約束の夜 前編
2話連続投稿です。
私にごく簡単にやり方を教えた彼は、「頑張ってね」という言葉を最後に、消えた。
否、私の意識がそこから浮上したのだろう。
ああ、また彼の名前を聞きそびれたな――――と薄れていく彼の姿を見ながらぼんやり思う。
どうしていつもあんな場所で会うのかも、どうして助けてくれるのかもまるでわからないのに、なぜだか不思議と彼に警戒心を持つことはできなかった。
また会えるかわからないが、それでも彼とは「次」があるような気がした。
それに、今はそれよりも、大事なことがあった。
意識が浮上してすぐ、私は今の自分の置かれている状況を確認した。
辺りは薄暗く、目の前には鉄格子。
拘束具の類はつけられていないようだが――――ここはどうやら牢屋らしかった。
なんだか誘拐された当初、振り出しにもどったような気がする。
粗方状況を確認し、見張りの人間もいないことを確かめてから、私は隣を見た。
「……椿くん」
やはりそこには、先ほどの少年が告げたように椿くんが眠っていた。
どうしてここに来たんだ、と思うけれど、そんなもの本当はわかりきっている。
彼は、私を助けに来てくれたのだ。
「絶対……助けるからね」
私が頼りないばかりに、きっと彼は助けに来てしまった。
このまま彼の心を壊すようなことはさせない。
私は先ほど少年に教わった通りに、椿くんの胸に手を当てた。
どくり、どくりと椿くんの心臓が脈打つのが聞こえる。
けれど違う、私が聞きたいのは、見たいのは、そこではなく、もっともっと奥の方。
私は、先ほど少年に言われた言葉を思い出す。
「いいかい、魔法において一番大切なことは、
魔法の対象の性質をいかに捉えるかだ」
「対象の性質……?」
少年の言葉に、私は目を瞬かせた。
「そう」と頷いた少年に、そういえばそのようなセリフを、確か椿くんにも言われたことがあったな、とぼんやり思い出す。
――――いいか。魔法というものは魔法をかける対象をいかに捉えるかが重要になってくる。
彼も確かにそう言っていた。
「ん? ということは、この場合は、椿くんの体の構造を理解すればいいってこと……?」
いやいやそれってどんな難題だ。
自分で言っていて、あまりの難題さに顔がひきつる。
だって私に生物学だとか医学だとかの知識はまるでない。
なんだか早くも無理な気がしてきた。
そう思っていれば、少年は首をかしげて言った。
「君は彼の体に何かをするつもりなのか」
「え?」
「今君が対象とすべきは彼の身体ではなく……彼の心だろう」
そう言われて思わず自分の心を見る。
「心……し、心臓?」
「違う。もっと抽象的なものだ。
性格、感情、記憶———それらの源」
少年は私の胸を指しながらそう告げる。
心。
「それを捉えるって……」
ある意味からだの構造よりも難しいのではないか。
「無理? なら、諦める?」
「あ、諦めないよ!」
言われた言葉に反射的に首を振れば、少年はなんだか少し笑ったような気がした。
けれどそれも一瞬で、また飄々とした空気に戻る。
「まあ。大丈夫だよ。君は彼のことをよく知っているだろう?
なら彼の心にすぐ気づけるはずだ。
あんな対象を無視した強引な魔法、すぐに解けるさ」
彼の言葉を思い出しながら、私は必死で椿くんの「心」を探した。
そんなもの探した経験なんてないので、これでやり方があっているのかもわからない。
けれど、彼の言う通り性格や感情、記憶の集まりとして心があるというのなら、確かに私は椿くんのことをよく知っていると思った。
これまで彼とかかわった事だけでなく、原作も含めた知識を入れれば、だけれど。
この世界のすべてが原作と同じだとはもう思っていないが、けれど原作と同じことは確かにある。いや、むしろ原作通りなことの方が多い。
こんなところでこの知識が役に立つのかわからないけれど――――彼を救えるのならなんだってやってやる。
私は彼の胸に手を当てたまま、じっと意識を集中させた。
それは、深い深い暗闇の中をゆっくりと下っていく感覚だった。
この暗闇は見覚えがある。これはさっきまで私も閉じ込められていた場所に似ていた。
ゆっくりと下降を続けていけば、やがて足に何かがあたる。
どうやらここが最下層のようだった。
「成功……したの?」
暗闇を見渡しながら一人でにつぶやく。
成功したのだとしたら、ここは少年の言っていた椿くんの心のなかということだろうか。
ただただ暗いだけで、何も見えやしないのだけれど。
「椿くん!」
彼の名前を呼んでみるが、返答はなかった。
辺りは恐ろしく暗く、シン、と静まり返っている。
いや。
よくよく耳を済ませれば、ただ静かなだけではないようだ。
静けさに交じって、何かの声がする。
これは……泣き声?
その声を頼りに暗闇を進んでいけば、やがて一か所だけぼんやりと明るいところをみつけた。
「————どうして母上は死んでしまったの?」
近づいて、足を止める。
そこにいたのは椿くんだった。いや、私の知る椿くんよりも少し幼いだろうか。
どうやら、先ほどの泣き声は彼のものらしかった。
しゃくりあげるように泣きながら、彼は「どうして、どうして」と声を漏らしている。
何が何だかよくわからなかったが、とにかく彼に近づこうと一歩足を踏み出した。
しかし、彼に近づこうとする私を遮るように唐突に、じわじわと彼の周りが何かの風景を描き出す。
彼の周りを囲うように、暗闇からそこだけ切り取るように、鮮やかに描かれた風景を見ると、そこは、誰かのお墓の前のようだった。
風景が広がるにつれ、彼の隣にいる人物も露になる。
椿くんの手を引いて、彼と同じようにお墓の前に立っているのは――――彼の父、仁さんだ。
「椿、もう泣き止みなさい。泣いたところでもう、母上は帰ってこない。お前はこれから、強くならねばならないんだ」
椿くんの手を握りながらそう彼に告げる仁さんの声は固い。
彼の言葉に従い椿くんは泣き止もうと目をこするが、涙は次から次へとあふれてくるようだった。
これは、椿くんの記憶だ。
映像のように映し出されるそれをぼんやりと見つめながら、そう理解する。
少年は、澪さんの魔法は魔法をかけられた相手にとって「見たくないもの」を見せると言っていた。
つまりこれは彼にとって見たくないもの――――彼の、過去。
彼の言葉からして、きっとこれは母親が亡くなった直後だろうか。
そう整理している内に、場面はどんどん移り変わっていく。
今度映し出されたのは、どこかの屋敷の庭園のような場所だった。
私の家の庭に似ているが――――きっとこれは如月の家の庭だろう。
「如月家の面汚しが」
庭に集まった数人の男の子たちが、悪意に満ちた言葉とともに、椿くんは後ろに突き飛ばした。
体勢を崩して彼が尻餅をつけば、周りからはくすくすと笑い声が上がる。
「父さまに聞いたぞ。お前、一族の掟を破ってズルして檻人になったんだってな」
「本当は僕の兄さまが檻人になるはずだったのに。卑怯者め!」
悪意の弾丸が雨のように椿くんに降り注ぐ。
しかし椿くんは何も返答せず、座り込みただ黙ってうつ向いていた。
咄嗟に止めに入ろうとするが、体が動かない。
この彼の見せる過去の中に、私は入れないのか。
「椿」
もどかしさに歯噛みしているうちに、その場に、仁さんが現れた。
仁さんの登場とともに、周りにいた人たちが慌てたように退散していく。
「椿」
椿くんと仁さんしかいなくなったその場所で、仁さんはもう一度椿くんの名を呼んだ。
椿くんはまだ顔を上げない。
ため息をついた仁さんが椿くんのそばでしゃがみ込み、視線を合わせた。
仁さんが無理やり顔を上げさせれば、椿くんの泣きそうな顔が露になる。
「父上、どうして母様は僕を檻人にしたの?
本当に母様は掟を破ったの?」
涙を堪えるような震えた声でそう言った椿くんに、仁さんは首を横に振った。
「そんなでたらめに惑わされるな。母上は掟を破ってなどいない。あれは、仕方のないことだったんだ」
そう告げた仁さんに、椿くんはますます泣きそうな顔をする。
「僕は、僕は、檻人になんか、なりたくなかった」
「そんなことを言うな。
いいか椿。お前はもっと強くならなくてはならない。檻人として、そしていずれはこの家の当主として」
そう告げる仁さんの視線は鋭く、声も冷たい。
座り込んでいた椿くんを無理やりに立たせると、仁さんは言った。
「強くなれ。椿。それがお前の生きる道だ」
暗闇に映し出されるその記憶に、私は原作を反芻する。
そうだ。彼はこうやって一族の人間に掟破りの檻人としてずっと虐げられてきた。
誰も助けてはくれない。父でさえも。父はただただ椿に強さを求めるだけだった。
だから彼は強くなるしかなかった。一人で、自分の足で立つしかなかった。
そしてそんな時、彼はある噂を耳に入れる。
「えええ? じゃあやっぱりあの噂は本当なんですか?」
再び風景が移り変わる。
ここは、屋敷の中だろうか。
椿くんは物陰に隠れ、屋敷の人間が話しているのに耳をそばだてているようだった。
「ええ。本当らしいわよ。一族の公表では、あの場に椿さましかいらっしゃらなくて、仕方なく椿さまに檻人の継承を行ったということだったけれど……。
本当は結さまの独断だったらしいわ」
「独断って、なら本当に掟破りだったってこと?
一体どうしてそんなこと……」
「なんでも、仁様が一族の当主の座を狙っていたからだって話よ」
「ええ! じゃあなあに、結様も仁様も、そのために椿さまが檻人になることを利用したということ?」
でたらめな噂に自然と眉間にしわが寄る。
椿くんを見れば、彼は何かに耐えるように唇をかんで、その場にうずくまっていた。
それはただの噂話に過ぎなかった。
そんなのこと、彼も本当はわかっていた。
わかっていたはずなのに、この時の彼はもう、何を信じればいいのか、それさえわからなくなっていたのだ。
誰も彼もが嘘をついているように思えて、信じることが億劫になって。
だから彼は、誰かを信じるのをやめてしまった。
周りの風景は消え、その場に椿くんだけが取り残された。
彼は身を縮めるようにその場に小さくなって座り込んでいた。
今度こそ声をかけようとして、ふと気づく。
彼の体にまとわりつくように黒い何かが彼を包んでいた。
まるで彼をこの暗闇の中に引きずり込もうとするそれは、どう考えてもいいものには思えない。
瞬時に悟る。
澪さんの魔法に椿くんの心が飲まれかけているのだ。
「椿くん!」
慌てて名を呼んでみるが返答はない。
漸く身動きが取れるようになった足を動かし、近づくいて肩をゆすってみるが、何も返事はなかった。
ただただ膝を抱え、顔を埋め、外の世界を遮断している。
「椿くん! 椿くん!」
何度も名前を呼ぶのに、彼は顔すら上げようとしなかった。
それはまるで、このまま消えていくことを望んでいるかのようだった。
体をゆすっていた手を止めて、私は椿くんを見下ろす。
今何を言っても、彼には届かないような気がしてしまった。
やはり、私の言葉では、彼に届かないのだろうか。
その考えに至って、グッと唇をかみしめる。
そんなこと思いたくなかったし、あきらめたくもなかった。
けれど、そうは言ってもなんて言葉をかけたらいいのか皆目見当もつかないのだ。
辛かったね? もう大丈夫だよ?
そんなこと言って何になるのだろう。
私には、一族の人に虐げられた彼の気持ちも、信じることをあきらめてしまった彼の気持ちもわからないのだ。
彼にかけるべき、彼を絶望から救い上げるための「正解の言葉」を私は知らなかった――――いや、違う。
正解なら私は知っていた。
原作で、椿が凛に救われたあのシーン。
彼女は椿の弱さも何もかも見透かしたうえで言うのだ。
――――――――いつまでもうじうじ強がってんじゃないわよ! 怖いならね、私があなたのことを守ってあげる!
その強いまなざしと、強い言葉に、椿は救われた。
けれどそれを、私が言ったところでなんの意味もなかった。
だってそれは彼女の台詞だったから。
彼女が言ったからこそ意味のある言葉だったから。
私にその「正解」は使えない。
たとえ私がどれだけ原作を知っていようとも、彼女の母親の真実を私が語ろうとも、意味がないのだ。
それを私が言っても、意味がないのだ。
じゃあ、私が彼に伝えられることって、なんなんだろう。
不意に、そんな疑問が脳裏に浮かんだ。
椿くんを見る。うずくまる彼は今にも闇に飲まれそうなほど小さく、そして弱弱しかった。
きっと、もう目を開けることが怖いんだ。
その気持ちを、私は知っていた。
誰にも会いたくなくて、世界を見たくなくて、逃げて逃げて、それが楽で。
そう考えて――――ふと私は気付く。
私は今彼を救うための言葉を探していたけれど、それは本当にただしいのか。
今彼に必要なのは――――いや違う、今、私が彼に伝えたいことはなんだ。伝えられることはなんだ。
私はバッとうつ向いていた顔を上げて、椿くんの肩を掴んだ。
そして大きく息を吸う。
「椿くん」
名を呼ぶが、やはり返答はない。
気にせず言葉をつづける。
「そこにいるのはきっと楽で、居心地がいいんだと思う。私もそれは知ってるから。でもそれじゃ、何もできやしない。何も気づけないことも、私は知ってるんだ」
「だから」と私は大きく息を吸い込んだ。
そして彼の頭を抱えるように手でつかむ。
「引きこもりなら私の方が先輩だよ。そこから出るとっておきの方法、教えてあげる!!」
そのまま彼の頭を引き寄せて――――勢いのまま思いっきり頭突きをした。
ごつん、と派手な音が聞こえる。
と同時に、頭に激しい衝撃が走った。
痛い、椿くんは意外と石頭なんだろうか。
そう思って彼を見れば、彼も同じように頭を押さえながら顔を上げてこちらを見ていた。
それを見て、痛みをこらえてすかさず彼の頬に手を当てる。
「な、なにす……」
「やっと目を開けてくれた」
思わず口元がにやけるのを抑えられなかった。
ああ、やっと彼に言葉が届く距離にこれた。
私の手を振り払おうと頭を横に振る椿くんに、私も負けじと両手で彼の顔を抑える。
そして半ば無理やり顔を上げさせ私と視線を合わさせた。
「あのね、椿くん」
彼の真紅の瞳を覗き込みながら、私は告げる。
「私は、どこかの物語の登場人物みたいに、ヒーローみたいに、あなたを助けてあげることなんてできないよ」
彼は私の目をジッと見つめながら、いつのまにか抵抗をやめていた。
「誰かみたいにかっこいい言葉も、すごい台詞も、人の心を救い上げるような、そんな素敵な言葉も、言えやしない。私は普通の人だから。でも、それでも、あなたに伝えられることは、私にもあると思う。そう思いたい。だから、だからね」
彼を救うための言葉は知らない。
でも知らなくてもいい。
ただ、私が彼に伝えたいことを伝えたい。
「――――信じたっていいんだよ」
椿くんの目をジッと見つめ、私は静かに告げた。
「もう君は、君が信じたいものを、信じたって、いいんだ」
その言葉に、椿くんの瞳が大きく見開かれる。
「だって、大切なんだから。大切に思ってしまっているんだから。
だからもう、いいんだ。それは、大切なものなんだから。大切にしていいんだよ」
口下手で、上手く言葉を伝えのが苦手な私だけれど、でもそれが私の伝えたいことだった。
彼は誰もかれも信じられなくて――――母や父でさえ、信じることができなくて。
でもきっとそれは、それだけその人たちが椿くんにとって大切な人だったからだ。
わたしも同じ気持ちだったから、わかる。
大切な人であればあるほど、信じるのはもっと怖くなる。
だって、信じて、裏切られたとき、きっと耐えられないから。
だから相手を信じないことで、保険を掛けた。
それは自分にとっての盾だった。
相手を疑っていた方が、真実を知った時、きっと耐えられるだろうと思った。
周りが彼に強さを求めた故に――――信じて裏切られたら、きっと強いままではいられないから、椿くんは信じられなかった。
でも、本当は、信じたかったに決まっているのだ。
信じて、裏切られたら、大声で泣いて、立ち直れないほど辛くなるぐらい、信じていたかったはずだ。
だって、お父さんとお母さんのことなのだ。家族なのだ。きっと誰よりも彼が一番、二人を信じていたかったのに。
「なら信じて……裏切られたとき、俺はどうしたらいい?」
途方に暮れたように、椿くんはつぶやいた。
「信じて、裏切られて……それでもまだ強さを求められたら、きっと耐えられない。
大切な人に裏切られたら、きっともう強くいられない」
かすれた声で呟かれたそれは、二人で逃げていた時に聞かれたことと同じ言葉だった。
それがきっと彼の一番の枷なのだ。
あの時私はその問いに答えられなかったけれど――――今ならこたえられる。
「私がいる」
椿くんの瞳に私が写るように、グッと顔を近づけてそう言った。
「私がいたって、椿くんは邪魔だと思うだけかもしれないけど、でも、それでも私が一緒にいる。
強くなって、椿くんをおんぶしてもへこたれないぐらいになるし、もっとちゃんと檻人としての警戒心ももつし、魔法だってもっとちゃんと頑張る。
椿くんが耐えきれないぐらいにそれが重いものなら、私もそれを半分背負えるようになるから。椿くんが強いままでいられなくなってしまうなら、その分私が強くなるから。だから」
目を合わせる。
「もう、信じたっていいんだ。椿くんが一人で強くいる必要なんてない。
私も一緒に、強くなるから」
大きく見開かれた真紅の瞳が揺れる。
瞳にたまった雫がぽろりと頬を伝うのを、ただきれいだと思った。
瞬間、どこか遠くの方で何かが軽く割れる音が聞こえる。
澪さんの魔法が崩壊するのだ――――そう気づいた私は、崩れる世界の中で椿くんの手をぎゅっと握りしめた。
闇に意識が引きずられる。
けれど彼はちゃんと目を開いてこちらを見ている。
だから私は笑って言った。
「一緒に帰ろう」
ぎゅっと、彼が私の手を握り返した気がした。