残り4日目のピアノ
『早苗の心機一転プチ高校デビューは、半分、失敗しちゃいました』
予想外の真実、って訳でもない。
校舎と斜陽で出来た日陰を顔半分に覆った隣の痛みは、今までの交流で少しずつ浮かび上がってきていたことだ。
それでも底抜けな明るさを持つ早苗だからこそ、残った傷が痛ましく見えることも事実だった。
『でもですね、先輩』
『ん?』
『みっちゃんみたいなマーイフレンドやクラスのみんな、放送部のめぐパイセンとか色んな人達と出会って、受け入れて貰って』
『……』
『そして。こーんな早苗のおふざけにいっつも付き合ってくれる、素敵な先輩にも出会えて、励ましてもらってるから……早苗は幸せ者です。もう、"半分以上成功した"ようなもんですよ!』
『……そう、か』
『辛いにプラスいちして、ってやつです。算数苦手な早苗にも解ける足し算ですねぇ、うぇへへへ』
『……バカ。そこは数学って言ってくれ、高校生』
言葉通りの甘ったるいふやけた笑顔。
それが強がりかどうかなんて、疑う必要もなくさせる。
お門違いな嫉妬さえ沸かない辺り、俺もすっかり早苗という人間に毒されてしまったらしい。
『ささ、それより先輩のターンですよ!』
『……はいはい。分かったよ』
『しかし、それでも早苗のバトルフェイズはまだ終了しちゃいないぜ!』
『話して欲しいのか欲しくないのか、どっちなんだ』
『いやぁ今のは言わなきゃいけないお約束というか、もっとネタをぶちこめと大地が早苗に囁くのです』
『すっこんでろ大地』
だから、自分の中で尾を引くみっともない経験談も、やけにあっさり紐解くことが出来て。
それはつまり、俺もまた隣のように、人生における良い出会いをすることが出来たって証拠なんだろう。
『……中学三年の夏か。俺が、夢だった道を諦めたのも、丁度そのくらいだったな……奇遇にも』
『……えへへ。お揃いですね、先輩。早苗、デスティニー感じちゃいます』
『はいはい。けどまぁ、お前に比べりゃ随分格好悪い諦め方だったけどな……』
それでも後攻を選んだのは、少し失敗だった。
記憶の中の蝉時雨を思い出すのに、あいつは空を見上げて。
俺は足元の影を見下ろしたのが、その証。
『自分の才能"だけ"を信じてる奴に限って、打たれ弱いもんなんだよな』
◆◇◆
まだ冬の名残がある時期だからか、盛大に吐き出した溜め息が音楽室の窓に映る自分の顔を白く染めた。
げっそりとした顔が白くなるから、まるで幽霊みたいにも見える。
でも、ほんの少し前の自分はきっと、これよりもっと死んだような顔をしていただろうな。
「つまり、あれです税金なんですよ!」
「税金?」
「ですから、消費税とか有名税とかあるじゃないですか」
「それが何だよ」
「つ、つまりですよ! 先輩は、こんなナイスバデーでプリチーな皆のアイドル早苗ちゃんを一人占め出来る立場に居る訳ですっ! ですからもうそれだけで彼ぴっぴ税とか発生しちゃうのもやむなしというかですね!?」
「……で?」
「だ、だからぁ……ここは早苗渾身のテヘペロに、可愛い奴め仕方ないなぁとサッと水に流すのがテンプレといいますかー」
「……」
まぁ、俺が疲労疲弊する原因なんてこいつしか居ない。
ぐるぐると目を回しながら、身振り手振り激しく弁解する早苗も、流石に後ろめたさを感じているらしい。
「つまり、お前の言い分は、だ。予行演習だってのに急に先輩、先輩ー!行かないでー!って大声わんわん泣き喚いて?」
「うぅ……」
「衆人環視の中、俺がお前を泣き止ませるっていう羞恥プレイする羽目になったのも……税金みたいなもんだから仕方ないと。そう言いたい訳だな?んー?」
「ぴぃぃっ! 先輩怖い、スマイル全開なのが逆に怖いですってばぁ! 早苗チビっちゃいますよ?! そんなマニアックなプレイは早苗達にはまだ早いですよ!?」
「全然反省してないなテメー」
「ひぃん」
茶化しにかかる皆のアイドル早苗ちゃんとやらに一歩踏み出せば、アクリルの床がミシッと悲鳴をあげた。
ついでにピアノ椅子の上で正座していた早苗も悲鳴をあげた。
それこそほんの少し前の早苗を彷彿させるような涙目で、俺を見上げている。
「し、仕方ないじゃないですか……本番のときを考えただけで、ついウルウルしちゃって、我慢出来なくなっちゃったんですよう」
「……はぁ。だからって先生も泣き止ます役になんで俺を……生温い視線で穴が空くかと思ったぞ」
「先輩は寂しくないんですか!」
「いやそりゃ寂しいけど、あくまで予行演習だしな……」
「うぅ……先輩の鬼!悪魔!ちひろ!ヘタレ!」
「おいこら後半の2つおい」
泣きたいのはこっちだってのに。
体育館の隅でびゃあーっと泣き散らす早苗をなだめる時の刺さる視線の生暖かさったらなかったぞ。
今までの人生のなかでワースト3に入る羞恥プレイだったぐらいだ。
ちなみに他2つはいつぞやの喫茶店でのバカップルジュースの一件と、校内ラジオのシスターサナエルの懺悔室である。
うん、全部早苗だよちくしょう。
「んー、それにしても」
「?」
椅子から飛び降り、がらんとした音楽室を見回しながら、早苗がウキウキと鼻歌混じりに伸びをする。
こっちと違って切り替えの早いやつだ。
「だーれも居ない教室ってなんでこんなにわっくわくするんでしょうねー」
「……」
「あ、先輩ってば、気持ちは分かるけどなんか子供っぽすぎるから同意しないでアヒルっぽく黙っとこうって顔してるー」
「……うっさい。あとアヒルじゃなくてニヒルな!」
「ニヒルでもアヒルでも可愛いからもーまんたいっ」
「ニヒルは可愛くないだろ」
「んふふ。早苗にばっちり気持ち言い当てられて悔しいからいつもより強めにツッコむニヒルな先輩は……可愛いですよ?」
「こ、こいつ」
いつも早苗らしからぬ、からかいのニュアンス。
仕返しのつもりか、甘ったるい笑顔にほんのわずかなニヒルなテイストを織り混ぜて。
思わず言い返す言葉が浮かばない俺を見て満足したのか。
てくてくと俺の傍の窓際へと歩み酔った早苗が、閉じられた窓をカーテンごとガラリと開いた。
「うぅ、まだちょびっと冷えますね。先輩先輩、早苗の鞄からミトン出して貰っていいですか? あれです、先輩お手製のミトンです」
「……わざわざお手製って言わなくても分かるって」
「先輩の愛情マシマシミトンです」
「煽ってんの?! 余計な言い回しもしなくていいって!」
「早苗はおバカさんなんで口に出して再確認、身に付けて再確認が大事なんですよーうぇへへ。仕方ないネ!」
「調子乗ったコイツはほんと……ほら」
「あ、ついでに先輩がミトン付けてください。それで先輩の愛情が更にドンで倍プッシュ!」
「これもう窓の外にぶん投げろってフリだな、おーし」
「わぁぁぁ! 嘘です嘘です調子乗りましたごめんなさいぃ!」
「ったく」
このパターンももう何度めか。
いつぞやのラジオで暴露されたミトンを手渡せば、これで投げられるまいとばかりに装着した両手を見せ付けてくる早苗。
その横顔がやがて窓外へと向けられて、早苗の笑顔から甘ったるさが少しずつ抜け落ちた。
「もうそろそろで、一年経つんですねぇ」
「……まぁな」
冷春のまだ渇いた空気に、しみじみと溢したカウントダウン。
まだその時を迎えるには数字が余っているけども、あれから一年という実感が目に見えてきたのも事実で。
「覚えてます? ここから先輩が『なにしてんの』って声をかけて来たとき、ほんとにびっくりしたんですよ」
「覚えてるよ。まぁ、ひとりかくれんぼとかいう斜め上でトンチンカンな答えが返ってくるとは思わなかったけどな」
「むむ。先輩だって、早苗がそっちこそなにしてるんですかって聞き返したら、ひとりかくれんぼだーって言ったじゃないですか。なら先輩もトンカチンチンですよ」
「小学生みたいな言い間違えすんなよわざとか」
「うぇへへへ」
音楽室の遮光カーテンを二人の間に、並び立って重ねた視線の先。
いつもよりだだっ広いグラウンドと、俺達にとって馴染み深い水道場。
空の色も走者の居ないグラウンドもあの時とは異なるのに、不思議とダブって見えるのはなんでだろうな。
「でも、いくら悟り開いたシスターサナエルだって流石にびっくりこきましたよ」
「常時悟りのさの字も知らないようなやつがなにを……びっくりしたって、何を?」
「先輩にです。木曜日でしたし、早苗も毎週あそこでピアノ聞いてましたから、放課後のピアニストさんそのひとに声かけられたのかと」
「あぁ、それでか」
「てっきり早苗の秘めたる音楽的才能見破られてコラボしようと言われたらどーしよかなーとか思っちゃったり焦っちゃったり?」
「カスタネットぐらいしか出来ない癖になにその自信」
「まぁあの時は誤魔化されましたけど。それに結局、先輩が放課後のピアニストさんでしたもんねー」
「……悪かったな」
「謝ることじゃないですよ、先輩」
毎週木曜日の音楽室。
吹奏楽部が休みの日に限って、たまにそこで演奏している顔も知らないピアニスト。
早苗も言った通り、その正体は他でもない俺で。
自分の夢に早々に見切りつけた癖に、名残惜しさを手放せなかったみじめな負け犬だった。
「でも、先輩は早苗に教えてくれたじゃないですか。先輩がピアノ弾いてたことも。先輩が諦めた夢のことも」
「……脚のこと教えて貰っといて、自分だけ話さないなんてダサいこと出来ないだろ」
「こういうのって、格好の良し悪しじゃないと早苗は思うのです」
「……言うじゃないか」
「シスターサナエルの名は伊達じゃありません!」
「たった今台無しになったよ」
「うぇへへ」
それでも、やっぱり格好悪いとは思った。
ひたむきに努力した結果諦める形となった早苗とは、とても同列としておきたくない諦めのカタチ。
『よくある話だよ。小学生んときにピアノ習ってた先生に才能があるって言われて、片っ端からコンクールに参加して。それで順風満帆に結果が付いてきたもんだから、調子に乗ったんだろうな』
安い三文小説にはありがちな、井の中の蛙。
どこにでもいそうな、ちんけな悪役の一匹。
それがまさに俺だった訳で。
『上っ面だけは"普通"を装ってる癖して、俺は他のやつとは違うとか、内心で天狗になってさ。我ながら可愛げのないクソガキだったって。タイムマシンがあんなら、迷わずぶん殴ってやりたいようなヤな奴だったよ』
夢と自分を信じて疑わないのが子供で。
希望に折り合いをつけていくのが大人。
そんな月並みな人間公約にサインしたのは、早苗と同じ中学三年生の夏。
『けどまぁ、そういう奴に下る天罰にも相場は決まっててな。中三のコンクールで、決定的に打ちのめされたんだよ……正真正銘、本物の天才ってやつに』
才能にあぐらをかく奴は、才能を拠り所にしてるも同じ。
だからこそ、自分より数段も上のステージでスポットライトを浴びていた正真正銘を見つめながら、俺は足元を失ってしまったんだろう。
絵にかいたような負け犬だった。
自分の傷に触れるときにも空を見上げていた早苗と。
自分の傷を晒すときには、地を睨むように俯いていた俺。
肩は並んでいても、きっとその足元には大きく差があっただろうから。
『心機一転さえ出来ずに居たよ。つるんでくれてるお前にゃ悪いけど……ほんと、格好悪い先輩だな』
女々しいながらにも、打ち明けるには多くの勇気が必要だった。
話し終えた時に掌に滲んだ汗の量が、その証明だった。
「先輩」
「ん?」
「早苗のモットーは、今が良しなら全て良し、なのです!」
『早苗のモットーは、今が良しなら全て良し、ですので』
だからこそ。
「早苗はあの日に先輩と出逢って、色んなことをお話して、お付き合いも出来て。今、とっても幸せなんです」
『早苗はあの日に先輩と出逢って、色んなことをお話して、励まされたりもして。今、とっても幸せなんです』
あの時と今とをなぞる早苗の言葉に、俺は救われたんだと思う。
「『──先輩は、どうですか?」』
胸を張って、満面の笑みで。
貴方に逢えてよかったと、恥ずかしげもなく断言してくれる。
そんな……おバカなラフメイカーに。
止まっていた時計の針を、優しく押して貰えたから。
『……言わせんな恥ずかしい』
『お? おぉ! 先輩もしかしなくても照れてますねこれは! うひょーい、貴重な先輩のデレいただいちゃいましたー!』
『うわうっざ。今までで一番ウザいテンション』
『早苗は幸せですよせんぱーい!』
『だーっ! やめろくっついて来るな! 周り見ろまわりをォ!』
あの日ここから、水道場でしゃがみこんでた早苗に声をかけなかったら。
もしかしたら、まだ俺の時間は止まったままだったのかも知れない。
幼稚な照れ隠しに逃げるしかなかったあの昔日は、もうなかったかも知れないから。
「早苗。これ、なにか分かるな?」
「はぇ? なにって、先輩のスマホじゃ…………って、え?! それ、時間停止アプリ──」
「お前がよく言うお揃いってやつにしてやった、感謝しろよ?」
インストールしたお揃いのアプリの画面を開いて、早苗に見せ付ける。
表示されるのは、00.00.00秒。
「たまには"空気読めよ"、早苗?」
「え、あの……」
「ポチッとな」
「────」
お得意の台詞をかっさらって押した途端、早苗の小さな唇が慌てて閉ざされる。
刺した釘の意味をおバカなりに、ちゃんと理解してくれているんだろう。
けれども突然のことでパチパチと止まないまばたきが、俺達らしいツメの甘さだ。
胸の内に沸いたくすぐったさに軽く笑いながら、動き始めた時計の針を、ピタッと律儀に固まる早苗の手に乗せたなら。
くるっと踵を返して、すぐそばのピアノへ。
脚光も幕も賞もない。
観客がただ一人だけの、小さな小さな舞台へと挑む。
「……半年ぶりくらいか」
『先輩は、どうですか?』
『……言わせんな恥ずかしい』
そう、幼稚に誤魔化したあの日から、今日まで。
そしてこれからの日々を、確かな足並みで刻んでいけるきっかけになってくれた、バカみたいに愛しいラフメイカーに。
今度こそ、あの日言わなかった答えを。
────俺も同じだよ、早苗。
言葉にしない音の代わりに指が叩いた第一の音は、ほら。
夢破れた時には鉛みたいに重かった癖に、今ではもう。
お前みたいに──高く、強く、あの空へ伸びるくらいに、弾んでくれている。
貰えた数たくさんの内、ようやく一つを返せた。
そんな幸福を鍵盤で刻む、残り4日目のピアノ。