酒場店主:ヒース=クロフォード
物心ついた時から、彼はずっと旅をしていた。
家は無く、
母は無く、
友は無く、
町から町へ、
街から街へ、
国から国へ、
一所に留まることなく流れていく。
物心ついた時には父と二人で旅をしていた。母という存在を知ったのは随分大きくなってからで、特に興味も持たなかったので父が死んだ今となってはもはや知る術もない。
父は村や町や街の酒場を旅してまわっていた。楽器を弾き、酒を作り、噂を運ぶ。そうして日々の糧を得ていた。
少なければ二三日、多くてもひと月足らず。父がどうしてそのような生活を選んだのか、それとも選ばざるを得なかったのか。それすら知ることもなく、父は彼が16の年に流行り病にかかって死んだ。
独りになった彼は、しかし旅以外の生き方を知らなかったから父と同じように旅を続けた。知らない場所へ行き、その場限りの人間関係を築き、そして次の場所へ流れる。
誰も彼と親しいものはおらず、記憶に留めるものはおらず、誰にも何にも守られない代わりに自由。それが彼が知る唯一の生き方だった。そのままどこかでのたれ死んでおしまいだと思っていて、それで構わないとも思っていた。
彼がその町へ来たのは、21になった頃だった。不思議な町だと思ったのをよく覚えている。種族の統一感がない住人たち、穏やかな雰囲気。どこか浮世離れしたような、そんな感じがした。
いつものようにまず酒場に向かうと初老の店主が喜んで迎えてくれた。店主は実に知識が豊富で、彼の知らない様々な酒の作り方や種類を教えてくれた。父が生きていればこんな風に話し合えたのだろうかと、ぼんやり思った。
二週間が経った頃、お互いの話になった。
店主はもう長いことこの町で酒場を切り盛りしているのだと言った。そしてそろそろ他の場所へ行きたいから、店主を変わってくれないかと。
もちろん断った。一所に定住したことがないし、できるとも思わなかった。旅を止めることは恐怖でさえあった。この町に留まりたい理由が無いわけではなかったが、自分の家を持って町に住む自分を想像できない。
店主は残念そうに肩を落とした。申し訳ないとは思ったが仕方がない。その日は別れて宿屋に泊まった。
はめられたと気付いたのは翌日。別れを告げようと酒場を訪れると、カウンターの上に手紙が置いてありそこには短く、
『あとはよろしく頼む』
と書いてあった。
そんなことを言われてももちろん彼に留まるつもりなどなかった。とっとと荷物をまとめて出ていこうと森へ向かい、
森を抜けると町だった。
意味がわからない。途中で反転したわけでもないのに町に戻ってしまった。わけがわからないままもう一度出ようと試みる。
しかし何度試しても結果は同じだった。森の外へと続く真っ直ぐな道を歩いているはずなのに、戻ってきてしまう。
呆然とたたずんでいると町人が彼を見つけて事情を説明してくれた。どうやら彼は知らないうちに初老の酒場店主からその役割を引き継いだことになってしまったらしい。
この町の住人は、役割を後任に譲るまで、この町を出ていくことはできない。一時的に外に行くことは可能だが、戻る意思がない場合はそれすらもできないというのだ。
混乱した。怒りを覚えもした。騙されたようなものだから当然だろう。結果は既に決まっていても、彼は悩んだ。
……彼を町へ引きとめたのは、一人の女性の存在だった。
彼が彼女と出会ったのは、彼がこの町に訪れてすぐの夜。
酒場で一仕事終えて宿屋へ戻るために、町の中心を通った時のことだった。そこに大きな噴水があるのに気がついて覗き込んだ彼は、言葉を失った。
そこにうつ伏せで浮かぶ女性の姿があったからだ。
驚いて見下ろすこと数分も経っただろうか。どう見ても死んでいる。普通の人間であれば、ぴくりとも動かず息継ぎもなくこんなに浮いていられるわけがない。そう判断して、とりあえず水から引き揚げようと彼女の体に触れた。
途端、死体であったはずの彼女の体はばねのように跳ねあがり、水しぶきを上げながら立ち上がった。細い体。青白い肌。流れる水のように月の光に透き通る青い髪。氷でできているかのような美しい姿の中で異彩を放つ緑の鋭い瞳が彼を見据えた。
「誰っ!?」
今まで出会った誰よりも美しい。この時彼は彼女に一目惚れをしたのだ。
……したのだが、いきなり死体が動いたという衝撃に悲鳴もなく気を失い、彼女の正体と名前を知るのは翌日のこととなる。
こうして彼は、不思議な町の酒場店主として、初めて一所に腰を落ち着けることとなった。
【酒場店主:ヒース=クロフォード】
アレクに強引に説得され、ルツィエの操る馬車に乗り、ヒースは海へ来ていた。
緩やかに広がる海岸に、穏やかな波。なかなかいい場所だと思うのだが、昼間だというのに不思議と人影はない。少し離れた所には崖が見え、その向こうには木が生い茂っていた。その林の中にキャンプを張って寝泊まりすることに決めた。海に近すぎると荒れた場合に呑み込まれてしまう。木が生えているのならそうそう波は届かないはずだ。
あたりを見回してから視線を海に戻す。
「……で、アレクさん。どこにあるの?」
「この海のどこか。浅瀬にはないだろうな。そうしたら探偵が位置を特定できているはずだ」
泳ぎやすい軽装に着替えて準備運動をしながら、アレクはけろりと答えた。ジト目で睨むも気にした様子はない。
「一週間で見つかると思う?」
「できることをするだけだ」
きっぱりと言い放ち、浮袋を抱えたアレクはルツィエとカルピエの方へ向かう。
「カルピエ、私たちは長く深く潜ることができない。申し訳ないが貴女にかなり頼ることになると思う。宜しくお願いする」
深く頭を下げる。カルピエが小さく嘶くと、ルツィエが笑いながら通訳した。
「『友達想いな奴は好きだから、尽力する』ってさ」
「ありがとう。ルツィエも、巻き込んですまない。改めて礼を言う」
「やだね、気にすることないだろ。あんたに賛成してるから手伝ってんのに、今更何言ってんだい。あたしだってリーネの友達気取ってんだから」
「……そうだな。宜しく頼む」
ルツィエとカルピエが海へ向かうと、アレクはヒースの方へ振り向いた。
「ヒースも。無理を言ってすまないが、今は少しでも人手が欲しい。不本意だろうが協力してくれ」
「……わかんないんだけどさ」
ぼそりと呟く。錆びないようにと眼鏡を外したアレクの茶色い瞳と視線が合って、逸らした。
「何で助けることがリーネのためなんだ? リーネは滅びることを望んでるじゃないか」
アレクの言い分は、ヒースには納得できなかった。リーネが望んでいることと正反対のことをすることが、どうしてリーネのためになるというのか。消えてなくなってしまえばいいと吐き捨てた、全てを拒絶するような冷たさ。まるで人形のような、初めて見たあの表情が脳裏に焼き付いている。
リーネにあんな表情をさせるものなんて無くしてしまえばいい。放っておけば勝手に無くなるのだから、引き留めずに追い出してしまえばよかったのに。
「それでも、あの人はリーネに残された最後の肉親なんだ」
何かを耐えるような声色に、ヒースは驚いてアレクを見た。泣いているのかと思ったが、アレクは遠くを見つめているだけだった。
「もしリーネが両親の話を聞きたいと思った時、それに答えられる唯一の人なんだよ。失うことは簡単だ。しかし失ってしまえば二度と戻ることはない。だから失わせたくない」
そう言ってアレクは自分も海に向かって歩き出した。
よく、わからなかった。ヒースには母の記憶はなかったし、名前も知らない。父とは16年間一緒だったが、その人については一度も話題に上ったことはなかった。よく考えてみれば父のことすらよく知らなかった。どこで生まれたのか。どうして旅をしているのか。親戚はいるのか。考えたこともなかったし知ろうともしなかった。
よく、わからなかった。やっぱりアレクの考えには同調できそうになかった。それなのに、何故か胸に氷の塊が落としこまれたような感じがした。
これ以上考えたくない。今はとにかく花を探そう。
頭を振って気分を切り替え、自分も海へ向かう。暖かい季節を選んでくれたので水は心地よく体を包んだ。
沖を見るとルツィエが浮かんでいる。恐らくもっと先にカルピエが行っているのだろう。言い出しっぺのアレクはというと、浅瀬に近い場所で浮袋にしがみついている。
「……アレク、もしかして泳げないとか言わないよな?」
「浮くことはできるぞ。息継ぎは出来ないが」
「泳げないも同然じゃん……」
道理で浮袋なんてものを用意してきていたわけだ。用意がいいというか、無謀が過ぎるというか。
「……できるだけ岸の近くにいろよ。あんたに何かあったらリーネが悲しむ」
リーネにとって一番大切なのは、間違いなくアレクだから。悔しいと思わなくもないけれど、覆しようのない事実だから。
アレクが何か答えたようだが、泳ぎ出したヒースの耳には水音しか聞こえなかった。
結局アレクは浅瀬周辺の捜索と食事係になった。二人と一頭に揃って怖くて見ていられないとため息を吐かれたからだった。
海の水は比較的透明度が高く、浅く潜れば底まで見えた。もしこの中で光っているものがあれば見つけやすいと思うのだが芳しい成果は上がらなかった。
徐々に捜索範囲を増やしながら潜り続けて既に五日目。アレクの表情には焦りが見え始めていた。親指の爪を噛むのは彼女の悪い癖だ。
「よしな、アレク。まだ時間はあるんだ。焦ったらできることもできなくなっちまうよ」
「……わかってる」
見つかる可能性の方が少ないとわかっていても焦りを感じずにはいられないらしい。昨日までは恵まれていた天候に陰りが見えてきたとなればなおさらだろう。状況によっては明日は海に潜れない可能性もある。
しかし今日は注意してアレクを見張る必要がある。焦りは判断を鈍らせる。判断を誤ったものを、海はこともなげに藻屑に変えてしまうだろう。それだけは避けなければならない。リーネに、哀しい顔をさせないためにも。
昼の休憩を終えて、再び海に潜る。最初の場所からは結構離れた場所まで来ていたが、それらしいものはさっぱり見つからない。さすが探偵が見つけられなかった花だ。一筋縄ではいかない。
波が徐々に荒さを増してくる。黒い雲が空を覆い始め、冷たい風が肌を打つ。嵐が迫っているのか、危険だ。
「ルツィエ! これ以上はヤバい!」
「ああ、あたしらは戻った方がいい!」
自分よりも遠くへ行っていたルツィエに警告を投げかけると、彼女も同意見だったようでカルピエを残して岸へ向かって泳ぎ出した。ヒースも荒れる波に抗いながら途中で半分溺れかかっているような状態のアレクを回収しつつ岸へ戻る。
「カルピエは置いてきて平気なのか?」
「水馬が溺れるなんてのはリーネが溺れるのと同じことさ」
ルツィエがそう答えた瞬間、波が一際高く盛り上がった。その不自然な動きに危険を感じ取ったヒースとルツィエが身構えると同時に波から水馬が跳ねあがった。
「カルピエ!?」
水馬は荒れる海面に危なげなく着地するとそのまま岸に向かって走り出した。彼女を妨害するかのように水面は激しく波立ちしぶきを上げる。水の上を走り、あるいは水の中を通り、何かから逃げるように駆ける。
「な、何だ!?」
呼吸を整えていたアレクが叫ぶ。カルピエの逃げる背後に何かが首をもたげている。海から立ち上がる巨大な影。それは、カルピエを捕らえられない苛立ちにか、天に向かい炎を吐きだしながら吼えた。
天を揺るがし、海を叩く咆哮。呼応するように風が強さを増して波はより高く荒れ狂う。それは、巨大な蛇に見えた。青い鱗に包まれた長く大きな体。鋭い牙が並ぶ口からは断続的に炎が散っている。怒りにか瞳を光らせるその姿に該当するものを、ヒースは知っていた。
「リヴァイアサン……!?」
伝説上の生き物として噂に聞いていた巨大な海蛇。何故そんなものがここにいるのか。
「……そうか、しまった」
アレクが呟く。
「ここはやつの縄張りだったんだ。だから人が近づかなかった」
「そういうことかい」
確かにそれならば納得がいく。知らなかったとはいえ、なんと危険なところへ来てしまったのだろう。
「おいおい……どうすりゃいいんだこれ……」
カルピエはリヴァイアサンの追撃を逃れどうにか岸へと辿りついた。早く逃げようというように盛んにルツィエに向かって嘶く。
町へつながる道は、ここから少し離れたところにある。走ってでは到底辿りつけるとは思えず、しかしカルピエの背に乗れるのはどう考えても二人が限界だ。
再びリヴァイアサンの咆哮が海を叩いた。びりびりと空気が震え、その余りの力強さに体が逃げを打つ。
海の主の声に応えて海が盛り上がった。海蛇の背後に壁のような波が立ち上がり、恐ろしい速度で岸を目指し走り出す。
このままでは全員波に呑まれて死んでしまう。
「っ、くそ。ルツィエ、アレクを連れて逃げろ」
「あんたはどうするんだい!」
「カルピエには三人は乗れない。走ったんじゃ到底逃げ切れない。俺は残る」
「馬鹿なことを言うな!」
「馬鹿はあんただ! ここで全員のたれ死ぬつもりか!? ルツィエ、急げ!」
わずかに迷ったそぶりを見せたルツィエは、しかし唇を噛み締めながらアレクの体を抱えあげた。
「ルツィエ!?」
「ヒースの言う通りさ。……死ぬんじゃないよ」
「せいぜい心がけるよ」
「ヒースっ! 巻き込んだのは私だ、残るなら私が」
暴れるアレクの首筋に手刀が叩きこまれた。あっさり気絶させてルツィエがカルピエに跨る。最後に視線があって頷き返すとあとは後ろも見ずに駆け出していった。
これでいい。
砂浜に一人残って巨大な海蛇を隠すように迫る大波と相対する。あれに抗う術はない。呑まれ叩きつけられそのまま死ぬだろう。
悪くない、と思った。ずっと一人で生きていくと思っていたのに図らずも住処を得、知人を得、繋がりを得た。生まれて初めて人に恋をした。十分すぎるほどじゃないか。彼らはきっと、自分の死に一瞬でも胸を痛めてくれるだろう。
怖くないと言えば嘘になる。それでも自分が描いていた死よりははるかにましと思えた。
咆哮が響く。波が迫る。まるで雨のようにしぶきが舞い、そしてヒースの体を呑み込んだ。
何が起こったかもわからない、圧倒的な奔流に巻き込まれてあっという間に上下の感覚がなくなった。叩きつけられたように肺から空気が溢れ、代わりに水が入ってきて苦しさと痛みに支配される。
もみくちゃにされ、意識が薄れる。これで終わりかと覚悟を決めた時、何か柔らかいものが体に絡みついた気がした。それに体をひっぱりあげられる感覚。
「ヒース! しっかりしなさい!」
幻聴だろうか。唯一惚れた女の声が聞こえる。死ぬ前に聞かせてくれるなんてサービスがいいなあなどとぼんやり思ったら、急に胸をきつく圧迫された。痛い。苦しい。
「がふっ!?」
「息をするのよ!」
息? 水の中なのに?
反射的に肺を膨らませて、水ではなく空気が中を満たした。あとはもう貪るように咳をしながら呼吸を繰り返す。
水の中じゃない。
きつく閉じていた目を開く。霞んだ視界に、声の主が映る。険しい顔をして覗き込むその人は、間違いなく。
「……リーネ?」
「ヒース!」
安堵にだろうか、泣きそうな微笑みを浮かべてリーネがヒースを抱きしめた。柔らかい体の感触に、もしかしてここは天国で神様がサービスしてくれてるんじゃないかと思考が空回りする。それなら構わないよねとばかりに彼女の背中に腕を回した。濡れた髪の上からそっと撫でるとぴくりと体が震えてばっと離れてしまった。あら残念、と思った次の瞬間、険しい顔に逆戻りした彼女がきつくヒースを睨みつける。
「ヒースの、馬鹿っ! 馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿、考えなし!」
サービスはもう終了してしまったらしい。残念だが仕方がない……というか、何かおかしくないか。
「……あれ? 何で? 生きてんの、俺?」
呟いたと同時に激しい轟音が耳を劈いた。驚いて体を起こすとそこは浜辺で、隣にいるのは紛れもなくリーネで、彼女は険しい顔のまま視線を海に向けた。
雲から強烈な光が海に落ちる。再びの轟音。光は巨大な海蛇を貫き、海蛇は痛みにか咆哮をあげながらその身をよじった。
よく見ると海蛇の近くに馬が浮いているように見える。ただし足は四本ではなく八本。その馬が天を仰ぐと同時に光が落ちる。あれは雷だ。そして雷を呼んでいるのは。
「スレイプニル?」
「そうよ。頼んで来てもらったの」
天を駆ける駿馬と海の支配者が激しい戦いを繰り広げていた。あっけにとられているとリーネが立ち上がった。
「ヒースはここにいて。動いちゃダメよ」
「え? リーネ!?」
海に向かって駆け出したリーネは暴れる波に手を触れる。途端に彼女の周りの海が凪ぎ、スレイプニルを貫かんと鋭く発射された水砲が途中で形を失ってはじけた。リヴァイアサンの攻撃を、リーネが妨害したのだろうか?
水と雷と、吐き出された炎と。海蛇の咆哮と、駿馬の嘶きと。およそこの世のものとは思えない凄まじい光景に言葉を失って魅入ってしまう。
戦況は徐々にスレイプニルへと傾いていく。次々と落とされる雷を、巨大な体は避ける術がなく、また避けたとしても水はリヴァイアサンへ衝撃を伝える。リヴァイアサンの放つ攻撃はリーネによって妨害され届く前に形を失うか速度を落として避けられる。巨大な体を打ち振るって攻撃を加えようにも、スレイプニルは俊敏な身のこなしでそれを避けて見せた。
やがて海蛇は咆哮を止め、低い唸りをあげながら海へ潜り、沖へ遠ざかっていく。諦めたのだ。
「ヒース!」
「無事だったか!」
海が治まると同時にカルピエとルツィエ、アレクが現れた。彼女たちが応援を呼んできてくれたのだろうか。
「ああ、助かった。よくリーネを呼べたな」
「違うよ。あたしらは町まで戻ってない。リーネの方がスレイプを連れてやって来たのさ」
「へ?」
「ルツィエ」
低い声が上から聞こえた。見上げると人の形を取ったスレイプニルが降りて来るところだった。
「スレイプ、助かったよ。よく来てくれた」
「……あの女がうるさかったのでな」
どうやら多少強引に連れてこられたらしい。やや憮然とした様子のスレイプニルの髪を、ルツィエは笑顔でぽんぽんと撫でた。
「ヒース、無事でよかった……! 体は、大丈夫か? どこかおかしなところは?」
酷く慌てた様子でアレクがヒースの体を診る。水を沢山飲んだせいでだるく、疲れは酷いが多少の擦り傷などはあれど、大きな外傷はない。そう伝えるとようやく安心したように息をついた。
「すまない。強引に巻き込んでおいて、命の危険にさらしてしまうなんて」
「いや……これは予測できないし。アレクのせいじゃねえよ」
意気消沈した様子のアレクに慰めの声をかける。本当に、まさかここがリヴァイアサンの縄張りなどと誰が気づくというのか。アレクのせいでは断じてない。
「アレク」
いつの間にかリーネがそばまで戻ってきていた。彼女はまだ険しい表情のままでヒースの横に膝をついていたアレクを見下ろした。
「もういいでしょう。町に戻るわよ」
しかしアレクもまた険しい表情で答えた。
「いいや。まだ時間が残っている。ヒースたちを連れて先に戻っていてくれ」
「まだ探すの!? 見つからなかったでしょう! レヴィアタンは死んだわけじゃない。あれは殺すことができない。一時的に逃げただけよ。いずれまたここへ戻ってくるの。だから早く帰らないと!」
「リーネ」
必死に説得するリーネに、アレクは首を横に振る。
「まだ、時間が残っている。私は最後まで諦めたくないんだ。一人で残るから、早くヒースを休ませてやってくれ」
「アレク!」
もはやリーネは泣きそうな様子だった。拳を握りしめてアレクを睨むが、アレクも引かない。
ここまで来るとアレクの強情ぶりには呆れかえるよりほかない。あの海蛇を見てまだ海に潜るつもりがあるとは。
「……どうしても、戻らないのね?」
「時間が来るまでは、な」
唇をぎゅっと引き結んで、リーネは踵を返した。まさか置いて帰るのかと焦ったのは一瞬で。リーネはカルピエの元へ真っ直ぐに歩いて行く。
「ルツィエ、カルピエを貸してもらっていい?」
「あ、ああ」
「カルピエ、疲れているのにごめんなさい。もう少しだけ頑張ってもらえる?」
許可するようにカルピエは嘶き、鼻面を海に向けた。その背に軽やかに跨るとリーネはこちらを見ずに言い捨てた。
「すぐに探してくるから荷物をまとめていて」
そしてカルピエとともに海に飛び込んでいった。
すぐに、というのは誇張でも何でもなかった。ヒースたちが馬車に戻り準備を整えて少しすると、彼女はカルピエの背に大量の花を乗せて戻ってきたのだ。
触ったら壊れてしまいそうに透き通り淡い光を放つ美しい花。それを無造作に縛り上げて馬車に詰め込む。
三人と一頭で五日にわたって探しても見つからなかったというのに、リーネにかかれば一瞬である。若干の虚しさを感じながらヒースは馬車に乗り込んで花束を抱えた。
「ありがとう、リーネ」
アレクが礼を言っているが、リーネはそっぽを向いたままだ。かなり怒っているらしい。馬車の中には乗らず、御者台のルツィエの隣に陣取ったのを見ても明らかだ。当然と言えば当然だろう。
そこからはなかなか慌ただしかった。急いで町へ戻り花を医者に渡すと医者は大喜びで薬屋を呼び寄せ薬の製作にかかった。花の量が多かったのでついでにヒースも診てもらえることになり、リーネはまた泉の底へ潜ってしまった。ルツィエたちは家に戻って、休憩したら馬車を再開するらしい。
検査の結果異常無しと出たのでヒースも家に帰ってゆっくり休んだ。さすがに疲れていたので目が覚めたら一日半経っていた。
その間に薬は完成し、早速ティアナが効果を試していた。さすがにすぐに全快はしないものの、崩れかけていた指先が形を取り戻すことができたらしい。これで彼女の一族は助かるだろう。
念のために様子を見ること数日。かなり病状が改善したティアナはすぐに一族の元へ帰るといい、その日の午後にこの町から出ていくことになった。
「あの人、帰るってさ」
ヒースはリーネが引きこもる泉に来ていた。アレクがやっていたように泉の縁にしゃがみこみ水に手を浸けて話しかける。
「リーネ、出てきてくれよ。顔を見て話したいんだ。無理に連れ出したりなんか絶対にしないから」
鏡のように凪いだ水面に待つことしばし。泉の真ん中にぽかりとリーネの頭が浮いてきた。
「……何」
不機嫌な様子を隠しもしないが出てきてくれただけ進歩である。多分、時間が経って少し落ち着いたのだろう。
「うん、こっち来てくれると嬉しいんだけどな。遠いと話し辛い」
鋭い目に睨まれるが気にしない。気にしたら負け。黙って睨まれることしばし。深くため息を吐きながらも手の届く距離まで上がってきてくれた。連れ出したりしないという言葉を信用してくれたようだ。
水から手を出して立ち上がるとリーネを見下ろす形になる。彼女は腕を組んでヒースを見上げた。
「何?」
「礼を伝え損ねてた。助けてくれてありがとう。リーネが来てくれなきゃ、俺、あそこで死んでたから」
頭を下げると、リーネはきょとんとした。なんでそんな意外そうな顔をされなければならないのだろう。
「あ、ええと。ごめん。違うこと言われると思ってたから拍子抜けしたのよ」
視線を和らげてそっぽを向きながらリーネは答える。
「気にすることじゃないわ。私が勝手にやっただけなんだから」
そんなこと言われても命の恩人には違いない。そう言うと、勝手にすればとのお達しが出たので勝手にすることにする。
「で、何。わざわざそんなことを言いに来たの?」
「メインの用事はそう。あとは、そうだな。さっきも言ったけどティアナさんが午後に帰るって」
その名前を出しただけで物凄く嫌そうな顔をされた。
「それで?」
「それだけ」
「そう」
踵を返してまた泉の底へ戻ろうとする彼女の背からはきつい拒絶だけを感じる。
「会いたがってたよ」
「誰が?」
「ティアナさんが」
「私は別に会いたくないわ」
「一族の恩人だって。必ず一族の人たちに、リーネのことを認めさせてやるって」
「……余計なことを」
「リーネはさ、ティアナさんのことは嫌いか?」
わずかに振り返り緑の瞳がヒースを睨む。
「何、ヒースまでアレクみたいなこと言って」
「俺はさ、やっぱりアレクが言ってることは理解できないんだけど」
固いリーネの反応に苦笑しながら続ける。
「あの人はリーネがもし両親の話をしたいと思ったとき、それに答えられる唯一の人なんだって。だから失っちゃいけないって、言ってた」
「……」
「リーネは、ティアナさんのことは嫌いか?」
もう一度、問いかける。しばしの沈黙の後、彼女は諦めたように振り返った。
「個人としては好きでも嫌いでもないわ。そんな感情を持つほど接触があったわけじゃないもの。
……小さい頃、たった一度だけ会ったときに頭を撫でられた。それだけなのよ」
「なら、会わない理由もないよな」
「会う理由もないわ」
ばっさりと切り捨ててリーネはため息交じりに問いかけてきた。
「会わせたいの?」
「別に。俺はリーネの好きにすればいいと思ってる」
本心を告げると、しかし彼女は半目で睨んできた。嘘をついたと思われたらしい。
「本当だって。ただ、もう二度と会わないかもしれない人なら今会っても良いんじゃないかとは思う。
俺はほら、そういう家族とか持ってないからわかんないけどさ。アレクがリーネのためだと言った、それは本当だと思うんだよ」
考え方は違うけれど、リーネのためを思っているということは同じだから。もっとも、リーネにとっては有難迷惑かもしれないが。
理解は出来ないし、同意もできない。でもヒースはアレクを信じている。
「それにやらないで後悔するよりやって後悔する方が諦めもつくだろ。
じゃ、俺ティアナさんの見送りに行くから。帰ったら迎えに来るよ」
リーネに背を向けてひらひらと手を振る。ティアナとアレクは残念がるだろうが、会いたくないと言っている以上強制はできない。あとはあの人が帰れば全ては元通りだ。
「待ちなさい」
苛立ちを隠せない、冷たい声がヒースを呼びとめた。振り向いてぎょっとする。リーネの背後で泉の水が立ち上がり、うごめいている。そのまま崩れれば衝撃で泉から溢れてヒースを呑み込むだろう。ついこの前味わったばかりの、死に至る恐怖がヒースの体を硬直させる。
それを知ってか知らずかリーネは忌々しげに舌打ちをした後、泉から上がってヒースの隣に来た。水は、リーネが泉から離れると暴れることもなく元に戻る。
「……行くわ。ええ行きますとも。行けばいいんでしょう。案内して頂戴」
ほとんどやけになっているようだったが、彼女が望むならヒースは従うだけだ。水が元に戻ったことでひそりと安堵の息を吐くと、町の外れ、最初にティアナがこの町へ訪れた時に通ってきた道へと足を向けた。
そこにはすでにティアナと、見送りに来た人たちがいた。アレク、ルツィエ、薬屋。既に医者は興味を失っているだろうし探偵は多忙だから、これにヒースとリーネで全員だろう。
ティアナは三人に順番に頭を下げて、丁寧に感謝と礼を告げていた。それぞれと言葉を交わすと、次にヒースの元へやってきて深々と頭を下げた。
「ヒースさん、本当にありがとうございました」
「俺は何もしてないよ」
「いいえ」
顔をあげて柔らかく微笑む。それはどこかリーネに似ていた。
「貴方やアレクシアさん、ルツィエさんの助力があったからこそ、リーネは動いてくれました。お医者様や薬屋様、探偵様の助力があったからこそ、薬は完成し、我が一族は滅びをまぬがれました。どなたか一人でも欠けていれば、果たされなかったでしょう。そして」
ティアナはヒースの後ろで腕を組みそっぽを向いているリーネへ視線を移した。
「最後にあの子を連れて来てくださいました。本当に、ありがとうございます」
そしてティアナはリーネの前に立った。リーネは明後日の方向を向いたままだ。邪魔をしては悪いかなと離れようとしたら睨まれてしまったので、仕方なくその場に留まる。
「リーネ」
「……」
「貴女への感謝は、言葉にすることができません。我が一族が貴女にしたことを思えば……
私はこれから一族の元へ戻り、この薬が貴女によってもたらされたことを伝えましょう。貴女なしでは我らは救われなかったと知らしめましょう。もし貴女が、あの泉に来ることがあれば、私は喜んで貴女を迎えます。我ら水の一族の一員として」
「……余計なことをしないで」
黙ってティアナの話を聞いていたリーネは、少しだけ視線を彼女に向けた。
「私が助けたくてやったわけじゃない。あいつらへの恨みを、憎しみを、私は忘れてはいない。二度とあの泉に行くことはないし、あいつらに認めて欲しいわけじゃないわ」
「わかっています。それでも、貴女は一族の恩人です。それに……これは、私のエゴです。私はもう後悔したくはないのです。貴女の両親を助けられなかったときのように、ただ無力に嘆きたくはないのです。
貴女に会えて、本当によかった。貴女を見捨てた私が言えることではないけれど、貴女の幸福を心から祈っています」
そうして、ティアナは深く頭を垂れた。青い瞳が濡れていたのは気のせいではないはずだ。
もうリーネは彼女に答えなかった。それで構わないようで、ティアナは全員に向かってもう一度礼をすると森へと続く道を歩き出した。
これが別れ。彼女の姿は道の先で小さくなって、消えた。再び会う日が来るかどうかは誰にもわからない。
「……あーあ、疲れちゃったわ」
ルツィエと薬屋が仕事に戻り、その場にはヒース、アレク、リーネだけが残っていた。ようやく組んでいた腕を解いてリーネはため息を吐く。
「すまなかった」
「全くだわ。アレクは本当に強情すぎるわよ」
「それは性分なんだ。直しようがないから、許してくれ」
真面目なアレクの言い分に、怒るのが馬鹿馬鹿しくなったらしい。諦めたように肩を落とす。
「……いいわ、今夜はヒースのところでやけ酒を煽るから、アレクが奢ってよね」
「それで許してくれるなら安いものだ。飲み尽くしてやってくれ」
「飲み尽くされるとちょっと困るんだけどな」
底なしのリーネが本気になったら、本当に酒蔵を空にされてしまうかもしれない。
まあ、構わないか。ここしばらくでいろいろなことがあったし、今夜は貸し切りで三人で祝杯をあげよう。
「じゃあ、帰ろうか」
旅人が去った道に背を向けて、三人は住みなれた町へと戻る。
これからも変わらない時を過ごすために。




