不思議な少女
――――私? 私はね、凜よ。一宮凜!
耳の奥で、明るい少女の声が木霊する。
かつて読んだ物語の中に登場したその少女は、誰よりも強く、明るく笑う女の子だった。
ああ、何度も物語の中で追いかけたその少女が今こうして目の前にいることが――――これほどまでに不可解で、いっそ恐ろしいとさえ感じてしまうなんて。
その明るい笑みまでもが、今の私の思考回路を氷漬けにしてしまっていた。
どうして「凜」がここにいる?
「ところで、私は覚えてはいないのだけれど、私、あなたとどこかで会った事があったのかしら?」
「え? あ……と」
目の前の少女の問いかけに、私は思わず言葉に詰まった。
混乱極まる中で、正直、彼女に対して何と返事をしていいのかさっぱりわからない。
彼女とどこかで会ったことがあるか?
あるといえばあるし、ないといえばない。
本の中でなら何度だって見たことがある。
14歳の誕生日前日に非業の最期を遂げる、「凜」という登場人物として。
けれど今目の前にいる凜は、果たして本当に私の知っている「凜」なのだろうか?
そんなはずはない、と即座に否定する。
だって、「凜」は私なのだから。
この世界に同じ人間が二人も存在するわけがない。
けれど彼女は「凜」という名を肯定したし、その顔はあまりにも「凜」そのものである。
原作で描かれていた凜は 14 歳までの姿だったけれど、そこから 16 歳までの間にそこまで容姿が変わるわけではないし、高校一年生になった凜はきっとこんな姿をしていうんだろうな、という想像通りの姿だ。
名前と顔が同じなだけで別人、なんて偶然が存在するのだろうか?
「凜さま? お知り合い、ですか?」
まとまらない思考のまま硬直していれば、隣で佳月が不思議そうに私に問いかけた。
そこでハッと我に返る。
そうだ。佳月は何も思わなかっただろうか?
物語において、「凜」は佳月にとっての運命に他なからなかった。
いや、何かを思う理由なんて、今の佳月には存在しない事は分かっているのだけれど。
思わず佳月の様子を伺うけれど、特に変わった様子も見られない。
「あの。よくはわからないけれど、とりあえずこれ」
何も言葉を発さない私にしびれを切らしたのか、凜はつかつかと私の方へ歩み寄ってきた。
思わず身構えるが、何ということはなく、ただ凜は手に持っていたハンカチを私の目の前に差し出した。
「あ、これ……」
「あなたのでしょう? さっきポケットから落ちるのが見えたの」
すっかり存在を忘れていたが、彼女が差し出したそのハンカチは確かに私のものだった。
咄嗟にポケットに手をやるが、確かに朝出るときに入れたハンカチがなくなっている。
「ありがとう……」と呆然としたままお礼を告げれば、彼女は「いいえ」と笑って見せた。
「そのリボンの色、同じ一年生よね。私、高校からの入学だから、あまり知り合いがいないの。住んでいたところもここから遠いところだし。よかったら、仲良くして頂戴ね」
嫣然と笑う彼女に、私はどきりとして、唇を真一文字に結ぶ。
それはあまりにも「凜」らしい表情だったから。
笑って会釈した彼女が私たちを通り過ぎるのと同時に、辺りにチャイムの音が鳴り響いた
気づけば辺りには先ほどまで居たほかの新入生たちの姿はなくなっている。
「えーっと、何だったんだ?」
横で環くんが不思議そうに首をかしげる。
けれどそれをこたえるには、私のキャパシティーは完全にオーバーしてしまっていた。
あのままあそこで立ち尽くしているわけにもいかず、ぼけっとしている私を環くんがせかしながら、私たちは自分たちの教室へと向かった。
佳月は私の様子が変なことを少し心配していたけれど、ついてきてもらうわけにもいかない。とにかく無理やり笑って大丈夫だと言って見せて、自分の教室に向かわせた。
相変わらず、何が何だかわからない、というのが私の心情だった。
間違いなく異常な事態であるし、けれどもそれに対処するには情報が足りなさすぎる。
どうして「凜」がここに現れたのか、いや、それ以前にそもそも彼女は「凜」なのか?
先ほどから同じ疑問ばかりが頭の中をめぐる。
名前も、見た目も「凜」だけれど、彼女が「凜」であるはずがない。しかし否定しきれないほどに彼女の存在は強烈だった。
とにかく、今は考える時間がほしい。
彼女が何者なのか、一体どうしてこの学園に現れたのか。
主人公は現れなかったし、原作も始まらなかった。
なのに何故、「凜」にそっくりな女の子が、この学園にいるのか?
高校の入学式、新たなクラスに新たな気持ちで臨もうと思っていた矢先にこれだ。
とてもじゃないが、新しいクラスに胸をときめかせられるような状況ではなくなった。
そうげんなりしながら私は環くんとともに四組の教室へと入ったのだけれど――――そこで私は再び衝撃を与えられることとなる。
「あら、あなたさっきの」
未だ先生が来ていないのか、教室は騒々しかった。
初等部や中等部で知り合った人たちに挨拶を返しながら、私は自身の指定された席につこうとして――――そこで硬直した。
柔らかそうな黒髪を耳にかけて、少女は振り返った。
座席に腰を下ろし、私の存在を見つけて驚いたように笑う。
当たり前のようにクラスになじんで、更にいうならば私の座る席の隣に座るその少女は――――先ほどであった「凜」に他ならなかった。
「り、りりりりり」
「おーい壊れた人形みたいになってんぞ」
突然のことに「凜」を目前に固まった私の頭を、環くんがぱしんっと叩いた。
「い、痛い」
「痛くて結構」
叩かれた頭を抑えて環くんを見れば、環くんはどこか窘めるように私を見ている。
「佳月も心配してたけど、今日のお前、やっぱりいつもよりおかしいぞ? どうしたんだ?」
その言葉に、何も言えず私は閉口した。
「どうかした」けれど、とても誰かに相談できるような話ではない。
沈黙する私に、環くんは嘆息した。
「あの?」
「ああ、ごめんな、こいつ人見知りが激しくてさ」
そんな私たちの様子を訝し気に伺う「凜」に環くんは苦笑して謝罪する。
そして、私に視線を戻して言った。
「とにかく、なんも言えないなら仕方ないけどさ。お前がそんな対応してたら、相手が困るでしょーが」
「お前の悪い癖だぞ」とそう言われて、私は目を瞬かせた。
困る?
言われてそこで改めて、「凜」に視線を向ける。
「さっきのハンカチの子よね。その時も思ったのだけれど、私、あなたに何かしちゃったかしら?」
「凜」は、困ったように眉を下げて私に笑いかけていた。
私はそこでようやく己の行動を省みる。
あれ。事情はあれど、私はこの短い時間に彼女に大分失礼な態度をとってしまったのではないか?
「ちゃんと謝っときなさい」という環くんの言葉とともに、私は勢いよく頭を下げた。
「ご、ごめんなさい!」
そりゃあ、初対面の人にいきなりこんな態度を取られたら困惑するに決まっている。
彼女が「何者」であれ、今現在は別に彼女が何かをしたわけでもない、それどころかハンカチを拾ってくれたいい人でしかないのに。
「あの、えっと、じ、実はあなたが、私の昔の知り合いにすごくそっくりだったんです。でもよーくみたら違って、それで、えっと、色々な意味でびっくりしたというか……」
しどろもどろになりながらも、なんとか釈明してみる。
隣で環くんが苦笑する気配がしたが、「凜」は私の言い訳に納得したようにうなずいてくれた。
「そうなの、驚いてただけだったのね。私、あなたになにかしちゃったのかと思ったんだけれど……そういうわけじゃないならよかったわ」
「は、はい。そんな、何かしたなんてとんでもないです……ハンカチまで拾っていただいて……」
「ふふ。別にそれは拾っただけだから。でも、さっきからなあに、その態度」
「……え?」
「凜」はからかうように目を細めた。
「敬語よ。その敬語! 同い年なんだから、もっと気楽にしゃべってよ」
「え! あ、はい。じゃない……う、うん?」
思いのほか気さくにそう話しかけられて、何だか拍子抜けしてしまう。
先ほどまでは、まるでこの世界で出会ってはいけない人に出会ってしまったような、そんな絶望感で支配されていたのだけれど――――それがスッと消えていったような。
目の前でくすくす笑う彼女は、どこからどう見ても「普通の女の子」だった。
「凜」のように明るそうな子だけれど、先ほどまで私が抱いていた恐ろしいイメージはない。
「とりあえず、せっかく同じクラスで隣の席になったわけだし、仲良くしてちょうだいね。私は凜。よろしくね。あなたたちの名前も聞いていいかしら?」
困惑するわたしをよそに、凜は明るい笑顔でそう尋ねてきた。
「俺は雪野環だ。同じ学年に双子の妹がいるから、環でいいよ。よろしく」
「あ、私は凜です。一宮凜」
自己紹介をする流れに、私も続いて自分の名を言うが、言ってから、「あれ、これ言っても大丈夫なんだろうか」と思い至る。
気にしすぎなのかもしれないけれど、「凜」に凜と名乗ることには、少し抵抗があった。
いや、名乗ってから気付いても遅いのだけれど。
迂闊な自分を反省しながら、恐る恐る「凜」を伺えば、彼女は私のその自己紹介に少し驚いたように目を見開いていた。
それに少し胸がどきりとする。やっぱり何かまずかったのだろうか。
しかし、それが杞憂だと証明するように、「凜」はすぐに嬉しそうに破顔した。
「そうなの! すごい偶然ね! びっくりしたわ。高校に入学して初めて会った子が同じ名前だなんて、なんだか運命かんじちゃうわね!」
偽りなく本当に嬉しそうにそう言われてしまって、私は思わずたじろぐ。
特に疑問には持たれなかった?
さっきの驚きも、名前が同じということに対してだけの驚きだったようだ。
やっぱり、私が過剰に気にしすぎているだけなのだろうか。
「凜」の笑顔を見ながらそう考えていると、その様子を横で見ていた環くんが不意に、「そういえばさ」と何かに気付いたような顔で口を開いた。
「名前も一緒だけど、よく見りゃお前ら目の色とか顔立ちとかなーんとなく似てるよな。雰囲気は全然違うし、すぐ別人ってわかるけど」
「え?」と尋ねる前に、環くんにほら、と背中を押されて、席に座っている「凜」の隣に立たされる。
初めはなんのことかわからなかったが、そうか。よく考えてみれば、あまり似ていないものの、私の顔のベースは「凜」の顔だし、彼女は言うまでもなく「凜」と瓜二つ。
環くんの言う通り目の色も一緒だし、そういう意味では私と「凜」の顔立ちも似ているのか。
隣に立ちながら、横目で「凜」の顔を覗き見る。
何だか不思議な心地がした。
さっき、彼女は「運命を感じる」と言っていたけれど、「凜」という名前を持った、「凜」と同じ顔をした少女と、「凜」である私が出会ったこと。
何か、意味があるのだろうか。
環くんの言う通り、私と彼女は別人だし――――でも、すべてがすべて「偶然」だというには出来すぎている気もする。
「だけど、同じ名前っていうのもややこしいわねぇ。めんどうだし。あ、そうだわ! 何か適当にあだ名でもつけてくれない?」
ぼうっと考え込んでいれば、唐突に「凜」に話を振られた。
「え? え? なんの話?」
「だから、名前が一緒だと呼ぶときにどちらを呼んでいるかわからないじゃない。私には家名がないし、かといってこの学園に知り合いも多いあなたを今更周りに『一宮さん』なんて呼ばせるのも悪いし。あだ名でもつけてもらった方が、わかりやすいじゃない」
家名がない、というのに少し驚いたが、彼女の言っている意味はなんとなくわかった。
とりあえず、無茶ぶりにもほどがある。
無理だと言おうと「凜」を見れば、楽し気に笑う「凜」と目があった。
「それに私、あだ名なんてつけてもらったことないから、少し憧れていたのよね」
そして、どこか期待するようにそう言われれば、ノーと言えない日本人こと私は断ることもできない。
ど、どうしよう。正直この状況を整理するのでいっぱいでそんなことを考える余裕はないのだけれど。
こんがらがった頭をなんとか捻って考えてみるが――――
「じゃ、じゃあ……り、りいちゃんとか」
特にいい名前も思いつかず短絡的で特にひねりのないあだ名を出してしまった。
これはないなと思って「やっぱりなし」と言おうと思ったが、二人の反応はそう悪くないようである。
「おーいいじゃん。りいちゃん。かわいいし」
「確かに。私にしては何だか可愛らしいあだ名で照れるけれど、嬉しいわ。ありがとう」
嬉しそうにそう微笑まれてしまっては、私も「どういたしまして」というほかない。
何だろう。警戒している私の方が馬鹿みたいに思えてくる。
なんだかどっと疲労感が押し寄せて、私はふらふらと「凜」――――否、「りいちゃん」の隣にある自分の席に座り込んだ。
「これからよろしくね、凜」
隣に座るりいちゃんが、明るく笑って私に右手を差し出す。
「……う、ん。よ、よろしく……」
応えるように私も右手を出して、握手をした。
触れた彼女の手は温かい。
状況は何も変わっていないし、彼女が何者なのかさっぱりわからないままだけれど――――彼女を見ていると、警戒する気持ちがしぼんでいくから、不思議だ。
それは、物語で見た「凜」の持つ魅力の一つに他ならないけれど、でも、今こうして私に微笑みかけてくれるりいちゃんに、嘘はないように感じた。