ドラゴンの娘の婚活事情
「ねぇあなた、私と結婚しなさい!」
もう何万年と平穏な日々を送り続けたドラゴン、シャルロワールの平穏な日常を壊したのはたった一人の少女だった。
ドラゴンよりも遥かに小さな人間の中でもその少女は小さいほうだろう。シャルロワールの爪とどちらが大きいか比べるほどしかないのだ。
ただでさえこの場所は人間がやって来るには少しばかり無理ある場所で、少なくともシャルロワールがこの場所を根城にしてから数千年は一度も人間が足を踏み入れてくることはなかった。
なにせ人が住む村から少なくとも四つの山と谷を越え、そして川を渡り、そして何百キロにも渡る大きな渓谷を越え、そして辿り着いた火山の火口まで来なければ行けないのだ。
そこまでしてわざわざこんな場所にくる気の狂った人間などいなかったのだ。
――この少女がやってくるまでは。
少女の手にはその少女の背丈よりも長い刀身の包丁が握られていた。そして少女は真っ白な調理服を身に纏っていた。
その姿はまるで何かを今から調理するかのようで、彼女が口にした言葉とその見た目はシャルロワールの英知を結集した頭でさえも混乱させた。
「ねぇ、聞いているの?」
「あ、ああ」
「ならいいわ! 今からあなたは私の夫で、シャルロワール=プラントーレよ。よろしくねシャルロワール」
少女はシャルロワールが混乱しているのをいいことに好き勝手に話を進めていった。その間も少女が刃物を手放すことはない。
それはいつの出来事かシャルロワールですら忘れてしまうほど昔、料理人が調理道具を手放さずにドラゴン達から逃げて行った時を思い出させる。
シャルロワールからして見れば一刻も早く逃げるのにはまず荷物は諦めて捨てるべきだろうと考えたが人間はそうはしなかった。その後幾万と時間を過ごす中でようやくわかったのは彼らにとって調理道具は命と同等だということだった。ただ彼らは自分の命二つを持って逃げて行ったのだ。
それと同じことかと納得したシャルロワールだったが、目の前の少女が調理人であると己の知識をフル回転させて結論を出したからこそ、直後に目の前の少女がとった光景は信じられるはずがなかった。
「じゃあ早速頂こうかしら?」
少女はシャルロワールの尻尾の部分をしばらくうろつくと納得したように一つ大きく頷いてから、シャルロワールの身体に刃物を突き刺した。
それはまるで当たり前の行動であるかのように、躊躇なく、そして一切の了承をとることなく行われたのだった。
「な……!?」
「あら案外固いのね……。お母様は簡単そうにやっていたのに。これが愛の差かしら?」
ドラゴンの尻尾には痛覚を感じる感覚は通っていない。人間の身近な動物で言うところのトカゲと似たところがあるのだ。だから痛くはない。
けれどもしシャルロワールの尻尾に痛覚が備わっていたとして、彼はこの状態で少女に痛いからやめろと訴えることは出来なかっただろう。
少女がこの行動を『愛』のある行動だと称し、そして疑ってなどいないのだから。
人間よりも長い時間を過ごし、そしてそこらへんのドラゴンよりも多くのものを見て過ごしてきた。
持て余した魔力は身体的な衰えさえも回復させてしまい、気づけばもう同世代のドラゴンもその子どももそして孫さえも、知り合いのドラゴンは誰もいなくなっていた。
ドラゴンが人間を滅ぼそうとした時にひ弱な人間を守ろうと立ち上がり、そして今尚守護し続けているシェファラリードがドラゴンの面汚しであるならば、シャルロワールはもうドラゴンの枠組みにすら入れてはもらえなかった。
底抜けの魔力は同族にすら畏怖を抱かせ、そして異形のものとしての烙印を押された。
自らを畏怖する全てを避けてこの場所へと隠れるようにして住んでいたシャルロワールにとって『愛』とは未知のもので、そして枯れ地に注ぐ一筋の雨のようなだった。それがどんな行動であれ、受け入れてしまうのだ。
例え初対面の、それもシャルロワールよりも遥かに弱い人間がした非礼であっても……だ。
「まぁ愛なんて育んで行けばいいわよね。ねぇシャルロワール」
「君は……」
「ああ、そういえば名乗っていなかったわね。私、ミーシャ。ミーシャ=プラントーレ。シェファラリード王国のドラゴン、シェファラリードとセレンディーナ=プラントーレの娘よ」
「ミーシャ、君は私を愛してくれるのか?」
『愛』――それは不平等なものだ。
シャルロワールが欲してもう何千、何万もの時間が経過しても手に入れることは出来なかったものだった。
だからシャルロワールは欲することすら諦めていた。
自分にはそれを手にする権利がないのだと。
けれど目の前のミーシャは、いきなり目の前に現れた少女はそれを無条件ではないにしろ差し出そうというのだ。
シャルロワールはもう長い間生きた。それはこの世界に存在する生物と呼ばれるものの中で一番長く。だから知っているのだ。
この身体がたかだか人間の作った道具如きでは消し去れないことを。
そして自らの身体はミーシャの包丁が刺さった時点で回復を始めていることを。
「夫を愛すのは妻の役目よ! そして愛する妻にその美味なる身体を差し出すのが夫の役目。そして私とあなたで子どもを産むの! こんな山奥で二人きりじゃ寂しいでしょう?」
「美味いかわからない身体はともかくとして、君はドラゴンの子どもでも産むつもりか?! 異種間で子どもを望むというのは無謀な行為だろう……。体格差だってありすぎる」
「無謀なんかじゃないわ。言ったでしょう? 私、ドラゴンの子どもなのよ。あなたは知らないかもしれないけれど、その魔力があれば私の大きさまでちいさくなれるのよ? だから問題はないわ」
それはミーシャにとって些細な問題であるようだった。何てことないように言ってのけるミーシャに呆れたシャルロワールはふと彼女の言葉を思い出した。
彼女の親の名前はシェファラリードと言ったか。
生涯、ドラゴンの恥と罵られ続けたシェファラリード。
シャルロワールの知っている彼はとうの昔にその身を灰にした。
人と同じように最期を過ごしたシェファラリードをシャルロワールは己の魔力で作り出した鏡を通して見守った。
彼はシャルロワールのかつて友だった。
いつからか道を違えてしまったけれど、大切な、シャルロワールを認めてくれる友だったのだ。
そういえば彼の子もそしてその孫もシェファラリード王国を守護する役目を果たすドラゴンには代々シェファラリードと名がつけられていることをシャルロワールはふと思い出した。
それは100年ほど前、風の精がシェファラリードの名を運んできた時に聞いたことだった。聞いた、というよりはシャルロワールに怯えた風の精が持てる情報を全て吐き出して去っていった、という方が正しいのだが、情報源が風の精だということには変わりはない。
風の精の話によると今代のシェファラリードは数々の人の妻との間に子を成そうとはしないらしかった。
――そう聞いたのだが、どうやら彼はいい番を見つけたらしい。今のシェファラリードのことを少しも知らないシャルロワールだが、かつての友の末裔が今も幸せに暮らしていると聞いて安心したのだった。
それはシャルロワールが目の前の少女、ミーシャのことしか知らず、ミーシャのその突飛な行動がシェファラリードの妻、セレンディーナの奇行から学んだ愛情表現なのだとは知らないからこその得ることのできる感覚なのだが、シャルロワールがそれを知るのはミーシャとその間に産まれた子どもたちに愛しさを覚えた後のことだったりする。
「なぁ、ミーシャ。尻尾なら私が切り落とそう」
「ダメよ、これは妻の役目なのだから!」
「だが私の身体の再生は人間どころかそこらへんのドラゴンよりも早いんだ」
「知ってるわ。あなたはその魔力保有量からドラゴンの仲間には入れてもらえないらしいわね。だからあなたと結婚するって決めたの! 私はドラゴンのムスメでドラゴンにも人にもなれないらしいから……」
強く言い放った言葉とは裏腹にその目は悲しみを秘めているかのように潤んでいた。
夕焼けのような優しい赤を滲ませるミーシャをシャルロワールは彼女も自分と同族なのだと思った。
どの枠組みにも入れてもらえなかったミーシャはどこかで知ってしまった愛を求めて自分の元へやって来たのだと。
だがシャルロワールの予想は大きく外れている。
ミーシャは単純に強いドラゴンに惹かれてやって来たのだった。
ミーシャ=プラントーレはグルメ貴族、プラントーレの血を引くだけのことはあり、物心ついた頃からこの世の美食を求め、そして食べることが出来るものならその全てを喰らった。
そんなミーシャの食事は一日5回。それも常人の食事量とは比べものにならないほどの量を平らげた。
エネルギーを常に供給し続けなければその身体は自らの魔によって蝕まれてしまうのだ。
それはシェファラリードの魔力を人間の身体で継いでしまったゆえの代償だった。けれどミーシャはそれを悲観することはなかった。
ミーシャの日々の運動もといカロリー消費は王国内一の精鋭が揃う第一騎士団の鍛錬に混じって行われていたのだが、はっきりいってそれだけでは運動量が足りなかったのだ。明らかに摂取するカロリーの方が多すぎる。
そんな鍛錬だけでは追いつかないエネルギー消費を手伝ってくれる自らの身体の特徴を喜んで受け入れた。
この力を持って生まれたからこそ、この世の食事を人よりも多く食べる機会を得られているのだと捉えたのだ。
そんなミーシャではあったが、年々体内の魔力が増幅していることに悩まされるようになるまでそう時間はかからなかった。
ミーシャの身体が外見的成長をピタリと終えたところから底抜けの強さを発揮したのだ。
それまでだって、同年代とは危ないからと遊ぶことさえできず、手合わせの相手は国随一の軍人ばかりだった。だがそんな彼らですらミーシャの相手ではなくなってしまったのだ。
それからしばらくの間、基本的に宮殿からは出たがらないミーシャの父、シェファラリードが彼女の相手をした。と言ってもシェファラリードが本気で愛娘に挑めるわけもなく、ミーシャは運動不足にならない程度の軽い手合わせをしながら退屈な日々を過ごしていた。
そしてミーシャは16歳の誕生日にシェファラリードとセレンディーナ、そして7人の弟妹に宣言した。
「私、婚活してくるわ!」
「は?」
父のシェファラリードのみがミーシャの言葉をうまく飲み込めずにいたが、他の8人はいよいよ言ったかと特に強く関心を持った様子すらなかった。
元よりドラゴンの力を人間でありながら引き継いだミーシャが普通に暮らせる訳がないと彼女の弟妹達は理解していたのだ。
16となればもう立派な成人であり、そして待望の次期シェファラリードとなるべきミーシャの弟、シェファラリードジュニアはもう5歳になった。だからミーシャは城を去り、己の夢を追いかけることにしたのだった。
ミーシャの夢、それは己よりも強いドラゴンと結婚し、そしてその肉を食み、子を成すことだった。
ずっと目の前で繰り返されていた両親の一風変わった関係はミーシャにとっての憧れだった。
結婚してから17年近く経つ今も二人の関係は新婚のようであった。そしてそれはずっと、セレンディーナがこの世を去るまで続くのだろうと誰も疑いはしなかった。
そう宣言してからすぐにミーシャは城を去った。
そしてドラゴンがいると噂の場所には赴き、そして彼らに国一番の刀鍛冶自慢の包丁を向けた。
多くのドラゴンはそれを向けた瞬間にミーシャの発する殺気もとい食欲と彼女が産まれもった人間離れした魔力に怯え、立ち去ってしまった。
これから嫁ぐのだからとウェデイングドレスにならって服は真っ白なものを用意させたことが裏目に出ていることにも気づかずに、ミーシャはドラゴンを探し続けた。
ごく稀に逃げ出さなかったドラゴンと交戦することもあったが、そんな時はシェファラリードに教えられた通りにドラゴンの主要な神経が通っているらしい首を思い切り蹴り飛ばすとしばらくは活動を停止した。
そうなってしまえば途端にミーシャにとってそのドラゴンは結婚相手から情報源へと見る目は変わる。
頑なに口を割らないドラゴンもいたのだが、中には潔く口を割るもとい早めに厄介払いをしたいと考えたドラゴンもいた。そのドラゴンが教えてくれたのだ。
「今はどこにいるか知らないが、シャルロワールというドラゴンがいる。そいつならきっとお前のお眼鏡にも叶うだろうよ」
それだけ告げるとドラゴンはそそくさと大事な住処を捨てて何処かへと去ってしまったのだが、有益な情報を残していったのならばその後、自分よりも弱いドラゴンがどうなろうともミーシャには知ったことではなかった。
そうしてミーシャは再びその言葉を信じてひたすら旅を続けた。
気の短いミーシャは道中、その苛立ちを食欲に変えて通過する街々の食を食い漁った。
けれど絶対にドラゴンの尻尾にだけは手を出さなかった。
ミーシャにとってドラゴンの尻尾は夫となるドラゴンのものしか食べてはいけなかったのだ。彼女にとってドラゴンが尻尾を明け渡すのは愛の表明で、そしてそれを食べるという行為はただの食事とは違った。相手の愛を全身で受け入れる行為なのだ。いわゆる相互間による愛の確認作業にも等しい。
そんな神聖な行為を手近なドラゴンとすることはしなかった。
そして諦めずに探し歩いて5年の月日が経った頃、ミーシャの肌はビリリと電気が走るような感覚に陥った。
決して強いわけではないその電気はまるで今から登ろうとしている火山への侵入を拒むかのようで、ミーシャの心を弾ませた。
頂上には必ず自分よりも強い何かがいるのだと確信があったのだ。
頂上に近づくたびにそれは強くなった。そして火口が目の前に顔を出した時、それは簡単に止んだ。けれどミーシャの高鳴りはそれと反比例するかのように騒ぎ出した。
火口から吹き出る溶岩を毛布のように被る漆黒のドラゴンがそこに横たわっていたのだ。
彼こそがシャルロワール、私の夫になるドラゴンだ。
見た瞬間に身体中の血液が忙しなく体内を循環し始めた。
プラントーレの血が彼を喰らえと告げているのだ。
長年ドラゴンの尻尾に翻弄され続けたらしいプラントーレの血はたかが1代、その願いを叶えようとも満足しないようだ。
ミーシャの絹のように白くてなめらかな喉元はゆっくりと波打って、シャルロワールの身体を欲していた。
ミーシャは目の前のドラゴンと己の圧倒的な実力差などもう考えられなかった。
ただ彼を喰らうことしか頭になかった。
これがお母様の言っていた『一目惚れ』というものだろう。
ミーシャは他のドラゴンには決して感じることのなかった昂りを持て余そうとしていた。
「ねぇあなた、私と結婚しなさい!」
どうしてもシャルロワールを手に入れなければいけないと気が急いていたせいか、気がつけば目の前のドラゴンに命令をしていた。
もっと順序ってものがあるだろうが、それを実行するだけの理性などもう残っていないのだ。
相手の返事など松前にはしたなく、夫のためにとっておいた包丁を躊躇なく振り下ろす。
それはミーシャにとって結婚式でのケーキ入刀と同じ意味で、彼女なりの精一杯の愛の告白だった。
けれどその愛をシャルロワールの身体は拒んだ。傷一つつかない身体は余計にミーシャの心に火をつけた。
まだ足りないなら生涯をかけて育めばいい。
お父様とお母様がそうであったように……。
一人と一匹のすれ違いを孕みながらスタートした夫婦生活は、数年後にミーシャがシャルロワールの背に乗り、腕には子を抱いて祖国に揃って帰省したことによってシェファラリード王国の歴史を大きく変えることとなるのだが、それはまた別の話である。