彼女の望み
2話連続投稿です。
佳月視点
下弦の月が東の空に見えた。
先ほどまで一雨あったようだが、空を覆っていた分厚い雲はすでに散り散りになり、穏やかな空が顔をのぞかせていた。
その屋敷への侵入は思いのほか簡単だった。
それは思わず拍子抜けしてしまうほどに。
当主の言う通り警備の人数は随分と少なくなっているらしい。
彼は「根回しはしている」と言っていたが、まさかここまでとは。
黒く塗装されたレンガ造りのその洋館は、当主から見せられた見取り図によれば地下と一階二階からなる三階建ての建物らしかった。
正直洋館、特にこんな年季の入った古ぼけた洋館にあまりいい思い出がないので、長居したい気分ではない。
はやく用を済ませてしまおう、と、閑散とした屋敷の中を歩きながら、彼女を救出するにあたって、当主から告げられた指示を思い出した。
「佳月、君は屋敷に忍び込んで、凜と椿くんを見つけ出し保護してもらいたい」
部屋の中央に置かれた卓上に屋敷の地図を載せ、当主はそう俺に告げた。
「……それは構いませんが、忍び込むって、そう簡単にいきますか?
向こうはこちらが来ると思って警戒しているのでは?」
特に異論はなかったが、そううまく行くものだろうかと尋ねれば、当主は問題ないと笑って答える。
「その辺りは抜かりないから心配しないでくれ。
警備の数は減らしてあるから」
減らしてある。
その言い方には引っかかるものがあった。
当主の顔を見れば、相変わらず落ち着き払った穏やかな表情をしている。
聞いてもよかったが、彼のことだ、素直には言わないだろうし、下手に突っ込むのも面倒な気がした。
警備の数を減らしているのであればこちらには特に問題はなかったので、大人しく「わかりました」と頷いておく。
「あなたはどうされるんですか?」
一つ気になったことを尋ねれば当主は「ん?」と首をかしげた。
「私が裏から忍び込むのだとして……あなたは? ここに残られるんですか? それとも……」
「ああ、うん。大丈夫。私も屋敷へ入るから」
酷く楽し気にそう答えた当主を訝しく思っていれば、彼は軽く片目をつむってみせて言った。
「何せ私は彼女の大事な客人だからね。私は正々堂々正面から入ることにするさ」
あの人は本当に正面から入っていったのだろうか。
笑って「正面から入る」と言っていた彼の姿を思い出す。
まあ、あの人のことだから何か策があるのだろうし、全く心配はしていないのだけれど。
けれど、彼の話からして、なんとなく今回の誘拐事件の真相が掴めてきた。
如月仁と如月椿が家に来たことや、娘が誘拐されても落ち着いた当主の様子、意味深な言動にも合点がいき始める。
だがもしそうだとするなら、あの人の用意は随分と周到すぎる気がした。
これはここ最近に計画されたことではない。恐らく俺が来るよりもっと前からされていたもの。
一体あの人はいつからこうなることを予測していたのか。
そう考えると、あの人の底知れなさになんだかゾッとする。
だがまあ、今はあの人のことは考えていても仕方がない。
とにかく早く彼女を見つける方が今は先決だった。
廊下を進めばやがて階段に差し掛かる。
さて、どちらに行くか。
彼女を探すにあたって感知しなければならないのは、彼女の魔力だ。
彼女の魔力の気配さえわかれば、大まかな位置を掴むことは可能だった。
けれど、今こうして屋敷に入り彼女の魔力を探知してみるが――――どうも鈍い。
屋敷にいることはわかるが、正確な位置を掴むためには魔力の所在が曖昧だった。
これは彼女の身になにかあったというよりも、恐らくは魔法を遮断するような場所に入れられているのだろう。
彼女一人に随分念を入れるな、と思うが――――いや、これはもしかしたら彼女ではなく、彼女と一緒にいた如月椿用の対策なのかもしれない。
彼は彼女とは違って随分器用に魔法を使いこなしているようだし。
なんにしたって、今は考えている時間はあまりない。
とにかく、今わかるだけの彼女の気配と頭に入れた屋敷の見取り図とを照らし合わせて、推測するしかなかった。
そうして先を進もうとして、そこでぴたりと足を止める。
誰かが向こうから走ってくる。いや、走ってる、にしては少し遅いか。
とりあえず物陰に隠れて様子を伺えば、その誰かは大人ではないようだった。恐らく、自分より年下の少年だ。
この屋敷の子だろうか、とジッと観察していれば、少年は俺に気付いた様子もなく目の前を通り過ぎる――――かと思いきや、俺の目の前で盛大に転んだ。
「う……い……たい……」
転んだ拍子に床に頭をぶつけたらしい少年のうめき声が聞こえる。
痛そうだな、と思いながらその少年の様子をうかがっていれば、息も絶え絶えに呻きながらも、よろよろとその場から起き上がった。
起き上がって気付いたが、その少年は服にしろ髪にしろ随分と白い。
その白さのせいか、余計に目立つ真っ赤に腫らした目と、それでも依然止まらぬのか、次から次へと頬へ流れる涙からして、何だかただ事ではない様子だった。
とはいえ、今の俺には関係ない。
下手に変なことに巻き込まれても困る、と彼に見つかる前にその場から退散しようとしたとき、彼が聞き逃せないことをつぶやいた。
「はやく……凛ちゃんと椿くんを助けに行かなきゃ……」
凛、というその名を聞いた瞬間、俺は少年の前に姿を現していた。
自分でもあまり余裕がない行動だなと思うのだが、仕方がない。
こういう気分は経験したことがないのでなんといっていいかわからないけれど、あの人を見つけて、無事を確認するまでは、どうにも余裕を取り繕うことさえままならないようだった。
突然俺が登場したことに驚き目を見開いた少年は、その場に尻餅をつきそうになる。
俺は、倒れる前に少年の腕を掴んで引っ張った。
「き、みは……」
「凛様はどこにいる?」
開口一番にそう尋ねれば少年の目が見開かれた。
「り、凛ちゃんを知っているの……!?」
驚愕したようにそう尋ねられ肯定すれば、少年は再び目に涙を浮かべる。
そして俺が掴んでいた手を振り払って、強引に俺の肩に掴みかかった。
「僕、僕、どうしたらいいのかわからなくて……っ! 母様とお話しようとしても、聞いてくれなくて……っ。追いかけられて、それで逃げて、母様を探したいけど、凛ちゃんたちもどうにかしないといけなくて、だから、だから……!」
嗚咽交じりにそう話す彼の言葉は聞き取りずらい上にちぐはぐでわかりにくい。
なんとか理解しようと耳を傾けるが、断片的なことしかわかりそうになかった。
もう少し落ち着いてしゃべってもらいたいところだったが――――そこでふと、背後から近づく複数の人間の気配にそうのんびりもしていられないことを悟る。
見つかった、というよりは、恐らくこの子どもを追いかけてきた人間だろうか。
俺は一つため息をつくと、俺の肩を掴む少年の手を掴んで肩から外させて言った。
「よくはわからないけど、とりあえず君は彼女の居場所を知っていると思っていい?」
それに対して少年はコクコクと何度もうなずく。
「わかった。それじゃあ少し下がって待ってて。
詳しい話はあの人たちを倒してからにしよう」
すでに間近にせまった男たちを振り返ってそう告げた。
「おいおい勘弁してくれ。またガキが増えてるじゃねえか」
いまだに号泣している彼をどうにか廊下の端に移動させ、男たちと向き合う。
数は5人。護衛か何かだろうか。
子どもを追いかけるにしては少し多い気がするので、やはり彼は普通の子どもではないらしい。
男たちを観察しつつそう考えていれば、男のうちの一人が下卑た笑みを浮かべて言った。
「お前もあの嬢ちゃんや檻人のガキのお仲間か?」
それに否定も肯定もせずにいれば、男は特に気にしたそぶりを見せずに続けて言った。
「なんにせよ、侵入者は捕まえることになっている。ガキだからと言って容赦はしないが、おとなしく捕まるのならば痛い思いはせずに済む。
どうする?」
「すみません。それは聞けません」
男の提案に、にっこり笑みを作ってそう否定してやる。
侵入者を見つけた時点で問答無用で襲い掛からずに、こうしてお喋りに興じるなんて、随分呑気な護衛だなあとぼんやり思った。
子どもだと思って油断しているのだろうか。だとしたらありがたいことである。
男たちは俺の態度が気に入らないとでもいうように鼻を鳴らして笑った。
「お前、随分余裕じゃないか。今の状況、わかってるのか?」
「もちろん。目はいい方ですから」
横目に先ほどの少年が大人しくしていることを確認しつつ、俺は一歩男たちの方へ近づく。
「あなたたちは五人なのに対し俺は一人。
あなたたちが大人なのに対し俺は子ども。どう考えても俺の方が不利ですね」
「わかっているなら大人しく――――」
「でも」
男の言葉を遮って告げた。
「いくらあなたたちが大人で、数が多かろうと―――なんだか俺よりあなたたちの方が弱そうなので」
きれいすぎて逆に怖い、と彼女に評判の笑みを顔にのせてそう告げれば、男たちの雰囲気が変わった。
警戒した、というよりは子どもになめられて怒った様子だった。
挑発に乗ってくれたのなら相手の隙は格段に増えるし、そうでなくとも子ども相手だと、大人は油断して手を抜いてくれるので助かる。
俺が構えるのと同時に、彼らはこちらへ襲い掛かってきた。
彼女に拾われてからはあまりにも平穏すぎて、こうして明確な敵意を持った相手と対峙するのは随分久しぶりである。
その上これほどまでに――――何かに怒りを覚えるというのも久しぶり、いやこれはむしろ初めてか。
自分はやはり思っていた以上に今回の件に、彼女を攫った人間に、腹を立てているのだ。
「そういうわけで、今俺は手加減するのは難しい、むしろ、手加減する必要があるのかとさえ思うレベルだ。さっさと消えうせるかあるいは――――死ね」
口角を開けて、笑う。
窓がミシミシと軋んで廊下を照らしていた明かりが消えた。
男たちは俺に手をかけるより前に――――その場に突っ伏して気絶した。
「な、に……したの?」
物陰から様子を見ていた少年が、顔を青白くさせてよろよろとこちらに近づいてきた。
「大したことはしてないよ。ただ随分と呑気な人たちだったから、喋っている間にちょっとしかけただけかな」
「しかけたって……こ、殺しちゃったの?」
恐々とそう尋ねてきた少年に、俺は首を振る。
「大丈夫、殺してないよ。正直、今更殺しをどうこう言えるほどいい育ちではないけどね。でも、」
でも、あの人は――――嫌だろうから。
脳裏にあの頼りなさげで、けれどしゃんと背筋を伸ばした彼女の姿が浮かぶ。
彼女が望まないことはしたくなかった。
けれどそれは言葉にせぬまま黙っていれば、少年は不思議そうに首をかしげる。
それに笑って、俺は少年に近づいた。
「そんなことより、教えてくれるかな。俺も結構急いでいてね。
彼女は――――どこにいる?」
これ以上怖がらせてまた会話が不可能になっても困る。
俺はできるだけ優しい笑みを浮かべて、少年にそう尋ねた。