、なんだか随分前な気さえしてきた。
早苗ちゃんのJK生活一日目、遅刻確実。
「うへぇ……またママに叱られる」
ただでさえ今朝ぐっすりスヤスヤし過ぎたからか、雷が落ちちゃったばかりなのに。
これは大変まずいですよ。
『頑張ればまだ間に合うまだ間に合うマダガスカル!』とイライラしてるママに余裕かましといて、結果遅刻とかになったら。
雷落ちておへそ取られるどころか、お小遣いまで減らされて早苗ちゃん超ピンチである。
「……頑張れば、間に合うって思ってたんだけどなぁ」
そう、頑張って"走れば"なんとか間に合うからと思った。
早苗ちゃんハウスから学校まで、そんなに距離がある訳でもないから。
今までに、一体どれだけ走ったか。
それを考えれば、むしろ鼻歌まじりにこなせてた距離。汗のひとつも流れないくらい。
この程度、余裕のよっちゃんですよとドヤ顔で豪語出来てたはずなのにね。
「……はぁ」
結果は、坂道の途中でバタンキュー。
アーチのように咲き誇る桜の樹の一つに、ぐったりと寄り掛かって、ズルズルと座り込んだ。
チラリと見たゴール地点。
なんだか、さっきよりも遠い。
暗い夜の海に浮かぶ月みたい。
手が届きそうなのに、全然届かないほど遠く。
頑張ったって、無理だって言われてるみたいだった。
「たはは。心機一転……いきなり失敗しちゃってるし」
松葉杖もいらなくなって、リハビリも終わって、もしかしたらって。
そんな風に今までと違うこれからの第一歩目を、どうしても『上手く』踏んでみたくなってしまって。
心のどっかで鳴ってる危険信号の電池を切って、ぼんやりとした期待を試したくなっちゃった結果が……これだった。
「途中リタイアなんて、したことなかったのになぁ」
わたしのばか。
おバカとかお調子者って良く言われてた癖に。
通信簿にも「落ち着きがない」が皆勤賞だったのに。
結局、またつまずいて転んでる。
もう一度遠くで鳴った鐘の音に、ほらごらんって言われてるみたいだった。
(……泣きたい)
汗につられて、余計なものまで零れそうで。
我慢のつもりでぎゅっと噛んだ下唇の痛みが、逆効果になりかけた時だった。
「──大丈夫か?」
「へ?」
降ってきた声に顔を上げれば、眉を八の字に潜めた学生服の男の子が居て。
目と目が合った瞬間、その人はぎょっと目を丸めながらポケットをまさぐって、青いハンカチを私に差し出していた。
「あのこれ、どうぞ」
「うぇ、あ、はい」
突然のことでぼけっとしながらも受け取ったハンカチに、ポタリと汗が落ちてシミになって。
思わずハッとなる。
やばっ、汗まだ止まってなかった。
あっ、じゃあこの人、早苗のこと心配してくれたのか。イケメン。あざーす。じゃなくて。
え、使っていいのかな。
早苗、汗べっとりなんですけど。
というか汗でぐっちょりな顔、思いっきり見られた。
うわなんか顔あっつい。
「……使いなよ」
「ど、どもです」
そんな風に頭ん中がてんやわんやになってるのに、時間が止まったみたいに固まった早苗を見かねたのか。
更に眉を八の字にしながらもどうぞと言ってくれる学生さんにペコリと頭を下げながら、ええい行ったれと汗を拭った。
ハンカチから匂う洗剤の香りが、なんか優しい。
でもやっぱハズかしいのが強かったです、はい。
「そのリボン、新入生か」
「あ、はい。そういう貴方は先輩さんですか?」
「まぁね。で、体調悪いの? 」
「体調……えと、うーっと、なんといいますかね……」
「ん?」
「遅刻ギリギリでして。坂道ダッシュしたらバテちゃいました。あはは」
「あー……そう」
ハンカチ貸してくれた良い人だけに、変に嘘つくのもなーと思って正直に話したら、なんだか気まずそうに目を逸らされちゃった。
で、ですよねー。
結構心配してくれてみたいなのにすいません、とは言えず。
そのまま黙り込んでる内に、ほんとなにやってるんだろって、また凹んできて。
我慢しようと思った溜め息が、ついに唇の隙間から落っこちてしまった。
「華の高校生活、遅刻でいきなり失敗の憂き目ってヤツですかねー」
「……そう深刻になることもないと思うけどな」
「そですか? スタートダッシュって大事って聴きますけど」
「まぁ、大事じゃないとは言わないけど」
「うー、やっぱり……」
後悔とかみっともなさとか色んなものが混ざりあって、ついつい下を向いてしまう。
心配してくれてる先輩さんにまで、愚痴っぽくなっちゃってるし。
「最初から諦めてた方が、賢かったのかなぁ」
深いとこまでサクッとやっちゃったのかな。
わたし、面倒くさい人になっちゃってる。
治りかけのカサブタを剥がした後のように、どんよりとした気持ちが溢れて、止まらなかった。
「……賢くはないんじゃない」
「え?」
でも。
流れ出しそうな私の液体をピタリと止めてくれたのは、またもやこの先輩さんだった。
「最初から諦めるってのは、どうせ失敗するから予防線張っとこっていう心の折れた考え方だろ。スマートには見えても、逆に言えばほんの少しのチャンスに目を瞑るようなもんだし」
「……そう、ですけど」
「だったら、多少無理してでも頑張ってみようとする方が……何倍もかっこいいって思うけどな」
「…………」
励ますような言葉の中身は、ちょっぴりありきたり。
でも、桜が芽吹いた木の枝に、そっぽを向きながらそう言った先輩さんの横顔が。
春色を映した細い瞳が、なんでか、とても"寂しそう"だった。
(……この先輩)
中学の陸上を諦めるしかなかった私を、励ましてくれたみんなの"悲しそう"な目じゃなくて。
パパやママ、お兄ちゃんが私を気遣ってくれるたびにする"哀しそう"な目でもなくって。
ふと鏡に映った私の目の"寂しそう"と、おんなじだったから。
「あー、つまり、たかが遅刻なんかでそんなに凹まなくてもって言うか……遅刻ひとつで失敗が確定した訳じゃない、っていうか、ですね」
「……えへへ」
「な、なに笑ってんだよ」
「いや、さすがは先輩だなぁっと。勉強になりますです、押忍」
「ちょっと馬鹿にしてない?」
「いえいえ。むしろ、バカになりたくなってきました」
「ど、どういう意味?」
「ですから、頑張ってみようとするおバカさんの方が、何倍も格好よさそうだなぁって」
「~~~~ッ!」
会ったばかりのこの人にそんな目をされたのに、なんだかホッとしちゃって。
会ったばかりのこの人にそんな目をさせちゃダメだよねって強く思って。
にへらと笑ってみせれば、先輩さんは頬を染めながら髪の毛をワシワシと掻きむしった。
ぼそっと聞こえた「なに先輩風吹かせてんだ俺……」って呟きが、わたしを更にくすぐった。
「だぁーっもう! じゃ、俺行くから!」
「へっ? あの、先輩。このハンカチ」
「あー……それお前にやる! そんじゃね!」
「あっ」
自分でも思った以上にニマニマしちゃったのか、居たたまれなくなったらしい先輩さんがピューっとダッシュで逃げてっちゃった。
あらら、これはちょっと調子に乗りすぎたかも。
痛い目見たばっかりなのに、またも調子に乗ってくスタイル。
「……」
途端に静かになった昇り坂に、また春の風が通り抜ける。
桜の花びらが一枚ヒラヒラと舞って、私の額にピタリと貼り付いた。
桜とハンカチとわたし。
なんか似たようなタイトルの曲がありましたねー、だなんて。
そんなヘンテコなことを急に思い付く辺り、本調子に戻ってきたのかな。
「さて。いっちょもうひと頑張りましょうか……『遅刻ひとつで失敗が確定した訳じゃない』そうですし。ふふふっ」
さっき会ったばかりの人の台詞にさっそく便乗していくスタイルを披露しながら、貰った青いハンカチを、鞄の中へと大事に仕舞う。
踏み出した一歩は嘘みたいに軽い。
春の陽気みたいに、胸があったかかった。
ほんのちょっと前までは、泣きべそかいちゃいそうだったのに。
おバカは単純って良く言うけど、確かにこれはぐうの音も出ませんね、うぇへへへ。
(……ありがとうございます、先輩さん)
初対面なのに凹んだ自分を立ち直らせて。
しかも、なんだか気持ちの良い笑顔までセットでくれたあの先輩さんに、また会えるかなー、会えたらいいなーだとか。
そんな、わたしのラフメイカーと出逢ったのは。
マイナス333日目の、桜まみれなスタートライン。
【バカな後輩が俺に催眠アプリなんてものを使い始めたが、やはりバカはバカらしい】
____Fin.