始まらない物語
二話連続投稿です①
高校生編。
ごく普通の家庭で、幸せに育った少女、「雨無 結」。そんな結の日常は、ある日訪れた金色の瞳を持つ謎の少年によって壊される。「龍を守れ」という言葉を最後に命を奪われた両親。生き残った彼女は、両親の言葉の意味と、そして両親を殺した金色の瞳を持つ少年を捜すため、王都へと旅立つ。すべての真実が眠る、「月ヶ丘学園」へと――――
原作「桜の檻」あらすじより
私には前世の記憶がある。
今はもう随分と薄れてしまって、あまり思い出せないけれど、こことは別の世界で大学生まで生きていた記憶が。
そして、この世界を、「桜の檻」という漫画として読んでいた記憶があった。
檻人を継承し、死の運命を超えてから、二年。
桜の蕾が膨らみ、花開き始める季節。
今日から私は高校一年生に――――原作の始まる年を迎えていた。
「……よし」
高等部の制服に身を包んだ私は、鏡台に映る自分自身を確認して一つうなずく。
真新しい制服に身を包んだ自分自身を見ると、何だか新鮮に感じた。
原作では高校生になれないまま、14歳で命を落としてしまった凜。
その凜が今こうして高校の制服に身を包んでいるというのは、感慨深いものがある。
あの日––––14歳の誕生日の前日、私は死なないまま佳月とともに朝を迎えた。
結局あの場に来たのは佳月だけで、犯人は現れなかった。
原作で犯人として描かれていた父は犯人ではなく、私は誰にも殺されずに済んだのである。
理由はわからない。あれから色々考えたり、調べてみたりもしたのだけれど、特にこれだというものはなかった。
私の起こした「何かしら」の行動が、原作を変えたのかもしれないけれど、真相は未だ謎のままだった。
謎といえば、私の「顔」のこともそうだ。
昔から思ってはいたけれど――――やはりこうして16歳になった私の顔は、原作で描かれていた凜の顔とは面差しが違っていた。
ショートヘアーが楽で、昔切ったきりずっとショートのままでいるせいもあるかもしれないけれど、それを差し引いたって、違和感がある。
原作の凜も青い瞳をしていたけれど、釣り目で、ちょっと気の強そうな、けれど意志の強い瞳をしていたのに対し、私はたれ目で、どう見ても気弱そうな顔立ちだ。
私は凜であって、原作の凜とは違うから、そういう違いがあってもおかしくはないのかもしれないが。
まあ、今はいろいろ考えたところで仕方がない。
私は鏡台の前でくるりと一回転してみる。それに従って真新しい制服のスカートがひらりと揺れた。
紺を基調としたタータンチェックのプリーツスカートに、紺のブレザー。胸元にはスカートと柄を揃えた臙脂色のリボンがついているそれは、原作で主人公たちが着ていたものだ。
不思議に思うことはあるけれど、こうしてこの制服を着ているというのは、それだけでなんだかそわそわしてしまう。
「失礼します。凜さま、入ってもよろしいですか?」
「あ、はい! どうぞ!」
そのまま鏡台の前でついつい制服を着ている自分を眺めていれば、障子の向こうから澄んだテノールの声が聞こえた。
「おはようございます。準備は済まされましたか? そろそろ予定していた出発のお時間です」
障子を開けて立っていたのは、いつものきらきらとした笑顔を浮かべた佳月だった。
「おはよう佳月! あ、佳月も制服着たんだね」
その佳月も、今日から私と同様月ケ丘の高等部へと入学するので、今日は高等部の制服を着ている。
成長期でぐんと背も伸び、体つきも以前よりずっとしっかりしてきた佳月が、こうして高等部の制服に身を包んでいる姿を見ると、やはりつい原作を思い出してしまった。
当然原作では、この制服に身を包んだ佳月が描かれていたのだから。
女子と同じ紺のブレザーに、同色のズボン、そしてリボンの代わりの、臙脂に金のストライプが入ったネクタイは、何だか上品な色合いで、佳月に似合っていると思う。
「えっと、似合ってるね! とても!」
「ありがとうございます。凜さまも非常によくお似合いです。中等部の制服も素朴で可愛らしかったですが、高等部の制服は凛さまのまた違った可愛らしさ引き出していますね」
上手な誉め言葉も思いつかずそのまま言葉にすれば、またきらきらした笑顔とともに佳月は私をさらりと褒めた。
人をほめたりとか、喜ばせたりするのに関しては昔からそつなくできる子だったけれど、年齢を重ねるにつれてそのグレードもだんだんアップしているように思える。
思わず感心していると、そこで私はふと佳月の瞳に目が入った。
佳月の瞳の色はいつもの綺麗な金色だったけれど、つい目が留まってしまったのは、その制服を着て金色の瞳を隠していないのが少し不思議な感じがしたからだ。
原作の佳月は、高等部に入った目的が目的だったから、目立たないようにとその瞳の色を魔法で黒くしていたのである。
けれど、ここにいる佳月は通い始めた中等部から今まで、ずっと瞳は金色のままだったし、今後も金色のままなのだろう。
「俺の目が何か?」
思わずジッと見つめてしまっていれば、佳月は下目蓋辺りを指でなぞって小さく笑った。
些細なことだけれど、やっぱり、原作の佳月とは全然違うんだと感じる。
今の佳月はその色を隠す必要も、負い目に思う気持ちもないのだ。
「うん。綺麗な色だなと思って」
ありのまま思ったことを伝えれば、佳月は一瞬目を見開いた後で、照れくさそうに笑った。
原作の舞台となった月ヶ丘学園の高等部への入学。
不安もあるけれど、期待の方が大きい。
当然月ケ丘学園の高等部には私以外の「檻人」――――つまり登場人物たちも存在しているわけだけれど、そこに私はもう恐れを抱いてはいなかった。
私はちゃんとこの現実に向き合っていけるし、「私」として生きていくことができる。
けれど何の不安もなく高校生活を謳歌するには、今日という日に、一つだけ解決しておくべきことがあった。
「あの凜がもう高校生なのねえ」
用意を完全に済ませて、私と佳月は車に乗り込んだ。
私たちを見送るために出てきていた母が、感慨深げにそう言って笑うと、後ろに立っていた屋敷の家政婦さんたちも同様にうなずく。
いや、まあ、家族や屋敷の人たちには今日まで色々と迷惑をかけた自信があるので、何も言えないけれども、ちょっと恥ずかしい。
父も父で、今日は朝早くから仕事で家を空けているのだが、昨日私が高等部の制服に身を包んだのを見て全く同じ反応をしていたから、やっぱりちょっと複雑な気持ちになる。
母たちの見送りに手を振って、スピードを上げた車の中で私はふうっと息をついた。
今日から高校生。
前世でも高校生は経験したけれど、やはり読んでいた漫画の世界で高校生になるっていうのは、気持ち的に大分違う。
とても楽しみなことに間違いはないけれど――――けれども、楽しんでばかりもいられない。
遠ざかる屋敷を見ながら、私はそっと目を伏せる。
高校生活を楽しむ以前に、私は今日という日に、まず確認しなければならない大事なことがあった。
それは、主人公が学園に入学しているかどうかということ。
原作のストーリはこうだ。凜を失った佳月と椿は、世界を滅ぼす手段として封じられている龍を解放しようとする。そのために、龍を封じた剣を代々守っている巫女の一族――――主人公の家族を襲撃する。佳月と椿によって家族を奪われた主人公は、自分の家族を殺した相手を探すため、そして、己の役目を知るために学園へ入学するのだ。
けれど、今私は生きていて、佳月と椿くんはそんな酷いことはしていない。よって、主人公の家族は殺されていないし、主人公が入学する意味もなくなる。
つまり――――私が生きているのならば、この入学式に主人公は来ていないはずなのだ。
期待とはまた別に、胸がドキドキしているのがわかる。
だって、もしこれで主人公が入学していなければ――――完全に世界が滅ぶという結末はなくなるのだから。
学園の近くで下ろしてもらい、私と佳月は月ケ丘学園の門をくぐる。
初等部から通ってはいるけれど、初等部中等部ともに、高等部とは敷地や、入る門までハッキリと分けられているため、高等部の敷地へ入るのは今日が初めてだった。
一歩そこへ足を踏み入れて、私は眼前に広がる光景にほう、と思わず息を漏らした。
ふわり、ふわりと舞う花びらに導かれるように視線をあげれば、桜並木の向こうに見える巨大な学び舎。
まるで、前世で見た西洋の城のように広壮なその建物は、圧倒されてしまうほどの存在感を放っている。
ああ、「サクオリ」の世界なんだ。
そう実感せずにはいられない光景が、そこには広がっていた。
「……凜さま?」
門に入ってすぐに立ち止まった私を、訝し気な様子で佳月が見た。
「え……? あ、ごめん! 行こうか!」
思わずその場でぼんやりと立ち尽くしてしまったらしい。
我に返った私は、慌てて誤魔化すように笑い、歩を進めた。
主人公の存在を確認するために少し早い時間に来たからか、敷地内に人はまばらだった。
「クラス掲示はあちらにあるみたいですね」
けれど、佳月の指し示す方向を見れば、わずかではあるが人の集まっている一角が見える。
大きな白い看板が掲げられたそこに、名前とクラスが張り出されているようだった。
「……い、行こうか」
私は大きく深呼吸をして、佳月とともにクラスの書かれた掲示板の前に向かう。
掲示板の文字が見える辺りで、私と佳月は足を止めた。
色々考えてみたのだけれど、主人公がいるかどうかを確認するのに一番確実な手段なのは、このクラス発表で彼女の名前があるかを探すことではないかと私は考えていた。
さすがにこういう場で名前漏れがあるわけがないし、原作に主人公が何組なのかは載っていたから、そのクラスに彼女の名前があるかどうかを探す。
つまり、ここでもう主人公がいるかどうかが判明するというわけだ。
掲示板の前までたどり着いて、私は再び大きく深呼吸をする。
「あの、どうかされましたか、凜さま」
掲示板の前についたものの一向に顔を上げない私を不審に思った佳月が声をかけてきた。
それにハッとなって佳月を見れば、怪訝そうな表情で私を見下ろしている。
「ご、ごめんね。何でもないんだよ。ただその、そう、ちょっと緊張しちゃって」
朝からいつにもましておかしな行動をとって申し訳ない。
何でもないよと首を横に振って、私はようやく覚悟を決めた。
よし――――確認しよう。
原作において、主人公のクラスは、四組だった。
苗字は「雨無」だから、名前があるとすれば上の方だ。
あったら一瞬でわかるはず。
私は一度俯いて呼吸を整えてから、勢いよく看板を見上げる。
心臓が早鐘を打つが、ここで確認しなければ何も始まらない。
主人公は果たして入学しているのか――――
「凜?」
しかしその瞬間、意表をつくように、ぽんっと軽く肩を叩かれたことで、私の意識は横へ逸れた。
背後から呼ばれた名前に、反射的に掲示板へ向けるはずだった視線が後ろへと向く。
「やっぱり凜だ。クラス発表見るぐらいでなーに辛気臭い顔してんだよ」
見れば、星ヶ丘の制服に身を包んだ、茶髪の少年がこちらを見てからかうような笑みを浮かべ立っている。
私は思わぬ人物の登場に目を瞬かせた。
「……環くん?」
「よ! おはよーさん」
藤色の瞳を細めて、さわやかな笑顔とともに右手を挙げた少年は、知り合いだった。
彼の名前は、雪野 環。
彼は、私と同様初等部からこの学園に通っていて、私は中等部で初めて仲良くなった少年だった。
人当たりのいい性格で、中等部の時に同じクラスになったとき気さくに私に話しかけてくれたいい人である。
そしてこれは本当に偶然だったのだけれど――――彼は原作に登場していた人物でもあった。
「環くん、今朝は早いんだね? どうしたの?」
「いや、周が早くに家を出たんでそれに合わせて出たらこの時間だったんだよ」
ただし、彼は原作に登場している人物であるが、私や椿くんのように檻人というわけではない。
先ほど彼も話題に上げていた雪野 周。彼女は彼の双子の妹であるのだが、彼女こそが私や椿くん同様――――檻人である。
原作では当然、檻人である周さんが中心に絡んでくるのだけれど、その兄である彼もまた、原作ではそこそこに重要な役割を果たす人物だった。
まあ、それは原作での話で、ここでは普通に私と環くんはいいお友達であるのだけれど。
「それで? どうしてそんな深刻な顔で掲示板見てたんだ?」
「え? ……ああ!」
そうだ、クラス!
環くんの言葉に、私はあわてて視線をクラス掲示へ戻す。
急に話しかけられたためにすっかり忘れてしまっていたが、そうだった、今私はとても大事なことを確認しようとしていたのだった。
そんな私の様子を見て環くんは首をかしげる。
「そんなにクラス発表で深刻にならなくてもいいだろー? 佳月と椿とはクラス離れちまったみてーだけど、俺とお前は同じクラス、四組だぜ」
「よ、四組!?」
聞き捨てならない台詞を聞いた気がした。
掲示板から再び環くんに目を向ければ、彼は「うん、四組」と頷く。
「え、え、じゃ、じゃあ、環くんはもう四組のクラスの欄を見たの!?
それじゃあ、あの、 結って、『雨無 結』って女の子の名前は、あった!?」
「『あまなしゆい』? あーいや? そんな全員覚えちゃいねーけど、なかったんじゃねえかな」
それを聞いて、私は急いで掲示板に目をやった。
目を皿のようにして上から目をやって、念のためそのまま最後まで目を通す。
あまなしゆい。
あまなしゆい。
あまなしゆい。
――――ない。
掲示板のどこにも、主人公の名前は見当たらなかった。
いや、まだ油断はできない。
念には念を入れて、私はそのままほかのクラスにも目をやる。
途中二組のクラスで、先ほど環くんが言っていたように佳月と椿くんの名前を見つけたけれど――――でも、主人公の名前はどこにもない。
「……おい佳月。こいつ、挙動不審なことは多いけど今日はいつにもまして酷いな。どうしたんだ?」
「さあ……? 朝からこんな様子で、俺にもさっぱりなんですが」
後ろから怪訝そうな声が聞こえたけれど、気にならなかった。
何度も何度も確認して、それでも主人公の名前がないことがわかる。
主人公の名前が――――ない。
本来ならば、この春から高等部へ入学しているはずの、主人公の名前が!
それはつまり。
「原作は、始まらない……!」
思わず零れた言葉は感動からか微かに震えていた。
原作は、「桜の檻」の物語は、始まらない。
私の生存は、ちゃんと原作に影響を与えていたんだと、とじわじわ実感し始める。
これでもう、誰かを傷つけたり、傷つけられたり、そんな殺伐とした世界にはならないのだ。
そしてイコール、世界も滅びない。
もちろん、原作の改変はいいことばかりではないのかもしれない。例えば、原作の中で育まれる主人公とヒーローの恋愛も始まらないということについては、何も思わないわけではない。
でもそれでも、家族を殺されて、世界を救う宿命を背負わされる道よりは、いいはずだ。
「凜さま?」
心配したように佳月が顔を覗き込んでくるので、私はこみあげてきそうだった涙を気合で押し殺した。
朝から変な行動をとってばっかりだったのに、またこんなところで急に泣き出したら不審すぎる。
「ごめん、本当に何でもないから気にしないで。ただその、なんていうのかな……安心したというか、やりきった感があるというか」
「おいおい。お前、なんですでに全部終わったみたいな顔してんだよ。入学式はこれからだからな」
「あ、そ、そうだよね。あはは」
環くんにそう言われて、私は笑ってごまかす。
彼の言う通り、何だかもう全部終わってしまったような感じはあった。
確かに、今この瞬間に、原作は始まることなく終わったのだから。
けれど私自身の物語、人生は、終わったのではなく、始まったという方が正しかった。
原作が始まらない。
それはつまり、これでもう、原作にとらわれず、高校生活を始めることができるということなのだ。