残り0日でもやはりおバカはおバカであるらしい
ブルーを筆で伸ばしたような濃くも薄くもない青空に、ぽつぽつ浮かぶ綿雲の群れ。
3月9日という、人類全体でみればほんの一部にとって。
けれど学生にとって一生一度の特別であるこの行事を祝うかのような、気持ちの良い晴れ空だった。
最後の制服を身に纏った生徒達を見送る一面の門桜。
一年に一度の大仕事を終えたとばかりにヒラヒラと舞い降りた桜の一片が、どうやら俺の肩に乗ったらしい。
ぬっと後ろから伸びた手がそれを摘まむと、手の持ち主は気障ったらしく花弁をフッと息で吹いた。
「なんつーか。あっという間だったな、この一年」
「なにしみじみ言ってんの城地。センチメンタルとか似合わない顔のくせに」
「それ顔関係あるか?! いいだろ今日ぐらい浸ったってさ。感傷ってやつ?」
「普段不真面目な奴が言うと痛く聞こえるよな」
「なんだよー、お前こそ今日はおセンチな感じのくせに」
「何を根拠にそんなこと」
「俺を白痴って呼んでないから!」
「……あっそ」
城地の拍車のかかった饒舌ぶりは、肩の荷が降りた解放感からか。
思い返すまでもなく、騒がしくて落ち着きないこの一年間は、確かにあっという間だった。
「はは。お前だってうちのクラス、結構楽しんでただろ?」
「ん。まあ、否定しない」
「おいおいなにかっこつけた言い方……ははーん、さては照れてんなお前」
「うっせ白痴。肩に腕回すなよキモい」
「はいはい、結局彼女持ちになってもそういう感じ変わんないな……ま、もしかしたら来年も────」
「あっ! 居た居た!」
「ん?」
「お、水瀬じゃん。放送部部長の」
級友との馴れ合いに割って入った大きな声に振り向けば、城地の説明した通りの人物がそこには居た。
いや正確には、彼女だけではないっぽいのだが。
「あぁ、例の彼氏くんやっと見つけた……」
「普段もその呼び方で固定かよ。あ、そんで、俺に何の用……」
「何の用もなにも、見れば分かるでしょ?」
「……まぁ、分かるけども」
正確、には。
困り顔の水瀬の胸元で顔を埋めながら嗚咽を漏らしているヤツ……
まぁ、うん。
俺に持って来られる案件なんて分かり切ってるよな。
「うぇぇ……ひぐ、えっぐ、じぇんばぁぁぁい……びぇぇぇぇぇん……」
「てことで、あと、お願い」
「……はぁ」
センチメンタルな空気もぶち壊すくらいの泣きっぷりを披露してらっしゃる、みんなご存知早苗がそこには居た。
◆◇◆
「ずぇひっ、ぐすぐす、ひっくえっぐ、ぶぇぇぇえん……」
「もういっそわざと汚く泣いてるレベルだろこれ……」
「わじゃとじゃないでずぅ……ぼんどにがなじいんでしゅがらぁぁぁぁ~……ぜんばい~いがないで~」
「あーもう分かった分かった……ほれティッシュ」
「あじゃまず……ズビビィィィン!!……うぐじゅ」
「鼻すする勢いよ……」
お前担当だろとばかりに押し付けられた案件を引き取って、場所を例のグラウンド隅の水飲み場に移してみた訳だが。
一度気分が下降した早苗はなかなか泣き止んではくれず、丸まったティッシュの塊がポロポロと涙みたく足元に転がってる。
いやもう、泣き方。
今日び幼稚園児だってもっとおとなしく泣くよ。
「だぁーもう、予行演習の時もそうだけど、そこまでギャン泣きしなくたって良いだろ」
「ううぅ、でもぉ、予行でも本番でもがなじいのはがなじいんでずがらぁじょうがないじゃないでずがぁぁ……」
「いや責めてる訳じゃなく、加減の問題というか、予行であんだけ泣いといてというかだな」
「加減どがぁ! じぇんぱいは予行だからっで手を抜ぐどがぁ! 童貞! ぞういう怠慢がいざ本番っでどぎに失敗を招ぐんでずがらぁぁ!」
「ギャン泣きしながら際どくボケんなツッコむのもめんどくさい」
「ヅッゴむどがぁ!」
「うっさいはよ鼻かめ脳内春真っ盛りが!」
「……チーーーン!……ううぅ」
まぁ正直、4日目の予行演習の時点で本番もこーなる事は想像出来てた。
俺の胸でピーピー泣きわめく早苗をここまで連れてくる際の、あの生暖かな視線は予行だろうが本番だろうが避けられないものだったんだろう。
それに、だ。
「……まぁ、いいんじゃないの。周りの視線関係なしに泣きじゃくるお前を見て、貰い泣きしてた人も結構居たし」
「うぇ……?」
「泣いてくれる後輩ってのは、旅立つ側としては嬉しいもんだろ」」
「…………」
恥とか周りの目とか関係なしにストレートに泣かれれば、送り出される側としては嬉しいものなんだろう。
移動する際の「行かないで先輩」と泣き叫んだこいつの言葉に、ありがとうと涙を伝わせる人達も居たんだから。
そういう早苗の素直さは、俺も見習うべき所でもあるのかも知れない。
「先輩も……そう、思いますか……?」
「……まぁ、そりゃな」
ようやく涙腺も止まったみたいだが、まだ若干鼻声は治らず。
グラウンド隅の水飲み場で、肩を並べて座り込む。
(一年……か。城地じゃないが、ほんとにあっという間だった)
遠くから届いた卒業生なのか在校生なのか判別のつかないざわめきが、当に過ぎたセンチメンタルをもう一度引き返させた。
ここに入学した当初は、まさか誰かと付き合ったりだとか、漠然とした今後に対する不安や期待を抱くなんて未来図すら想像してなかったのに。
(……わからないもんだよなぁ)
ここに居た変なヤツに声をかけて。
そっからの日々は騒がしくはあったけど、ドラマのような急展開があった訳じゃない。
歩くようなのんびりとしたペースのなかで、いつしか隣が当たり前になって。
それが今でも続いてる、そんな延長線上。
だからもし、そんな日々にも区切りというか、終わりが来たとしたのなら。
それは、やっぱり……
「やっぱり、早苗は寂しさが勝ちます」
「寂しさ?」
「えぇ。そりゃもう圧勝です。足払ってマウント取ってからの一方的にまっくのうちまっくのうっちな病院送りってぐらいに圧倒的に勝ちます」
「お前の寂しさエグいな!」
「でも、ですね……」
寂しい寂しいと惜しげもなく口にしながら、座り込んでた隣が立ち上がる。
俺を見下ろすその目には、止んだはずの涙が一粒だけ浮かんで、名残惜しげに頬を伝っていた。
「行って欲しくなくても、離れ離れになっても、どれだけ寂しくっても……我慢、しなきゃいけないこともあるんですよね」
「早苗……」
もしかしたら、早苗はもう既に来年のことを思っていたのかも知れない。
幼い子供並に感情的なこいつだからこそ、今日あんなにも泣きじゃくってしまったのか。
こいつにとっては、今日もまた、"予行演習"といえるから──
「だから、先輩。早苗に……勇気を、くれませんか?」
「お前……」
具体性のない、早苗の欲するもの。
けれど何故だか促されるように、ゆっくりと立ち上がる。
その様子を見届けた女の瞳が嬉しげに揺れると、小さな手のひらが俺の胸に添えるように置かれた。
「勇気って」
「はい。早苗に、先輩の……」
「俺の……?」
なにをいきなりだとか。勇気ってなんだよとか。
そんな疑問符は浮かんでも、ひたすらに真っ直ぐ俺を見上げる早苗をこんなにも前にしたら、言葉にする気にはなれなくて。
「先輩、の……」
ただ。
俺を変えたのは、早苗だ。
だから、こいつの彼氏として。男として。
頼られるのなら、応えてやりたいと。
そう、思って…………腹くくった。
「第二ボタン、くださいっっっっっ!!!」
……
…………
………………
……………………はい?
「……えっ?」
「えっ」
今、なんて言ったこいつ。
第二ボタン。第二ボタン?
流石に予想の斜め上の言葉だっただけに、ピシッと硬直してしまう。
それこそ時間停止アプリに時でも止められたかってくらいに。
「は? あ、いや、第二ボタン。え、なんで?」
「へ? なんでってそんなの、好きな人の第二ボタンは鉄板で欲しいじゃないですか。"見送る後輩"としても先輩の彼女としても。というか早苗が貰わなきゃむしろダメじゃないですか……?」
「………………」
「な、なぜに沈黙……ハッ。ま、ままままさか先輩!? 他の誰かにあげる予定がっ!? そ、そんなの早苗絶対認めませんよ!? 催眠編終わって時間停止編も最終回って時にダークホースの登場とかありえませんっ! そんなくそみそ展開、早苗は断固として抗議をっ……!」
なんか早苗の思考がとんでもない方向に飛躍しているが、どうでもいい。
いやどうでもよくはないが、どう考えても先に確認せねばならない事が見えちゃってるからどうでもいいのだこの際。
"見送る後輩としても"、だと?
おい。
おいおい。まさか。
いやほんとまさかとは思うが、いや嘘だろ。
いくら早苗とはいえ、そんなバカな話……
「早苗さん、ちょっといいですか」
「ふぇ!? ちょ、なんで急に敬語?!」
「いいから。
いや、まさかとは思うが、思うが聞いとくぞ。
お前さ。ひょっとして…………
俺も卒業するって勘違いしてないだろうな?」
「…………えっ」
えっ、てなんだよ。
えっ、て。
俺卒業証書貰ってないし、卒業生の証たる花飾りも胸につけてないし。
卒業式じゃバッチリ在校生として歌ってたましたけど。
いやもし仮に、卒業式中も"予行演習と同様に"泣きじゃくってたんなら分かりようがないかもしれんが……
まさか。いやほんとまさか。
マジかこいつ。
「まっ」
「ま?」
「ままままっ、まさかまさかのマ坂上田村麻呂ですよぉ! 先輩ったらやだなぁ! 冗談! 早苗とびっきりの全力全開渾身のジョークに決~まってるじゃあーりませんかぁぁ!!! やだそんな、早苗は先輩の彼女なんですよぉ?! 彼氏の学年を間違えるなんてそんなそんなAHAHAHA!!」
「……うわぁ」
マジだったわこいつ。
うっそだろ。
リアクションがどう見ても。
マジか。マジかー……
「だだだだってほら二週間ぐらい前! 不動産で部屋借りようとしてたじゃないですかぁ!」
「15日前か。え、あれ今年の話だと!? だからお前あんな必死になってたの!?」
「そうですよ!」
「バッ、そんな訳ないだろ、あれ単なる参考資料というか! 仮に今年の話でこの時期に場所も決めてないとかだとむしろ遅くね!?」
「で、でもでも一週間前は急に早苗の進路のこととかぁ!」
「そりゃ二年になったら学校でも進路の話するようになるからだろ。三者面談もある。ただでさえ先を考えない早苗だから、今のうちに釘打っとかないとって……」
「よ、4日目の予行演習! 今日もですけど、早苗あんなに先輩に『行っちゃやだぁぁ!』って言ったじゃないですか!」
「え、あれ俺に行くなって言ってたの!? いやいや俺からすれば卒業する先輩達に対してとしか聴こえないから! なんかちょっと変とは思ったけども!」
え、じゃあつまりアレか?
『わじゃとじゃないでずぅ……ぼんどにがなじいんでしゅがらぁぁぁぁ~……ぜんばい~いがないで~』
ついさっき泣きじゃくってた時の『いがないで~』も、これ俺に言ってたってことだよな。
いやそんなもん気付けるかよ。
よっぽど仲良い先輩居たんだなって若干嫉妬しそうなぐらいだったぞこちとら。
「お、お前……何回か俺の教室来てたじゃん……てことはつまり俺の学年知ってたはずじゃん……」
「そ、それはそうなんですけど……なんというか」
「なに」
「こ、ここ最近ずっと、先輩卒業しちゃうんだぁって風に思い込んでたから……すっかり頭から抜け落ちてましたというか……」
「…………うわぁ」
いや、まぁ。
たしかに早苗という人間は、幼い子供並に感情的なヤツだ。
それは感情移入の度合い的意味でもあり、頭ん中の意味でもある。
だから、こいつは二週間前から俺が卒業するって勘違いを頭ん中にインプットしてたと。
そんな頓珍漢で摩訶不思議なアホっぽさをいかんな く発揮した結果。
こんなミラクルな勘違いを…………しでかさないとは、言い切れないのだ。悲しいことに。
「俺、卒業証書持ってるように見える?」
「…………ハッ」
「oh……」
ハッ、じゃねぇよ。
あぁ、もう。
悲しくて今度は俺が泣きたいくらいでも。
やりかねんのだ、このバカは。
「そうだな……早苗はとびっきりのおバカだったよな……」
「ちょ、ちょっと先輩! なんか目がかつてないほど哀れみに満ちてません!?」
「そりゃ満ちるわ……今ならおれ懺悔室も開けそうだわ」
「せ、先輩!? まさかの夢の共演出来ちゃうかもって喜びたいとこですけど先輩!? 目がなんか遠い! 早苗ここに居るのにすっごく遠いです先輩! せんぱーい!」
やはりというかなんというか。
いついかなる時であろうが、この後輩にして恋人は、とびっきりのおバカであるらしい。
◆◇◆
「まぁ、なにはともあれ」
ともあれ、だ。
「先輩が三年、早苗も二年ですか」
「まぁな」
「高校の二年って、一番楽しい時期だって言いますよね」
「イベントが多いからだろうな」
「んふ~修学旅行とか体育祭とか文化祭とか、目白押しですもんね~」
「最初の以外は全年度共通だろ」
「むふふ。今からがすっごい楽しみですね~先輩。オラ早苗、ワックワクが止まんねぇぞぉ」
「気が早いやつ。また今日みたいな頓珍漢な早とちりすんじゃないぞ頼むから」
「し、しませんよ……多分。きっと。メイビー……」
「忘れっぽい上に落ち着きないから、どうせまた散々振り回したり、やらかすんだろうな」
両手の人差し指をツンツンすな。
絶対するだろこいつ。
「むぅう。先輩に"忘れっぽい"って言われたくないでーす!」
「はぁ? なんでだよ」
「だって先輩、しれっと忘れてますもん」
「……え? なにを」
「先輩、早苗との初めましての時って……いつでしたっけ?」
「いつって、去年の……5月くらい?」
「ふーん。場所は?」
「は? いや、此所だろ?」
「……ほらぁ、やっぱり忘れてるじゃないですか」
「???」
ぷくーっと頬を膨らませながら寝耳に水なことを言い出す早苗の言葉に疑問符が渦巻く。
初めましての時って。このグラウンドの隅の水飲み場で声かけたのが、きっかけだったはず。
それ以前に早苗と会ったこと、あったっけか?
「ふふん、まぁいいですよ。早苗はモットーは、今が良しなら全て良しですから! よっこいしょーいち!」
「親父くさい掛け声」
「お、親父ですと!? 先輩、流行ってのはですね、けっこう行ったり来たりなんですよ。レトロがまた流行るとかありありじゃないですか」
「まぁ、それは良く聞く話だけど」
「だからぁこーいう古いギャグがまたブームになる時が来るかもしれません。いわば今のは未来を見据えた予行演習とでもいいますか」
「ないない」
思い出そうと記憶を巡らせる作業を遮るように、早苗が古い掛け声と共に飛び上がる。
気になることをぶら下げたと思えば、こっちの食い付きも待たずにあっさりと引き上げて。
つくづくマイペースというか。
振り回すタイプというか。
「ねぇ先輩」
「なんだよ早苗」
でも、早苗というおバカの、そういう早苗らしさは、これからもきっと変わらないんだろう。
「早苗、やっぱり来年もいっぱい泣いちゃうと思います」
「……おう」
「というか、来年はもっと酷いですよ。涙とか鼻水とかもうぐっちゃぐちゃなこと間違いなしです」
「んなこと胸張って言い切るな」
「でもですね……」
変わらないでくれるんだろう。
来年だろうが、もっと先だろうが。
「先輩は、ちゃんと来年も……受け止めてくれますよね? 抱き締めてくれますよね?」
「……おう」
「うぇへへ。だから早苗も……頑張ろうと思います。先輩とのことも、学校も、将来の夢も」
「試験も勉強もな」
「ぁ、ぁぃ……」
「声ちっさ」
だったらまぁ、俺の立ち位置は決まっている。
「それと……ほんの少しですけど、陸上も」
「!……それって」
「4日前の先輩のおかげで、早苗もまた……頑張りたいなって思ったんです」
「……そう、か。もう大分治ったみたいだもんね」
「はい! てな訳で、先輩これお願いしますー!」
「はぁ? っていきなりスマホ投げんな! しかもこれ、時間停止アプリ……」
先輩としてか。
パートナーとしてか。
保護者としてか。
振り回され役としてか。
恋人としてか。
「ぬっふっふ。先輩には是非とも、早苗の復帰ランを計って貰いたいなーって思いまして!」
「……え、計るって今からか!? お前制服で走んの!? てか卒業式に復帰ランニングするってお前色々と滅茶苦茶だぞ!」
「早苗が滅茶苦茶じゃなかった時なんてありましたか?」
「キメ顔で言う台詞じゃない! しかもなんか既にスタートの態勢取ってるし!」
どの立場にせよ、一つだけ共通するものがあるなら、引き受けてやるんだろう。
呆れながら、困りながら。
「あーもう、卒業式になにやってんだ俺は」
「諦めが肝心ですよー先輩」
「うっせーアホ!」
「うぇへへへ」
渡された00.00.00秒の画面に指をかけ、溜め息たっぷり盛大に落とせば。
スカートのめくれも気にしないままスタートの態勢を取っていた、大きな瞳がにっこりと揺れて、小さな唇が動いた。
──ずっと早苗のこと、見ててくださいね、先輩。
「んじゃさっさと済ませるぞ……」
「はーい!」
少し離れた前でも後ろでも、あるいは手が触れあう隣でも。
早苗の目の届く範囲なら。
なにしでかすか分からないこいつから、目を離さない範囲であるのなら。
そこが俺の居場所だ。
「よーい……─────」
3月9日の春真っ盛り。
聞こえない空砲の音さえ溶けて消えそうな空の下。
これからの未来へのスタートを切る00.00.00秒を、動かしたのは────
【時間停止編 ── Fin】
次回、エピローグ