司書:アレクシア=マドック
彼女のささやかな夢は、全て炎の中に消えた。
ごく普通の家に生まれ、優しい両親と兄弟たちに囲まれて彼女は普通の生活を営んできた。
友達と遊び、学校に通い、職を得て、いずれは結婚し子どもを産み育て、そうして死んで行くのだと疑いもしなかった。
世界が不穏に包まれ戦争が始まったとき、それが幻だったことを知った。
本を読むのも整理するのも好きな彼女は図書館の司書として勤務していたが、無論戦争と無関係にはいられなかった。男たちは徴兵され、残された女たちとわずかな男たちで街を守らなければならなくなった。
しばらく小康状態が続き、そして運命の日が訪れた。
その日、彼女はもう一人の同僚と図書館で仕事をしていた。戦時中のため図書館もほとんど開館していなかったが、放っておくわけにいかないため交代で様子を見ていたのだ。
窓を開けて空気の入れ替えをしていた時に、街中にサイレンが響き渡った。空襲警報だった。慌てて逃げ出そうとした彼女を轟音と灼熱が襲った。爆弾が落とされたのだ。
一瞬意識が途切れ、気づいた時には同僚と二人で燃え上がる図書館を呆然と見詰めていた。壊され崩れ、燃え上がる図書館。炎に揺られて舞い上がる紙片。まるで夢の中のように現実感がなく、しばらく動くことができなかった。
やがて彼女は背中の痛みに気づいた。首筋から背中にかけて、大きな火傷を負っていたのだ。逃げるときに炙られたのだろう。同僚に連れられて森の川岸まで逃げ、何とか冷やすことができたが動くのは困難であった。
動けない彼女の代わりに同僚が街の様子を見に行き、そして再び爆音が響いた。動けない彼女の前で、街の全てが破壊されていった。
彼女はただ呆然と、それを見ていた。
当たり前だったものが何もかもなくなっていくのを、見ていることしかできなかった。
同僚は戻ってこなかった。恐らく巻き込まれたのだろう。
熱でぼんやりする頭で、とにかく彼女は「逃げなければ」と思った。
ここにいてはいけない。
今街に戻っても焼け死ぬだけだ。
他に逃げた人に会えるかもしれない。
そうしてままならない体を引きずり森の奥へ進み、突然視界が開け、わけがわからぬまま意識を失い、次に目を覚ました時にはベッドの上で火傷の治療をされた後だった。
一生忘れない。瓦礫の下で息絶えた兄弟を。全身を火傷で覆われてもはや顔の判別もつかなくなった誰かのことを。助けを求める声が徐々に小さくなり、途切れた瞬間を。
全てを失って、なお一人生き延びてしまった後悔を。
【司書:アレクシア=マドック】
リーネの占いにより全ての百科事典を集め並べ終えたアレクシアは満足げにうなずいた。
やはりこうして本が規則正しく並んでいるのを見るのはとても楽しい。特にシリーズ物は全てが揃ってこそその真価を発揮する。並んだ表紙の美しさは筆舌に尽くしがたく、アレクシアはしばらくうっとりとそれを眺めていた。
しばらくして我に返ると次の本の整理に取り掛かった。この図書館はとても広い。一人で管理するのは大変ではあったが、彼女にとっては何の負担にもならない。
好きなだけ大好きな本を弄っていられるのだ。幸福と言わずなんと言おう。
蔵書目録とつき合わせながら書棚を回って行く。前任者は性格的には非常に難があったが司書としての腕は一流以上だったらしく、あまり彼女が手を出すところはない。並べ替えているのはほとんど趣味の部類に入る。
少し埃っぽい静かな空気に囲まれて、しかしアレクシアはその作業に没頭しきれなかった。気になることがある。
リーネのことだ。
初めてリーネがこの町に訪れたときの第一印象は「綺麗な人形」だった。
無表情でほとんどしゃべらず、ただそこにいるだけの人形。魂がないのかと思うほどに。なまじ容姿が優れていたためにその印象は一層際立っていた。黙って佇んでいれば、さぞ名のある人形師の仕事であろうと誰もが思っただろう。
リーネの占いの力を知ったときに誰よりも喜んだのはアレクシアであった。前任者の手によって隠された本を探す作業が難航していた時だったからだ。片端から本を探し当てていく彼女の力はとても頼りになった。
力を借りる代わりにアレクシアはリーネを自宅に招いてしばらく一緒に生活をした。彼女に感情がないわけではないことは、少しそばにいればすぐにわかった。何か事情があって彼女はこうなってしまったのだろう。詳しいことを聞きだそうとはしなかった。誰にでも触れられたくないことがある。話したくなったらいずれ聞かせてくれるだろう。
放っておけば食事すら取ろうとしないリーネに食べさせ、話しかけ、世話を焼いた。余計なことだと思われても、傲慢な考えかもしれないけども少しでも支えになればと思った。
その甲斐があったのかどうかはわからない。彼女は少しずつ感情を表に出せるようになり、今の彼女から昔の彼女を連想することは出来なくなった。わがままを言うようにもなって、心を許してくれていると思うと嬉しかった。
今では随分町にも馴染んで、酒場店主とよく話をしているのを見る。御者も通りがかると水死体寝をからかっているようだ。
だが彼女は「人も精霊みんな大っ嫌い」と公言している。外から来た旅人のためになど絶対に力を使いたがらない。すげなく追い返された旅人を見つけると、他の町人たちは嫌がる彼女を何とかなだめすかして占いをしてもらうのだ。そのあとしばらくはぶーたれているリーネが噴水に水死体のごとく浮くことになる。
過去の出来事が関係しているのだろうことは間違いないだろうが、世界を拒絶するような彼女の態度には隠しきれない寂しさがあった。それを、少しでも癒してあげたかった。「葬儀屋を喜ばせてあげるのよ」なんて台詞を言わないでほしかった。
ちりん。
入口のカウンターに置いたベルの音が響いてアレクシアは我に返った。物思いに沈んですっかり手も止まっていたようだ。ふ、と息をついて持っていた本を書架に戻し、アレクシアはカウンターへ向かう。
どうせ知り合いだろうと思っていたのだが、カウンターの前で所在無げにあたりを見回している女性は町人ではなかった。
肩口のあたりでばっさりと切り落とされた透き通るような青い髪。何故か切り口はじぐざぐだ。切ったばかりなのだろうか。髪と同じ、宝石のような青い瞳。華奢な体。滑らかな肌は一度も日に焼けたことがないような白さだ。左手の先から肘のあたりまでを包んでいる包帯が酷く歪な印象を与える以外は人とは思えない存在だった。
見知らぬ女性の姿を見たアレクシアは息を呑んだ。彼女が、リーネによく似た雰囲気を持っていたからだ。もっともリーネが時に氾濫をおこす激しい川だとしたら、彼女はもっと穏やかな野原を流れる小川といった様子ではあったが。
どこか辛そうな表情を持った女性はアレクシアを見つけるとほっとしたように微笑んで緩やかに頭を下げた。
「初めまして。貴女がこの図書館の司書でいらっしゃいますか?」
落ちついた柔らかい声音はさやさやと流れる水を連想させるが、しかしわずかに息切れしているようだ。アレクシアは驚きを隠しながら女性に答えた。
「はい。アレクシア=マドックと申します」
「私はティアナと申します。お医者様からの紹介で参りました」
「医者の?」
アレクシアは眉を潜めた。この町の医者は性格はともかく非常に腕がいい。アレクシアの背中を治療してくれたのもこの医者だ。ということはこの旅人は病を患っているのだろう。辛そうに見えるのはそのせいだ。
しかし治療に訪れた旅人を何故アレクシアに紹介したのか。
無論心当たりがあった。
「占い師への仲介ですね?」
「はい」
ティアナはこくりと頷いた。
「お医者様から貴女を頼るようにと言付かっております」
旅人がリーネに占いを頼むには、町人の仲介が必須である。通常ならそこそこ仲のよい町人であれば押し切れるのだが、リーネの機嫌が悪い時などは相手が限られる。もっとも戦績がいいのは無論アレクシアだ。
何故占いが必要なのか深く事情を探るつもりはない。医者が必要だと言った、それで十分だ。アレクシアは医者が嫌いだが腕は確かであることは間違いなく、病人を突っぱねるつもりはもとよりない。
それでもすぐに答えられなかったのには理由があった。
「……失礼ですが、貴女は水の精霊でいらっしゃる?」
突然の問いかけに、ティアナは少し首を傾げながらも頷いた。
「はい、そうです。それが、何か?」
あまり当たってほしくない予想は見事的中した。彼女はリーネが何よりも忌み嫌う水の精霊なのだ。
「……いえ、何でもありません」
そう答えはしたものの、アレクシアは迷った。この女性は決して悪い人ではない。しかし彼女をリーネの元へ連れて行ってもよいものか。リーネを傷付けることになりはしないだろうか。
迷う様子を見せたアレクシアに、断られるかもしれないと思ったらしいティアナは真剣な表情で頭を下げた。
「どうかお願いいたします。我が一族が滅びの危機に瀕しているのです。どうか、どうか占い師の元へ」
言葉の途中でめまいでもしたのか、ティアナはがくりと膝をついた。慌てて支えようと伸ばした手を強く掴まれる。
「お願いです。私たちを救ってください」
俯きながら零れたのは血を吐くような言葉だった。彼女は何もかもを失おうとしているのだ……自分の命さえ。
己の後悔が、胸をよぎった。
「……わかりました、お連れしましょう。出来うる限りの助力をします」
「あ、ありがとうございます……!」
辛そうにしながらも表情に力が戻った。アレクシアは彼女を立たせてやり、イスの方へ連れて行こうとしたのだが彼女がそれを断った。
「どうか、一刻も早く。私なら大丈夫です」
本人がそう言うのでは仕方がないので、ティアナの体を支えながらリーネの元へ向かうことにした。
あまり速く歩くことのできないティアナに合わせてゆっくりと歩きなれた道を行く。
向かう途中で一応ティアナには断りを入れた。占い師は大変気分屋で、最悪占ってもらえないこともあると言うと、それでも構わないと頷いた。可能性がわずかでもあるのならそれにすがりたいと。
ままならない体で先を急ぐ彼女をやんわりとたしなめながら徐々に噴水の広場が近づいてくる。
いつもの場所にはリーネがいて、その前には酒場店主のヒースがいた。どうやら彼はリーネに惚れているらしく、そっけなくされてもめげることなく通っている。何を話しているのか、笑顔のヒースにリーネは鼻で笑うような仕草を見せた。
近づいていくと先にヒースがこちらに気づいた。軽く手をあげて、ティアナを見てわずかに首を傾げる。続いて噴水の縁に肘を突いていたリーネが気づき、
仮面が剥がれ落ちた。
そう形容するしかない表情の変化だった。先ほどまで見せていた感情の動きが剥がれるようになくなって、凍りついたような無表情へ変わる。それは彼女がこの町に来たばかりの時に見せていたものと全く同じ。
周囲の気温さえ下がったかと思わせるほどの変化にヒースは戸惑いの表情を浮かべてこちらとリーネを見ている。彼はリーネよりもあとに来たから昔の彼女を知らないのだ。
「リーネ」
アレクシアが呼んでもリーネは反応しなかった。ゆっくりと噴水から立ち上がると何の感情も浮かんでいない目でティアナを見つめている。
意外なことに反応したのはティアナだった。
「リーネ……? 貴女、リーネなの?! 生きて……!」
少なくともその声音に嫌悪や忌避といった感情はこもっていなかった。むしろ驚きと懐かしさ、そして安堵があったように思う。しかしリーネの返答は刺すような声だった。
「こっちへ来ないで」
静かなのに有無を言わせない迫力があり、一歩を踏み出しかけたティアナの動きを止めるには十分だった。
「何をしに来たの。あの世界から私を追い出して、次はここからも私の居場所を奪おうというの?」
「違う、違うわ、私は貴女がここにいるなんて知らなかった」
「なら、今すぐに消えて。二度と姿を見せないで」
徹底的な拒絶。話を聞く気もないらしい。言い放って噴水から出たリーネはこちらに背を向けた。
「待て、リーネ。ティアナさんはお前を害そうと来たわけじゃない。彼女の一族が今滅びに瀕していて、お前の力を借りに来たんだ」
アレクシアが言うと、リーネはわずかに顔を動かした。といっても表情は長い髪に隠れたままで見ることができない。紡ぎだされるのはやはり冷たい声音だった。
「ならば滅びればいい。私は私を否定した者どものためになど力を使わない。大人しく消えてなくなるがいい」
「リーネ!」
ティアナが悲痛な声でリーネを呼んだが、彼女は全く反応を示さずにどこかへ歩いて行く。あとを追おうとしたティアナの体から力が抜けて、アレクシアは反射的にティアナの体を抱きとめた。
これではリーネを追うことができない。アレクシアは呆然と成り行きを見守っていたヒースに声をかけた。
「ヒース! リーネをこのまま一人で行かせるな! 私はティアナさんを医者の所へ連れて行く!」
「え? あ、ああ。リーネ、待ってくれよリーネ!」
慌てて駆け出すヒースを見送り、アレクシアは荒い息を吐くティアナを連れて医者の元へと急いだ。
医者は顔色の悪いティアナを見ると驚きもせずに一つのベッドを指した。アレクシアが彼女をベッドへ連れていく間にグラスに水を入れて持ってくる。薬でも入っていたのか、飲んでしばらくするとティアナの呼吸が落ちついてきた。
「大丈夫ですか?」
「……、はい、ありがとう、ございます……」
とはいえ病症が良くなったわけではない。ティアナは力尽きたように瞼を閉じた。
「……リーネ……」
小さく聞こえた呟き。あとで話を聞かねばならないだろう。まさか知り合いとは思わなかったから連れて行ったのだが、早計であったようだ。
リーネを傷付けた。久しぶりに見る、何もかもを拒絶したあの表情。
後悔が重石のように胸にわだかまる。
「アレクぅ~……」
とても情けない声を出しながらヒースが入ってきたのはアレクシアが無意識のうちに親指の爪を噛んだ時だった。
「ヒース! リーネは」
「森の泉の底に潜っちゃった。そこの人が帰るまで絶対に出てこないって」
「……止められなかったか」
「だって! だってリーネのやつ触ったら絶交だって言うんだよ!? あれは絶対本気だった! 俺に一体どうしろって言うのさ!?」
半泣きで叫ぶヒースに、アレクシアは頭を抱えた。子どもの喧嘩かと思わないでもなかったが、今回はリーネは本気であろうし、彼女に惚れているヒースにとってそれはそれは耐え難いことであることは間違いない。
アレクシアは頭を抱えたくなったが、とにかく事情を把握しなければならない。ティアナを休ませている間に医者に話を聞くことにした。
「なあ、一体どうなってるんだよ! あの人は誰なんだ? リーネはどうしちゃったんだ!?」
説明を求めるヒースはひとまず無視する。
医者が語ることによると、ティアナの包帯で覆われた手は病に侵され黒く変色し、末端部分から崩れそうになっているのだという。病の原因は医者と探偵と薬屋でほぼ突き止めたそうなのだが(詳しく語られてもわからなそうだったので聞かなかった)、肝心の薬の材料が手に入らないらしい。
水の精霊に効く薬には、水に属するものが必要だった。“水中に咲く花”というのがそれらしいのだが、医者と薬屋の手元にはなく、探偵も大まかな情報をかろうじて入手できただけだったそうだ。水中で自由に動けなければ捜索は難しい。それで水の中でも呼吸でき、なおかつ占いの力を持つリーネに白羽の矢を立てたというわけだった。
事情の説明の後、伝染する病気なので水に触れさせないこと、包帯を外さないことと注意を受けてアレクシアは医者との話を打ち切った。彼が手元で弄んでいる青い糸の束が、糸ではなく髪だと気付き眉をしかめる。ティアナが払った代償はそれだろう。医者は治療の代償を金ではなく娯楽で求める。それがアレクシアは大嫌いだった。
ティアナのいる部屋に戻ると、彼女はベッドの上に起き上がっていた。
「大丈夫ですか。まだあまり無理をしない方が」
まだ辛そうに息を吐く彼女にアレクシアが声をかけると、返事を待たずにヒースの荒い声が響いた。
「あんた一体誰なんだよ! リーネに何したんだ!」
「ヒースっ! 相手は病人だぞ!」
掴みかからんばかりに詰め寄ったヒースを引き離す。敵愾心をむき出しにしてティアナを睨みつけるヒースに、ティアナは優しくて、少し悲しそうな笑みを浮かべた。
「あの子は、いい友人に恵まれたのですね」
「……お聞きしても?」
躊躇いがちに尋ねれば、ティアナはこくりと頷き一つ大きく息を吸った。
「人で言うならば、私とあの子は叔母と姪の関係にあたります」
アレクシアは息を飲んだ。リーネの一族。恐らくは彼女がことさら精霊を嫌う元凶。
恐らく自分は、一番彼女を傷付けることをしてしまった。
「……御存知でしたか、我ら一族があの子に何をしたのか」
「……いいえ、詳しい話は知りません、が……リーネは、精霊が大嫌いなのです」
「そう……ですか」
ため息をつくティアナに、ヒースが疑問を投げかけた。
「どういうことなんだよ。わかるように説明してくれ」
最初のリーネを知らず、特に過去の詮索もしていないであろうヒースにはさっぱりわからないだろう。
「はい、お話しましょう」
彼女はゆっくりと、リーネの過去を語った。
リーネの母は水の精霊であり、人間の男と禁じられた恋に落ちて子どもをもうけたこと。精霊と人との間に生まれたリーネを、精霊も人も拒絶したこと。父と母が早くに亡くなった後、人間の叔母がリーネを守り育てたこと。その後のことはよく知らず、何十年後かにふらりと一族の泉に現れて拒絶されてから姿を消したということ。
「……あの子が我らを恨むのも仕方のないことです。人にも精霊にも拒絶され、さぞつらい思いをしたことでしょう……」
「……それでよくも、力を貸せなんて言えたもんだ」
「ヒース!」
きつい声でたしなめるが、ヒースはそっぽを向いてしまう。
「いいのです、アレクシアさん。その方の言う通り。知らなかったとはいえあの子を傷付けてしまった。あの子の復讐は正当なものです。もしそれで我らが滅ぶのだとしたら、それも運命なのでしょう」
後悔の深くにじんだ声。こぼされた涙。窓からの光に照らされて人ならざる美貌の妖精が嘆く姿はまるで一枚の絵画のように美しく、哀しい。
……彼女の一族はリーネを忌んでいたというが、では彼女自身はどうなのだろう。リーネに会ってからのティアナの行動からはとてもとてもそうは思えない。
「貴女は、違うでしょう?」
「……え?」
「貴女は、リーネを拒絶していない。リーネが生きていたことを本当に喜んでいた。違いますか?」
ティアナはしかし、俯きながら首を横に振った。
「だから何だというのでしょう。私はあの子を見捨てました。あの子を救えませんでした。一族を捨てることができませんでした。あの子の父親が沈んだ時も、母親が亡くなったときも、何もすることができませんでした。
母親の足元に隠れてはにかんでいたあの子が大きくなった姿を見ることができた、それだけで過ぎるくらいです。これ以上あの子に迷惑をかけるわけにはいきません」
そうして彼女はアレクシアを見ると儚く微笑んだ。
「どうぞ、あの子を宜しくお願いいたします。私が言えた義理ではございませんが、心よりお願いいたします。もう少し体が落ち着いたら、私はすぐにこの町から出ていきましょう」
それは、全てを諦めた微笑みだった。一族の滅びを受け入れた、死に逝く者の。
いけない、と思った。それだけはいけない。リーネの一族を滅びさせてはいけない。リーネが今どう思おうと、彼女に連なるものを消し去ってはいけない。
自分のように全てを失う悲しみを、負わせてはならない。
「ティアナさん。時間をください」
「……アレクシアさん?」
「少しでいい。貴女がこの町を出ていく前に、私に時間をください。
見つかるかどうかも分かりません。ただ貴女の時間を浪費させてしまうだけかもしれない。それを承知でお願いします。
私が、探しに行きます」
「アレク!?」
ティアナは呆然とアレクを見つめ、ヒースは驚愕の叫びをあげた。
「何考えてんだよ! あんたが、リーネを裏切るのか!?」
「ヒース」
怒りをあらわに詰め寄ってきた青年に、アレクシアは静かに問いかけた。
「お前は物心ついた時からずっと旅をしていたんだったか」
「だから何だよ!? それが今何の関係がある!」
「ならばわからないだろう。定住し、一定のルールに縛られて生きるものたちの利点と欠点が。ティアナさんの苦悩と悲哀が。リーネが失ったものと、まだ持っているものが」
「……何が言いたい!」
「全てを失わせてはならない。リーネを、本当に一人にしてはならないと言っているんだ」
引く気はない。決めたのだ。
剣呑な光を放つ青い瞳と睨みあうことしばし。折れたのはヒースの方だった。舌打ちをしながら視線を逸らした。
「あんたが何を言っているのか俺にはわからない。だから一つだけ聞く。それは、リーネのためなんだな?」
「もちろんだ。少なくとも、私はそう思っている」
答えると、ヒースは納得したのか、言うだけ無駄だと思ったのか、ぶすくれた表情のまま口をつぐんだ。
「アレクシアさん……」
「試させてください。お願いします」
放心したような表情で名前を呼ぶティアナにもう一度頼むと、彼女は感極まったように顔を伏せた。
「本当に……あの子はよい友人に恵まれました……」
一週間、と約束してアレクシアは行動を開始した。まずは探偵のところへ行き“水中に咲く花”の形状や生息地域を確認する。幸いその辺りの情報は入手できていたらしい。
海の底の大地に六枚の薄青の花弁を持ってぼんやりと光を放つ花。目撃情報がある時代と地域を特定すると、今度は時計屋へ向かう。対価を支払い、ここで目的の時代、場所へと導く時計を貸してもらうのだ。これがなければ時間を超えることができない。
行き先は中世ヨーロッパ。滅多に人が訪れない海岸に設定してもらったので服装などはあまり気にしなくて大丈夫だろう。
次に、御者のところへ向かった。協力を仰ぐためだ。実を言うとアレクシアは泳ぐのが得意ではない。そもそも人である以上水中で長時間活動することは不可能だ。あいにく、アレクシアに協力的で水中で活動できる者で手が空いているものがほとんどいなかった。そこで、水馬であるカルピエに協力してもらうことにした。彼女は水中でも自由に動き回ることができる。
事情を話すとルツィエは快く了解してくれた。彼女自身も探してくれるという。深く礼を述べてその他の支度を整えた。ついでに人手を増やすため、ヒースを無理やり連れていくことにした。
昼頃から突貫で準備をして、夕方前には出発できることになった。
馬車に乗せてもらい、森を超える前にリーネが沈んでいる泉に寄ってもらった。泉の水に手を触れさせて水面に向かって話しかける。これで聞こえるはずだ。
「リーネ。今から、ティアナさんの探している薬を探しに行ってくる」
わずかに水面が揺れた。風のせいではない。恐らくリーネの感情の揺らぎが表れているのだろう。
「私はあの人を失わせたくない。あの人はお前の血族だ……認めたくなくても。お前を一人にはしたくないんだよ」
リーネからの返事はない。泉の水面は凪ぎ、もはや何の反応も見せなかった。……いや、凪いでいることそのものが返事なのかもしれなかった。
「行ってくる」
最後にそう告げて、アレクシア、ヒース、ルツィエ、カルピエは森を超え、外界へと旅立った。