恐怖への抵抗
2話連続投稿です。
月明かりに照らされた夜道を、男女が二人、仲睦まじく歩いていた。
どこかで見覚えのあるその場所は、そう、私の家の庭で。
手をつないで歩く二人ははたから見ればとてもお似合いだった。
ぼんやりとその様子を見ていれば、ふと、一方は父だと気づく。
じゃあ、女の人の方は母に違いない、と思って駆け寄ろうとするが、不意に見えた女の顔が、母ではないことに気付いた。
彼女は――――一宮澪。
「私は君を愛しているよ」
父が、母以外の誰かに、甘く囁く声が聞こえた。
どういうことだ、と父に問いたいのに、なぜだか地面に縫い付けられたように足が動かない。
それどころか、二人はどんどん遠ざかっていく。
どうして、どうしてなの、父さま。
声を出したいのに、声も出ない。
呆然と立ち尽くしたまま、二つの影が重なるのが見えた。
ハッと意識を覚醒させれば、目の前に男の顔があった。
反射的に男を押しのけて、そのまま背後に後退して距離を取る。
「いきなりひどいなあ」
目の前の男が苦笑気味に呟く。
けれど酷いも何も、目覚めてすぐ見ず知らずの男に至近距離に顔をのぞかれたら誰だって反射的に逃げてしまうものだと思った。
突然の事態に騒ぐ胸を抑えつつ、一体ここはどこなのか、とあたりを見渡してみる。
だが、その場所はひどく暗くて、何があるのかまるでわからなかった。
わからないはずなのに――――私の前に立つその男の顔は何故かはっきりと見ることができた。
何かに照らされているわけでもないのに、暗闇にぼんやり浮かぶようにたたずむその男は、怯える私を見て優し気な笑みを浮かべた。
その笑みに、心臓が嫌な音を立てる。
見ず知らずの男だと思っていたのに、こちらを見て笑う彼の姿には既視感があった。
待て。この人は本当に見ず知らずの男なのか?
柔らかく浮かべられた微笑み。そうだ。私は彼を知っている。
とうさま。
声に出そうとしていたのに、それは言葉にならなかった。
驚いて目を見開いたまま、動くことさえままならない。
どうしてあなたがこんなところに。
呆然と座り込んでいれば、私の空けた距離を縮めるようにゆっくりと父がこちらに近づいてきた。
視界に入る父の足にそのまま視線を上げて父の顔を見れば、そこにはやはり優しい笑みが浮かべられている。
それはよく見たことのある表情なのに、心から湧き上がるのは純粋な恐怖だった。
怖い、怖い、怖い。
逃げ出そうと座り込んだまま後ろへ後退しようと試みるが、体全身が震えていたためかそれもかなわなかった。
手を後ろについて、ただ無様に父を見上げることしかできない。
いろいろ聞きたいことも疑問もあったはずなのに、今私の脳裏に浮かぶのは「殺される」という言葉だけだった。
やけに鮮明に、自身が父に殺されるいるイメージが浮かぶ。
父を信じようとしていたはずなのに、そう考えようとすればするほどその考えを打ち消すように誰かが私に囁きかける。
こんな状況になってまで父を信じるのか?
やっぱり父は私を裏切るのだ。
こんなことなら最初から父を信じない方がよかったのに。
「わたしはね、凛」
何かに思考がからめとられたように、ただただ父を恐れるしかできない私に、父は静かに語りかけた。
彼の口からこぼれるのは優しい優しい声。
なのにどうしてこんなにも、怖くてたまらないのだろう。
「私はずっと、お前が憎くて憎くてたまらなかったんだ」
優しく告げられるその言葉は私にとっての絶望に他ならなかった。
いつの間にか握られていた父の右手のナイフが、冷たく光る。
「ど、うして……信じて、たのに」
「信じる? おかしなことをいうなあ。君はずっと私のことを恐れていたじゃないか」
「それは……でも」
何かを言おうとするのに、それは言葉にならなかった。
思考がままならない。ただ頭の中が恐怖だけで埋め尽くされているようだった。
ああ、きっと原作の凜もこうして父に殺されてしまったのだ、と翻されるナイフを見ながらぼんやり思う。
大切な家族から裏切られ、14歳の誕生日前日に殺されてしまった。
『原作』。
その言葉が何故だか私の思考を引き留めた。
動かないと思っていた体が、急に私の言うことを聞いて、父が振りかぶったナイフを避けるように横へ転がる。
「どうして逃げるんだい?」
自分でもどうして逃げられたのかわからなかった。
相変わらず、柔らかく笑う父は相変わらず怖いのに、なぜか先ほどよりもその怖さは薄れている気がする。
冷静になって、そこで、なんだか自分が大切なことを忘れているような気がした。
この父は、何かがおかしい。
漠然と浮かんだその考えは突拍子もないことなのに、一度考えれば目の前の父への違和感がむくむくと膨れ上がる。
この父は、何か変だ。
違和感の正体を探ろうと父を見上げる。
にこやかに笑う父はいつもの父と何ら変わりない。
けれど――――そうだ。
彼はまるで、『原作』の中の、私が今まで幾度となく想像してきた「凛を殺す父の姿」に酷似していた。
「あなたは、私の知っている父じゃない……?」
思考がまとまらないままだったが、自然と口からそう言葉が漏れ出ていた。
そして言って初めて、「この人は父ではない」という考えがさらに強くなる。
男は不思議そうに首をかしげた。
「おかしなことを言うな。どこからどう見ても、わたしは君の父だよ」
顔立ちも声も、笑い方ですら父と同じだ。
けれど、何かが違うと思った。
だって。
「私の知っている父なら……父さまなら、こんなことしない、から」
私の告げた言葉に男は微かに目を見開いた。
そして、次いでおかしくて堪らないというように腰を折って大声で笑い始める。
「ふ、あははは。ああ、君は本当におかしなことを言う。『父さまならこんなことをしない』だなんて、一体どの口がいうんだか。
君はわたしを恐れていた。わたしに殺されると思っていた。そうじゃなかったのかい?」
「そうだけど……そうだったけど、でも」
今は違う考えに変わっていたはずだ。
なのにどうしてまた父をこんなに怖いと思ってしまったのか。
どんどん膨らむ疑問のまま男の目を見つめていれば、男は「ふうん」と首を傾げる。
「君はわたしに殺されるとずっと怯えてきたわけだけれど、一体どういう心境の変化かな? 現実逃避でもしているの?
でもまあ、どう考えを変えようが、結果は変わらないよ」
「わたしは君を殺す」と、男は耳元で私に囁いた。
その瞬間、私の中で疑惑は確信に変わる。
この人は、やっぱり父じゃない。
だって。
「父さまは……私の見てきた父さまはそんなことしない……!」
そう告げれば、男はそこで初めて優し気な笑みを崩した。
まるで私を嘲るような、そんな笑みを浮かべて私を見下ろす。
「なるほど。君は君の見てきた父を信じるということだね」
「……はい」
「ふふ、あはははは。それこそおかしな話だよ。ねえ、凛。君は知っているのかな?」
男は私のもとへゆっくりと近づき、目の前まで来ると目線を合わせるようにひざを折ってしゃがみこんだ。
そして片手で私の顎を掴んでグッと顔を近づける。
「人は嘘をつくんだよ」
私と同じ、青い瞳が私の思考を再び遮断しようとしてくる。
だが自身の手に爪を立てることで意識を自分に引き戻す。
試すようにこちらを見る男から視線を外さず、じっと見つめ返せば、男は不愉快そうに眉をひそめた。
この男の言う通り、私はずっとずっと父が怖かった。
怖くて怖くてたまらなくて、いつだって逃げ出したいと思っていた。
でも、最初から怖かったわけじゃない。最初は、父のことが大好きだった。
それが変わったのは――――原作を思い出してから。
そう、すべては原作を思い出してからだった。
原作で父が凛を殺したことを思い出してから、私も原作のように殺されるのだと思って、怖くて怖くてたまらなくなって、父が信じられなくなった。
父は私を殺すのだとそう信じて疑わなくなって、でも、佳月と出会って、椿くんと出会って、冴と出会って。それでようやく気付いたのだ。
私は父のことを何も知らないこと。私が知っていたのは――――原作の父だけだったことを。
だから、考えた。
原作の知識は関係ない。これまで私を育ててくれた、私の見てきた、私の「父」を、私はどう見ているのか、どう思っているのか。そして、どう思いたいのか。
そう考えてようやく、私は私の本当の気持ちに気付いたのだ。
気付いてしまえば、それは簡単なことだった。
だって、父はいつだって私に優しかったから。
強くてかっこいい自慢の父だったから。
忙しいのに、いつも私と話すことを大切にしてくれた父、原作を思い出して、父を恐れて部屋に引きこもっていた私を、外に連れ出してくれた父。
そうだ、父はいつだって、私の「お父さん」でいてくれていた。
だから、思ったのだ。
原作の父は怖いけれど、でも私は、私の見てきた父を信じたいのだと。
「たとえその見てきた父の姿が嘘であったとしても、もう私は――――大切な人を疑うことの方が、しんどいから」
男の顔を見つめてはっきりとそう言った。
男がさらに何かを言いかけるがその前に、パリン、と何かが割れるような音が微かに聞こえる。
音の正体を探ろうとするが、その前に「こっちだ」と誰かが私の手を引いた。
何が何だかわからず手を引かれるままいれば、瞬間どこかへ落ちたような浮遊感に襲われる。
足場が崩れたのだ、と暗闇の中でなんとなく理解した。
落ちる、と思ったが、私の手を取った誰かが私を安心させるようにぎゅっと手に力を籠める。
それになんだかとても安心して、そして。
崩れる間際、最後に先ほどまで父がいたところが一瞬見えた。
けれどもうそこには、誰もいなかった。
ЖЖЖ
「いやいや、危なかったね」
崩壊の間際、一瞬目を閉じていたのを開いた瞬間には、そこはもう先ほどと打って変わった真っ白な空間だった。
自身の手を掴んでいた存在は、私の意識がハッキリ戻ったのを確認するとゆっくり私から手を放した。
「き、君は……」
白装束の銀の髪、そして奇妙な面————今回は翁の面のようだ―――をつけたその少年は、これまでに何度かあったことがある少年だった。
いや、会ったといっていいものか。
けれども以前も、こんな風に真っ白な空間にその少年はいた。
なんだか随分久しぶりな気がする。
「えっと、あの……正直私、何がなんだかよくわかっていないんだけど」
何もない真っ白な空間をきょろきょろと見渡しながらそう尋ねれば、少年は「そうだろうね」と一つうなずく。
「君はね、魔法をかけられていたんだよ」
「魔法?」
「そうだ。物理的に傷を与える魔法ではなく、君のここを傷つける魔法」
「ここ」と言って少年がさしたのは、私の胸だった。
「……心?」
「そう。あれは、魔法をかけられた人間が見たくないものを見せる。悪夢を見せる、と言えばいいのか」
悪夢。
先ほどまで自分がいた空間での出来事を思い出す。
父に殺されること。それは確かに私にとって悪夢に他ならなかった。
「……そうか。じゃあ私は澪さんにその魔法をかけられて……」
「そう。あの悪夢を見ていたわけだ。あのまま引きずられていれば、きっと君の心は壊れていただろうなあ」
「こわれ、って、えええ!?」
何てことはないようにそう告げた少年に驚きが隠せない。
壊れていたって、まさかそんな危ない状況だったなんて。
「あ、じゃあもしかして、君が助けてくれたの?」
そういえば、そんな場所にいた私の手を引いてくれたのはこの少年だったと思い出しそう尋ねる。
少年は私の問いに対し「どうかな」と首を傾げた。
「たぶん、もともと君にはかかりにくい魔法だったんだろうね。君はすでにあの魔法を解きかけていたから。僕はただきみをここに連れてきただけかな」
相変わらず飄々とそう言う少年に、この子も相変わらずだなと頬がひきつる。
けれどある意味では助けてもらったことに変わりはないので一言お礼を言った。
「――――ところで」
私の目の前に立つ少年は、そこで少し声色を変えた。
その変化に首をかしげると、少年はまた無感動な声で告げる。
「君はどうにか助かったわけだが、どうにも同じ魔法にかかった子がもう一人いるみたいでね」
「え」
「どうやら、今君の近くにいるようなんだけど」
近くにいる、と言われて瞬間、眠っている私の姿と、その隣にいる誰かの眠っている姿が脳裏に浮かんだ。
たぶんこれは、少年が頭に思い浮かべたイメージが私と共有されたのだ、とこれまでの経験で悟る。
それにしても私の隣に一体誰が、と考えたところでその見覚えのある姿に思わず声を上げた。
「つ、椿くん!?」
なんでここんなところに、と驚きを露にする私を尻目に、少年は「ああ、やっぱり君の友達なんだね」とこれまたなんてことはないような声色で告げた。
そうだけど、彼は確かに私の友達だけど、でも、彼はとっくにあの敷地から逃げ出しているはずなのに、どうして私の隣にいるのか。
いや違う、今はそんなことよりも。
「ね、ねえ、待って。さっき君は、あの魔法は放っておいたら心が壊れるとかなんとか言ってたよね?」
「うん。そうだね」
「それじゃあ――――」
椿くんが、危ないんじゃないのか。
その考えに至って、サアッと血の気が引いていくのがわかった。
「ど、どどどど、どうすればいいの!?」
思わず、目の前の少年の肩を掴んで問い詰める。
がくがくと少年を揺さぶれば、少年は「うーん」と考えるように顎に手を当てた。
「君が彼にかけられた魔法を解いてあげたらいいんじゃないの?」
「え」
言われて、私は動きを止める。
魔法を解いてあげたらいい。
簡単なことのように言うが、しかし彼は大事なことを知らなかった。
「わ、私……魔法全然使えないの……」
そう。私は魔法の基礎の基礎ができなくて椿くんに補修に付き合ってもらうぐらい、魔法に関してはからっきしダメだった。
魔法をかけることもままならないのに、魔法を解くことなんて不可能に近い。
「き、君が助けることはできないの?
私を助けてくれたみたいに」
そう尋ねるが、少年は首を横に振る。
「それは無理だよ。君の時もほぼ魔法はとけかけていたって言ったろ。
それに彼の場合、僕は君の時みたいに干渉できないと思うよ」
「そんな」と体から力が抜けていった。
それじゃあ、椿くんを助けられないじゃないか。
「だから、君が助ければいいだけの話じゃないか」
呆然とする私に、少年は不思議そうな声色でそう言った。
「そりゃ、私だってそうしたいよ。でも、私に魔法が使えないんだよ」
「どうして?」
少年が首をかしげる。
「君は自力で解けるぐらいにさっきの魔法と相性がいいんだよ。だから、君ならきっとできる」
そう言った少年の顔は見えないのに、まっすぐに見据えられてそういわれたような気がした。
お面越しとはいえ、こうして彼にまっすぐ見つめられたことは初めてな気がする。
そしてこんな力強い言葉も。
私にならできる。
その言葉と、脳裏に浮かんだ椿くんの姿を思い出した。
石すら壊せないような私だけど、本当に彼を助けられるのだろうか、不安で仕方がない。
けれど、今彼を助けられるとしたら、私だけだということもまた確かだった。
「本当に、私にできるかな?」
心配でもう一度尋ねれば、少年はこくりとうなずく。
「たぶんね」
続く曖昧な肯定に一気に不安になったが、しかしもう腹をくくるしかないようだった。
「……わかった。やってみる。やり方を教えて」
やる前から諦めてしまえば、きっと後悔するだろうから。




