告げられた真実
ハッピーエンドで終わるおとぎ話が好きだった。
さまざまな苦難を乗り越えて、その果てに結ばれる王子様とお姫様。
苦難は時に二人の身も心も苦しめるけれど、苦しみの数だけ、それに見合った幸せが訪れるのだ。
だから、女は王子様が迎えに来るのを、ただ待っていた。
彼が迎えに来てくれるのを、ただひたすら待っていた。
不幸な理由で離ればなれになってしまった男と女。
けれど女は結末をハッピーエンドだと信じて疑わなかった。
数えきれない苦労があった、屈辱的な思いもした。
だがそれらも、いつかすべてが報われるのだと、わかっていた。
だから、そのための最善は尽くそう。自分と彼の最善の結末のために、最善の方法を。
そうして迎えにきた王子さまは————酷く凍えた瞳をしていた。
「これが今言ったことのすべての証拠だ。君も確認するといい」
男が取り出した封筒が開かれ、机の上にいくつもの白い紙が並べられる。
小さな文字が長々と羅列するそれらの資料を、女はただぽかん、と眺めていた。
「これは、なんですか?」
意味が分からず尋ねれば、男は緩く笑って答えて見せる。
「君がこれまでにしでかした悪事の数々だよ。裏付けをとるのに苦労した。
君は中途半端に権力があるから。でもまあ、これだけ証拠がそろっていればさすがに上も黙ってはいれないだろう」
彼女へ向ける微笑みは優しいとさえ思えるほどなのに、告げられる言葉は事務的で、冷たい。
彼が何を言っているのか、女にはさっぱりわからなかった。
女は今日という日を心待ちにしていた。
今日こそが、これまでの苦難のすべてが報われる、ハッピーエンドの日に違いないと思っていた。
けれど、今のこの状況は何なのだろうか。
どうして彼は今、そんなまるで女を責めるような言葉を吐くのか。
「おい。いい加減に自分の状況を正確に理解したほうがいい」
女が呆けていれば、男の隣に座った堀の深い顔立ちのスーツを着込んだ男が、苦々しい顔でそう告げた。
理解した方がいい、とは、いったい何のことなのだろう。
意味が分からないまま、きょとん、とした顔でスーツの男から、隣へ視線を移す。
彼は相変わらず微笑みを浮かべていた。
「あの、えっと……」
女は小さく首をかしげながら、不思議な気持ちで尋ねる。
「今日は、私を迎えにきてくださったんですよね」
確信を込めてそう尋ねれば、隣に座るスーツの男の眉間に皺が寄る。
「おい。だからいい加減に……」
「そうだよ」
スーツの男の言葉にかぶせるように、彼は笑顔を張り付けたまま女の言葉に同意した。
ああ、やっぱりそうだったのだ、と、女が歓喜に笑みをこぼせば、男はうなずいてつづけた。
「私は君を迎えに来たんだ。————君を、そこから引きずり下ろすためにね」
「ひ……」
引きずり下ろす?
男が何を言ったのかわからなくて、聴き返せば、男は笑いながら女に告げる。
「君は私を王子様か何かと勘違いをしているようだけれど、それは違うよ。
私は今ここに、君を断罪するために来ているのだから」
断罪。その言葉に女は目を見開いた。
断罪? 断罪とは何だろう。
自分は何か罪を犯しただろうか。
自分はただ、苦難を乗り越えて、王子様が来るのを待っていただけなのに。
「な、にを言っているか、わかりません。だって、私を迎えに来てくれたって。私はそれを、ただ待っていただけで。たくさん苦難はあったけれど、それもすべて乗り越えました。
だから、だからあとは————」
幸せになるだけでしょう?
理解を拒むように、縋るように男を見上げる女に、男はまた微笑みかけた。
世界が急激にクリアになる。
どうして今まで気づかなかったのか。男は今までずっと笑っていたけれど、瞳はただただ凍え切っていたことに。
「さあ。目を覚ましてお姫様。もう眠っている時間は終わりだ。ここからは、現実を見る時間だよ」
そこにいるのは、断罪するものと、されるものでしかなかった。
ЖЖЖ
彼らがいるならここだろう、と佳月と冴に案内されたその扉の辺りは、異様な静けさをまとっていた。
部屋の中に今回の事件の中心人物が対峙しているとは思えないほどに、ただただそこは静かで、それが逆に妙な威圧感を放っている。
「入られますか?」
扉の前に立った佳月が、私に再度確認をしてきた。
「……うん」
私は一度扉に目をやってから、大きくうなずく。
扉は分厚く、酷く重そうだ。
この中に、父がいる。
これまで私が散々恐れて、逃げた父が、今ここに。
この扉を開けた先に————私が知りたかったことが待っているのだろうか。
ちらりと隣を見れば椿くんと目が合った。
彼は私に向かって一つうなずいて見せる。
「行こう」
そう言った私に変わって佳月が扉に手を伸ばして————けれど佳月がノックをする前にその扉は開かれた。
「これはまた、随分大勢できたものだな」
向こう側から扉を開けたその人は、堀の深い引き締まった顔を微かに歪めそう告げた。
「父上……」
驚きに私が声を上げる前に、椿くんのかすれた声が響く。
扉を開けた男、椿くんの父、仁さんは、部屋の前に立つ私たちをさらりと見渡した後で、一つ嘆息すると低い声で言った。
「まあいい。入れ。もう決着はついている」
仁さんに通されたその部屋は、四つ足のテーブルと、座り心地のよさそうな二人掛けのソファーが二つ備え付けられた応接間のような場所だった。
部屋の中央に位置する四角いテーブルをはさむようにして、今回の騒動のすべての真実の鍵を握るであろうその2人は、向かい合って座っている。
仁さんは澪さんと対面して座る父隣に静かに腰を下ろした。
部屋は扉の前で感じたのと同様に妙に静まり返っていて、空気は酷く重かった。
先ほど、大体のカタはついているだろうと佳月は言っていたけれど、確かにそこにはもうすべてが終わってしまったような空気があった。
机に散乱した何かの資料のような紙や、以前とは明らかに雰囲気の異なった————澪さんの姿。
澪さんは、項垂れるようにして背中を丸めてソファに座り込んでいた。
彼女の様子に、先ほど会った時にはあった覇気は感じられない。
その異様な状況にいち早く動いたのは冴だった。
座り込む澪さんに慌てて駆け寄る。
「母様……!?」
冴が澪さんを呼びかけるも、彼女はどこかぼんやりしたようにただ机の上に散乱した資料を眺めているだけだった。
明らかに様子のおかしい彼女とは対照的に、前に座る父は至って平常通りだ。
この状況を見れば、父が澪さんに何かをしたのだろうということは予想がついた。
澪さんから父へと視線を移せば、ちょうど父と視線が合う。
思わずびくりと体が跳ねるが、逸らさず見返せば、父は困ったように肩をすくめた。
「来るんじゃないかと思ってはいたけれど、まさか本当にくるとは」
「私は佳月に凜を連れ出すようにと伝えたつもりだったんだけどね」と、どこか非難するように、父は佳月に視線を向ける。
「申し訳ありません。色々ありまして」
「あ、えと、あの、ち、違うんです。私が無理を言って連れてきてもらって。だから、佳月は悪くなくて……」
父の視線を遮るように謝る佳月の前に立って慌ててそう告げれば、父は「そういう問題ではないんだがね」と、仕方がなさそうにため息を吐いた。
「まあいいさ。ともかく無事で安心したよ、凛。怪我はないね?」
そう確認するように全身を見られ、私はうなずく。
ここに来るまでに精神的には重傷だが、外傷はない。
私に怪我がないことを確認すると、父はどこかほっとしたように笑った。
心配、してくれていたのだと思う。父から私へ向けられるものをもう最初から疑いたくないと思う。
だからこそ、未だ腑に落ちないものを解消したかった。この、不可解な状況についても。
「あの、お父様、」
口を開こうとして、しかしすぐにつぐむ。
父の静かな瞳が、何かを試すように私へ向けられていた。
「お前の無事は何よりだけれど、一体ここへは何をしに来たのかな?
私にお前の無事な姿を見せに来てくれた、というわけではなさそうだが」
父は、背もたれに背を預けて腕を組み、私を見つめた。
ゆったりとしたその姿勢とは対照的に、射貫くような父の視線に、条件反射でついしり込みしそうになる。
けれどその前に椿くんに軽く背中を叩かれた。
ハッとして視線を椿くんに向ければ、彼は力強い顔で私を見ていた。
そうだ、ここへは父と話すために来たのだ。
私は気合を入れなおすように椿くんにうなずき、父を見据えた。
「あの、お父様。助けに来てくださってありがとうございます。あと、勝手にここまで来てしまってごめんなさい。だけど、私、これまで何があったのか、そして、ここで何があったのか、知りたくて、来たんです」
この場の状況をさっとと見渡す。
散乱した資料や、澪さんの様子からして、何かあったのは明白だった。
父たちの話は全て終わったと言っても、まだこちらが聞きたいことは何も解決していない。
「何があったのかと言われてもね。ただ一宮澪と話し合いをして、終わった。それだけだよ」
「そ、そうじゃなくて、あの、私、本当のことを知りたくて」
「……本当のこと?」
「はい。澪さんのことも、今回の事件のことも、全部、教えてほしくて」
そう言うと、父は軽く首を傾げた。
「全部教えてほしい、ねえ。そう語るほどのことでもないと思うけれど。
娘がさらわれたから、助けに来た。ただ、それだけのことだろう?」
「そ、それはそうだけど……」
それだけじゃないはずだ。
言葉を探すように言いあぐねていると、父はさらに言葉をつづける。
「なら、別に話すようなことはない。父が娘を助けることに、特別なことなんて何もないんだから」
「だ、だけど!」
このまま話を強引に丸め込もうとしているのがわかって、私は思わず大きな声を上げた。
父はここに来てもまだ話す気がまるでないのだ。
それがどうにも悔しかった。
当事者なのに、なにも教えてもらえない。
ここまでいろいろなものを見せられて、私が疑問を持たないはずがないのに。
「……どうして教えてくれないの?」
そっと父に問いかける。
父は相変わらず余裕の笑みを浮かべたままだ。
今まで散々逃げてきたのは私の方だ。
父は私が弱くて無力であることを充分すぎるほどわかっている。
私がグッと自分の拳を握った。
けれど、今じゃないとだめなのだ。ここでごまかされて、家に帰ってからではきっと何も聞き出せなくなる。
父の話を聞きたいのなら、ここで追及するしかない。
「わ、私は」
己の力を振り絞るように、握った拳にさらに力を込めて、私は口を開いた。
「私は、ここに来るまでわからないことだらけでした。私が怖がって、怯えている間に、きっとお父様たちがいろいろなことをしていた。お父様は私がまだ弱いから、知らなくてもいいことだから、色々なことを隠して、私を守ろうとしてくれていたのかもしれない。
でも、それでもどうしたって、納得できないことがたくさんある。
————私、ここに連れてこられる前に、お父様と澪さんが一緒にいるところを見ました」
父の瞳がゆっくりと瞬く。
「具体的に何を話していたかわからないけれど、仲がよさそうに見えました。それで誘拐されて澪さんに会ったら、澪さんはお父様は私を殺すつもりだって聞きました。でも、そうかと思えば、佳月は、お父様は昔から私が誘拐されることを知っていて、私を守るためにずっと動いていたんだと言います。そして今ここにいるお父様は、どう考えても澪さんの味方には見えない。
私の中には今、お父様が私を裏切っている理由と、お父様が私を裏切っていない理由の二つが、同じように並べられているんです」
父を見据えてそう言えば、父は軽く首を傾げた。
「ならばお前は、どっちだと思う? 私は裏切っているのか、いないのか」
試すようなその視線を受け止めて、息が詰まりそうになる。けれど私はゆっくり言葉を確認するように答えた。
「私はお父様を、信じたいです。信じようと思ってここにいます。
だからそのために、どうか話してください。信じたいから。お父様のことを、教えてください」
「私はそのためにここにいます」と、私は父をまっすぐに見つめてそう言った。
話しながら、一度だって父から目を反らしはしなかった。
私の青い瞳と、父の青い瞳が数秒交錯する。
「————いい加減にしておけ。晃」
黙ったまま見つめ合う私と父の間に、突然低い声が入った。
「もう彼女は知っているんだ。これ以上ごまかしたってどうしようもないだろう」
「仁さま……」
間に入ったのは仁さんだった。
驚いて仁さんを見れば、仁さんはかすかに笑って私を見る。
それに父が嫌そうにため息をついて、首をすくめた。
「邪魔しないでほしいなあ。まだ話の途中だというのに。
まあ、確かにこれじゃあごまかしようがないのも事実なんだけど」
やれやれ、と父は困ったように笑った。
その気やすい雰囲気に、さっきまでの張りつめたような空気はどこにもない。
期待して父を見る私に、父はもう一度大きなため息をついた。
「全く。お前が私をまっすぐに見て話してくれるなんて、何年ぶりだろうね。うれしいにはうれしいけど、今回に限っては複雑だなあ。
まあ仕方がないか。わかった。お前の知りたいことをすべて話すことを約束しよう」
そう告げた父に私は喜びが全身を駆け上がるのを感じた。
思わず隣に立つ椿くんを見れば、彼も満足そうに笑っている。
けれどそんな喜ぶ私に、父は「ただし」と言葉を付け加えた。
え、と父を見れば、父は私から視線を外して、それを澪さんと冴の方へ向ける。
「場所は変えよう。こんなところ、長居するものじゃないしね」
その冷めた声色に私は戸惑った。
「あの、でも、このままここを離れるのは……」
話すと言ってくれたのは素直にうれしい。
けれど今この場を離れるのは急すぎる。
このまま、あんな状態の澪さんと冴を二人残していくなんてできない。
そう思って父に告げれば、父は私を宥めるように笑って言った。
「凛。私はちゃんとお前にすべてを話そう。だがね、さっきも言った通りここでの話し合いはすでに終わっているんだ。もう私たちがここで何かをする理由はない」
そういうや否や、父は立ち上がって澪さんに背を向ける。
それに続くように仁さんもその場から立ち上がった。
本当に、このまま帰る勢いだ。
「ま、待って!」
その切り替えの早さに戸惑っていれば、それを呼び止める声があった。
「お、お願いです。あの、待って、ください」
それは冴の必死の声だった。
その声に父もぴたりと足を止め、ちらりと冴を見やる。
そして冴に向き直ると、その顔に笑みを浮かべて言った。
「ああ、君は、一宮澪の息子の冴くんだね。無論君にも後でいくつか聞きたいことはあるが、その後のことは安心するといい。君はちゃんと保護するよう手配を————」
「そ、そうじゃありません……!
か、母様は何をしたんですか? これから母様はどうなるんですか?」
必死の形相でそう尋ねる冴に父は笑みを返すだけだった。
そこに無言の拒絶を感じて、私は思わず父の袖を引く。
「お父様、冴の言う通りです。少し待ってください。
確かにここでの話し合いは終わったのかもしれない。でも、ここで明らかにしたほうがいいことだってあるはずです。少なくとも私は、こんな中途半端な気持ちのままここを去ることはできません」
父は私に話すと約束してくれたし、きっと父はそれを守るだろう。
けれど今知るのと後で知るのとではできることが違うはずだ。
勝手を承知でそう言うと、父はこれ見よがしに大きくため息をついた。
「ここですべてを話そうとも、もう終わったものは変わりようがない。お前たちにできることもない」
それでも父をジッと見つめていれば、父はかすかに顔をしかめて目を閉じる。
「こんな不愉快な場所に、お前をあまり長居させたくなかったんだが」
そして一つため息をつくと仕方がない、と重たそうに口を開いた。
「彼女が何をしたのかなんてそう簡単に話せることじゃないし、そんなものはそこの資料でも見ればすぐにわかることだ。まあ、随分と好き勝手にやっていたみたいだよ。最初はそれでも、まだ私や一宮の家にそれほど大きな実害はないから放っておいたんだけど」
父は静かな瞳をたたえて冴を見た後、そのままうずくまるように座り込む澪さんを見下ろす。
「彼女は超えてはならない一線を越えた」
「超えてはならない一線……?」
冴が小さな声で尋ねる。
「そうだ。忘れもしない。
————五年前のあの日、彼女は私の娘を殺そうとした」
それに私の体が反射でびくりとはねたのがわかった。
冴が小さく息を飲む。
父を見上げれば、父は相変わらず凪いだ瞳で澪さんを見下ろしていた。
その瞳は静かではあるけれど、それはまるで奥にある何かを隠すような静けさだった。
「犯人を取り調べて誰の指示かはすぐにわかったよ無論、その目的もね」
五年前と言われて思い出すものは一つしかない。
父の犯人、という言葉に私が息をつめれば、案ずるように隣から佳月に顔を覗き込まれる。
佳月の金色の瞳と目が合って、それで少し平常心を戻し、一呼吸置いてから私は父に向って言った。
「じゃ、じゃあ五年前の、和恵さんの事件も、この人が……?」
「まったく、そういう顔をさせたくないからお前にこの話はしたくなかったんだが」
澪さんから視線を外した父が、困ったように笑って私に視線を戻す。
私はそれに首を横に振った。
「だ、大丈夫です。続けてください」
聞きたいといった以上、最後まで聞く覚悟はできている。
私がそう告げれば、父は仕方のなさそうにまた口を開いた。
「一宮和恵、まあ本名は違うようだが、彼女とその共犯の男による暗殺は、一宮澪指示のものだった。
だが犯人はわかっても、その証拠が中々掴めなかった。一宮澪は優秀な人間だったし、一宮の家ではそれなりに権力があったから、私の立場的に猶更調べにくい。だからこちらもいろいろと手を打たせてもらった.
わざと一宮澪の味方のふりをしたり、外からも調べてもらおうと如月の家に個人的に助力を頼んだりもしてね」
父の言葉に、隣で仁さんが黙って目をつむる。
「お前が見たのも、彼女がお前を私が殺すなんて言ったのも、その色々の一環かな」
私はその言葉に目を見開いた。
「ならお父様は、五年も前からずっと動いて……」
「ああ。もちろん、今回の件、彼女がお前を誘拐するつもりだったのもわかっていたよ。できれば使いたくない手段ではあったが、彼女もなかなか手強くてね。決定的な証拠を得るためとはいえ、結果としてお前を囮のような扱いにしてしまったのはすまなかった。椿くんも巻き込んで悪かったね」
すまなそうな顔でそう言った父が椿くんにも視線を向ければ、彼は難しい顔で「いや……」と言葉を返すだけだった。
「か、母様はどうしてそんなことを……? 凛ちゃんが、継承者候補とかいうものだから?
そんなもののために、母様はほんとうに……?」
私と同様、いやそれ以上に衝撃を受けたような面持ちで、冴は父に尋ねる。
父はそれにいつもの優しげな笑みを浮かべて軽く首をかしげた。
「さあ、どうかな。私は彼女の本当の目的がどこにあったかなんて知らないし興味もないから。
ただ私の娘に手を出した以上は容赦はするつもりはないけれど」
興味がない、と笑う父の言葉には何か含みがあるように思えて微かな違和感を感じる。
しかしそれを問う間も無く父は、これまでの話を聞いて顔を青白くさせた冴に向かって言った。
「先ほど君は彼女をどうするつもりか私に聞いたね」
それに冴はピクリと体を動かす。
かすかに怯えたような様子で冴が父を見上げると、父は笑みを貼り付けたまま言った。
「私に彼女を許す気など毛頭ないが、私は彼女の命まで奪うつもりはないから安心するといい。ただ、もう二度とこの一宮の家の敷居は踏めないだろうが」
「これで、君の聞きたかったことは聞けただろうか」と父が問えば、冴はわずかな沈黙の後で「はい」とコクリ頷いた。
私自身与えられた情報が多すぎてまだ咀嚼しきれていないが、冴の衰弱した様子を見ていられず近くへ駆け寄ろうとする。
けれどその前に、ふらふらと立ち上がる影があった。
「あ、晃、さま……」
か細い声が父を呼んだ。
それは、今までただうつむき座り込んでいた澪さんだった。
冴の元へ行こうとしたまま固まった私の前に、椿くんと佳月が庇うように出る。
澪さんは支える冴の手を無視して、二、三歩父の方へと歩みを進めた。
「まだ話す元気があったとは」
意外そうにそう父が答えると、澪さんはふらふらと顔を上げる。
その顔は暗く陰り、鬱屈としていて、生気のない魂が抜けたような顔だった。
先ほど会った時とはまるで違う雰囲気に私は思わず身震いする。
「私は、私はただ、あなたが好きなだけだった。あなたと一緒にいたかった。それだけなんです。それだけだったんです。あなたが、また私を見てくれたら、それだけで、私は」
その声はただただ切実で、父への直向きな愛に満ちているように私は聞こえた。
けれどうつろな瞳のまま告げられるその言葉を「純粋な愛」として受け取るには、狂気が垣間見える。
「そうだね。君の目的は最初から檻人でも凛でもなく、私だった。でも残念だ。私は君の物にはならないよ」
それに対する父の声はどこまでも冷静で、いっそ冷酷だった。
一片の慈悲もない。
それは、人の心を打ち砕くような声だった。
「だ、だったら、だったら、わたしは」
「だったらどうするんだい? 今はもう君にはなんの力もない。
闘ってでもみようか? だが君に私は傷つけられない。なぜなら君にとってのすべては私だからだ。
君に、私を傷つけるなんて選択はできない」
「必ず」と、告げる父の言葉が酷く恐ろしくて、まるで呪いのように聞こえた。
「ああ……」と、言葉にならない声を上げて床に崩れ落ちた澪さんに、父は今度こそ背中を向ける。
何か言おうとして、けれど何も言えなかった。
誰も、何も言えなかった。
私も佳月も椿くんも、冴も。
父と澪さんの間には私たちの知らない何かがあって、それが今跡形もなく砕け散ったようだった。
私は冷めた目つきで澪さんに視線を向ける父を見る。
これは私が初めてみる父の一面だった。
これはまるで————あの時、澪さんが私に見せたあの父の幻と、そっくりだった。
「さあ、今度こそ帰ろう」
けれど、振り返り柔らかく笑って私を見る父はいつもと同じだった。
それでも今このままこの場を離れたくなくてなおも私が立ち止まっていれば、そっと佳月に手を引かれる。
「佳月、」
「帰りましょう。今はもう、何もできることはありません。彼女に対しても、彼に対しても」
「でも、冴が」
「彼は知ることを選んだ。なら、その知ったことをどう受け止めるかは彼が自分で決めることだ」
冷静にそう言われて、何も言い返せない。
私はそのまま半ば強引に佳月に手を引かれて、その部屋を退出した。