約束の夜 後編
2話連続投稿です。
急激に意識が浮上した。
そのあまりの急上昇に、乗り物酔いを起こしたときのような気持ちの悪さが全身を駆け巡る。
気づけば私は、椿くんの体に倒れこむようにしてうずくまっていた。
先ほどまでのぼんやりとした感覚とは違う、地に足の着いたような、この感覚。
そうか、私は戻ってきたのか。
「つ、つばきく……!」
瞬間、覚醒して、慌てて体を起こして椿くんを見る。
魔法を解くことは成功したんだろうか。
私はちゃんと、椿くんを助けられたのだろうか。
結局魔法の解き方は明確にわからないままだったけれど、私はちゃんとやれたのだろうか。
焦る気持ちのまま椿くんの顔を見て――――そこで私は言葉を失った。
彼が、泣いていたのだ。
「つ、椿くん……?」
驚いて、彼の名前を呼ぶ。
泣いているとは思っていなくて、あわあわと視線をさまよわせていれば、彼は泣いている顔を隠すように片手で顔を覆ってしまった。
それでも時折漏れる彼の嗚咽が、彼が泣いていることを示している。
彼がこんなに、まるで子どもみたいに泣いている姿なんて、初めて見た。
呆然と彼を見つめていれば、彼は「くそ……っ」とかすれた声で悪態をついた。
「お前に助けられるなんて。自分で自分が情けない――――俺だって本当は、わかっていたのに」
それはひどく悔しそうな声色だった。
涙を隠すように片手で顔を覆ったまま、彼はつぶやく。
「父上のことも、母上のことも、俺は知っていたのに。わかっていたのに」
「椿くん……」
そうか。
私は彼が泣いているなんて珍しくて驚いてしまったけれど、そうじゃない。
きっと彼は、今、ようやく泣けたのだ。
ずっとずっと我慢していたものを、ようやく解放できたのだ。
涙を堪えようとするのにこらえきれないのか、震えた声で告げる椿くんの空いたもう片方の手を思わず取った。
椿くんの手はかすかに冷たくて、ぎゅっと握りしめてしまう。
椿くんは特に抵抗しないままで、独り言を言うようにただただ言葉を紡ぐ。
「わかっていたのに、俺はそれを信じられなかった。信じない理由を色々作ったって、それは結局ただの虚勢だった。その結果、敵の魔法にまんまと飲み込まれて。
そんな自分が、情けなくてたまらない。ああ。なんだよ俺は結局、ちっとも強くなかったんじゃないか。
おかしな話だよな。家族なのに。一番近くにいる存在なのに、俺は彼らが怖くて仕方が無かったんだ」
悔いるようにそう話す椿くんの気持ちが私は痛いほどわかった。
「わかるよ」
「え?」
だから思わず、彼にそう言葉を返していた。
「だって、私もそうだ。家族なのに、ずっと怖かった。不思議だよね。でもきっとそれは、私だけじゃなくて、たぶん冴も。きっと誰でもそうなんだと思う。
誰かを信じるっていうのは……たとえばそれが親なら、ううん親だからこそ、怖くなるのかもしれない。大事な人ほど、理由なんてなくただ信じていたいけど、でも同時に信じていいのか慎重になっちゃうんだよ」
椿くんの手を握りながら、これまでの自分を思った。
私も父を信じられなかったから。
一番信じたい人だったのに、信じることが怖くて、信じることをあきらめてしまった。
「信じるっていうのは、きっとすごく勇気のいることで、労力も半端なくて、しんどいことなんだろうな。相手と向き合って、話して、相手を知らなきゃいけない。
誤解しないように、誤解されないように、自分の気持ちも相手の気持ちも理解して、ちゃんと伝えられるように、たくさんたくさん話して、それで漸く、相手を信じられる」
私は相手を信じられなくて、だから「本当のこと」を知るのが怖くて、ずっと父から逃げ続けてきた。
父のことを勝手に想像して、想像しては、さらに父を恐れて。
でもそれじゃ、いつまでたっても何も変わらない。
たとえ父がこちらに歩み寄ってくれたとしても、私が逃げていたんじゃ平行線のままだ。
私が、立ち向かわないと、何も変わらない。
それに気づくのに、私は人よりも何倍も時間をかけてしまったけれど。
そう告げれば、椿くんは私の手をぎゅっと握り返した。
「……そう、なんだろうな、それが理想だ。だが……俺はそれが怖い。情けない話、正直未だに。
父上は……ちゃんと俺の話を聞いてくれるだろうか。父上のことを教えてくれるんだろうか。今は話そうと思えても、ここを出ていざ父上と向き合ったら、怖気づかないだろうか。
なあ、お前はそれとどうやって向き合った?」
苦しそうな声で、椿くんはそう問いかけた。
それに私は首を横に振った。
「私もまだ、全然向き合えてないよ。何もできてない。向き合おうって、ただそう決めただけ。相変わらず怖いのは一緒だしね。きっとそれは、私一人分の勇気じゃとても足りないんだ。
だからね」
それはちょっとした思い付きだった。
私は笑って言った。
「————約束しよう」
「約束?」
椿くんが顔を覆っていた手を離す。
覗いた赤い瞳に私は強くうなずいた。
「うん。怖いことから逃げ出さないための約束。
ここを出たら、私もお父様と話すよ」
そう告げれば、椿くんはかすかに目を見開く。
「君の……父上と?」
「そう。さっきも言った通り、私もずっと父さまから逃げていたから。
一番話さなくちゃいけない人なのに、ずっと。
だから、ここを出たら絶対に話すよ。話さなくちゃいけない。
だから椿くんも、話そう。
約束。ここを出たら、一緒に戦うって、約束」
「一緒に……」
私の言葉に椿くんはどこか呆然としたように言葉を返す。
「一人じゃ怖いから、一緒に頑張ろう」
力強くそう告げれば椿くんは――――顔をしかめっ面にした。
「……むかつくな」
「え!?」
予想外の返答に思わず声を上げる。
「君みたいに弱い人間にそんなことを言われるなんて、むかつく。何だか、君に負けたみたいだ」
「ええ……」
そんなこと言われたら、せっかく芽生えた勇気がしおれそうだった。
顔を引きつらせて椿くんを見ていれば、そんな私に小さく笑う。
「俺はずっと、君が弱い人間だと思っていた。いや、きっとそれに間違いはないんだと思う。
君はどこからどう見ても弱虫で泣き虫の普通の女の子で――――だから嫌いだった」
思い出すようにそう告げる椿くんを黙って見つめていれば、彼はさらに言葉をつづけた。
「弱い君が嫌いで、弱いくせに檻人になろうとするのも正直気に入らなくて。
けれどある日、君は急に変わった。今まで下を向いて教室の隅にいた君が、前を向いて、人の目を見て話すようになった。
俺はそれが衝撃的で、憎らしく思って――――いや、違うな。きっと俺は、焦ったんだ。弱いくせに、必死でそれに抗う君の姿に。そんな強さの在り方も、あったのだと」
自嘲するように、椿くんは、軽く目を伏せて笑う。
「死ぬほど癪だが――――俺はきっと、君のそういうあり方が、ずっとうらやましかったんだ」
そう告げた椿くんの表情は、どこか悔し気で、けれどどこか晴れやかで。
これまで見てきた表情の中のどれよりも一番、子どもらしい表情だと思った。
彼が手を指切りの形に変えて、私に差し出す。
「いいよ。約束しよう。俺は君と、戦うことを誓う」
その言葉に、自分で言っておきながら目を見開けば、椿くんが「はやくしろ」と私をせかした。
慌てて私も右手を差し出せば、彼の小指がぎゅっと私の小指に結ばれる。
小指から伝わる彼の少し低い体温が、なんだか心地よかった。
しっかり握って約束する。
大切な人を、大切にしたいから。
もう、疑いたくないから。
これはそのために一緒に戦う、誓いだ。
「————さて、それじゃあそのためには、とにかくここから逃げ出さないとな」
指切りをして、絡めていた指をゆっくり離して。
少し照れたように椿くんが笑った。