序章の騎士 ―THE TOWER OF PRINCESS EPISODE 0―
PROLOGUE
真っ暗闇。静寂。
時々、パラパラと本をめくる音が、電車が通り過ぎるように過ぎ去る。
時々、林檎、ティーカップ、泡、そんな脈絡のない物がふわふわと浮いて流れていく。
おまえは”違う”。
おまえは”主人公ではない”。
過ぎ去る音や物が、時々、そう話しかけてくることがある。
幻聴だ。
知っている。
僕は、クライアントを探し求めて、ただ、歩いている。
僕は、僕を求める誰かがいないと、存在しない。
僕は、僕の名前は。
トン。
突然目の前にドアが出現する。
木の丸みのあるドアだ。
少し森の香りが染み出している。
ドアにかけられた標識の文字を指で伝いながら読む。
『クロノス』
ノブに手をかけるまでもなく、ドアは自然と開いた。
EPISODE1
木漏れ日が不自然なシルエットに遮られる。
森の闇に紛れた獰猛な爪と眼光が走る。
木のなぎ倒された後に飛び乗り、左手の簡素な剣の戦闘力を予想する。
確実なスピード、確実なタイミングで。
回り込み、剣が肉に食い込む、引き抜く、身を引く、とどめ、呼吸。
シミュレーション通り、魔物の粘着質な体液が弧を描き、どうっと体が倒れる。
沈黙、木々のざわめき。
穏便な昼の森の空気が戻ってくる。
パチパチパチと、ひとつ呼吸をおいて、小さい手が鳴らす拍手が響く。
「あ、ありがとうございますっ!!すごい…助かりました…!!」
素直な感嘆の表情を浮かべた妖精が興奮とともに握手を求めてくる。
「私、エインセール、見ての通りかよわい妖精です…っ」
多分、この子はクライアントではないな…。
その純朴な瞳と反応を見ながら求められるがまま握手をすると、ブンブン振り回される。
彼女は”強いからついてきてくれ”といった趣旨の話をしながら、手を引いていく。
おそらく、この物語に誘われてすぐの魔物は、クライアントからの贈り物だろう。
小手調べといったところか。
そして、今手を引いている妖精の彼女はナビゲーター。
この物語の構成を、頭の中で組み立てていく。
彼女に連れられて来た村では、6名の姫君が集っていた。
何やらもめている。
そのひとりひとりの表情、会話を読み取り、性格を把握する。
「う〜ん、どうもこじれていますね…」
エインセールは困った顔で6名の姫君を見回した。
呪いによって眠りについた姫君、この世界の安定の象徴。
混乱をきたす情勢。
彼女を目覚めさせようとする派閥。
彼女の目覚めよりこの世界の安泰を優先する派閥。
ふたつの派閥がお互いを睨み合う。
それぞれの派閥の頭が二人。
金髪と青い瞳、正義を身にまとった鉄槌の名が似合う「シンデレラ」。
代々王族に仕えし姫騎士の血統であり、この世界の有力者。
一方紫の瞳と漆黒の髪を持つ孤高の女王「アンネローゼ」。
聖女と腹違いの妹という身分であり、城塞都市をひとり率いる王族。
この二人が、この物語の主軸か。
僕は二人の美しい姫君を見比べた。
「私は私の思うままに進むのみ。それではごきげんよう」
「…アンネローゼ…まだ話は終わっていない…!!」
睨むシンデレラ、背を向けるアンネローゼ。
その姿を見届ける。
あの二人の間に流れる独特の空気は、ただの派閥争いを超えているように感じるが…。
考えこむと、エインセールは視界に飛び込んでそれを遮断する。
「ところで、あなたのお名前、まだ訊いてませんでした」
ー…”クロノス"。
ドアのひんやりした感覚を思い起こしながらいうと、エインセールの目が突然和らぐ。
「ああっオズヴァルト様のお客様ですね!!”クロノス”様が来たら案内するよう、言われていたのです♫」
こちらです、と手を引かれるまま、小さな家の扉を開く。
温かい室内、丁寧に整理整頓された分厚い本が壁一面に並んでいる。
大きな木机には、今はまだ白紙のページが広げられた本が一冊。
黒い羽ペンをペン立てに戻し、椅子に座っていた男が振り返った。
「よく来てくれたね、クロノス」
男は、メガネの奥で、底の読めない笑顔をニコリと浮かべた。
端正な顔立ち、整った茶色いベスト。赤い髪の毛がさらりとなびく。
「……あなたが私のクライアントですね」
「その通り」
パタン、とオズヴァルトが本を閉じた瞬間、時が止まった。
エインセールのまばたきも、木々のざわめきも、道の雑音も。
「私はオズヴァルト。物語の支配人。観察者。…『序章の騎士』である君も、同じような立場だろう」
「ええ…1点違うとすれば、僕は物語にすら登場しないということ」
オズヴァルトが時を止めたこの時だけ、僕は”僕"として存在する。言葉も、声として相手に届けられた。
「でも一方で君がいなければ、物語すら存在しない」
オズヴァルトは微笑み、来てくれてありがとう、と両肩を叩き、説明を始めた。
「この物語は、いばらの塔で呪いの眠りにつく姫によって混乱する世界に、それぞれの想いを抱いた姫君たちが立ち向かう…そして主人公は、騎士。その騎士の選択肢が、物語を紡ぐ」
コクリ、と僕は頷く。
僕は『序章の騎士』。
物語を紡ぐ騎士ではないし、この物語の結末を知ることも、ないだろう。
お前は違うんだよ、主人公ではないのだよ、とオズヴァルトに囁かれている気がする。
最も、この幻聴はずっと、ずうっと僕の耳のそばにあるのだが。
「だが、この物語には足りないものがある。それは2人の姫の、成熟」
オズヴァルトが掲げた左右の手に、青と赤に煙る魔法の火の玉が浮かび上がる。
「正義の鉄槌、シンデレラ。孤高の果実、アンネローゼ」
美しい姫君、2人の姿が炎に揺らめき、こちらを見つめる。
「2人は幼い対立を終えられていない。まだいばら姫の呪いに立ち向かえるだけの成長を遂げていないのだよ」
左右の炎はオズヴァルトの前で火花を散らし、消えた。
「2人の心を解き放ち、いずれ始まる物語に登場するにふさわしい姫君にすること。それが、序章の騎士クロノス、君の役目だ」
部屋の中をコツコツと歩きながら説明していたオズヴァルトの朗々たる声はそこで途切れる。
僕はそのスラリとした立ち姿をじっと見つめた。
窓からの逆光をあびて、全てを見透かす影の横顔は綺麗だった。
「今君が存在することを、私は記さない。なぜなら、君には2つの物語を行き来してもらいたいからだ」
「シンデレラの物語と、アンネローゼの物語を…ということですね」
僕は、確認するように、つぶやいた。
「私が物語を記しだす時。それは、ひとつの物語が選択された時、つまり、騎士の物語の始まりの時であり、クロノス、君の描かれなかった物語の終わりを意味する」
近づいて来たオズヴァルトの右手が、僕の前髪を分けた。
「綺麗な眼をしているね。その眼でいくつの物語を観てきた?」
「…数えていないのでわかりません」
「そうか…そう、それが君にしか出来ないこと、そして君の存在する理由」
じっとオズヴァルトに見つめられる。
「この物語の準備ができたら、また君は他の物語へ旅出つ。そうだね」
それは、”くれぐれもこの物語に手を出すな"という忠告のようにも聴こえた。
僕は見つめ返して、はい、と一言だけ返した。
「それでは、よろしく頼んだよ。序章の騎士」
にこり、と笑ったオズヴァルトは、本をバラリと開いた。
瞬時、風が一迅吹き、窓の外のざわめきが湧き上がるように聞こえ始める。
「クロノス様はすごいんですよ!?なんとですね…」
エインセールが身振り手振りを加えながらオズヴァルトに話しかける姿。
微笑んで聴いているオズヴァルト。
僕は眼を閉じた。
…”それが僕の存在する理由”。
今回は序章の騎士。
ある時は魔女の手下だった。
ある時は勇者の友人だった。
様々な、数えきれないほどの肩書と名前を旅した。
けれど、僕を記憶する、記録する物語はひとつとしてない。
「まず、騎士として姫に仕えなさい。話はそこからだ」
オズヴァルトは微笑んで、次のミッションを与えた。
EPISODE2
「新しい騎士…?」
「そうなんですのよ…どうしても白雪姫に仕えたいんですって」
城塞都市シュネーケンを守る直属の騎士団・セブンスドワーフスの一人、
ナイドは、跪きながらもうわさ話をする女性特有の手つきで話に色を添えた。
彼は男だ。生物学上は。
外は雨がちらほら降っていた。
曇り空の灰色が薄暗くしたここは、城の応接間。
玉座に座る王女に謁見を許可された者だけが通れる広間。
ろうそくの灯火で浮かんだスポットに、七人の騎士が跪いている。
「おまえたちが居てくれるのだから必要ないわ」
紅い玉座に座ったアンネローゼは、柔らかく微笑みながら判断した。
「でも、最近魔物も増えてきたし、呪いは広がるばかりだし…仲間は多いに越したことないよね」
ルストは弱々しい声で言いつつ、大きな子鹿のような瞳をうるませた。
「できれば姫のこと、僕らだけで守りたいけど…ね」
彼も男だ。生物学上は。
「…なるほど…そうね…」
忠実な騎士の表情を読み取るよう、白雪姫の美しい瞳が彼らを一瞥する。
「お、俺は別に足手まといになるくらいならいらないけどな」
ホッファの口の端をついて出た一言も、所詮は添え物。
彼らはほしい、あるいは必要だ、とその騎士を見て判断したのだろう。
「…足手まといになるかどうかだけ、見て判断しようかしらね」
その言葉をきっかけに、王室の扉が開く。
小さな妖精、エインセールが恭しく跪き、事のあらましを説明し始めた。
後ろに控えている男を、観察する。
目の色が左右違う。左が赤、右が青。
それだけでちぐはぐな印象を与える。
顔そのものも、どこか寂しそうな印象と、激しく熱い何かが、混ざっていた。
黒髪であることに親近感を覚えつつも、年齢は読めない。上か、下か。
とても魅力的だ、と瞬時に思わせる癖に、
特徴という特徴が記憶に滑り込んでこない。
不思議な印象だった。
「クロノス様にお任せ下さいっ!きっとよくやってくれます!」
エインセールは小さな身体で大きくうなずき、私を両手で指し示した。
「クロノス…変わった眼をしているわね」
―人の心のなかを見ようとするうち、瞳が進化したのです。
「くくっ…それが見えたら生きていくのがさぞかし楽なことでしょう」
冗談だと思い、嘲笑に近いかたちで流す。
が、本人は至って真面目な表情を崩さない。
「クロノス様は呪いにも打ち勝つ力を持っています!」
エインセールは二人のやり取りに構わず、プレゼンテーションを続けた。
「きっとこの混乱の期を収めてくれる鍵となる存在だと…」
アンネローゼはそんな熱のこもった言葉を手で遮り、判った、と大きくうなずいた。
「クロノス」
その名を呼ぶと、唇が熱くなった。
呼ばれると同時に、彼はひざまずいた。
「私はアンネローゼ。問いたいことがあるの」
彼は目線を上げ、先を促す。瞳に見透かされているようで、少したじろいだ。
「騎士になるためであれば、私以外にも仕える相手は選べたわ。何故私に仕えることにしたの?」
―それは…―
沈黙。彼は何かを選んだようだった。
―あなたの理念に共感したからです。
「…そう。変わった人」
彼の落ち着いた声が、胸に染みこんできて、くすぐったい。
「私の騎士…頼んだわよ」
ー命尽きるまで。
「心強いこと」
そう言い残して、その場を後にした。
すぐに去らなければ。
今、自分がどんな表情をしているのかわからなかったが、
とにかく、頬が熱かったのだ。
EPISODE3
時計を巻き戻す。
キリキリキリキリキリ。
ドアを開けた所からリスタート。
エインセールを森のなかで救う。
エインセールに誘われ、6名の姫君と出会う。
オズヴァルトの元へ。
「よく来てくれたね、クロノス」
オズヴァルトは変わらない笑みで迎え、本をパタンと閉じる。
「どうだい、この世界の居心地は?」
「悪くないですね」
ククク、とオズヴァルトは声を殺して笑う。
「良かった。居心地が”良い"と出て行くのも辛くなるだろうから…そのくらいが丁度良い」
「そんなに心配なら、僕以外に任せるといい」
「いいや、君しかいないよ。君は数多の物語の秩序を創ってきた。その才を買っているのさ」
この男の本心はどこだろう。見透かそうと赤い目を走らせると、その眼球を刺すくらいの距離に人差し指が立てられる。
「その目で見ても、見えないものだってある。例えば、記録者の本心だ。これは深い深い闇の底、探ったって無駄だよ」
ニヤリと笑う男。やはりクライアントには敵わない。
僕は諦めてうつろな目を床に向けた。
「さて…次は、シンデレラの物語へ行ってくるんだね。楽しんでおいで」
本がバラバラと開かれ、時が戻る。
青い瞳をした姫君シンデレラは、忠誠を誓うとこう述べた。
「私達に上下関係はない」
勇者のようなほほ笑みをたたえて、彼女は僕を迎え入れた。
シンデレラはこの世界のこと、いばら姫のこと等を丁寧に教えてくれた。
正義感の強さ、思いやりがその説明から伝わってくる。
彼女の住む都市ルヴェールは、アンネローゼの住むシュノーケンと較べて開放的な景観だった。
シンデレラ自らが城、庭、街中等を案内してくれる。
シンデレラ様だ…!シンデレラ様!
道中、行き交う人々は皆笑顔でシンデレラに傅いた。
ー愛されているのですね。
「私も彼らを愛しているから。彼らがあってこその、都市だ。私一人では何もできない」
うつむいた表情が一瞬陰る。
「…ルクレティアが居なくなった世界は、不安という薄いベールで覆われたようだ」
彼女がじっと見つめる目線の先には、いばらに閉ざされた塔が薄ぼんやりと靄に紛れている。
「私一人では、この事態を収めることはできない。だから…ルクレティアをこの世界に早く戻さなければ」
焦燥感の混じった、切迫した声だった。
「アンネローゼ…あの暴君にこの世界を統べられてたまるものか…!」
?
赤い目で、一瞬激しくちらついた怒りの影を追う。
ルクレティアを目覚めさせて世界を救うこと、
そのためにアンネローゼは必要ない…果たしてそれだけの色だったか…?
「…ああ、すまない。案内を続けよう」
切り替えたシンデレラの笑顔は、また、鋼鉄で作られたものになっていた。
「あら…シンデレラ」
日も傾いてきた頃、ルヴェール城に戻ると、優しい雰囲気が溢れでた女性が声をかけてきた。
ちょうど街へ続く大きな階段の横に設置されたテラス席に、ケーキと紅茶のセットが置いてある。
そこからはルヴェールの街並みが一望でき、特等席のようだった。
「シンデレラ!!今ね、季節のケーキを食べていたのよ、あなたもどう?あれ?隣の人は?」
ケーキを頬張りながら話しかけてきたのは、元気ハツラツを絵に描いたような女性だった。
シンデレラは一瞬、気付かれないほどにたじろいた後、ニコリと笑って二人を指した。
「私の義理の姉…メリーナとドーリスだ。…義姉様、こちらは私の新しい騎士、クロノス」
「へぇ〜〜〜カッコいいじゃん!!やったねシンデレラ!あ、甘いもの好きだったら、クロノスもどう?ケーキ」
ドーリスが勧めてくるケーキをやんわり拒みながら、シンデレラの様子を横目で窺う。
少しおかしい。家族とのだんらんとは違った空気が出ている。
メリーナは優しい中に少し棘を持った苦笑を浮かべながら、シンデレラに潜めた声で言う。
「…あなたもルクレティア様に仕える騎士だというのに、騎士を携えるというのは、なんだか変な話じゃない?」
「…ですが、ここ最近の情勢の悪化に対して、私一人で判断を下していくのは心折れる時も…」
「あなた一人で?」
メリーナの表情は、一瞬かたくこわばる。
「…いえ、義姉様や義母様と協力して、進めていくのはもちろんですが…」
「…あなたは色々一人で抱え込んでしまうから、心配しているの」
シンデレラが居心地悪そうな沈黙を作っていると、メリーナは畳み掛けた。
「…白雪姫も妙ちくりんな騎士とやらを7人も抱え込んでいるらしいわ。あなたもその真似事を始めたの?」
「!!違います!」
「最近、思いつめてる顔なんて、あの白雪姫にそっくりよ。もう少し落ち着いて周りを頼ってみたら?」
「クロノス、行こう」
いてもたってもいられない、といった感じでシンデレラは城へ歩き出した。
その前に、感情が荒ぶっても、義姉に対して一礼を入れるところがシンデレラらしかった。
残されたメリーナは、腑に落ちない、といった感じで口の中で何かつぶやいている。
「ん〜〜なかなかシンデレラ、一緒に御茶会してくれないな〜」
ドーリスはふくれっ面で空を見上げていた。
「もともと私は姫騎士の血を正式に受け継ぐものではない。父の妾の子だ」
ガラスのように磨き上げられた廊下を進みながら、シンデレラは説明した。
「義母は、正式な血を継ぐ義姉、メリーナとドーリスは戦いや統治の才がないと判断し、私に姫騎士の座を託す判断をした」
夕日が落ちるのは早かった。暗く沈んだ廊下に、薄暗い灯火が浮かび上がる。
「表に立つのは私。裏での判断は義姉に仰ぐよう、義母からは言われている」
最上階、廊下の最奥に、大きな扉。
鍵をあける。
中は、扉とは不釣り合いなくらい小さな部屋に、ベッドと小机が収まっていた。
「私の部屋だ」
彼女自身がそっとランプを灯す。浮かび上がった顔は、だいぶ落ち着いていた。
小窓の外には、ぽつぽつと灯火を入れだした都市の家々が遥か重なって見えた。
「メリーナもドーリスも、素敵な義姉だが、この世界のことを憂慮しているわけではない」
ベッドに座り込む姫は、もう作り笑顔を浮かべてはいなかった。
その姿を、ドア元に立ち見つめていると、シンデレラはベッドの隣を、ポンポンと手で叩く。
「座れ。歩き疲れただろう。客のための椅子も何も用意していない部屋で申し訳ないが」
一瞬、姫君と寝具にふたりきりになる事について考えを巡らせたが、もう一度ポンと叩かれたため、失礼します、と隣に座った。
「誰も招かない部屋なんだ。だから、何もない。私は小さな屋上部屋で十分なんだ」
落ち着くんだ、とシンデレラは繰り返した。
「本当は、義姉様の言うとおり、アンネローゼと私の似ている所は、色々あるんだ」
ほとんど彼女の表情は闇に隠れてしまっている。
「アンネローゼも…聖女の血を正式に受け継いでいない。ルクレティアにとっては義理の妹だ」
頷き、先を促す。
長い沈黙があった。
彼女の表情が読み取れないため、沈黙の空気に何かを読み取ろうとしていると、ベッドの上で、
触れるか触れないか、指先がそっと、手に触れてきた。
冷たいガラスのような指。
こちらからもそっと寄り添うと、ふたつの手は重なった。
それ以上絡まり合うこともなく。
ただ、自分の温度がそのガラスの指に伝わって、少しずつとけて、暖かくなることを願った。
「アンネローゼにとっても、私にとっても、ルクレティアは唯一、掛け値なく自分を愛してくれる存在だったと思う」
聖女ルクレティア。
その姿は、皆の言葉からしか想像できず、靄の中、シルエットしか見えない。
「私はルクレティアが大好きだった…大好きだったんだ」
シンデレラは泣いていた。
きっと、彼女が泣くことなど、ないのだろう。
止まらない涙を必死で止めようと息を詰めている彼女の背中を、そっと抱き寄せた。
ー落ち着くまで、泣いて下さい。
ゴーン、ゴーン、ゴーン…。
七時の鐘が夕闇に溶けていく。
黒い鳥が数羽、バサバサと城塞都市の方角へ飛んでいく。
その影を、その音を感じながら、胸の中にうずくまって泣いている姫の幼さ、弱さを、
ガラスのように割ってしまわないよう、そっと撫で続けた。
EPISODE4
雨粒の大きさが、より大きくなった。
遠くでは小さく、雷の音さえ聞こえた。
城塞都市の街音は全て雨音にかき消され、城の中も会話はなかった。
アンネローゼは本を読んでいた。
自室というよりは、王族の客間といった部屋だ。
大きな真紅のソファに体を預け、手元の小机には果物を持った皿がある。
「特に用事はないわ。下がってよろしくてよ」
本から目を離さず、彼女は言う。
むしろ、そこにいると集中できないわ、といったニュアンスを、意地悪ではなく自然に伝えてくる。
この土砂降りの中、屋外のミッションをこなすのは気が引ける。
城の中の掃除でもしようか…等考えを巡らせていると、パタンと本を閉じる音が聞こえた。
「別に私の与えたことをこなすだけに時間を費やさなくてもいいじゃない。ゆっくりしてきなさい」
普段は見ない、優しい表情だった。
目元から笑うと、なんて愛しい表情をするのだろう。
一瞬、胸が高鳴るのを感じる。
ーでは、読書中失礼いたしますが、少しお話しても良いでしょうか。
「構わないわ」
本を小机に置き、ソファのあいたスペースに促される。
「何を話す?」
ーあなたの幼いころのこと…もしよければ。
「…私の幼少期…あまり良い思い出はないわね」
大きな丸みのある肘掛け部分に細い腕を乗せ、彼女は体重を横に倒す。
背中から腰にかけた曲線美が顕になる。
「…ルクレティアが…笑っていたわ。いつも、いつもね」
彼女はそっと瞳を閉じた。過去をたどり寄せているのがわかる。
「義母様も、優しかった。いつも私のこと、ルクレティアのこと、抱き寄せてくれていた」
良い思い出を探しているのか。
そんな気の遣い方をさせてしまっていることに、後悔する。
無理にこの話をするのはやめよう、と切り出そうとしていると、ふと彼女は瞳をあけた。
「けれど私は愛されていなかった。結局誰からも」
その表情の冷たさが、雨音と重なりあって、恐怖すら感じる。
「私、殺されそうになったの」
彼女は、ロッドの先についた赤黒い林檎を指で撫でた。
彼女が肌身離さず持っているロッド。
「この林檎、何年経っても朽ちない。魔力がかかっているからよ。…この林檎は人を死に至らしめる」
彼女はそっと、ロッドから取ったその林檎を両手でつかみ、魔力に魅せられた目で見つめる。
赤い唇を開き、歯を立てようとしたのを、無意識に止める。
くすくす、と笑う彼女。
「冗談よ。食べるわけないじゃない」
嘘だ。今、本当に食べようとしただろう。
僕は彼女の不安定な瞳をじっと睨む。
「…ごめんなさい、過ぎた冗談だったわ。…この林檎は、義母様からの贈り物。私は用心して食べなかった」
そのおかげで今も生きているのよ、と笑いながら彼女は言い、林檎を元の場所に戻した。
「この林檎を肌身離さず持ち歩く理由は、”誰だって私を殺そうとしている”と、忘れないためよ」
歪んだ笑み。
ーこの話を、知っている人は…ー。
「セブンスドワーフスだけよ。彼らだけは私の言い分を信じてくれた」
聖女である義母が人を殺めようとするわけがない。
みんなは白雪姫を悪魔の子、嘘つき、と非難した。
義母はまもなく亡くなり、真相は闇の中。
タイミングが悪かった。義母を暗殺したのが白雪姫ではないか、とまで噂された。
卑怯者、死んでしまえ。
そんな怒号の中、七人がそっと支えてくれた。
共に居てくれた。森の奥深く、育ててくれた。
『大丈夫、僕らも迫害を受けた。だから、君の気持ちはわかる』
『強くなろう。誰にも負けないよう、強く』
ールクレティアは…?ー
アンネローゼの表情が殺伐として、やがて無になる。
「終わり。この話は終わり。つまらないわ」
本を手に取る。
「下がって」
取り付く島もない。
一礼して、部屋を出ようとする。
一度、振り返ると、目が合った。
ー僕は…あなたを、信じています。
「………下がってちょうだい」
彼女はそれ以上本から目を離すことはなかった。
EPISODE5
森の奥深く。
今は呪いの影響か、どこか陰った印象のある森。
ひんやりとした空気と、薄い靄。
ここで、アンネローゼは育ったのか。
昨晩の強い雨のせいで、土はまだ乾ききらず、ところどころぬかるんでいる。
緑と土の匂いが濃く入り混じって、方向感覚を奪う。
「おわわわわわわわわっ!!!!」
突然、上空からズササササッと葉が落ちる音とともに、少女が降ってきた。
軽い。ちょうど二の腕に収まる所に落ちてきたので、難なく抱き上げる。
「!!!あっあ〜〜〜〜ご、ごめんなさい…っ」
顔を真っ赤にしながら、彼女は深々とかぶったフードを脱いだ。
明るい素朴な表情が可愛らしい。
「私…リーゼロッテ…あ、どこかで一度お会いしたかな…」
ーおそらく、教会の村で。
6人の姫たちの会合を拝見させてもらった、と伝えると、ひらめいたように表情が明るくなる。
「ああ!!クロノス、ですよね。私挨拶した!アンネローゼがお世話になってます」
どう考えてもお世話する相手としてリーゼロッテの方が手が焼けそうだな、と思いながら笑って挨拶する。
「あの子、大丈夫かな…最近不安定だから心配なんだよね」
そうか、この二人は友達だったか。
僕は、それとなくリーゼロッテと話し始める。
「うん、どうせ村に戻る途中で、木の枝で動けない子リスを助けようとしてただけだから…一緒に戻ろう」
彼女は屈託ない笑顔で言った。
「アンネローゼは昔っから臆病で、考え屋さんだった」
森のなかで遊ぶ二人の少女。
黒髪の少女は絶えず周囲を気にしていた。
“私はみんなから嫌われている"
”私は殺されるかもしれない"
“私なんか生まれてこなければよかった"
「だから私は”そんなことないよ”って、言ってたの」
何年もの月日をともにし、やがて顔立ちがやや幼さを薄くしてきた頃、アンネローゼは言った。
"私は…城に戻る"
「お姫様だって、一緒に住んでいた7人からは聴いていたけど、あんまり意識したことなかったからびっくりしちゃった」
“リーゼロッテ、ありがとう。私はあなたに、勇気をもらった"
「嬉しかった。私は、そばでいろんな話をして、遊んでただけだったけど、それでも感謝してくれた」
リーゼロッテは眼前に開けた小さな村を太陽のような笑顔で見つめた。
「だから、私はこの村を守って、アンネローゼを支えよう!って決めたの。住む所は違うけれど、ずっとともだちなんだ」
ーあなたは素敵な人ですね。
「ええっ!!///て、照れるな…ええっと…。ありがとう」
くしゃくしゃと髪の毛をかいた彼女は、ふと真剣な表情になって、僕の両腕を掴んだ。
「あなたも素敵な人。あなたならアンネローゼを支えられると思う。今、あの子は悩んでる。わかるんだ。…どうか、支えてあげて」
一生懸命さが、腕をつかむ強さ、瞳、言葉、全てから伝わってくる。
ー…お任せ下さい。
その言葉を転機に、リーゼロッテはまた笑顔を咲かせる。
「うん!…さあ、私の村、初めてだよね?案内するよ!」
「リーゼロッテ!探してたんだ。これ、ルヴェールの姫君から、招待状!」
郵便屋さんだろうか、可愛らしい濃紺の詰め襟を着た少年が、恭しく白い封筒を渡す。
青い蝶々があしらわれた、特別な仕様だった。
「…郵便受けにそのまま入れておいていいものか、悩んで直接渡そうと思って…」
「ありがとう!助かる!」
リーゼロッテはニコッと笑うと、全くその特別さを気にしない様子で招待状をビリビリ開いた。
「……あ〜!そうか…もうそんな時期か〜」
なになに、とその招待状を覗き込む。
「一年に一回、開催されるの。シンデレラの舞踏会」
細い筆記体が、日時を表していた。
「アンネローゼ、参加するのかな…」
そのつぶやきは、のどかな村の空に溶けていった。
EPISODE6
切先の軌跡だけが光になって舞う。
軽い。銀の剣。左右の握る強さ、手首のしなりを確認する。
夜だった。月明かりしか光源はない。
木々のざわめきが不自然なリズムを奏でたら、それは敵の合図。
多いな。
静かに狩る。
“呪い”、”いばら姫”。
それを解読していくのは、僕の役目ではない。
わかっている。
頬が濡れているので拭うと、倒した魔物の体液だった。
どす黒く、指にまとわりつく。
ルヴェールの城に戻って洗おう。
何体殺ったか数えていない。
いくつの物語を渡り歩いたかも数えていない。
数えると、人はその数に優越感を抱いたり、焦燥感を覚えたりする。
今、この瞬間の自分があるという、それだけで満足できない。
愚かさ。
誰か僕を覚えていて下さい。
その願いが、どうか月夜に照らされてクライアントに見えませんように…。
「夜に…しかも一人で討伐に行っていたのか?」
城の廊下をそっと歩いているところを、呼び止められた。
薄青い、ゆったりしたワンピース・ドレスを着たシンデレラ。
下着すらつけていないのだろう、うっすらと月夜に透けて肌の柔らかさが見え隠れした。
ー…無断で森へ行っていたこと、お許しを。
「構わない。早く暖かい部屋へ」
彼女が指し示しているのは自室だろう。
さすがにこの時刻、その衣の女性を前に、自我が保てる自信がない。
ー部屋が汚れてしまいます。清めて参ります故…
「構わない。そばに…」
そばにいて。
振り返りざま、その言葉があまりにも繊細に、そっと届いたため、時が止まったようだった。
シンデレラ。
あなたはもう立派な女性です。
その魅力にご自身で気付くべき。
戸惑う気持ちを抑えて、シンデレラの部屋に誘われる。
ーあなたは、こんな夜中に何をしていたのですか?
「眠れなかったんだ。もうすぐ…もうすぐ、舞踏会の日だ」
リーゼロッテに贈られた招待状。
あれはもうひとつの時間軸で見たものだが、いずれにせよ開催されるものらしい。
シンデレラの不安そうな表情を見て、先を促す。
彼女はベッドにうずくまって、布団を膝まで手繰り寄せていた。
「舞踏会には、各地区の代表者と、民全員を招待する。一夜限りだが、多くの人々がここに訪れる」
当然護衛も厳重に敷かなければならない、他地区が手薄になることも鑑みなくては…ー
そういった堅苦しい言葉を話す時、シンデレラはオンの顔になる。
正義感の宿った顔で話している言葉が、ふつり、と切れて、また少女のような表情になる。
「毎年、アンネローゼだけが来ない。招待しても…来ないんだ」
ー…彼女は彼女の考えがあるのではないでしょうか。
「それが怖いんだ。何を考えて来ないのか、どうして来ないのか…想像して、想像して、わからなくて…」
彼女とは、会合の時以外は一切あわない。
会っても、この前見ただろう、あんな調子だ。
ほとんど会話ができない。
ー…何か心当たりは?
「………私は…ルクレティアが…好きだった。独占しようとした。だから…目障りなのではないだろうか」
言葉の歯切れが悪い。
言葉を押し出すことで、何かを吐き出そうとして、でも理性がこらえている。そんな調子だった。
「いや…私は……王族に仕える姫騎士として、ルクレティアを尊重していたんだ。アンネローゼを卑下したわけではない」
まだ彼女の本音を引き出す所まではいけていないらしい。
少し間を置こうと考えた時、自分の手がまだ汚れていることに気がついた。
「…すまない、私が呼び止めてしまったから…」
いえ、ただ、部屋に獣の匂いが移ってしまわないかと心配で…、と僕は遠慮がちに進言する。
「…脱いでしまえばいいのではないか?」
枕に顔をなかば埋めて、彼女は言った。命令ではない。
柔らかな金髪が流れる奥に、柔らかい、白い胸が見えた。
ー…いえ…申し訳ありません。
抑えきれない自身の欲望に、顔をそむけた。
「遠慮することはない。ここに上限関係は…」
『僕は…僕は、あなたの王子ではないから、あなたを抱きしめることは許されていないのです』
思わず口を出たその言葉は、とうとうシンデレラの物語に侵食する言葉として、刻まれてしまった。
『これ以上距離を縮めることで、僕はその禁忌を冒してしまいそうです』
「………」
言葉にならない沈黙。
彼女の頬が、赤くなっているように見えた。
「すまなかった。…今日は、もう…いい」
その言葉を最後に、彼女はベッドの中に閉じこもった。
一言謝罪を口にして、その部屋を後にする。
それはやってはいけないことだよ。
オズヴァルトの声が頭の中に響く。
今、君は、シンデレラの物語に侵食した。
彼女の心を動かした。
それは、クロノス、君の役目ではない。
『わかってる…わかってます…』
息が苦しい。
「大丈夫、勝手に記されてしまった先ほどのページは、破って燃やしておくよ」
頭の中にこだましていた声が、実体として聴こえる。
しかし、その声は、幼い少女の声だった。
「なかったことになる。だからそのようにふるまえ」
声のする方に目を走らせると、そこにアリスが座っていた。
月光の下、たったひとりのティーパーティ。
以前、義姉がお茶していたテラス席で、アリスは紅茶をたっぷりと注いだ。
「…今、オズヴァルトが私を使った!全くも〜、魔力があると利用されっぱなし!アリスっていいやつ」
クスクスと笑いながら、陽気な鼻歌を歌っている。
『アリス…キミは』
「大丈夫、私はこの物語の中の人であり、外の人。どちらにもなれるの」
『…そうか…』
この物語の中で、僕が僕として会話ができる相手はオズヴァルトとこのアリス、2人だけのようだ。
その存在に、やや安心するとともに、警戒心も発生する。
彼女との接触が原因で、シンデレラやアンネローゼの物語に支障を来たすことも、禁忌だからだ。
「二人の姫君、どちらが好き?」
『僕は……』
そんなこと、決められない。
決める権利もない。
決めたくない。
どうせ、どちらとも、別れる日が来るのだから。
「決めらんな〜い?それとも決めるの怖い?」
ニタァッと笑うアリス。チェシャ猫のようだ。
…といっても、この物語にはチェシャ猫は現れるのだろうか。
彼女が主人公の物語も、いつか別の時間軸で旅をしたことがある。
『決める意味がない』
「そうかな。そうやって逃げてるだけじゃないの」
『決めて何になる』
「あなた自身がこの物語に存在することになる」
『それは禁忌だ。僕の役目ではない』
「そんなの誰が決めたの?」
『……そ…それは…』
彼女の問いは、自分自身を揺らがせる問いだった。
そうだ。誰が言ったんだ。
気がつけばいつも、あの暗闇で、求める人を待っているんだ。
数多の物語が過ぎ去るのを見ながら。
でも誰が。誰が僕の役目を決めたんだろう?
「どれかひとつの物語を決めて、そこに定住することだってあなたは出来るでしょ」
『でも…この物語はオズヴァルトが…』
「オズヴァルトはあくまで記録する者、観察者よ。何かを変えたり強制する力はないわ」
オズヴァルトの頭の中に響く声は、今は全く聞こえない。
遮断されているのだろうか。
僕は迷う。
彼女の言っている意味を図って、迷う。
「ひとつの物語を決めることだって、大きな決断。今、あなたが持っている自由の全てを捨てることを意味するからね」
人の心を覗くこと。
物語を複数、自由に旅すること。
その度に好きな名前、好きな肩書を与えられること。
老いないこと。
『…別に…どれも要らない…』
どれも孤独。
どれも…要らない。
「じゃあ、決めれば?」
アリスの最後の紅茶がなくなった所だった。
「この序章の物語のラストシーンにふさわしい舞台が、もうすぐやってくる」
舞踏会♫
アリスは指を軽やかに踊らせた。
「ひとつ、良いことを教えてあげる。クロノスが知らない物語」
『…?』
「シンデレラはね………」
EPISODE7
「城塞都市シュノーケンを囲むように、魔物の群れが発生。直ちに軍を配置してちょうだい」
アンネローゼは軍神だった。
その日、晴れ晴れした空に届いた禍々しい状態に対しても、落ち着いて指示を飛ばした。
「指揮系統を崩すな。クロノス、おまえは私の元で全体を俯瞰して」
前線に行けば活躍できる、と口元まで出てきた言葉を、アンネローゼは横目で捉える。
「全滅したらおまえが一人で全てを片付けに行くために残しているのよ」
複雑な気持ちで頷いた。
それにしても、不自然だった。
まるで魔物がアンネローゼの城を奪いに、意図的に動いているような奇襲だった。
ー援軍を要請してはいかがでしょうか。
その数、強力さを伝聞する限り、城塞都市といえども手薄にならざるをえない状態だ。
「…ラプンツェルに…いえ、誰にも援軍は要請しないわ」
ー…シンデレラの軍は強固かつ夜に強いと伺っておりますが。
「彼女の援軍は来ないわ」
皮肉めいた声。断言する強さ。
「今夜は舞踏会ですもの。それどころじゃないでしょう」
蔑んだ笑みを浮かべたアンネローゼはバサリと黒いマントを羽織った。
「今、私以外の全ての民、姫がルヴェールに集まっている。援軍は期待しない」
彼女の指示は的確かつ素早く、司令官を配置していく。
その配置は、ある一方向に断固として魔物があぶれないように設計してあった。
そうやって、一人で抱え込んで、魔物をルヴェールに向かわないように仕向けている。
『白雪姫…アンネローゼ』
「…?」
振り返った彼女を、じっと見つめた。
美しい姫君。孤高の姫君。
誰も信じられない、誰にも憎まれている、と思い込んで生きてきた。
その証が、ロッド先に光る毒林檎。
『私は永久にあなたの騎士です』
その言葉を落とし、そっと抱きしめた。
その顔が動揺と照れで真っ赤になった瞬間、そっと額にキスをする。
時が止まる。
風になびいた黒髪の1本1本がぴたりと。
白雪姫、この記憶は、残ってはいけないんです。
ごめんね。そっと、時計の針を戻す。
止まった時の中で、恋をした少女のような顔をじっと見つめた。
唇にキスをしてしまえば、このまま世界すら壊してしまうだろう。
EPISODE8
豪奢なレースを文様のように張り巡らせた衝立の奥で、
仕立屋がせわしなく動いていることだけがわかる。
昼下がり、ここはシンデレラの部屋。
晴れ渡った青空が窓の外に広がっている。
あまりの心地良い色に、そっと窓を開ける。
冷たい風が吹き込んだ。
「仮にも姫君が着替えている最中だ、控えてほしい」
戸惑ったような声に振り向くと、衝立の向こうからそっと出てきたシンデレラ。
美しい。
その言葉しか見当たらず、心臓だけがお喋りに高鳴る。
窓の外の青空と同じように、深くて透き通ったドレスが、そっとなびく。
鎧にしっかりと抑えられている胸元は、柔らかさがそのまま伝わってきそうな曲線を描いている。
―綺麗です。
「…ありがとう」
それ以上の会話は二人の間になく、ただただ、そっと風が吹き通るだけだった。
「このドレスで、今日の舞踏会に参加しようと思う。…見てくれて、ありがとう」
―靴は…その靴ですか?
純白に青い蝶々が留まったデザインのハイヒールを目に止める。
こんなに細い脚首をしていたのか、と思いながら。
「ああ…そのつもりだが」
美しいけれど、何か足りないような。
その違和感を言葉にしようとまどっていると、シンデレラの元に使いの者が足を忍ばせて来る。
その表情と簡易な礼が、緊急事態を示す。
「何?シュネーケンの周囲に魔物の群れが…」
…”白雪姫"。
ハッとする。
2つの時間軸は重ならない。
「援軍を送れ!」
―シンデレラ。私も向かわせて下さい。
「…クロノスは残れ」
―!?何故…
「残ってくれ。頼む」
その切迫した表情から、何か、別のものを読み取る。
「…ルヴェールがもぬけの殻では、魔物にこちらも攻めてくれと言っているようなものだ」
自分に言い聞かせるように、シンデレラは震える声で言う。
ぎゅっと青いスカートを握りしめながら。
「クロノスは…クロノスは私を守る騎士なんだ…そうだろう?」
彼女が見つめてきた瞳は涙に濡れていた。
「違うのか?」
―私はあなたの騎士です。
細い手は、そっと握ると硝子のようにひんやりと冷たかった。
―あなたは正義の象徴。どうか割れないで。
涙が伝う頬をそっと拭う。
「私は…私は…正義の象徴なんかではないんだ…」
その言葉をきっかけに、シンデレラは幼い子どものように表情を崩した。
号泣する彼女を胸の中に抱きしめて収めた。
一瞬、視界が揺らぐ。
…無理ですよ、オズヴァルト。
こんな幼くて、危なっかしい姫を、抱きしめずに、いられましょうか。
「私は白雪姫が憎いんだ…!!」
泣きじゃくるシンデレラが、胸の中に落とす本音。
“…ほう、引き出したね、その言葉を。"
オズヴァルトはきっと、どこかで綺麗な筆記体を本に走らせながら笑っているのだろう。
“それがクロノス、君の役目。彼女たちを、開き、咲かせること"
「私は…白雪姫のことがずっと…羨ましかった…」
“クロノス、開いてあげよう。ずうっと昔のページを。さあ、ご覧"
EPISODE9
きゃはは、きゃはは。
響く、幼い少女たちの笑い声。
ゆらゆら揺れる視界。
セピア色に揺れる花畑、木々、その奥に空にとける塔。
やんわりとした太陽の光が雲の奥から差し込む。
「ルクレティア!見て、花かんむり!」
紺碧のワンピースをまとった金髪の少女が、桃色の花で出来た輪をかざす。
「綺麗…シンデレラは、手が器用ね」
純白のワンピースの少女がにっこりと微笑む。光にとけてしまいそうな透明感で。
「あげる。これは、ルクレティアへ、シンデレラからの贈り物」
そっと、その存在を確かめるように、銀に近い柔らかい金髪に花かんむりを差し出す少女。
「…ありがとう」
「私達、ずっと友達ね」
二人の美少女は見つめ合い、ともすれば口吻てしまいそうなくらい強く強く。
「ルクレティア」
遠くから、別の少女の声が届き、その緊迫が解かれる。
「ここで遊んでいたのね。探しました」
黒髪、紫の瞳。紅のワンピースに黒い羽織をまとって、少し困った顔をしている。
「お義母様がお探しでいらっしゃいました」
「ええ、わかったわ」
ルクレティアはそっと花かんむりをシンデレラに手渡す。
「ごめんなさい、シンデレラ、行かなくては」
「ルクレティア…もう少しそばにいて…」
「シンデレラ。甘ったれね、それでも姫を守る騎士の血筋なの?」
「…アンネローゼ」
自分を見下ろす紫の瞳を、睨み返す青い瞳。
「所詮あなたは聖女ルクレティアの添え物でしかないわ!!」
「…ッ…王族でもないおまえに何がわかる!」
「私はたとえおまえが王女になったって絶対に仕えない!私は聖女ルクレティアに…」
「二人ともやめて」
二人の高まる声を押さえつける、静かで、重い声。
「私は争いなど望んでいないの」
ルクレティアの瞳が、一瞬氷のように二人を射止める。
「私の大切な妹、私の大切な友。どうか、この世界の平和を、私とともに願って」
気まずそうに黙るシンデレラ。
苦虫を潰したような舌打ちを漏らすアンネローゼ。
「行きましょう、ルクレティア」
しかし、ルクレティアの手をとるその指は、そっと優しいのだった。
花畑に一人残されたシンデレラは、手を繋いで去っていく二人を、ただただ、見つめていた。
覗き穴から見たような、歪んだ、狭い視界。
大きな天蓋付きのベッド、純白のシーツ、青白い細い手首。
「これからあなたがた二人が、この世界を統べていく必要があるわ」
金髪の少女と黒髪の少女を両腕に懐き、落ち着いた声が愛を帯びた声で二人に聴かせる。
「これから聖女の力を引き継ぐのは、ルクレティア。あなたよ」
金髪の少女が頷き、母の胸に顔を埋める。
「けれど、民を統治し、城壁を統べるのは、アンネローゼ。あなたが長けているでしょう」
黒髪の少女は驚いた眼差しで義母の顔を見上げる。
「アンネローゼ。あなたは自分が望まれていないと思っているのね。それは大きな間違いよ」
黒髪を撫でる優しい手に嘘がないことが、見てとれる。
「あなたのお母様は、とても勇敢で政治に長けたお方だった。あなたはその才を持っているわ」
「けれど…けれど、私の母は…あなたの、愛する人を…奪っ…」
「奪ったとは思っていないわ。それに、産まれたあなたとその話は関係ない。私はあなたを愛している」
黒髪の少女の顔がゆがんで、やがて幼い顔になり、泣き出す。
「大丈夫。あなたは望まれているわ。二人でこの世界を、穏やかに築いていってね」
覗き穴に、水がたまったように歪む。
そして閉じる。暗闇。
「シンデレラ」
開いた瞳に映し出される、意地悪そうな二人の女の笑顔。
「シンデレラ」
「シンデレラ」
二人はくすくす笑って、視界から消える。
「本当はここの血筋じゃないのに、我が物顔でルクレティア姫と遊んでるなんて!」
「ま、姫騎士としての才能があるから受け入れられたってことだから、黙ってますケド〜」
「ねえねえお母様〜!次の舞踏会のドレス、何色がいいかしら!」
「そうね〜〜、緑と黄色、明るい春色でいいんじゃないかしら?」
「いいわね!流行の形にしたいわ!腰がキュッとしているやつ、ねえ、やせなきゃ…」
甲高く幼い声はやがて耳鳴りに混じって遠のいていく。
視界がまた歪む。
激しい痛みとともに、喉奥が熱くなる。
「シンデレラ」
それは母の声。
いいえ、義母の声。
「…あなたは舞踏会、参加しないわよね?」
義母、いや、女の唇の端がクッと上がる。
―どうして私だけ?
ハッキリとした心の声。それはシンデレラの声。
―どうして私だけ愛されていないの?
正しくない。
この世の中はおかしい。
違う。
ルクレティア。あなたは正しい。
あなただけは。
私は正義だけを信じる。
みんな、みんな汚い。
汚い。
私は美しくあろう。
誰よりも潔癖で、美しく。
悔しい、悲しい、絶対に出すものか。
絶対に。
鏡に映しだされた自分を見つめる。
美しくなんてない。
美しくなんて。
鏡よ鏡、この世界で一番…正しいのはだあれ?
ーシンデレラ、それは……ー
白いベッドに、とけてしまうそうなほど、透明な手だけが浮いている。
その周囲には黒装束の大人たち。
全てが沈んでしまったような部屋。
そのベッドの片隅で、ルクレティアが泣いていた。
それは、世界中の哀しみを全て抱えた小鳥の鳴き声のようだった。
その傍らで、静かに佇んでいる黒装束のアンネローゼは、大人の一部のようだった。
石のように表情を変えず、ただ、泣いているルクレティアの肩に手を添えていた。
―母親が死んだのにその落ち着きは何?
「あなた…悲しく…ないの…?」
震える声でそっと問いかける。
アンネローゼは沈んだ瞳だけをこちらに向けた。
「何故…悲しまなければいけないの」
「アンネローゼ…ッ…血が繋がらなくても愛してくれた母君に対して…なんて…なんて非情な…!!!」
「泣いている場合ではないの。二人でこの世界を統べなければ」
「ッ…」
おまえのことが大嫌いだ。
全てを統べる責から逃げず、環境にも恵まれて、愛されたおまえが。
何よりも正しく美しいおまえが。
大嫌いだ。
「…シンデレラ…来てくれてありがとう」
よろよろと立ち上がったルクレティアが、そっと抱きしめてくれた。
その暖かさ。
「…泣きわめく姿を見せてしまって、ごめんなさい…」
「いいえ、いいえ…ルクレティア、そんなこと…」
必死でその細い身体を受け止め、背中をなでた。
「私は…まだ聖女として未熟だから…どうか、シンデレラ…一緒に歩んでほしいの」
「…はい…」
本当は、そうやって求めてくれるあなたに、私が救われたのかもしれない。
壊れてしまいそうなほどルクレティアを抱きしめた。
「シンデレラ…あなたは正義の鉄鎚。あなたは、誰からも、信じられる人であってほしい」
ルクレティアの言葉が空気にとける。
その声を、二度と忘れるまいと、胸に刻みつける。
「誓います」
その姿を、闇にまぎれて、じっと見つめるアンネローゼがいた。
おまえではない、私は、ルクレティア姫に忠誠を誓う。
おまではない!
煮えたぎる感情を、瞳だけで伝えた。
ええ、そうでしょうよ。
私ではないでしょうね。構わないわ。
やはり、アンネローゼは落ち着いた目で応えた。
二人の間で、静かな静かな熱が燃えていた。
森の魔女に私は乞うた。
この先、何を犠牲にしても構わない。
その代わり、あいつを…あいつを貶めたい。
この世界で一番正しいと言われ、愛され、それが当たり前という面をしたあいつを…!!
森の魔女は微笑んだ。
構わないわよ。この林檎をあげる。
食べた者はほんの一口で死んでしまう。
赤黒い毒林檎を大切に受け取った私は、
シュネーケンへ走った。
…ただ、贈るだけでは食べないかもしれないね。
こういうのはどう、シンデレラ。
その林檎を贈るのは、その人にとって、一番美しく、愛しい存在…。
信じていた者から殺される絶望を、味あわせてやると良い。
「ルクレティア…この林檎、私、あなたのお母様からもらったのよ」
シンデレラの顔面は蒼白だった。
舌がもつれて、うまくしゃべれない。
震える手で林檎を渡した。
「お母様が、あなたに…?…そうね、いつも遊んでもらってるものね」
ルクレティアはにっこり微笑む。
「けれど…私…ごめんなさい、林檎が…苦手なの。だから…、アンネローゼに…プレゼントしたいの」
「ああ、アンネローゼは林檎が大好きだものね」
こんな汚らわしいものを、なぜ私はルクレティアを使ってあいつに渡そうとしているのだろう。
けれど、どうしても直接彼女の前に立つのは、イヤだった。
怖かった。全てが見透かされるようで。
「渡しておくわね。ありがとう。アンネローゼ、きっと喜ぶわ」
ごめんなさい。ルクレティア。
それは、私の…汚い想いをつめた果実なのに。
罪悪感。死んでしまえばいい。私なんて。
私なんて。私なんて。
けれど死ねない。
ルクレティア、あなたを守るの。
私は…私は誰よりも正しく。
アリスの声が、混沌とした記憶、言葉の堆積に終止符を打つ。
「シンデレラは幼い頃、毒林檎でアンネローゼを殺そうとしたの。それも、お母様からの贈り物と嘘をついて」
バラバラバラと本のページが閉じる音が世界を閉じていく。
「御伽話のふりかえりは楽しかったかい?クロノス」
オズヴァルトは羽ペンにインクをつけながら、モノクロームの世界の中でにっこり笑った。
『…ええ、楽しかったです』
僕は泣いていた。
どちらの姫君も救わなければ。
彼女たちを救えるのは、僕しかいないのだから。
たとえ彼女たちの記憶に、僕が残らないのだとしても。
EPISODE10
夕暮れ時。
民の浮きだった声。
着慣れないドレス、燕尾服で家々から出てくる、笑顔笑顔。
会場は物々しい護衛兵で固められている。
その一室で、青いドレスの姫君は静かな表情で座っていた。
―シンデレラ。
振り返った彼女は、過去の少女とはもう違う。
強く、気高い表情と、自分自身を見つめる心を持っている。
―私から、ささやかながら、贈り物があります。
その言葉に、シンデレラはやや怪訝そうな顔をしたが、そっと跪くと、落ち着いた目線で見下ろして先を促した。
―椅子に腰掛け、脚をいただけますか。
言われる通り彼女は座った。ふくらはぎからそっと撫でて脚首に触れると、ビクッと震えた。
純白の靴をそっと脱がせ、硝子の靴を細く薄い足先に重ねた。
ぴたりと寄り添い、透明な靴は何にも勝る美しさを足先に咲かせた。
「これは…」
―あなたは、強く気高い。けれども割れてしまいそうな繊細さを持っている。
じっと瞳を見つめ、続ける。
―どうか、一人で立とう等と、思わないで下さい。正しくあり続ける必要もありません。
硝子の靴をはけた脚をそっと地に戻し、手をとった。
―あなたは、望まれています。自分を信じて、立ち上がって下さい。
「…私は…美しくない…それでも良いんだろうか…」
―あなたは美しいです。過去が積み重なった今も、あなたは、美しい。
「…クロノス」
その瞳が何を物語ったかもう伝わっていたから、その先は唇で閉ざした。
あなたの想いを、僕は受け止められないから。
六時の鐘が鳴る。
部屋は夕暮れで真っ赤に染まっていた。
―舞踏会が、始まりますね。私が、ご一緒します。
「ありがとう」
笑顔で応えた彼女の頬には、涙が流れていた。
きっと彼女は解ったのだろう。
僕が、その想いに応えられない、と応えたことを。
EPISODE11
六時の鐘が鳴る。
真っ赤な夕陽が窓を睨んでいる。
城の一室は、陰と陽がクッキリと分かたれて別世界のようだった。
「舞踏会が始まる鐘の音だわ」
―行きましょう、白雪姫。
沈んだ瞳がこちらを見る。
「一人で行って来てちょうだい。私は魔物と戦う兵の指揮を執る」
―アンネローゼ。私がいなくなった後、何をするつもりですか。
彼女の目が、絶望の色を浮かべて林檎を見つめた後、ふ、と笑った。
「知恵の実を食べる」
―いけません。
「どうして?これはお母様からの贈り物よ。こんな素晴らしい日に、食べて何が悪いの」
―これはお母様からの贈り物ではありません。
「…だったとして。ルクレティアからの?シンデレラからの?誰からだって変わらないわ」
笑いながら彼女は泣いていた。
「あの日…あの日、ルクレティアは呪いに眠った」
大好きなお姉さまだった。
愛していた。誰よりも。
彼女が眠った姿の横、赤い林檎があった。
置き手紙とともに。
ーアンネローゼ。
これは、あなたへ、お母様からの贈り物です。
けれど、食べてはいけません。決して食べてはいけません。
この果実の意味を知る日まで、本当の意味で知る日まで。
私はあなたを現実から守ることも、現実を歪めることもできません。
ただ、あなたがこの真実を知っても強く前を向ける一人の姫であることを、願っています。
「何度も何度もその手紙を読み返した…誰がいけないの?誰を責めればいいの?わからなかった」
彼女がその林檎へ手を伸ばすのを止めた。
彼女は振り払って林檎をつかみとり、口を開く。
力ずくで奪い取る。林檎がゴロゴロと床を転がって、夕陽に切り取られた闇に消える。
バランスを崩した姫を押し倒す形で、白いシーツに転がった。
赤い光が姫の横顔だけをきりきりと焼き付けた。
「…どうして…死なせてくれないの」
―私はあなたを必要としています。あなたの亡き母君も、眠る姉君も。
「あなたはどこにも行かないの?」
約束してくれるの?
愛してはいけない。
たった一度だけ。
この唇を、僕は忘れない。
あなたは、忘れてしまうけど。
―舞踏会が、始まりますね。私が、ご一緒します。
「クロノス…」
その後の言葉は、指で止めた。
以前、彼女がそうしたように。
彼女は目を細めた。
「ずっと私を守ってね」
夕闇が世界を包むまでの間、ただひたすら、森の中を血で洗った。
戦いの女神と共に森を洗うのは、初めてだった。
彼女は強く、気高かった。
やがてとっぷりと闇が落ち、兵が都市へと戻る頃。
星空の下、うっすらと優雅なワルツが聞こえてくるのだった。
血の匂い、死の匂いが混じった暗闇には、うってつけの音楽だった。
「もうじき、舞踏会も終わるわね」
姫は冗談っぽく笑った。
ーまだ間に合いますよ。行きましょう。
「……この頑固者」
手をとりあって、立ち上がった。
EPISODE12
ひらりひらりと舞うドレス。
大団円。
優雅なワルツ。
天井に響き、夕闇を誘う。
豪奢なディナー。肉の香り、葡萄酒の色。
笑い声、人々の連なり、幸せな音。
宵も深く、酔いも深くなっていく時刻。
絶え間なく鳴り響いていた音楽は、日の変わる時刻に向けて終焉を匂わせる。
吹き抜けの二階からその様子を眺めて微笑むシンデレラ。
だが、その目線が入口に黒い影を見つけ、凍りつく。
「アンネ…ローゼ」
真っ黒なドレスに、紫のリボン。
ひんやりとした表情に、鋭い瞳。
白い胸元がふっくらと、タイトなドレスから溢れる。
そのあまりの美しさに、会場がどよめく。
王女だ…王女アンネローゼだ…そのざわめきが波のように広まり、人々が傅く。
「招かれざる客でしょう」
「…いえ…来てくれてありがとう」
跪く人々があけた道を一歩、一歩と向かってくる姿は、神々しかった。
二階から見下ろしていてもなお、目線が上にあるのは彼女だ、と言われているようだった。
ワルツの音楽が、壮大なフィナーレを迎える。
「毒林檎を贈ったのはあなたね」
「…!!」
静寂に響き渡る宣告。
さざなみのように戸惑いが拡がる。
…シンデレラが…?あの、シンデレラが…?
いや、そんなわけがないだろう…
でも王女がそう仰って…
「何を馬鹿なことを…!!」
「許すわ」
青と黒。
金色の会場で、留まった二人の少女の影。
「許すから、あなたもあなた自身を許して」
アンネローゼが、笑った。
目元から。
そんな顔、誰にも見せたこと、ないくせに。
「ここにいる民だって、あなたを許す。だってあなたは…正義だもの」
シンデレラの瞳が潤んで、息が震える。
「そんな…そんなあなたが…大嫌い…!!」
「うん、知っていた」
「いつも正しい…私よりも正しくて…落ち着いて…」
「そうね」
「ルクレティアのそばにいて…ッ母親に…愛されて……」
「あなただって同じよ。愛されてる。私もね、周りの何もかも信じられなかった。けれど、愛されてることに気付かされたの」
そこでアンネローゼは言葉を切った。
誰かの名前を呼ぼうとして、それでも出てこなくて、唇を震わせて。
その唇を手で抑えて、そこからこぼれてしまう温度を求めるように、噛んだ。
「…っ」
その姿を見て、シンデレラも気がつく。
自分の座り込んだ足元。
硝子の靴。
十二時の鐘が鳴る。
あの人は。
愛を教えてくれようとしたあの人は。
…誰…だった?
涙が流れる瞳で見た入口に、月夜が照らすシルエットが見えた、気がした。
一目散に駆け出すシンデレラ。
「行かないで…っ」
階段を走り降り、入口の大扉を抜け、薔薇園の中をかき分け、頬に棘が刺さってもなお。
「待って、お願い…」
大通りに面する最後の石階段を降りる途中、硝子の靴がカランカランと落ちていった。
「お願…い…」
へたり込んだドレスの青が闇にとけ、硝子の靴が落ちきる。カラン。
その靴を拾い上げた手は。
「あ…」
顔は見えない。月の逆光。
「あなたは…誰…?」
『私は序章の騎士』
微笑んだ気がした。見えないのに。
どうして彼を追ったんだろう。
どうして彼に会いたかったんだろう。
どうして。
十二時の鐘が鳴り終わる。
追ってきたアンネローゼが、隣にいた。
「さようなら」
闇にとける彼に、彼女はつぶやいた。
「彼を知っているの?」
「…いいえ。どこかで会ったことが…あったらいいな、と思ったの」
悲しそうな笑みを浮かべて、彼女も泣いていた。
「この世界に平穏をもたらしましょう。それぞれのやり方は違っても」
「…そうね」
二人の横顔は、決して見合うことなく、満月を見上げていた。
「いっちゃうの?クロノス」
歪んでいく世界の中で、丸い時計に腰掛けて紅茶を飲むアリスが首をかしげる。
『…ああ、役目は終わったから。オズヴァルトにも解任されたからね』
肩をすくめる。
「それで?どっちの姫がお好みだったの?」
アリスは微笑むと、紅茶をすすった。
『…内緒』
ドアがひとつ、浮かび上がる。
このドアを抜けたら、もう二度とこの世界に戻ってくることはない。
…かな?
「じゃあ”また"ね、クロノス」
アリスは意味深な笑みを浮かべた。
『……本章の騎士に、よろしく』
パタン。
EPILOGUE
真っ暗闇。静寂。
時々、パラパラと本をめくる音が、電車が通り過ぎるように過ぎ去る。
時々、林檎、ティーカップ、泡、そんな脈絡のない物がふわふわと浮いて流れていく。
おまえは”違う”。
おまえは”主人公ではない”。
過ぎ去る音や物が、時々、そう話しかけてくることがある。
幻聴だ。
知っている。
僕は、クライアントを探し求めて、ただ、歩いている。
僕は、僕を求める誰かがいないと、存在しない。
僕は、僕の名前は。
トン。
突然目の前にドアが出現する。
木の丸みのあるドアだ。
少し森の香りが染み出している。
ドアにかけられた標識の文字を指で伝いながら読む。
『 』
僕はこのドアを知っている。
胸が高鳴った。
一つの物語を選ぶとしたら、その時僕は。
本章の騎士として、君に。
君に、忠誠を誓わんことを。
THE END