始まりの夜 前編
事件は、その夜に起きた。いつものように、頭の中の記憶を整理して、ようやく眠りについたときだった。私は、ふと障子の向こうから人の気配を感じて、浅い眠りから再び目を覚ました。ここ最近の私の体調のこともあるので、お手伝いさんの誰かが私の様子を見に来たのだろうか。そう思って、特に気にも留めずに再び眠りにつこうとする。しかし、そう思ったものの、私は何故だかその気配が無性に気になった。どうせお手伝いさんの誰かだとわかっているのに、外の気配が無視できなかったのだ。眠るに眠れなくなった私は、トイレに行くふりでもして、外に出て見よう、と少し逡巡した後にそう決断した。
そろり、と布団から足を出す。素足に触れた畳が冷たかった。ひたひたと足音を鳴らしながら、ゆっくりと障子に近づいた。目の前に着いたところで、そういえば、様子を見に来たにしては、先ほどから部屋の中を覗く様子がないことに気づく。障子の向こうには、確かに人影があった。しかしその影は、少しも動かず、ただ外でじっとしていた。この影は、お手伝いさんではないのだろうか。その影に不気味さを感じ、障子に手をかけたものの、開けるのに少し戸惑う。
やはり、やめておこうか。開けて確かめたいという気持ちに、恐怖が勝った。
どうにも怖気づいてしまったのだ。明日、夜に誰か来ていなかったか、和恵さんにでも聞いてみよう。まだ少し向こう側を気にする心をそう宥めて、私は障子から手を離す。そして、再び温かい布団に戻るべく、踵を返した。
そのときだった。
私の体が、一瞬宙に浮いた。「え」と、驚いた瞬間には、体が畳の上に投げつけられた。少し遅れて体に走った痛みに声をあげそうになるが、その前に大きな手に口をふさがれる。思わず閉じていた目を開けて前を見ると、そこには覆面をかぶった誰かが馬乗りになって私に覆いかぶさっていた。そしてその手には、鈍く光を放つ、短剣。
それを見た瞬間、私は顔から血の気が引いていくのがわかった。思い浮かんだのは、原作のサクオリで継承者争いに巻き込まれ死んだ人の姿。その姿が、自分の姿と重なった。
――――この人は、継承者候補の私を殺そうとしているのだ
瞬時に理解する。しかし、抵抗するために動かそうとした腕は、ピクリとも動かなかった。腕だけではない、体も少しも動かない。押さえつけられていない手足が、まるで金縛りにでもあったかのようにピクリとも動かなくなっていた。覆面の隙間から覗く瞳の冷たさに、体が震え上がりそうになるのに、震えですら、私の体を動かすことはない。
――――魔法だ。
混乱した頭でとっさにその言葉が思い浮かんだ。この人は、私に魔法を使っているのだ。だから、体が動かない。
「悪く思うなよ」
不意に、目の前の覆面が声を出した。感情や抑揚のない、男の低い声。何故だかどこかで聞き覚えのある気がした。しかし、思い出す余裕はない。喋りながらも男が突きつけてくる短剣に、心臓が早鐘を打つ。
「恨むのなら、この家に長女として生まれた自分の運命を恨むんだな」
やはり、この男は継承者候補を狙って送られてきた刺客なのだ。間髪おかずに振り上げられた刃に、絶望で、目の前が暗くなった。
少なくとも「凜」は14歳までは生きられると思っていたのに、こんなところで死んでしまうのだろうか。自分に向かってくる刃に呆然と思う。それもこれも、体の中にある魂が私のものだからなのだろうか。そんなのあんまりじゃないか。私は望んでこの体に生まれたわけじゃないのに。私はまだ、前世と比にならないぐらいに、何もしていない。何かしたいと考える時間もなかった。まだ、本当になにも、していないのに。
刃がやけにゆっくり自分に向かって落ちてくるように見える。
いやだ、死にたくない。生まれて初めて沸き上がる死への恐怖だった。
死にたくない、生きたい。
生きたい。
私は、生きたい。
鈍く光る刃の先を見ながら、その言葉だけが頭に浮かんだ。
――――そんなに生きたいの?
脳裏に、幼い少年の声がした。同時にふわりと香る、花の香り。
目の前には覆面の男と天井しかないのに、目前に金色に輝く光が見えて、まるでそれは、月に見えた。
その瞬間、体中に何かが勢いよく巡るのを感じた。冷えていたはずの体が、沸騰したように熱くなる。暗くなりかけていた視界が開けて、覆面から覗く瞳が驚いたように見開かれたのがわかった。
体を畳に叩きつけられたときと比ではないぐらいの衝撃が、体全身に走る。私の体が障子のほうに転がった。男の位置を確認する間もなく、私は自分の体が自由に動かせることに気づいて立ち上がる。何が起きたのか、考える余裕もなかった。ただ頭の中にあるのは、早く逃げなければという言葉だけ。体中が熱を発したまま、私は勢いよく障子を開け放った。
「――――え」
しかし私が障子を開けて逃げ出すことは叶わなかった。再び、体が動かなくなったのだ。だがそれは魔法のためではなかった。
体をめぐっていた熱が再び急速に静まり返っていく。障子にかけていた手が力なく落ちた。
やけに明るい光を放つ月が、目の前の人物を照らしていた。その人の手には、先ほどの男と同じ短刀。その手はまるで水仕事をし慣れた手のように、少し荒れていて。
「なんで……」
掠れた声が、口からこぼれた。目の前の人物は、短刀を両手に握って、こちらを見る。
「申し訳ありません。凜さま」
穏やかに、和恵さんは微笑んだ。