出会い
様々な旅人や商人の行き交う街道沿い。
その一角で、中年の店主が店を構える「わかば亭」。
時刻は昼の頃。いつもなら、行きずりの人々がしばしの休息と歓談を交わす憩いのひと時なのだが…。
店の客はみな一様に顔を伏せ、一刻も早く食事を済ませようとしていた。店の中央には、ずんぐりとした体躯の亜人がいたのだ。
("ザザラ"だ…)
それはリザードマンと呼ばれる種族の中でもより獰猛とされる黒い鱗を持ち、首には色も形もばらばらな装飾の鎖が幾重にもかけられていた。
不機嫌に酒をあおる亜人のもとへ、一人の男があわただしく店の戸を開けた。
「遅っせぇじゃんよォ!」
「すみません…、妹の方が聞かなくて、すみません…」
しきりに謝る男のそばには、まだ幼さの残る姉と妹がうつむいている。
「ほら、挨拶しなさい…」
男に促され、のろのろと進み出た姉が膝をつき、額を床に当ててひれ伏した。
「…ラナ、です。どうかよろしくおねがいします…」
周りの客の顔が一層暗くなった。人身売買など、ほんの数日前まであり得ないものだったのに。
「…フゥン、思ったよりちっちぇな。入るかなァ?ほらオレでっかいからさ、アハハハ」
少しでも機嫌をとりたいのだろう。亜人の下品な物言いにも、男は媚びるように笑って見せた。
「で、そっちナニ?」
「妹です。ついていくと言って聞かないもので…」
「…ル、ルゥです、わたしも、お姉ちゃんといっしょがいい…」
震える声でそう言った。
「ルゥ…ダメよ。私は大丈夫だから」
「やだぁ、お姉ちゃん…」
涙ぐむ妹を見やって、男はすくい上げるような目で切り出した。
「離れ離れになるのも可哀想だし、二人とも同額で引き取って頂けたらと…」
「ハァ?なんだそりゃ。つーか一人分しかカネねーよ」
用意していた金貨の袋を揺らしながら亜人が吐き捨てる。
「そこはほら、金貨の形でなくとも構いませんので…」
「やめて!…おねがい、私がんばるから!ルゥは連れて行かないで…!」
「うっせ」
「ぅぶっ!!?」
払いのけた亜人の手が腹にめり込み、姉は椅子をはね飛ばしながら倒れこんだ。
「お姉ちゃん!!」
「ごぼっ!…、げぅうっ…っ!ぐぶっ……」
びしゃ、と姉の口から胃液があふれ出る。ほとんど透明で水のようなそれは、彼女の置かれた環境と食生活を物語っていた。
「あぁーゴメンネ。おれチカラ強いからさぁ!アハハハ」
えずく姉に駆け寄ったのは妹だけだった。居合わせた客が冷血なのではない、過去を知っているからこそ動けないのだ。
亜人がここを拠点にしてからは十日にも満たないが、その間に命を奪われた者の数は両手では数え切れない。
果敢にも亜人の振る舞いを咎めたもの、殺人の氾濫を阻止しようとした自警団、果ては行く末を心配した同族でさえ殺された。首を落とされ、踏みにじられ、奪い取った宝飾で亜人の首元はギラギラと輝いた。
帝国が派遣した討伐隊が到着するまで、亜人にとってこの街は事実上の無法地帯と化していた。
「お願いしますよ…。子供なんて、食い扶持がかかるだけで…」
「シルカヨー。テメーのチ○コが悪いんじゃねーか」
「そこを、どうにか…。半額でも、いや半額の半額でいいので…!」
「ごほっ…、や"め"で…」
苦しげな姉の声も届かず、妹を押し付け合う問答が続く。胸の悪くなるようなやり取りだった。
「じゃあさーもう」
進まない交渉に飽き飽きした亜人は皿のテーブルナイフを手に取ると、
「こーでいいじゃん」
妹の足に振り落とした。
「ギャアアアアアァァァァーーー!!!!!!!!」
およそ少女のものとは思えない絶叫が響く。
「ルゥ!!!!!」
ナイフは妹の太ももに半分ほど突き刺さっていた。
「ホラ金」
ポン、と男の足元に袋が落ちる。姉はすがるような目を男に向けたが、男はそれを掴むと逃げるように店を出て行った。
「いだいよぉぉお!!お"ね"え"ぢゃあああああん!!!」
「ルゥ、ルゥだいじょうぶだよ、だいじょうぶ…」
言葉とは裏腹に、姉の手はゆらゆらと彷徨うばかりで、どうすればいいか見当もつかない。
「ウワーカワイソウダヨー、ヌイテアゲナヨー」
姉の耳元で亜人が囁く。表情の読み取りにくい種族だが、その目は絡み付くような汚い愉悦に満ちていた。
「あ"あ"あ"ああぁぁぁぁ…!!!!!」
「ルゥ…!」
震える小さな両手が、刺さったナイフを握り締める。
「ごめんねルゥ、ちょっとだけ、ちょっとだけがまんして…」
「い"あ"あ"あ"あ"ーーーー!!!!!!」
力を込めた腕が震えるが、ナイフは強張った太ももに強くめり込んでいる。
「んん…!!」
ブシュッと音がして、血飛沫が姉の顔にかかった。
「う"あ"あ"あ"ぁぁぁ…」
痛みで気を失ったのだろう、尻すぼみに声が途切れた。
にじみ出る血液が妹の足を、服を、床を塗らしていく。
「血が……!!」
懸命に傷をふさぐ姉の手も見る間に紅く染まっていく。
「アーアートマラナイネー、シンダラ…キミノセイダネェーアハハハ!!」
「嫌だ…!おねがい止まって!!ルゥ!やだよ死なないで!!」
懇願する姉の声がとうとう涙で震えだした時――
「あーもーはいはいわかったわかったうるさいなあ!」
「…あーァ?」
立っていたのは姉妹よりいくらか年が上の女だった。術士のローブを纏い、丸く膨らんだ銀色の胸当てを見た亜人が目を細める。
「へえぇ!ネーネーお名前なんてェの?」
「『吹き巡る探求と英知を司る女神よ』…」
「!」
彼女が唱え始めたのは初歩的な起風の術式、それも略式ではなく正式な詠唱だった。
発現した魔方陣は一歩ほどの小ささで、紋様もごく単純である。
「オイオイ。お前舐めてん――」
「『疾風』」
一瞬で亜人が消えた。
ドン!!!!!
周りの客の耳が利かなくなるような轟音と地鳴り。けして小さくはないわかば亭の家屋がみしみしと揺らぐほどの衝撃。それが、彼女の術で壁に叩き付けられた亜人によるものだとわかるまでに数瞬の時間を要した。
「コェア…」
亜人の意識は完全に消し飛んだ。そのまま、投げ出された衣服のようにべしゃりと床に倒れ伏す。
「アンネローゼ」
彼女はそうつぶやくと、腰のバッグから瓶をふたつ出しながら姉妹に向かっていく。
「あ、あ…」
ばしゃあっと頭から水を浴びて、姉は反射的に身を縮める。だが、それは姉がよく知る熱湯や泥水とは違っていた。
水に触れた箇所からやわらかな暖かさが体にしみ込んで、中の痛みが溶けていくようだった。
「! これ…」
床に転がった向日葵色の瓶。それは太陽の霊薬と呼ばれる深い傷を癒す魔法の液体だった。
術士や傭兵の間で高値で取引される希少品、それが自分なんかに…!
姉は震え上がった。
「あ、あの…!」
「いたいと こわ!?」
彼女は癒えていく妹の傷の血を拭きながら声を張った。
「あ…?え?」
視線だけ姉に向けた彼女はさらに続けた。
「いたいとこ無いかって聞いてんの。痛い?まだ痛い!?痛くない!?」
「い、いた、痛く、ない…」
「ん。よし」
妹の止血と呼吸を確認し、姉の顔に付いた血をぬぐった彼女は立ち上がり、つかつかと歩き出した。
そしていまだ気絶している亜人の足をつかみ、
「…ッチ クソ重…」
ズルズルと店の外へ引きずって行く。
わかば亭の入口は三歩ほどの段差があるが、彼女はお構いなしに引きずり続ける。
案の定、段差で亜人の頭がゴンゴンゴンとぶつかって小さなうめき声が絞り出された。
彼女は亜人から手を離すと、そのまま十歩ほどの距離を開けて座り込み、取り出した魔導書を開いてなにか詠唱し始めた。
数呼吸ほどの間を空けてから、程無く意識が戻りつつある亜人がヨロヨロと起き上がる。
「……ナニもんだ、オメエ……」
本を閉じた彼女は亜人を睨み付けた。
「ご飯の味をクソ不味くしてくれてありがとう。お礼に見晴らしのいいところに連れてったげるよ、『クソトカゲ』」
取り巻きがひゅっと息を呑む。その言葉だけは言ってはならなかった。
「トカゲだと…!?…平野の小ザルごときがオレを、このオレを……トカゲだとオオォッ!!!?」
怒り狂う亜人は踏みしめた大地が光るのに気付けなかった。
ドン!
「ウオオォッ!?」
それは『浮遊床』という設置型の術式で、発動させた対象の重力を一瞬だけ断ち切り混乱を誘う、基礎的な罠の魔法なのだが――
「テメェなんだっ!!?ナニをしやがった!?オイコラァッ!!」
ツバを飛ばしながらもがき喚く亜人はさかさまに浮かんだままで、一向に罠が解ける様子は無い。
彼女は手を伸ばし、亜人の首から今にも抜け落ちそうな金の装飾をつまみ取ると、
「やわいとこ行けるよう、祈ってなー」
立ち上がる勢いそのままに、亜人を押し上げた。
「ワアアアアアァァァァァァァァァァァァァ……」
みるみる浮き上がって小さくなってゆく。まるで焚き火に放り込んだ枯葉のようだ。
「…」
亜人を見送った彼女は、踵を返して店内を横切った。
周りの客や店主の目も、姉の視線もまるで気にしない様子で元の席に座り直すと、フォークを手に取り昼食の続きを食べ始めた。
周囲の面々も顔を見合わせ、ぽつりぽつりと言葉を交わし出す。
…そうか、姉妹の傷は治ったのだし、元凶の怪物はいなくなった。なんだか目まぐるしかったが、いずれにしてももう終わったことなのだ…。
しかし思い返せば、あの飛んでいく亜人はどこか滑稽ですらあったな…。いやその前の、階段に頭をぶつけてる姿もなかなかだったよ…。
ぎこちないながらもそれぞれがグラスや食器を手に取り、いつもの日常に戻りかけた時――
バァン!!!!!!!!!!
おぞ気立つ大きな衝撃音がすぐそばで轟いた。
音がどこからなのか探す必要すらなかった。店の入口の反対側の窓が、全面真っ赤に血塗れていたからだ。
こびりついた黒い鱗が一枚、ぬるりと滑り落ちていく。
…『罠が解けた』んだ。遥か天まで昇った後で…。
誰しもが口をつぐむ中、もぐもぐと肉を噛む彼女が天気のことのようにつぶやいた。
「残念。固いとこ行っちゃったね」
ガタガタと椅子を倒して客が逃げていく。あとには、逃げ場の無い店主と姉妹だけが残された。
「な…。あ…、あぃ、あが…」
「…ん?」
カチカチカチカチと歯を鳴らしながら、姉がふらふらと彼女の方へ歩いていく。おい嬢ちゃん危ないと店主は言ってやりたかったが、息がつっかえて喋れなかった。
「ル…ルゥ……の、け……が…。な……、治……して、くぇ…て、あ、あ、…あぃが、とぅ…」
「……!…」
彼女は意外そうに眉を上げて肉を飲み込むと、皿を少女の方へゆっくり押しやり始めた。
テーブルに皿がこすれ、フォークが揺れる耳障りな音さえ聞こえるほどの静寂。
震える少女の足の付け根から足首へ、幾筋もの水が伝い流れて広がっていく。
やがて端まで押し切ると、彼女はごく簡単な言葉で問いかけた。
「…………食べる?」
「…あ……」
横倒しに姉が倒れこんだ。それまでの緊張が一気に解けて、気を失ったのだろう。
「………」
彼女は指先で頬をかくと、皿の肉を手でつまんで口に放り投げた。
そしてカウンターのそばまで来ると、代金と亜人が着けていた金の装飾を置いた。
「迷惑料」
「あ……、あの……」
さすがにこの宝飾を受け取るには大金過ぎる。だが、断って機嫌を損ねたらどうなるか…。
黙ったままの店主を見て、彼女は何か察したようだった。
「『うちにはもう来ないでくれ』?」
「え、あ?そぅなん…い、いや!そんな、そんな…」
しどろもどろの店主の言葉に、彼女はひょいと肩をすくめて細かく頷く。
「途中まではおいしかった」
「ど、どうも…」
引き攣りながらも愛想笑いができるものなんだなと、どこか遠いところで店主は思っていた。
姉妹を抱えて馬車へ乗せる彼女を見送りながら――ああ次の客が来る前に、とりあえず血まみれの窓を洗っておかなきゃ――と店主はぼんやり考えていた。