二つの決意
少年にとっての世界は、いつだってシンプルだった。
入れられたその小さな箱庭が彼にとってはすべてで、それを与えた母親は、信じるべき唯一のものだった。
そうだったのに。
外から来た彼女と彼が、少年に問う。
信じることの理由を。定義を。意味を。
今まで当たり前のように信じてきたから。信じることが自分にとって一番の最善なのだと、「信じて」いたから。
だから、今になって急にわからなくなる。
自分はどうして————母を信じるのか。
そして、自分は本当に、母を信じていいのか。
ただ盲目的に母親を信じてきた。だってそれが少年にできる唯一のことだったから。
もし信じることをやめてしまえば—————もし自分が母親を信じられなくなってしまったら、それは少年にとって死にも等しいことだった。
あんなにも知りたいと願った真実が今では恐ろしい。
本当のことを知ってしまったら、信じられなくなってしまったら、どうしたらいいんだろう。
それならいっそ。
信じられなくなるぐらいなら、知らない方がましじゃないか。
ЖЖЖ
目を凝らして辺りを確認してみるが、やはり近くに見張りの人間はいないようだった。
物音もせず、人の気配も感じられない。
小さな部屋に鉄格子を挟んだだけの、人を閉じ込めるためだけに作られたようなその部屋はただただそこだけ隔絶されたような静けさがあった。
「やはり、この牢屋は魔法対策がされているな」
牢屋の中を歩き回りながらぺたぺたと牢屋の中に触れて何かを確認していた椿くんは、難しい顔でそう告げた。
「魔法対策?」
首をかしげてそう尋ねると、椿くんは「ああ」とうなずく。
「俺が最初魔法を使って逃げ出したから、対策を施したんだろう。これでは魔法を使って牢屋を破ることも難しいな……」
考え込むように眉を寄せる椿くんを見て、私もそっと牢屋の鉄格子に触れてみた。
それは、どこからどう見てもいたって普通の鉄格子だった。
魔法対策が施されているなんて感じることはできない。
先ほどの件でなんだか魔法を身近に感じられたと思っていたのだけれど、そうそう何もかもがうまく行くというわけでもないようだった。
これは、牢屋脱出のために私にできることは少ないかもしれない。
それでも、せめて何か手がかりでも見つけられないかと思って、牢屋の外に目を向ける。
牢屋の外には、外へ続くと思われる小さな扉があった。
扉は固く閉ざされ、外の様子をうかがい知ることはできない。
「やっぱり、鍵がないと出られないのかな」
「時間があれば無理やりにでも脱出できないこともない。だが、そう時間に余裕があるわけでもないしな……」
「うーん……」
どうにかして出られないものか。
椿くんの言う通り私たちには時間がなかった。
澪さんや父の真相は今だ謎のままだけれど、このままここにいて無事で済むとも思えない。
冷たい鉄格子をぎゅっと掴んで私はうつ向く。
鍵さえあればいいのだけれど、この部屋の中にそれらしいものはないし、この屋敷の人の誰かが持っているのだろうか。
「……ん?」
考え込むように顎に手を当ててうつ向いていた椿くんが、ふと何かに気付いたように顔を上げた。
「椿くん?」
その様子に私も顔を上げて尋ねると、椿くんは「しっ」と人差し指を唇の前で立てて私に黙るよう指示する。
困惑していると椿くんは声を低くして言った。
「誰か来る」
「え……!」
咄嗟に牢屋の外の扉を見る。
確かによくよく耳を凝らせば足音しているようだった。
「ど、どうしよう」
「とりあえず下がっていろ」
椿くんの後ろにかばわれ、彼の背中によって視界から扉が消える。
「ある意味これは好機だ。向こうから扉を開けてくれるかもしれない。
とにかく、いつでも逃げだせるようにはしておけ」
小声でそう指示されて私はうなずく。
確かに私をここから連れ出すのであれば、一度この牢屋は開かれるはず。
一か八かの賭けではあるけれど、今の私たちにはこれしかここから抜け出す手立てはないかもしれない。
私は体を小さくして、じっと扉の様子をうかがう。
ぎい、と扉が開かれる音がした。
身構える。
「————凛さま?」
しかし、扉の方から聞こえたその声は、酷くなじみのある声だった。
「え?」
その声に驚いて椿くんの肩口から扉の方を覗き見れば、見慣れた金色と目が合う。
すぐにわかった。
「か……か、佳月!!」
「ああ、やっと見つけた」
ふわり、と酷く安心したように目元を柔らかく緩めた佳月が、扉の向こうに立っていた。
どうして彼がこんなところに。
隣で椿くんも驚く気配がする。
戸惑いながら彼を注視していれば、そこで彼が一人ではないことに気付いた。
「……冴?」
「り、凛ちゃん……」
佳月の後ろから隠れるようにしてついてきていたのは、冴だった。
それにさらに驚いて佳月を見れば、彼は肩をすくめていう。
「来る途中で会ったんです。あなたの居場所を知っているようだったので、案内してもらいました」
「案内って……」
そもそも彼はこの屋敷にはいないはずなのに。
次から次へと訪れる驚きに、視線を冴へと向ければ、冴は気まずそうに私から目を反らした。
「さ、冴?」
その様子を不思議に思って名を呼ぶが、冴は何かを堪えるようにグッと唇を噛んでうつ向き、首を大きく横に振る。
助けを求めるように椿くんを見れば、彼は少し間をおいて「この屋敷に来るとき、彼に案内してもらったんだ」と教えてくれた。
そうなのか。それであそこからここまで来てくれたのか。
そう納得していれば、佳月が冴を置いて扉の近くから牢屋の方へ歩を進め私の前で立ち止まった。
「あの、それで、佳月はどうしてここに?」
一番の驚きのもとである彼に私はそう尋ねる。
目の前まできた佳月に、私も椿くんも鉄格子の近くまで歩み出た。
今見たところでは彼のほかに冴しかいないようだけれど、まさか彼一人でここまで来たのだろうか?
私の疑問に、佳月はにこりと笑顔のままに言葉を返した。
「当主さまの指示ですよ」
その返答に、私は驚いて言葉に詰まる。
何だって?
「お、お父様が……?」
それでもなんとか声を絞り出してそう尋ねれば、佳月は「はい」と肯定の意を示した。
父の指示で佳月がここに来た。
それはつまり、お父様が私を助けようとしているということか。
不安と期待が同時に押し寄せる。佳月を見れば、彼は付け足すように言葉をつづけた。
「詳しいことは俺にもまだわかりません。けれど恐らく当主さま達は、今回の誘拐事件を随分前から予測していたようですね。今もあなたを逃がすために時間を稼いでいらっしゃいますよ」
その言葉に私は思わずぽかん、と口を開けて呆けてしまった。
「え、待って待って。色々情報量が多すぎるよ。予測してたって、どういうこと? というか、まさかお父様は今この屋敷にいるの……!?」
「ええ。それと、如月家の当主ともいらしているようです」
矢継ぎ早に佳月から与えられる情報に頭が追いつかない。
思わず椿くんの方を見れば、彼も驚いたように目を見開いていた。
「父上も来ているのか?」
驚きのまま椿くんがそう尋ねれば、佳月は「ええ」と頷いて言う。
「事実は知りませんが、俺がみた限りでは、彼らはあなたを守るために、ずっと前から動いていたようです。如月家の当主が椿さまを連れて一宮の屋敷に来たのも、今回の誘拐を想定してのことでしょう」
父が、私を守るためにずっと前から動いていた?
如月の人間を家に呼んだのも、すべて父の計画の一部だった?
佳月の言う言葉が真実なら、それは素直にとてもうれしいけれど、それにしたって今だにわからないことが多すぎる。
何から質問すればいいかもわからない。
それで言いあぐねていれば、その間にも佳月が牢屋の扉の前でがちゃがちゃと何やら音をたたせ始めた。
何をしているのかと戸惑ってその様子を見ていれば、やがてがちゃんという何かが外れる音が聞こえる。
「え」と思って見ると、佳月は手に錠前を掲げてにこりと笑って告げた。
「開きました」
「え、え、ええええ! さっきから何をしているかと思えば、鍵が……」
「はい。魔法は使えないようなので、物理的に開けました。こういう手を使う作業は得意なので」
ぎい、と嫌な音を出しながら開かれた牢屋の扉に彼と扉を見比べれば、彼は何ということはないように笑ってそう言った。
得意って、そんな言葉で簡単に開くようなものではないだろう。
こういうのを一般的にピッキングというのではないか。否、それにしたってそう簡単に開けられるような鍵じゃなさそうなのに。
驚きに言葉を失っていれば、その間にも扉を開けた佳月が私の手を引いて告げる。
「さあ、お喋りはこのあたりにして、とにかくこの屋敷から脱出しましょう。追手が来ても困る」
「あ……うん」
佳月にそう言われ、そこで私はようやく今の状況を思い出した。
そうだ、色々わからないことが多いけれど、とにかくここでジッとしているわけにはいかない。
父の計画がどういうものかは知らないけれど、先ほどの佳月の話では、父は今私たちが屋敷を脱出するために時間を稼いでるとのことだった。
ならば私たちの仕事は一刻も早くここから逃げること。
けれど私は、牢屋から一歩出たところで立ち止まってしまってしまった。
「や、やっぱり……今、父さまのところに行くっていうのは、まずい、よね」
手を引いて私を牢屋から出す佳月に思わずそう言葉を漏らせば、佳月は首をかしげて私を真意を読むようにじっと私を見つめた。
「あのね、ええっと……」
言いかけて、これを言ってしまっていいものかと私は一瞬言葉を途切れさせた。
言うか言うまいか迷って、一瞬椿くんに視線を向ける。
彼は椿くんのお父さんもここにきていると聞いてから、何か考え込むようにじっと黙り込んでしまっていた。
それから、扉の前でただたたずんでいる冴にも視線を向ける。
彼もまた不安そうな、戸惑うような顔をしてそこに立ち尽くしていた。
再び佳月に視線を戻す。
不思議そうに私を見つめる佳月に、私は意を決して言った。
「あの、お父様の意図もちゃんとわかっているし、だからこれがわがままなことは百も承知の上でなんだけど……私、お父さまの……お父さまと澪さんのところに、行きたい」
その言葉に弾かれたように椿くんと冴が顔を上げた。
佳月は私の真意を探るように私をジッと見つめる。
「それは、どうして? 今彼が対峙しているのは、あなたをさらった首謀者だ。あなたが行くのは危険すぎる。俺は賛成できません」
「わ、わかってるよ。でも……」
言ってしまって、やっぱり言わない方がよかったかもしれないと後悔が胸中に広がる。
でも、このまま帰ってしまって私は本当にいいのだろうか。
その疑問をどうしても払しょくできなかった。
たとえ父のところに今行っても私にできることはないし、むしろ足手まといになるし、さらに言えば父が立てた計画を台無しにする恐れだってある。
それでも私は、自分の目でこの誘拐の真実を知りたかった。
どうしてこんな誘拐事件が起きたのか。
いったいいつから父はこの誘拐事件を予測していたのか。
澪さんのあの言葉の意味はなんだったのか。
この事件の当事者は私だ。
それなのにわからないことだらけのまま、屋敷に戻って、それですべて終わってから真実を聞いたとして、私はそれに納得できる自信がなかった。
今、私は渦中にいるはずなのに、まるで蚊帳の外にいるようだ。
「……お願い。無理を言ってるのはわかってる。
でも、わかっていても、今このまま帰ってしまえば、また本当のことがわからなくなりそうだから。だから、行きたい」
「俺も行く」
佳月をジッと見据えてそう言えば、横から思わぬ助け船が入った。
驚いて声の主、椿くんを見れば、彼は私を見つめて小さく笑った。
「俺もお前の意見に同意する。俺の父親もお前の父親も、後から聞いて素直にすべてを話してくれるような人たちじゃない。聞くなら今だ。
それに、もう体調も大分回復した。危険があっても、自分と、お前ひとりぐらいなら守ってやる」
そう話した椿くんの笑みが不敵な笑みに変わった。
椿くんの賛同にうれしくなってそのまま佳月を見ると、反して佳月は微かに眉間に皺を寄せていた。
「一緒に誘拐された身分でよく言う」
小さくつぶやかれた佳月の発言に、椿くんは眉をぴくりと動かして佳月に目をやった。
しばし二人の視線が交錯し、険悪な雰囲気が流れる。
互いに無言なのにピリピリとした空気に困惑していれば、やがて佳月の方が視線を外して、私の方へと目を向ける。
まっすぐに私を見据えて、両手で私の手をぎゅっと握りしめた。
「たぶん、今からいってももうある程度カタはついているでしょう。あなたがいってもできることはないだろうし、いい気分にはならないと思います」
「それでも、行きますか」と、静かな表情で告げられるその言葉に、私はじっと佳月の瞳を見つめた。
彼の金色の瞳はただまっすぐに私をとらえていて、それから目を反らさずにじっと見つめ返せば、やがて彼の表情はふっと和らいだ。
「前から思っていたんですけど、あなたって結構頑固ですよね」
「……ご、ごめん」
「構いません。それがあなたであるのなら。
ただ、俺の心配もわかっていてください」
「どうやら俺はあなたのことになると平静ではいられないようだから」と、微かに笑みを浮かべたまま、けれど痛いほど真剣なまなざしでそう告げられて、私は思わず呆けてしまう。
彼のこんな真剣で、切実な様子を初めて見たから。
けれど彼の私の手を握りしめる力にハッと我に返って、私は大きく頷いて見せた。
「—————それで、お前はどうするんだ」
私と佳月のやりとりを黙って見ていた椿くんが、不意に、視線を私たちから扉の方へと向ける。
「冴」
名を呼ばれた冴は、びくりと一瞬体を震わせて弱弱しく椿くんを見た。
「僕は……」
ふらふらと視線をさまよわせた冴は、決めかねたように頼りなさげに椿くんから私を見る。
彼と目が合って、最初に会った時よりも、なんだか酷く弱っているような印象をうけた。
無垢で幼い彼の瞳は、今は迷いや不安で満ちている。
ここにくるまでに、何かあったのだろうか。
じっと彼を見つめれば、彼は弱弱しい声で私に尋ねる。
「凛ちゃんは……凛ちゃんは、本当のことを知るために、お父様に会いに行くの?」
恐る恐る発せられた小さなその声に私は一度目を瞬いて、そしてうなずいた。
「そうだよ」
「……その、本当のことが、自分にとって嫌なことでも? 知りたくなかったことでも?」
「うん。それがどんなものであれ、もう受け止める覚悟は、できたよ」
「……どうしてそんなに、」
そこで言葉を途切れさせて、言葉を探すように冴は唇を噛んだ。
どうしてそんなに。
冴の言葉の続きは何となく想像することができた。
そこで私は理解する。
彼は母親を愛し、だからこそ母親を知ろうとしていたけれど————今こうして実際に母が行っていることを目の当たりにして、知るのが怖くなってしまったのかもしれない。
信じたいから、知るのが怖いのだ。
母を知りたいのに、信じたいのに、そのせいで一歩が踏み出せずに、あの小さな部屋の中を彼は抜け出せなかった。
それは私と、椿くんと同じように。
私は途方に暮れたような表情をした冴の方へ歩を進めて、彼の目の前で立ち止まった。
恐る恐る再度私に合わせられた視線に私は笑って言って見せた。
「冴がさっき私に教えてくれたんだよ」
瞳を揺らし、戸惑いの表情を見せた冴に私はさらに続ける。
「わからないから、知りたい。その当たり前のことを教えてくれたのは冴だ」
私は言葉を選びながら、ゆっくり冴に伝えた。
「冴、あのね。上手く言えないんだけど、きっと、相手のことを何も知らないままで、勝手に想像して、勝手に過剰におびえたり、反対に、勝手に妄信したり、それってすっごく、意味のないことなんだと思う。っていうか、私もそれについさっき気付いたばかりなんだけど。
だからね、誰かを疑うにしろ、信じるにしろ、憶測でなく、自分の目で見て確かめた、理由が必要なんだと、私は思うよ。
わからないから、知りたい。それがすべてなんだよ。だって、知らなければ、相手を信じることなんてできないんだから」
私の言葉に冴の瞳が見開かれる。
数秒私たちは見つめ合って、やがて冴の瞳から戸惑いの色が消えた。
そして決意したように目に力を入れて告げる。
「……わかった。僕も行く。僕も、僕の大切な人を――――信じたいから」
私たちはお互い見つめ合ったまま一つうなずき合った。
こうして、私たち四人は父たちが澪さんと対峙する場所へ向かうこととなった。